男娼探偵・寵童イロコの事件簿

糾縄カフク

FILE00:築地腹上死殺人事件

「主人を殺したのはこの人ですッ!!!」


 静謐せいひつが包む夜のとばりを、引き裂く様に甲高かんだかい声が響く。初老の、本来ならマダムとでも呼ぶべき貞淑ていしゅく外貌がいぼうの女は、しかし崩れた化粧もそのままに醜くわめく。


「とは言っても、僕にはこれから用事があるんです。――さてどうしたものかな」


 だが返ってきたのは、落ち着き払った青年の声。女性のヒステリックさとは対照的なその声色は、ともすればいささ気障きざにも聞こえる。


「よくもいけしゃあしゃあとッ! 刑事さん、この男が主人を殺したのは、どう見たって明白でしょう?!」


 女は左手でスーツ姿の男の袖を引っ張り、残された右指で青年を指す。


「はあ。勘弁して下さいよ……ねえ若道わかどうさん。やれやれ困ったなあ」


 どうやら青年と男は知り合いらしい。それまで背を向けていた青年はにわかに振り向くと「そもそも僕じゃあないんですって」と付け加えた。




 場所は築地を見下ろすマンションの一室。右手には東京タワーが、左手にはスカイツリーが見えるそこは、遠い夜景に美しく彩られている。青年は丁度、タワーとツリーを挟む様に佇んでいて、一面のスカイビューを背に一糸すらまとわないその姿は、薄暗がりの部屋の中で白く浮かんで見えた。


「証拠があるというのなら、先ずはそれをお見せ頂かないと。ここにあるのは、僕と彼、すなわち貴女の夫と僕が寝ていたという、単に情交の事実に過ぎない」


 青年はやれやれとかぶりを振り、軽くパーマの当たった黒髪をくしゃくしゃと弄る。


「証拠なら! この男の隣に死んだ主人が居るってだけで充分じゃあございません?! ねえ刑事さん、この男は、泥棒猫よろしく主人をたぶらかし、そうして財産目当てに命を奪ったのですッ!」


 しかして先刻から冷静そのものの青年に反し、夫人のヒステリーはエスカレートするばかりだ。


「まあまあ奥さん、落ち着いて。応援が来るまであと五分。とにかく話を聞かなければ始まらない」


 隣に立った刑事とやらも、夫人に引っ張られしわが付くスーツをやたらと気にしながら、飽くまでも笑顔でなだめる素振りをする。




「ねえ若道さん。さしあたっては状況の整理をしようじゃないか。僕は彼――、つまりは末見すえみさんに呼ばれ、いつも通りのお勤めを果たしていたに過ぎない」


 ――要するにり専のね。と付け加え、青年は歩く。


 局部を隠す事すらせず悠然と闊歩かっぽする青年のシルエットが、室外の明かりに照らされて徐々に浮き彫りになっていく。すらりと伸びた背、均整の取れた肉体。そして幾分かくびれた腰が、青年を中性的に映し出す。


「それはまあ把握している。だが問題は、なぜそこの男性が死に至ったかだ」

 青年と対峙する刑事もまた、髭を剃り綺麗に整えた顎を弄りながら返す。


「いやいや問題はそれだけじゃあないんですよ若道さん。なんだって若道さんが、たった一人で・・・・・・こうも早く現場に駆けつけてこれたのか。僕にはそれも不思議でしょうがないんだ」


 青年はゆっくりと赤の、随分と際どいボクサーブリーフを履きながら口を動かす。


「――それは君。この奥さんに呼ばれたからだよ。君と僕とが知り合いである様に、奥さんと僕もまた旧知だった。それだけだ」


 横で睨む夫人を他所に、刑事は自らの関係性についてつまびらかにする。


「なるほどねえ。110番では警察がわんさとくる。逆に知り合いの刑事一人なら、穏便に済ませられる可能性もあると。世間体をおもんばかる奥様らしい、実に冷静・・な判断だ」


 ブリーフを履き終えた青年は、刑事と同じく顎を弄りながら一人頷く。


「冷静ですって? この緊急事態に知古に電話する事の、どこに冷静があるのッ? 見知らぬ刑事より見知った刑事……当たり前の事ですわ!!!」


 刑事の裾を離し踏み出た夫人は、憤懣ふんまんやるかたないと言った様子で腰に手を当てる。


「まあまあ分かりましたよ奥さん。百歩譲ってそうだとする。だが平素へいそ、末見さんは貴女の居ない時間を狙って僕を呼ぶんだ。だのに何だって今日は、貴女はここに居たのです? 末見さんの話通りなら、本来貴女は、今頃ご実家に帰省していらっしゃる筈だ。――ご自身の自家用車で」


 上半身裸のままで腕を組む青年は、にわかに鋭い目つきで夫人を見据える。


「そ、それは……急用を思い出したから戻ってきたのです! だいたい、主人がそんな話をした証拠があるのですかッ?」


 ――あるんですよ、これが。と後ずさる夫人を他所に、青年はブリーフのポケットからボイスレコーダーを取り出した。


「就寝中の盗難、不慮の事故。出張先でトラブルに巻き込まれる可能性。それらを全て考慮すれば、僕の手合うりせんがレコーダーを持つのは至極当然。もちろん、貴女のご主人との会話も録音済みです」


