第3話

 お幸せですかと侍女が尋ねた。それはソフォニスバが王宮の空気に慣れて生まれ育った屋敷のにおいを忘れ、食事であるとか習慣であるとか、それまでの生活から変化したものたちに親しみを覚えて久しい頃のことだった。

 その女はまだ年若く、またカルタゴ人であるが親を亡くしていたので、ソフォニスバは彼女の主人としてこの地で伴侶を探してやるつもりでいた。

「お嬢様は御身が幸せだと感じていらっしゃいますか」

 主人のために紅を選ぶ手は整っていて、ソフォニスバが首を傾げると少しだけ見せた笑みは流麗なものだ。

「本当に小さくていらっしゃったおりには、夫君となるであろうお方のことばかり聞かせてくださいましたでしょう。お嬢様は本当に夢見るようなご様子で、私どもは……ずっとそんなお顔をなさっていらっしゃればと願っておりました」

「そうだったかしら」

「そうだったのです。ああ、でも、それは本当に短い間のことだったのかもしれません……」

「おまえ、なぜ、そんなふうに尋ねるの」

 父の言った通り、王はソフォニスバを大切にした。疎かにされたと感じたことは一度もなく、他の妻たちに会うことが驚くほど少なかったから、ソフォニスバは自分が王宮でどのように感じ取られているのかについて興味を抱くことがなかったほどだ。

 侍女はすこしの紅を乗せた小指でソフォニスバの唇に触れる。濃い化粧は婚礼の日だけのことで、ソフォニスバは自分の好みとして顔を派手に飾り立てることをしなかった。女の生えそろった睫毛が震え、答え倦ねたまま手仕事だけを終わらせてしまった侍女はどうしてか、膝を握りしめるようにして背を震わせる。

「マシニッサ様のこと、ご存知ではないのですね」

 ぼんやりと、ソフォニスバはただ青ざめた女の顔を見ていた。驚きもせず、心の動きを表さない主人に、侍女は安堵したがっている執拗さで言葉を続ける。

「あのお方はいまやローマのもと戦っておられます」

「シュファクスさまは王国から追放したと仰ったわ」

「そう、そうでございます。それだからかもしれない、私にもそこまでは知れませぬ。お嬢様、お嬢様の夫君と、あのお方とは、はじめからそのような間柄でいらっしゃった、けれど」

「けれど、なあに」

「けれど――」

「何も、おまえの心配することはひとつもない。だけど分からないわ。おまえ、何を心配しているの?」

 女は唇と言わず肩と言わず、その身のすべてを震わせるようにして、ソフォニスバの手を握った。慣れ親しんだ手の柔らかさが、湿ったような若い肌の感触が、どうしてかそのときは鬱陶しく思われた。

「悲しくはお思いにならないのですね」

 何が?

 シュファクスは父を裏切ってはいなかった。マサエシュリーの王はカルタゴのそばにあり、ソフォニスバは彼らの誼そのものとしてここに座っている。マシニッサがローマとともにあるのならば、シュファクスは彼と戦うだろう。シュファクスは強い王だ。マシニッサがどのような王子であるか、ソフォニスバは想像しかしたことがない。

 そういうことを言ってやると、安堵しかけていた侍女の面には罅割れのような痛ましさが広がっていった。

 ソフォニスバは、侍女が更に何かを言い立てる前に立ち上がった。膝に乗せていた銀の細い鎖が滑り落ち、指先で遊ばせていた指輪が高く音を立てて床を叩く。訝しげに主人を見上げていた侍女はソフォニスバの視線を追い、驚きそのままに声を上げて何事かを不明瞭に口走りながら、逃げ出すように部屋を出て行った。その様子など見えていないように立ち尽くす王の姿を、ソフォニスバはもっと早く見つけるべきだったかもしれない。

「おかえりなさいませ」

「ああ。……」

 軍装を解かぬままのシュファクスは、やはりソフォニスバを見つめたまま動かない。答えはなかろうと分かってソフォニスバは彼のほうへ近寄った。彼が不意に動いて何も言わぬまま妻を抱え上げて褥に入る、それもよくあることであったから、ただ彼の腕や首筋に見える傷が浅く、うっすらとして、けれども鮮やかで新しい血をこびりつかせているのばかりを見ていた。

