第2話

 工場が休みのとき、わたしはいつも市場を歩いた。一週間の食べ物をこの日にまとめて調達しなくてはならないからだ。買い出しは、もうずっとわたしの分担だった。わたしは羊肉やトマトや馬鈴薯や、他にもエマの好きそうなものを両手一杯買い込んだ。最近は、荷物を抱えて市場を端から端まで歩くと、息切れがしてくたくたになってしまう。

 市場の外れで、初老の男が古本を広げていた。わたしはふと足を止めた。古本の中に、興味を惹くものを見つけたからだ。わたしは近寄って腰を折り、それをしげしげと眺めた。立派な装丁ではあるが、すっかり日焼けして染みだらけになった虫の図鑑だった。

「これをくれ」

 わたしは露店の主人に話しかけた。男は声を掛けられるとは思ってもみなかったというように、驚いてわたしを見た。男はすぐに抜け目のない顔になると、「こいつは高いよ。いい本だからね」と言った。そうして男が提示した金額は、本当に高かった。わたしは言われただけの金を、昨日手に入れたばかりのわずかな給金から払い、その図鑑を買った。


 ジャコウアゲハ。このあたりでは珍しい蝶らしい。

 わたしは家の窓際に座り込み、図鑑と蛹のエマとを見比べた。図鑑の中の蝶は美しかった。赤と黒の胴体からのびる黒々とした翅は天鵞絨(びろうど)のように上品な光沢を持ち、芸術品めいて悠然と広げられている。生きて羽搏いたなら、さぞ優美だろうと思われた。

 図鑑を熱心に覗き込むわたしに、エマが後ろから声を掛けた。

「レネ、多分生きていけないわ」

「そうかな」

「この町に、他に蝶はいないもの」

 エマは小さな子どもに言い聞かせるような口調で言った。

「煤煙が、翅を重くするのよ。飛べないわ」

「分からないよ、エマ。羽化してみなくては」

 わたしは振り向き、エマへと口づけた。白くべたつく手がわたしの背をぞろぞろと撫ぜた。わたしは行為に陶酔しながら、視界の端でモルタル壁にへばりついたジャコウアゲハの蛹を見ていた。わたしはまた小さく咳き込んだ。蛹化を終えたばかりのこの黄褐色のかたまりから、あの濡れたように艶めく美しい漆黒の蝶が生まれるのだ。





 そういうわけで、冬のあいだは、仕事のない日は日がな一日蛹を眺めて過ごした。この町に訪れる冬は厳しいが、灰色の雪がどんなにはげしく吹きつけても、蛹を縛りつける帯糸はびくともしなかった。わたしは朝ごはんに市場で買った一番安いパンを切り、残り物の薄いオートミールを啜りながら、エマに話しかけた。

「今度はきっとうまくいくよ。エマ」

「そうかしら。でも、動かないわ」

「蛹は動かないよ」

 動かない以上、死んでいるのか生きているのか分からない。蛹はあの黄褐色から、死者のベールを思わせる黒へと変色していた。生理的な変化なのだと、図鑑には書いてあった。

「春までに鳥に食べられるかもしれないし」

「でも、毒があるんだ。ジャコウアゲハには。食べたら鳥も死ぬ」

「それも図鑑に書いてあったの?」

「そうだよ、エマ」

「そんな虫にわたしの名前をつけるなんて」

 エマがくすくすと笑った。わたしも一緒になって笑ったが、わたしの笑いがやまないうちに、彼女は再び暗い声を出した。

「鳥より、心配なことがあるわ」

「心配なこと?」

 わたしは首を傾げた。

「下の階の、トリイばあさん」

「彼女がどうかした?」

「蛹を狙っているのよ」

 わたしは「まさか」と言い、もう一度笑った。

「珍しい蝶だから?」

 あの頭のいかれてしまった、瘦せぎすのかわいそうな老婆が蝶を欲しがっているとは考えられなかった。彼女は今も毎晩叫び声をあげている。雪はほんの少し彼女の絶叫を吸収して、わたしたちがもう一度眠りに就くのを助けてくれる。

