第2話

 慌ただしく行き交う足音を聞いていながらソフォニスバは動かなかった。柔らかな毛皮の敷かれた床の上には、彼女に贈られた様々なものが、その美しさからすれば哀れとも思えるやり方で広げられている。

 金細工の施された杯、ダイヤモンドの散りばめられた腕輪、女の手でも裂けてしまえるほど薄くしなやかな布、馬の彫刻の施された首飾り、きれいなものはみな、ソフォニスバの故国で取引されこの地にやってきたに違いなかった。

「ソフォニスバさま」

 奴隷が呼ぶ。美しい発音とは言えなかった。

「ソフォニスバさま、王が……」

 支度をしろと言うのだろうか。これ以上の支度とは何だと問うつもりでソフォニスバは面を上げ、動こうとしない主人に苛立つ奴隷と目を合わせた。ソフォニスバが床に並べるどの贈り物よりも安い値段の女はそれだけで怖気づく。

 このキルタに連れて来られてからソフォニスバは一日だって装いを崩したことはなかった。婚礼の衣装を別にすれば、一度だって着飾りに差をつけてこなかった。そしてなにもしないでこの部屋で座り込んでいる。ここにいてくれと夫は言った。だからそうしていた。ソフォニスバは動こうという気にひとつもならないのだ。

 物言いたげに部屋を覗きこんでいた女を怒鳴りつけたのはソフォニスバではなかった。先程まであれほどに騒がしかった王宮はその怒号を合図にしんと静まり返ったように思う。きっとそうではないのだけれど、ソフォニスバにはもう喧騒は遠かった。

 彼女の部屋に入るにはひとつしか扉がない。その扉に至るまでに小部屋がひとつ置かれ、小部屋までに長い廊下が続く。王宮のなかでここは最も奥まっていた。

「ソフォニスバ」

 その音は整った姿を持って響いた。ソフォニスバは裾を払って立ち上がり、その上で膝を折る。彼女が動くとその体にいくつも巻きつけられた宝飾がきらきらと鳴り、窓からの光にいちいち輝く。美しいはずだ。これで美しくないのならば、あとは死んでみるしか方法がない。

 シュファクスは食い入るように彼女を見つめていた。いつもそうして、風が三度吹くほどの間、王はおのが妻の存在を確かめようとする。ソフォニスバは常にただ黙って跪くしそれを咎められたことがなかった。無骨な手が伸ばされ、白いばかりの頬に触れた。それだけだった。

「よき報せがあるのでしょうか」

 この王は戦いに出向いたのだ。その戦いがどのようなものであるかソフォニスバは知らされていなかったから、蛮族の征圧だとか、反抗を見せる領民の平定だとか、そういうものかと思ってシュファクスを見上げた。ベールの向こう、シュファクスは笑い損ねた顔でもって妻を見ている。

「ソフォニスバ」と彼は情けない声を出した。臣民に対し期待される以上の威光を降り注ぐ王だというのに、間違いなく強い君主であるのに、シュファクスはソフォニスバを前にすると堂々たることを忘れるようなのだ。

「私が無事で嬉しいか」

「はい、嬉しゅうございます」

「ずっとここで、待っていたか。ひとりで?」

「はい」

「そうか。……そうか」

 手のひらは離れ、シュファクスはどかりと座り込んだ。思案する顔つきだったが、ソフォニスバがそばに座るとまばたきを繰り返して、言った。

「マシニッサをマッシュリーの王国から追放したのだ」

 露台からはいつも風が吹きこむ。寝台を何重にも囲む薄布がそれに煽られ、ソフォニスバの顔を覆うベールを揺らした。

「それはよき報せでございますか」

「そうだと思うか」

「わたくしは、政を存じませぬ。シュファクスさまがよろしいと思われるのならば、よき報せなのだとだけ心得ております」

 そうして淡く、目を細めることだけで微笑むと、シュファクスはきつく眉根を寄せ、行き場のない手を握りなおして、やっとのことで頷いた。

 ソフォニスバはヌミディアの王の妻となった。けれども、この民族について初めて教わり、その民族の人間と初めて言葉を交わしたときには知らなかったことが多くあったのだ。

 ヌミディアはカルタゴ人がアフリカに国を建てる以前より当地に暮らし、しかしその新参者に支配されてきた人々で、その一方騎兵は有力な戦力となったためまるきり軽んじるわけにはいかなかった。シュファクスはヌミディアのうち西方、マサエシュリーの王である。そしてマシニッサは、東方のマッシュリーの王子であった。

 同じことだと父は言った。何にせよお可哀相なことだと乳母は泣いた。幼い日に母を亡くしたソフォニスバは、母が父のもとに輿入れしたときに身につけた一切を与えられて家を出た。