 見上げる天蓋には刺繍が施されている。星々を信仰するこの民族は、こうして夜空を模したものを見て心を慰めるのだろうかと思う。彼女の肌蹴た胸元に顔を埋めた彼はとくとくと鼓動する音を聞き、ソフォニスバも自分がゆっくりと血を巡らせているのを聞いた。ソフォニスバには子がないままだったし、どうやら、シュファクスを囲む状況というのは芳しくない様子だったが、彼の足が遠のくことはない。

「悲しくは思わないのか」

「何を……?」

「そなたは、本当に何も知らないでいるのだな」

「あなたさまがそう仰るのなら、そうなのかもしれません」

 愚かだと言われている。それが、ソフォニスバには気安めに思えた。投げ出していた手で編まれた髪に触れ、それが以前よりもかさついているのを知った。彼に触れられ彼に触れるとき、そこに自分があるのだということに気づく、それがいつも不思議でならない。

 彼は強い王だ――けれどマシニッサは、もしかすると、彼は、誰よりも強い王となれるかもしれなかった。最後に会った父の疲弊は、王の目に忍び寄る迷いは、そのことを表しているかのようだった。

「シュファクスさま、どうか――」

 ソフォニスバの夢想に彼はいなかった。いたのはいつも、あの薄い色の瞳をした青年だった。それが彼女の幼い夢、幼い彼女の全てで、それを打ち壊したのはシュファクスではない。だが、違う、違うのだと叫びたかった。熱が駆け巡るのをやり過ごすすべはとうに覚えたはずなのに、逃げてしまいたいほど苦しい。

「お見捨てにならないで」

 引き裂かれるようにして絞り出した声が、シュファクスに手を伸ばさせる。自分を抱いてきたその腕をソフォニスバは嫌っていない。だからこの言葉は裏切りではないだろうか、ソフォニスバは答えを出すことを恐れて顔を背けた。

「わたくしを、父を、国を……どうかお守りください、シュファクスさま、どうか……わたくしを、ひとりになさらないで」

 抱き寄せられるより先に、その首に腕を伸ばした。父に抱擁をせがむようにして取り縋った女が息の仕方さえ忘れかけて震えるのを、シュファクスは背を撫でることで宥めようとしていた。かぶりを振る。

 手を差し伸べる、あの姿を覚えている。ゆっくりと選ばれた言葉のいささかの拙さ、それを恥じて目を逸らす成熟しきらない挟持、あの眼差しを覚えている。だがそれが彼女のいまを、生きるこのときを妨げたことはなかったのだ。彼はきれいな青年だった。彼は優しかった。それだけのことでしかないのに、この思いは途方もない罪悪を噛む心地がする。

 ソフォニスバの祖国は一度、ローマという国に敗北した。多くの領土を失った戦争だったと父は口惜しげに語った。ソフォニスバの祖父もまたその戦場に身を置いていたのだと聞かされていた。そしていままた祖国はあの国と戦っている。

 シュファクスはマシニッサに優っているだろうか。カルタゴは、ローマに優っているだろうか。いまやそれはまるきり同じこととしてソフォニスバとシュファクスとの間にあり、彼らの狭間の空虚を埋め立てている。

「あなたさましか、わたくしにはいないのです」

 顔を上げたシュファクスが見せた顔は、やはりソフォニスバが知らないものだった。彼は怒り、それに付随しうる惑いに似たものをいっぱいに湛え、口元を震わせた。何が彼から流れ出そうとしていたか、分かりもせずただまっすぐに目を見開いている女の腕を掴み、肌に手を滑らせる。軍馬を駆り槍を振るうとき彼はそういう目をしているのだとはソフォニスバは知らず、その目にはすぐに、ソフォニスバがよく知る色が滲んだ。

「愛している」

 彼の腕の中でそう言われたのが初めてのはずはない。それだのに、叫び声を上げたい狂おしさに襲われてソフォニスバは喘いだ。

「そなたを愛している。だから何も、心配することはない」

 骨の軋む強さ、女が胸を詰まらせる苦しさ。添い遂げるという言葉の持つ安寧と、心許なさ。

 愛していると彼は言った。何度でも惜しむことなく彼は言い、ソフォニスバはそれを聞いた。聞くだけでよいのだと考えていた。座るだけでよく、微笑むだけでよく、腕に迎えられるだけでよかったのだから。