「本当よ、レネ。あなたが仕事に行っているあいだ、あのおばあさん、家のドアにへばりついて、覗き穴に目をくっつけているのよ」

 わたしはぞっとして、もう一度「まさか」と言った。返事はなかった。わたしは立ち上がり、自分のぶんの皿を痺れるように冷たい水で洗った。皿をタオルで拭っていると、あかぎれから滲み出した血が白い布地を汚した。わたしはもう一度窓の前に戻ってきて、外を眺めながら、手に嫌なにおいのする薬をすりこんだ。そして、背中を丸めて咳き込んだ。





「チェニェクは死んだ。もう随分、悪かったらしい」

 わたしは頷いた。みすぼらしい労働者の集まる湿気たバルで、わたしとヤルミルは薄いウイスキーを飲んでいた。ヤルミルは友を喪った悲しみのためばかりでなく、青白い顔をしていた。多分、わたしも同じような顔色をしていただろう。

「ヤルミル、彼の見舞いに?」

「いいや。花を買う金もなかった」

 そうだろうと思った。隣町で暮らすヤルミルの妹が、心臓を患って入院したことをわたしは知っていた。彼が仕事の合間を縫って何度も彼女の病室に通っていることも。深刻らしい。ヤルミルの話し振りや、沈んだ表情からそれは分かった。

 それでも、もしもわたしが肺の病で入院したならば、ヤルミルは花を買ってくるだろうか。

 わたしはかぶりを振った。くだらないことだった。ヤルミルはウイスキーを舐めながら、そんなわたしをじっと見つめていた。ヤルミルは言いにくそうにした。

「なあ、レネ。結婚はしないのか」

「結婚?」

 わたしは首を傾げた。

「ああ、ひとりでいるのは……よくないよ。おまえにとって」

「でも、まだ稼ぎは少ないし……。もう少し給金が増えたら、結婚しようと思っているよ」

「レネ……」

「ヤルミル、わかるよ。でも、エマは病気なんだ。前話しただろう? あまり、気に病ませたくないんだ。色々なことを」

 やはり躊躇いながら、ヤルミルはなにか言いかけた。彼は質のよくない分厚いグラスの中身を勢いよく煽り、それを汚いカウンターに置いた。湿った輪が増えた。

「レネ、いつまでそうしているんだ。あそこから戻ってきてから、おまえは変わってしまった」

 わたしは困惑した。ヤルミルがなにを言っているのかわからなかったからだ。突然、履き潰した靴の中の濡れた靴下の感触が気になった。雪が融けて、今日はあたたかかった。蛹のエマはどうしたろう。

「おまえは悪くない。おれは分かってる……」

 ヤルミルは労りに満ちた声音でそう呟いたが、わたしにはその労りの中のスプーン一杯の憐れみが、舌の上の不快なざらつきとして感ぜられた。

「ああ、わたしは悪くない。わたしは蛹を育てているだけだ」

「蛹?」

「エマというんだ。ヤルミル。じきに、工場の吐き出す煤煙よりも黒い、美しい翅の蝶になる」

「レネ、この町に蝶はいないよ」

「でも、蝶だ」

「なあ、おれはおまえのことが好きだ。おまえはどんどん肺を悪くしているし、そのうえ……」

「ああ、おまえはわたしが好きだ。そのうえわたしを愛している」

 ヤルミルの眉と目のあたりを緊張のしるしが駆け抜けた。彼は周囲に素早く目を走らせた。バルはアルコールの気だるく息詰まるような臭気に満ちて、誰もわたしたちの会話を聞いてはいなかった。わたしはヤルミルの濁った白目を見つめながら、彼が警察に連れていかれてしまってもかまわないと思った。

「エマが待っている。待っているんだ。ヤルミル」

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