第3話

 帰り道は灰色の霙でぐずぐずだった。わたしは途中でしゃがみこんで湿った咳をし、コーヒーの搾りかすのような血を霙のうえに少しばかり散らした。

 女が月に一度子宮から経血を流すように、わたしの肺も定期的に血を絞り出す。ヤルミルの言う通り、体調がどんどん悪くなっていた。今では、わたしの体は結核のために常にぼんやりとした熱を帯びていた。体内にわだかまる微熱は、ただでさえ愚鈍なわたしの動作を余計ににぶらせ、ことあるごとに工場長を激昂させた。

 わたしは水の染み込んだ革靴の、グシュグシュ言う音を響かせながら、アパルトメントの階段を上った。郵便受けは確認しなかった。階上から、誰かが降りてくる。一階に住んでいるはずのトリイだった。

 わたしは「いい夜ですね」と声を掛けたが、老婆は返事をせず、小さな目を光らせた。

「蝶を飼っているだろう」

 トリイがつめたい嗄れ声で言った。

「蝶なんか、飼っていませんよ。この町に蝶はいませんから」

「あたしを誤魔化せると思っているのかい。レネ。バルコニーの蛹だよ」

「トリイ。あなたがなぜ、知っている」

「殺すんだよ。蛹はだめだ」

「なぜ上から降りてきた。エマになにかしたのか」

 老婆がわたしに摑みかかった。骨と皮ばかりの手が、おそろしい力でわたしの手首へと食い込んだ。伸び放題の爪がわたしの肌を傷つけ、寒さに感覚を失った手に僅かな血が滲んだ。霙に濡れた階段の上で体が不安定に傾ぐ。

「知ってるよ。あんただって本当は羽化なんかしなきゃいいと思ってるんだ。あんたはきっとあの蛹を殺す。きっとだ。あんたはそういう男なのさ——」

 わたしは力任せにトリイを振り払った。小柄な老婆の体が勢いよく階段を転がり落ち、鈍い音を立てて頭が地面へとぶつかった。わたしは階段を駆け上がった。靴底が滑り、転びそうになる。

「エマ」

 わたしは彼女の名前を呼びながら、自分の部屋のドアを開けた。部屋は真っ暗で、冷蔵庫のようにつめたく、誰の気配もなかった。

「エマ」

 わたしは暗がりの中ですばやく眼球を左右に動かした。怯えた薄ぎたない鼠のように。わたしは床に落ちていた図鑑を踏みにじりながら部屋を横断し、窓を開け放した。しめった外気が部屋の中の空気と混じり合い、視えないマーブル模様を作った。窓の外は平穏そのものだった。きっと、トリイは死んだろう。まだ、誰も気がついていないだけだ。

 わたしはバルコニーに出て、ジャコウアゲハの蛹を見た。それは濡れていた。融けた雪に塗れてぬらぬらと光っていた。わたしは吸い寄せられるように手を伸ばし、蛹に触った。蛹は硬く、ひやりとして、死の感触を伝えた。

 わたしは帯糸を千切り、蛹をモルタル壁から引き剥がした。そして、指に力を籠め、蛹を押しつぶした。蛹の中には白っぽくどろどろとしたものが一杯に詰まっていた。幼虫だった、そして成虫になろうとしていた、生命であったそのどろどろがわたしの指をべっとりと汚し、胸の悪くなるようなにおいが漂った。わたしは指についた蛹のかけらを払いおとしたあとで、汚れた指を口に入れ、べたつく粘液を味わった。吐き気を催す味がした。胸中にひどい後悔と生ぬるい安堵が広がり、わたしはコートのポケットから、ライターと煙草とを取り出した。そして、あたらしい煙草に火を点けたところで、 その場に嘔吐した。手摺を握りしめ、何度も。手摺からぱらぱらと散った赤錆と、灰色の霙と、蝶の毒を含んだ吐瀉物とがきたなく混じり合った。胃液ばかりの吐瀉物の中に、一条の血液が赤いリボンのように混じっていた。






 目を覚ますと、暗がりの中で、わたしとエマはふたりきりだった。わたしはベッドに横たわっており、エマは部屋の隅で蠢いていた。わたしはベッドの中からやさしくエマを呼んだ。しばらくあって、エマがわたしのベッドへと滑り込むのが分かった。

 ひどく生臭いにおいがして、わたしは噎せかえり、聞くに耐えない咳を繰り返した。エマの指が薄い寝衣を通り抜け、ぬたぬたとわたしの膚に触れた。途端に、わたしは自分自身の体の奥に深い疼きを覚えた。咳の合間に熱っぽい息を吐き出しながら、わたしはエマを抱きしめようとした。今、エマは女の姿でわたしに跨り、わたしの頬にぼたぼたと気味の悪い粘液を垂らしかけていた。その一滴一滴さえも、意思を持ったエマの一部だった。エマの腕はわたしの伸ばした手をはんたいに搦めとり、わたしの身体を抱きすくめ、べたべたに汚した。粘つく手がわたしの頸椎を、そして喉仏をなぞり、恍惚をもたらした。エマは耳元で囁いた。

