何処へ
識島果
第1話
生臭いような、独特の篭ったにおいがした。それで、わたしはエマが現れたことを知った。エマはひんやりと粘つく手を背後から伸ばし、わたしの顎を愛撫した。わたしはそれを無視して靴紐を結び終えると、安ベッドのスプリングを軋ませて立ち上がり、窓を開けた。
煤煙まじりの風が吹き込む。わたしは今にも崩れそうなバルコニーの、赤く錆びついた手摺にもたれかかり、痰の絡む咳をしながら煙草を二本吸った。つめたい風はわたしの肺を洗わない。わたしは吸殻を通りへと投げ捨てた。階下の怒号が早朝の静寂を叩き割る。
わたしの一日はこのようにしてはじまる。
この町の空は、いつも曇ったように灰がかって見える。おそらくは町外れの工場が吐き出す煤煙のせいで。花屋に並ぶカーネーションの束も、背中を丸めて石畳を歩く人々の群れも、この町ではひどく煤けて色褪せている。
「レネ、ひとりじゃあ、たいへんだろうね」
アパルトメントの階段を咳き込みながら降りるわたしを見て、一階の老婆が痛ましげに言った。この老婆はわたしに同情を寄せている。頭がいかれているらしく、明け方になると別人のような金切り声を上げるのが常だが、このあたりの住人はわたしを含めてもうとっくに慣れているのだった。わたしは弁当箱を揺らし、答えた。
「トリイ、わたしはひとりじゃありませんよ」
「そうだったかい」
老婆が穏やかに返すのに頷きかえして、わたしはハンチング帽を目深に被りなおした。
わたしは薄汚い身なりをした労働者たちの流れに加わり、トラムの発着所に並ぶ。トラムはがたごと言いながら、わたしたちを町の反対側にある煉瓦工場へと運ぶ。耐火煉瓦から耐火煉瓦を作るのだ。シャモットに耐火粘土だのアルミナだの有機バインダーだの、そういったもろもろを混ぜ込んで混錬し、プレス成形し、焼成する。工程は単純だった。この仕事をするわたしたちはシリカ粉塵をたっぷり吸い込んで、みな珪肺を患っている。ニューモノウルトラマイクロスコーピックシリコヴォルケーノコニオシス。わたしも、ヤルミルも。
「レネ」
作業服姿のヤルミルが声を掛けてきた。
「今日、チェニェクは休みだ。つまり、おれたちはそのぶん働かにゃならない」
「ああ」
「大丈夫か?」
ヤルミルは気遣わしげに尋ねた。今朝のわたしの顔色を見て心配したのかもしれないが、ヤルミルもさっきから咳ばかりしている。わたしは控えめに頷いた。
「チェニェクは結核かな」
「かもしれない。あいつの袖はいつも血が付いてた」
ヤルミルが肩を竦めた。彼は独身でわたしより歳下だが、わたしよりずっとよく働いている。弁当を用意してくれる家族がいないので、いつも弁当箱の代わりに近くのパン屋で分けてもらった売れ残りのパンの袋をぶら下げているのだった。
「なあ、レネ」
わたしは目で合図した。工場長がこちらを見ている。工場長はわたしたちのことを心底憎んでおり、わたしたちも同じくらいに工場長を憎んでいた。わたしとヤルミルは並んで手を動かすことに専念した。
工場長が近づいてくるのが分かった。わたしは気づかないふりをしようとしたが、通り過ぎざまに突然頭の横を殴り飛ばされた。瞬間平衡感覚を失い、わたしは大きくたたらを踏んだ。ヤルミルがわたしを抱き止めた。肺にとって有害な粉塵が舞い上がり、わたしたちはまたそれをしこたま吸い込んだ。わたしは口を手のひらで押さえ、けたたましい咳をした。
「レネ、お喋りとは」
工場長が嫌味なふうに片眉を吊り上げた。
「昼休憩はいらないみたいだな」
「工場長」
ヤルミルが声を上げかけたが、工場長が一瞥するとすぐに黙った。侮蔑をこめた視線を再びわたしに向け、工場長は低く呟いた。
「人殺し、なあ、レネ、働かせてもらえるだけありがたいと思え」
そう言い捨てて、工場長は歩き去った。それだけだった。周りの労働者たちはわたしたちのほうをちらりと見て、作業に戻った。とばっちりを食らってはかなわないからだ。わたしは咳をなんとか抑え、自分の力で立った。ヤルミルに礼を言い、首を振ってみせる。手のひらに、赤褐色の染みがついていた。
「レネ」
ヤルミルが作業に戻りながら、此方に顔を向けないままで、また声を掛けた。唇を動かさないようにしていた。わたしはまだ眩暈が治まっていなかった。
「ヤルミル、工場長は頭がいかれてる」
「ああ」
ヤルミルは躊躇いがちに言った。
「今日の仕事が終わったら、一杯どこかで引っかけないか。安酒でも。少し、話したいことが……」
「ヤルミル」
わたしは申し訳なく思いながら答えた。
「家でエマが待ってるんだ」
ヤルミルは悲しげに頷いて、その日はもうわたしに声を掛けなかった。彼が同性愛者だという噂は本当なのかもしれない、とわたしは思った。どうでもよかった。
その夜、バルコニーで煙草を吸っていたわたしは、手摺の上に醜く不気味な芋虫を見つけた。なにか——おそらくは蝶の——幼虫らしいことは分かった。体色はどす黒く、おぞましい疣状の突起に覆われていて、これまでに見たどんな幼虫とも違っていた。こんなところで何を食べて生きているのか、皆目見当もつかなかったが、ともかくそれは手摺を這い、薄汚く煤煙の付着したモルタル壁へと辿り着いた。
幼虫が長い時間をかけてモルタル壁をよじ登るあいだ、わたしはそれを凝と見つめていた。貴重な煙草はわたしの指の間でどんどん短くなった。そして、その火がわたしの指に届こうかという頃になって、ようやくわたしは幼虫がそこで蛹になろうとしていることに気づいた。わたしは思わず笑い声を上げ、続けざまに三回咳き込んだ。
ゴホン、ゴホン、ゴホン!
愉快な気持ちになったわたしはこの醜い幼虫に名前をつけて飼うことにした。飼うといっても、ここで見守るだけだ。蛹になって動かないのだから、籠に入れる必要はない。
「エマ」
わたしは短くなった煙草を手摺に押しつけながら、呟いた。名前をつけるならエマがいい。美しい蝶になるだろう。
名前を呼んだせいか、部屋の暗がりからどろどろしたものが此方に這いずってくるのが分かった。わたしは振り向いて、思い切り空き壜を投げつけた。壜はキッチンの壁へとぶつかり、けたたましい音を立てて無数の破片を散らした。どろどろはそれ以上這い寄ってはこなかった。隣人が壁を蹴る音がした。わたしは大声で笑った。
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