 ルージュを塗った様に艶やかな唇をニヤリとさせ、青年は再生ボタンを押す。




「――家内は、今頃栃木の実家に居る筈だ……でなきゃ君を呼ぶかね。……男遊びなんてバレた日には、俺はあいつに殺されちまうよ」


 そこから流れ出たのは、熱い吐息混じりに語られる情交の一時。


「やめなさいッ!!! 主人が、主人が男なんかとッ!!!」


 必死の形相で青年に掴みかかる夫人を、今度は刑事が後ろから抑える。


「――そう、男なんかと」


 青年は誰に言うでもなく独り言ちると、レコーダーを元の場所に仕舞った。


「何をするのッ!!」


 喚く夫人の耳元で「これ以上は公務執行妨害です」と刑事が囁く。


「なるほど末見さんはいつも気にかけておいででした。奥様に男遊びがバレるくらいならと、せいぜい女遊びをしているカムフラージュまでして」


 天井を見上げながら歩く青年は、過ぎ去りし日の思い出を紡ぐ様にとくとくと語る。


「ですが奥さん、貴女は知ってしまった訳だ。末見さんがそこまでして隠していた、男色の事実に」


 青年はつかつかと歩を進めると、二人の側を通り過ぎリビングへ向かう。


「おかしいとは思いました。末見さんは心臓病を患っている。だのに何故、彼の家にこの薬の外包があるのかと」


 青年はリビングのゴミ箱から薬包を取り出すと呟いた。


「バイアグラ。巷にはED治療薬として認知される薬ですが、これにはある併用禁忌へいようきんきがある」


 そう言うと青年は、今度は小箪笥こだんすを引き別の薬包やくほうを取り出した。


「――ニトログリセリンを含む、心臓病の治療薬です」


 青の錠剤バイアグラと、白の錠剤ニトログリセリンが、青年の両手につままれている。


「僕も早くに気づくべきだったんだ。末見さんが寝酒を飲んだ時、不味そうに顔をしかめた、あの時に」


 唇を振るえさせる夫人を一瞥すると、青年は元いた寝室に戻った。


「ここから、恐らくバイアグラの成分が検出されるでしょう。なるほど確かに、今日の末見さんはいつもより元気・・だった」


 ショットグラスを揺らす青年は、思い出した様にほくそ笑む。方や夫人の表情からは、怒りすらも消えていた。




「つまり粗筋はこうだ。貴女はこの現場を押さえるべく、末見さんを騙して家の側に居た。薬を混ぜたのは、せいぜいちょっとしたバチを当てるつもりだったのでしょう。糾弾し、痛めつければもう懲りるだろうと。――だが現実は違った」


 青年はそこで、ベッドに横たわる男の側に立ち、目を落とす。


「――奥さん、あなた。バイアグラを一錠まるごとすりつぶしましたね」


 ぼそりと呟いた青年は、いかにも痩身のその男にひざまずくと、哀れみを込めて手を握った。


「多すぎたんですよ。あれは健常者なら一噛みで充分なんだ。――それを丸ごと。そこに禁忌が加わったショックで末見さんは腹上死。これは想定外だった筈だ」


 すぅと立ち上がり、黒髪を掻き上げると、青年は柔和な表情で夫人に語りかけた。


「だから貴女は、どうにかして事態を穏便に済ませようと、知り合いの若道さんを呼んだんだ。僕が恐らくは、事を荒立てたくが無い為に白旗を上げると踏んで」


 ――若道さん、証明は以上です。そう続けた青年の一言が終わるや、夫人はどさりと床に崩れ落ちた。


「うう……主人は……こんな……男に……」


 嗚咽おえつ混じりの夫人を横目に、青年はいつの間にか着替えを終えている。白のタートルネックに、黒のスキニー。傍目には、モデルか俳優にでも見えるだろうか。


「奥さん。末見さんは貴女を愛していました。――もちろん、僕も僕なりに、彼を。お子さんも無事に育って、生活費も充分に貰って、何不自由無くここに住んで。そんな愛に満ちた彼の、この程度の優しい嘘を、どうして貴女は看過かんか出来なかったのですか。――もう全ては壊れてしまった。どうにもならないくらい、粉々に」


 ナップザックを背負う青年の、その背後に映る夜景の遠くから、多分赤いであろうサイレンの音が聞こえる。


「あなたが……あなたさえいなければ……こんな事には……」


 泣きはらした目を向ける夫人に、青年もまた言葉を向ける。


「違いますよ、奥さん。この平穏を壊してしまったのは、紛れもなく貴女だ」


 その残酷な一刺しに、今度は言葉すらも失って夫人は顔を覆った。




「それじゃ、若道さん。あとは頼みます。僕、次の仕事があるんで」


 腕時計に眼を落とした青年は、バイバイと手を振るやドアノブに手をかける。


「分かった。連絡は……明日の朝でいいか?」


 寂しそうに見送る刑事に、背を向けたまま青年は答える。


「ええ、明日のお昼、期待してます」


 そこで開いたドアと入れ違いに、増援の警察官がなだれ込んでくる。




「通せ。もう終わった」


 刑事の一声に、青服の警官たちはささっと道を開ける。青年は、もう一言も発さずにその場を去った。


「――誰ですか、アイツは」


 いぶかしむ警官の声に、心底面倒だと眉を潜め、刑事は答えた。


「寵童イロコ、まあ結果的にだが――、探偵さ」


 やがてサイレンの音がまた遠くに去る頃、築地の夜には静寂が戻っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

男娼探偵・寵童イロコの事件簿 糾縄カフク @238undieu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