「レネ、愛してる」

 わたしはエマに同じ言葉を返そうとした。その瞬間、エマはわたしの身体の下にあり、エマに跨るのはわたしであった。エマは巨大な蛹となって、わたしの膝の間に横たわっていた。わたしは手の中のナイフを蛹の背中へと勢いよく突き立てた。そして、両手で柄をしっかり掴むと、そのまままっすぐに切り裂いた。ちょうど、羽化しようとする成虫が蛹につくる切れ込みと同じように。ぎっしりと詰まっていたどろどろが溢れ、ナイフの柄を握る手まで汚した。白くかすかに黄味がかったそのどろどろは、膿や、わたしの吐き出す痰に似ていた。凍てつくような、あるいは煮えたぎるような後悔と絶望、そして狂おしいほどの愛が私の身の裡を灼いた。わたしはすべてを思い出した。

「許してくれ」

 わたしは喘ぎながら、愛の言葉を囁く代わりに許しを乞い願った。切り開かれた蛹の中に両手を突っ込み、粘液を掬い上げる。触れたところがひどくかぶれ、皮膚に灼熱感をもたらしたが、わたしは気に留めなかった。

「ああ」

 わたしは俯きながら涙をぼたぼたと零した。そして、汚れたナイフを自らの胸へと突き立てんとした。

「エマ、エマ、許して……」

 そのとき、耳元で「許すわ」と聞こえた。わたしはナイフを取り落とし、振り返った。老婆の甲高い声が、窓の外に響き渡った。

 わたしは立ち尽くしていた。

 真夜中だった。




 カーテンを引き開ける音で、わたしは再び目を覚ました。黄ばんだ天井には見覚えがなかった。わたしは朝の陽射しの眩しさに顔を顰めながら、なんとか身を起こした。気だるい微熱はまだ体の中に充満していたが、頭も胸も痛まなかった。

 カーテンを開けたのはヤルミルだった。ヤルミルは起き上がったわたしに目を遣ると、窓際から歩いてきて、木の椅子に腰かけた。ここがどうやらヤルミルの部屋らしいということがわかった。

 わたしは両の手のひらで顔を覆い、そして自分の頰がひどく濡れていることに気がついた。わたしが袖で頰を拭うあいだ、ヤルミルは一言も口をきかなかった。

「ありがとう」

 気持ちが落ち着いたあとで、わたしはぽつりと言った。ヤルミルは溜息を吐き、重たげに口を開いた。

「おまえは突然倒れた。覚えてるか」

「覚えてるよ」

 わたしは答えた。

「覚えてる、ヤルミル。ありがとう」

 わたしは自分の身体を見下ろし、外れていたシャツの釦を留めた。シャツはすっかりくしゃくしゃになっていた。ヤルミルは立ち上がってから少し躊躇い、わたしの上に屈み込むと、瞼に口づけた。病にかさついた、やさしい唇だった。わたしは抵抗せずにただそれを受け入れ、呟いた。

「帰るよ」

「何処へ、レネ」

「わたしたちの家に」

 ヤルミルは困ったように言った。

「エマはいない」

「そうかもしれない」

 わたしは立ち上がり、いつもの煤けたコートを着た。コートは乾いていた。

「レネ」

 ヤルミルがもう一度椅子へと腰を下ろしながら、わたしを呼び止めた。わたしは振り返った。

「蛹の中身はどんな味がする」

 ヤルミルは淋しげにほほえんでいた。

「苦いのか」

 一拍おいて、わたしもほほえみかえした。

「いいや。チョコレートみたいに甘い」






 アパルトメントの階段を上ろうとしたところで、トリイが「おはよう、レネ」と声を掛けてきた。夜中にどんな金切り声を上げたとしても、トリイはそれを覚えていない。わたしは礼儀正しく「おはよう、トリイ」と応えた。わたしは滑りやすい階段を慎重に上り、自室の鍵を開けて中へと入った。部屋に電気は点いていなかったが、朝の光が、カーテンの隙間から聖なる帯となって床を走っていた。

 わたしは導かれるようにカーテンを引き開け、窓を開くと、バルコニーへと出た。いつもの煤煙は西からの風に洗われ、ほんのひととき姿を消していた。十年に一度の、晴れ晴れとした青空だった。わたしは手摺へと手をかけた。視界の端に、わたしは飛び去るジャコウアゲハの影を見た。灰色の町と青の空のあわいで、それはくっきりと切り抜かれたように黒く、ただひたすらに黒く、うつくしかった。

 わたしは煙草をくわえた。部屋のほうから、エマの声が聞こえた。これが最後の声だった。

「何処へ、レネ」

 わたしは笑った。

「ここに、エマ」


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