 数年前とは事情が変わったのだ。カルタゴがローマとの戦争を始めたのはマシニッサと引き合わされるより以前だったが、当時といまとでは情勢はまるきり違っている。ソフォニスバは政を知らない。けれども知るべきこととして教わったのは、マシニッサにはもう、父が美しい娘を与える価値がないということだった。

 何にせよソフォニスバは夫を父と結び合わせなければならないのだから、同じことだ。シュファクスは一度はカルタゴに反旗を翻したものを、鎮圧され、そしてこの美しい娘を与えられた。

「シュファクスさま」

 指輪の嵌められた手を取る。剣を、槍を振るい、馬の手綱を引く手の皮は硬く、この夫からは土のにおいがした。嫌いなにおいではなかった。あの青年も同じようなにおいをさせていたし、それに、ソフォニスバは馬が好きだ。

「お怪我などなさっておりませんのね」

 王は王たるために兵を率いなければならない。ソフォニスバはシュファクスが手傷を負って戻ったときのことを憶えていた、王専属の医師から聞き出したやり方で傷に手当をしてやったときのシュファクスの顔も忘れていなかった。

 シュファクスには既に嫡子がおり、その嫡子は幼くはないのに、ソフォニスバに子ができればどうなるか。カルタゴの一貴族の娘を、まるでどこかの姫君を扱うように扱い、贈り物をして、この部屋に置いている。贈り物に囲まれているソフォニスバのことを思い帰るのだろう、それはもはや、健気と言ってもよいほどだった。労りを知らない女の手を、それでもシュファクスは強く引き寄せた。彼はひとつの約束のあかしとして、美しい女を与えられた。



 国を出るとき、父は娘におのれへのではなく祖国への愛情を失わぬように言った。ソフォニスバが高貴な女の有り様を忘れ、両肩に負わねばならぬものを打ち捨てるのを恐れての言葉だった。

「きっと」と父は、どこか憔悴した目をしていた。そんなふうな父をソフォニスバは見たことがなかった。「王はおまえを大切にする。何も心配はいらない、周囲が何くれとなく言い立てたとしてもだ。だからお前はそれだけを覚えていればよい」

 娘は頷いた。父を安心させてやろうという取り繕いでは、なかった。

 彼女にシュファクス王との婚姻を知らせたのは父でも父の使いでもなく、カルタゴの高位の者たちであり、父は娘が家を出る前にやっと間に合ったというのに過ぎなかった。それでも敬うべき父の言葉なればこそ重く、自分を慈しんだ親の悲壮なればこそ和らげてやりたかったのだ。戦地たるヒスパニアでどういったことが起こり、なぜ父が派遣された彼の地からアフリカへ戻ったのかをソフォニスバはそう詳しく知らされていなかったけれども、上手くいかなかったのだとは知っている。

 そうして父の言葉を受け取ってすぐに、馬車に揺られそれまで見たことなどなかった蛮族の土地を見た。カルタゴの令嬢を前にしてどこか萎縮する黒い肌の奴隷よりも、よい土地で育ち研ぎ澄まされた血筋を感じさせる馬のほうに彼女の関心はあった。父の持たせてくれたもの全てとともに運ばれていたから、寂しいとも心細いとも思いようがなかったのだけれども、馬車が停まり、従者が言葉を交わすのを聞いて、幼い日の夢想を思い出した。

 要するに――馬車から降りたとき彼女を出迎える男の顔をソフォニスバは知らなかったということである。乳母や侍女たちから聞かされた婚礼と、その後の生活のおおよそを、少女たちがみなそうするように好き勝手に想像してやまなかった彼女は当然のようにそこにマシニッサを置いていた。あの青年が手を差し伸べる姿を知っていたし、その手がやはり硬く、体温の高いのを知っていたから。シュファクスの顔は知らなかった、それどころかその名を、ソフォニスバは彼が夫になるのだと聞かされたその日まで、耳にしたことがあるのかさえ判断できないでいたのだ。

 顔の造作がわからぬ厚さのベールのせいで足元がふらつくことも、きつく締められた帯のせいで息苦しいのもその日まで知らなかった。侍女に促され輿に移り、そこからはソフォニスバはただ置物のようになって婚礼や宴をやり過ごしただけだ。夫の顔を不躾にも覗き込むことはどうにも勇気が出ずにできなかった。夫のほうも、新しく迎えた妻の高貴さを前にしてか、それ以前に彼の自制としてか、ベールを暴こうとはしなかった。