 それなのに、とは、彼は言わなかった。あの苦しげな顔つきでシュファクスは何もかもを口にしていたが、ならばとは言わなかった。それだけのことで、それが全てであったのだ。



 引き裂かれた女の声が空を劈く。それをソフォニスバは遠く聞いている。

「王が捕らわれたと、それで、ローマ軍が……マシニッサ、さまが」

 侍女はいまにも倒れ伏すのではという顔で、絶え絶えに訴えた。同じことを何度も彼女は言い、ソフォニスバの言葉を乞うていた。どこかで泣く女がいた、それは、ソフォニスバが顔も名も覚えないままの、シュファクスの妻たちに違いなかった。

 殉じなければ辱めを受ける身であればこそ、女たちは初めて剣を取る。勝者の戦利品として見世物となり異国の者共の好奇に汚されるよりも死を、自ら選びうるものがそれだけと知って。

 だがソフォニスバには、そうする必要がなかった。だから侍女はソフォニスバに盛装を進めず、短剣を寄越してくることもなかった。ソフォニスバに仕えてきた侍女や奴隷は小部屋で心細さを胸に詰めて黙り込んでいる。自らの主人がソフォニスバであれば、彼女らにも死を選ぶ理由がないのだ。彼女は、本当は誰のものか。それをみな知っているつもりでいる。

 ローマ軍とマシニッサとに敗れたシュファクスはキルタにまで戻り、その城門で捕らえられたのだと言う。捕虜となった王の姿を見たキルタの民は望みを失って城門を開き、ローマ軍を征服者として迎えた。

 王は自分のもとへ帰ろうとしたのだとソフォニスバは思い、その姿がないことを知っていながら、露台に出た。やや遠く望まれる城壁のあたりにカルタゴの者ではない兵士たちがいた。そのまま目を巡らせる。毎日そうしてきたように美しく飾り立てた彼女の姿を、白々しいまでに鮮やかな太陽が照らし出していた。

 手摺に身を乗り出した主人の肩を、侍女が捉える。身を投げ出すつもりはなかった、だが、そうしてもよかった。

「マシニッサさま……」

 未だあちこちに伸び代を残していた青年はそこにはいない。いるのは、ただただ鋭い眼差しを、高台にいる女へ差し向ける王がひとり。

 王宮の私的な領域に入ったところだった彼は目を瞠る。口元が動き、何事か言おうとしたが、すぐに引き結ばれたのでソフォニスバにはそれが読めなかった。ヌミディア人がみなそうであるのと同じに戦場に出るとしても軽装のまま、ただ王としての威風を負ってマシニッサはそこにいた。彼はすぐに足を踏み出し、ソフォニスバからはその姿が見えなくなる。

 膝から力が抜けた主人の身体を侍女は強く支え、勇気づけようと彼女の名を呼んだ。

「お迎えして差し上げなくてはなりません」

「だけど――」

「お嬢様、やっとあの方がいらしたのですよ」

「え?」

 愕然として自分を見るソフォニスバの様子に女は気がつかないようだった。侍女が油の染みのように浮かべた笑みにぞっとしてその手から離れようにも、彼女の手はしっかりとソフォニスバに触れていて、逃れられない。

「ずっとお待ちしていたのでしょう」

 このときおそらく、ソフォニスバは選ばなくてはならなかったのだ。笑うか、泣くかを。どちらを待っているのだとみな問うている。答えなくてはいけない。答えは即座に出さなくてはいけない。だが、それだのに、ソフォニスバは凍りついたまま取り繕うこともできないでいた。答えなどどこにも探すあてがなかった。

 助けてくれと訴えるためにシュファクスの王女たちが部屋にやってきたのは、征服者たちの足音が耳に届き始めたのと同じ頃合いのことだった。誰がしの妻となるには幼すぎる容姿の少女たちはソフォニスバの手を取り、額を擦り付けて、声を押し殺し泣いていた。

