囀る鎖

鶯豆

第1話

 乳母に手を引かれ廊下を歩く。足首に巻かれた華奢な金の鎖が立てる涼やかな音は、ソフォニスバが物心ついた頃から彼女についてまわっていた。

 彼女だけでなく、こうして屋敷のなかで養育される令嬢の足にはその純潔のあかしとして鎖があり、音を立てる。しゃらしゃらと細やかに、それは、もはや少女たちにとっては耳にしているもいないも同じ存在となっていた。

 ゆっくりと乳母が歩くので、ソフォニスバは彼女に手を引かれるときには父の後ろを追いかけるときのように息せき切って小走りになることはない。その父が娘を呼んでいるからこうして歩いている。

 何のご用事なの、と尋ねても乳母は何も答えなかった。すこしこわばったような彼女の顔にソフォニスバまで不安になるというのに、幼い主人の不安には敏いはずの女であるのに、痛いばかりの無言が敷かれている。はやくお父さまのいる部屋に、と思う。鎖の音がいささか調子を崩していた。

 乳母はひとつの部屋が近づくと足を止めて、ソフォニスバを前に歩かせた。早歩きをしようとすると肩を捕まえられて、先ほどと同じようにゆっくりと、戸口に立つ。主人に声をかけるのはソフォニスバではなく乳母で、父も、乳母に返事をしてからソフォニスバを見た。

 武人である父は屋敷を留守にすることが多いのだが、容姿の端麗さを歩き始めたころから評判にとっている娘についてはひどく気にかけてくれているのだと、ソフォニスバは雰囲気だけで知っている。自分は可愛らしい娘なのだ知ることは驕りではなかった。

 父に手招かれ、部屋に入る。すると父の腰掛けるのに向かい合って長椅子に浅く腰掛けた青年に気が付いて、ソフォニスバはまだ子供であるから不躾にその人の顔を見た。凛とした、卑しい者には持ち得ない覇気のようなものを持っている青年は、明らかにカルタゴ人の顔立ちはしていない。けれどもどこか自分と近い血が混ざっているような、きれいな姿をしていた。

「お父さま」鎖の音に混じって響く、少女の声は鈴を転がすよりもよほど軽やかに響いた。「この方はだあれ?」

 青年は控えめにソフォニスバに目礼したが、黙っている。父が苦笑しつつ落ち着かないソフォニスバを隣に腰掛けさせ、どうしてか常よりもゆっくりと、まずは青年に自分の娘を紹介した。

「ソフォニスバ。こちらはマシニッサ殿、ヌミディアの王子だ」

「王子さま?」

「そう。少年の頃にはこのカルタゴで過ごし、勉学なされた。……お前の夫となる人なのだよ」

 まあ、とソフォニスバは周囲の女たちがするように高く声を上げた。本当に驚いて上げた声はそれよりもいくらか遅れて発せられ、くるくると父と青年とを見比べてから、「それじゃあわたくしは王女さまなの」と少女は言った。

 マシニッサは既に戦場に立つことはできても、まだ父と同じくらいの大人にはなりきっていない、そういった年頃に見えた。ソフォニスバの目には彼の姿はそう物珍しく映らなかったのだが、カルタゴ風の衣装に包まれた身体は自分のものとは違うと、それだけは理解できた。ヌミディアの民は馬を駆る、それを生業とする。とても強く、しなやかな人々なのだと。語り聞かせてくれたのは父ではなかったか。

「そうは言ってもまだソフォニスバは幼い。すぐにでも輿入れを、とはゆかぬ」

 父の大きな手がソフォニスバの頭を撫で、そわそわしている小さな身体が椅子から降りてしまわないように肩に置かれた。彼女が足を揺らすと鎖が騒ぐ、それにマシニッサが目を向けるのにつられてソフォニスバも自分の足を見たが、サンダルが履き古したもので恥ずかしいと思っただけだった。

 マシニッサに向けて父が話すゆっくりとしたカルタゴ語はソフォニスバにはよく分からなかった。小難しい話は聞いてはいけない、大人のことだから、と躾けられた彼女はきちんと意識してそれを聞こうとしていなかった。

「ソフォニスバ」

 呼ばれ、父を振り仰ぐ。

「お前、まだマシニッサ殿に挨拶をしていないだろう」

「ごめんなさい」

 椅子から降りて、マシニッサのすぐ前に立つ。澄んだ瞳がひたとソフォニスバに据えられると、背筋を伸ばそうと思う前にソフォニスバは彼女としては驚くほどきちんとその場に動きを止めることができた。生来立ち居振る舞いが優雅であるのに同時にどこかせわしない、と言われているのである。

「ハスドゥルバルの娘、ソフォニスバと申します。……ええと、よろしくお願いいたします、マシニッサさま」

「……ああ、こちらこそ」

 堅い口調でそう言ったが、マシニッサは微笑んだ。彼はとても無口なのだとソフォニスバは思い、そういうひとの妻となることはどういうことだろうかと思う。父は物静かでもなければ、騒がしくもなかった。

 異国の青年はじっと動かない少女にいくらか待ちの姿勢を取っていたが、困ってしまったのか、父を見た。父は何がおかしいのか笑いを含めたままの声でソフォニスバを呼び戻す。こんな風に未婚の娘が客人の前に出ることは当然だが珍しく、その相手がカルタゴ人ではないことは、いままでなかった。その珍しい相手は自分と婚約するのだとソフォニスバは抵抗なく受け入れていたし、マシニッサは彼女にとって好きになることのできる人間だと感じた。

 ヌミディアの王子は単に言葉を上手く操れないから口を開かないのだが、ソフォニスバは彼の静けさを慎重さと受け取り――ひたむきな眼差しにはまごころがあると少女は信じたのだった。

 けれどもふと気が付いて戸口を見た少女には、また話し始めた父も、それに耳を傾ける青年も目を向けていなかった。ソフォニスバは戸口の脇に控えた乳母が目元を押さえて唇を噛んでいるのを見つけ、どうしたのと問いかけたくなったが、少女の手は父の手の中にあった。浅黒い膚をした乳母の真っ黒な瞳は潤み、時折ソフォニスバの、本当は何も分かっていないのに何もかも飲み込んだつもりでいる姿を見ては、その涙が節くれだった指を濡らした。

 彼女が自分を哀れんで泣いているのだとは、ソフォニスバは教えてもらわなかった。

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