 ふたりきりになるまでだと分かっていても、それまでの時間はどれほど長いのかと、椅子に腰掛けるだけの女はずっと考えていたのだった。

「そなたの父は私をどのように話していた」

 婚礼の重苦しい衣装のまま寝台のうえに座り込む花嫁への第一声が、それなのだ。

 ベールの隙間から垣間見えたシュファクスは、と言っても首から下しか見えなかったのだが、彼の方も盛装していたけれどもいくらか装飾を取り払っていた。彼は寝台から少し離れた長椅子に身を預けていて、きっとあの濃い色の瞳が居所を迷っていたのだろう。

「父は、何も心配はいらないと」

「何も?」

「何も……。それだけでございます」

 寝台が軋んで、シュファクスが近くに来たのが分かった。それでも彼はベールに手をかけず、ソフォニスバがなんとなしに寝台の沈んだほうへ顔を向けると、苦しげなほど重い息を吐き出す。

「何も知らぬのだな」

「わたくしが知らねばならぬことは、シュファクスさまのことだけでございましょう」

 まだ何も知らない。そういう意味を込めて、ソフォニスバは言った。嗅いだことのない甘い香が薄く部屋に漂うなかで彼らはそれから幾らかの間黙りこくっていた。シュファクスがまた動いたのは、ソフォニスバが欠伸をどうにか噛み殺したときのことで、彼女が驚いて肩を揺らしたのを怯えたのだと思ったらしい。

 夫は王として過不足ない姿を持つ男なのだと、やっとベールが冠ごと取り去られたので、分かった。

 彼は華奢な細工の施された冠をいささか乱雑に寝台の端に放って、それから彼の妻の顔を見た。

 ソフォニスバにはそのとき彼の見せた顔の理由は分かったけれども、その顔の意味は分からなかった。彼は少しだけ瞠った目をゆっくりと瞬いて、眉を寄せる――引き結ばれた唇にしろ何にしろ、ソフォニスバはそういう顔を見せる人間を彼の他に知らない。少女と言ってもよい年頃の花嫁の髪に触れた手は大きかった、父のそれよりも。

「何一つ知らず私の国に来たとて、望みはあろう」

「望み?」

「王の妻となるのだから」

「…………」

 優しげな目だ、馬のそれを思い出させる目だと、そのときは思った。シュファクスが何人の花嫁にこうした問いを投げてきたのかなどとは考えず、ソフォニスバはまるで、彼が自分の最初の夫であるのと同じに自分が彼の最初の妻であるかのような気になっていた。そう思わせるだけの顔だったのだ、彼は食い入るように少女の大きな目を捉えていた。

「どうかお見捨てにならないで」

 こめかみの辺りに触れていた手に手を重ねる。双方の指に嵌められた指輪が音を立てる、その音を聴き慣れている気がした。

「……それだけでございます」

 宝石も金細工も、職人たちが長い時間を投じた織物も、女の身を飾るものはすべて彼女は持っていた。父がそのように自分を慈しんだ意味だけは知っていたし、それは喜びに近い充足を娘に与えうる愛情だった。言葉ないままにシュファクスが結い上げられた髪を留める櫛を外し、緊張を強いるほどきつく額を引いていた髪が下ろされると、息苦しさもすこし遠ざかる。それで彼女は、彼女自身そうと気づいてはいなかったが、この婚礼を知らされてのちはじめて微笑ったのだ。

 濃い化粧も色とりどりの衣装も、耳に揺れる赤い宝石も磨き上げられた銀細工の腕輪も無意味にする笑顔だった。彼女は幼い時分から常にその容貌を褒めそやされてきたが、それらの言葉はまた常にソフォニスバにとっては身近な人々の愛情に他ならなかった。なるほど彼女は美しい。おのれでそうと知ることが身の丈にあった自認である。娘が並外れて美しいことは人を喜ばせる――父を救う、そのはずだった。

 だけれども、シュファクスは笑わなかったのだ。彼は手先が傷ついた者がするように髪に添えていた手を逃がし、頬を引きつらせた。今度は不思議そうにしてその表情の変化を見守るソフォニスバに気がついたのだろう、浮かべるものを笑みに変えたがそれもどこか苦々しかった。

「そなたは美しい」

 本当は言いたくないのだろうと、ソフォニスバはシュファクスがあまりに重く言うものだから理解するしかなかった。

「そのために私にはそなたを見捨てることだけが、できなくなってしまうのだから」

 シュファクスは彼の体躯からすれば小さく、あまりに軽い妻の肩を抱き寄せる。閉じ込める腕だ。これは、ソフォニスバを逃すまいという腕だ。彼は少女の足にかけられていた鎖を易易と千切り、捨てた。

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