「……心配なさることはないわ……」

 彼女たちの名前を知らない。嫡出であるか庶出であるかも知らない。シュファクスの子のうちソフォニスバが名を知るのは、この王宮を継ぐべき王子ただひとりでしかなかった。

「慈悲深き方であるはずだもの、そう、泣くことはないのよ」

 何も知らないのにそう慰めると、王女たちは何度も何度も頷き、彼女らの乳母に抱き寄せられて袖で顔を覆い隠す。それからソフォニスバは誰が促すより早く部屋を出ることにした。誰にも追いつかれぬよう、足を早めた。彼女の姿を見つけると王の臣も右往左往するばかりの奴隷も、ひどく顔を歪ませる。それらと目を合わせることなど考えもつかずにソフォニスバが向かったのは、王座である。

 婚礼の日に一度だけその傍らに腰掛けた。ソフォニスバは本当に、誰の前に出ることもなく過ごしてきたから、彼女の顔さえ知らぬ者がこの王宮にもいくらかいるはずだった。

 乳母に手を引かれた日、彼女を追う音があった。彼女はこんなふうに足を大きく動かして歩くことができなかった。床に擦れる裾が風雅とは程遠い様子で払われている。自分の身を取り巻くものが騒ぐのばかりが恐ろしかった――とうに失われたのに、とうに足を繋ぐ鎖は切られたのに、本当はそうではなかったのだ。

 異国の人間と、ヌミディア人ではあれどこの国の生まれではない人間とが、突然現れた女を振り返る。王の間への広く開かれた扉の向こう、そうした人々のうちに、やはりまたその姿を見つけた。

「ソフォニスバ……」

 声に変わりはなかった。駿馬のごとく立つ姿がそこにはあり、彼は迷いなくソフォニスバに歩み寄る。肩を上下させ息を切らしながら、朱の上っているだろう頬を持て余したままで膝をつこうとした彼女の腕を支えた。覗き込もうとする彼の目から逃れようと身を捩り「お許し下さい」と譫言を繰り返すソフォニスバにかけられた声には焦燥があった。

「顔を見せてくれ」

「…………」

「ソフォニスバ、そなたの顔が見たい」

 顔を伏せるだけでなく、彼の足元に額をつけてしまえたら、言葉も出ようと口惜しく思われる。どうかあの王女たちに温情をと、この王宮の者たちに、支配者としての寛容をと。それを口にするためにここまで来たのではなかったのか。

 そろそろとソフォニスバは顔を上げた。目がよく見えないと感じたのは、涙がまなこを曇らせているためだった。

「マシニッサさま」

 呼べば、懐かしい。その目を前にすれば、ここはあの屋敷ではないだろうかと錯覚できてしまう。涙を払うとマシニッサが幽かに微笑っているのが分かり、それが、嬉しい。なぜなのかなどどうでもよかった。ソフォニスバはこの数年を、そうした柔らかな実感のうちに生きてきた。

 どれほどの間、彼がソフォニスバを見つめていたのか。その胸に引き抱かれ、彼の鼓動が速いのに気がつくと、ソフォニスバには縋ることしかできなかった。

 幼い無知を、知らぬおのれをも知らぬ愚かさを、そうあることを許された日々を、それを甘受したあの少女を、マシニッサが愛していたと言うのならば、よかった。あの日見た王族の青年に覚えた微かな高揚を愛と思い恋と思い、焦がれ続けるソフォニスバであったならばよかった。だがソフォニスバは、無垢に見えるほど愚かになりきれなかった。

 掻き抱く腕は力強く、熱い。ひしと離さぬ手の大きさをソフォニスバは肩で知った。何故だろうと思う。この熱は――あなたは。

「やっとだ」

 掠れた声が誰に向かって絞られているものか、ソフォニスバは抱かれるままにそれを聞いた。

「やっと、そなたを迎えに来ることができた」

「……ソフォニスバは、もう、そのような女ではありませんのに……マシニッサさま、どうかお許し下さい、わたくしは……!」

 喉を灼く声は名を呼ばれ掻き消えてしまう。またソフォニスバの顔を上げさせたマシニッサが浮かべた笑みは優しかった。青ざめて涙を落とす女の懺悔は彼には届かないのだとソフォニスバは知った。

 ただ美しいばかりの女は恐れていた――彼女はほんとうは誰を待っていたわけでもなかったから。

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