そこのきみ、万札握ってどこへゆく

乙島紅

そこのきみ、万札握ってどこへゆく


 自分でも分かる。今の俺はさすがに鼻息が荒すぎだ。しかし男なら誰しも共感してくれるだろう。だって俺はこれから、この世に生を受けてから19年、大事に大事に守ってきた一生もの童貞を潔く捨て、大人への階段を登ろうとしているのだから。


 ネオンの看板が怪しく光る薄暗い雑居ビル街を歩くと、気持ちはぎゅっと引き締まる気がした。今の俺は侍だ。戦に赴く武士なのだ。兜の緒を締め、ポケットの中の万札を握りしめ、未知なる戦い女体との初邂逅に挑もうとしているのだ。


 ちなみにきっかけは大学の同級生たちと麻雀をしてる時に、一人のヤツが夜の営みの話題を振ってきた時のことだった。そいつは顔も良くて、気さくで、女友達も多くて、そりゃまぁ天気の話題と同じくらいにこの間はどの女とやったってのを話すヤツだから、ハイハイまたお得意の話ねって感じで大して気にはならなかった。


 だが俺が叩きのめされたのは、その話題に「アイツ」が食いついたことだ。俺よりも不細工で(当社比)、俺よりも根暗で(当社比)、俺よりも女友達の少ないはず(当社比)の、「アイツ」が。「アイツ」は実は一回だけ経験したことがあるのだと言った。大学受験に合格した後、そのお祝いというか、まぁ記念というか、家庭教師の先生に頼み込んでみたら意外とOKだったんだ、と。


 それから上京して彼女とは一度も会わず、連絡も取らず、それきりらしいが、「アイツ」が顔を上気させながらした、ずっと気になっていた彼女の匂いはシャンプーの匂いじゃなくて実は汗の匂いだったなんていう話は妙に生々しくて、俺はその日帰宅してすぐに同じシチュエーションのAVをネットで漁りまくった。


 そういうわけで、俺も負けてはいられない。なんせあの卓を囲んでいた中で経験がなかったのは俺だけだったのだ。「アイツ」に同情するような目で肩を叩かれ、「大事にしろよ」なんて言われるとは屈辱! この上もない屈辱なのである!





 ネットで調べた風俗店の看板が見えてきた。ポケットから一万円札を取り出しぎゅっと握る。息を大きく吸い、その店が入っている雑居ビルの狭い階段を上ろうとした時——


「そこのきみ、万札握ってどこへゆく?」


 振り返るとそこには頭頂部がうっすらとしていて、だぼっとした毛玉だらけのジャンパーを着た中年の男が立っていた。


「そう、きみだよ、きみ」


「あんた誰?」


 見覚えはないし、今から行く店の従業員という感じもしない。


「おじさんはね、万札大好きおじさんだよ」


「——はい?」


 どうやら変質者に話しかけられてしまったようだ。


「おじさんはね、一万円札がだーい好きなんだ。ねぇ、きみ、せっかく一万円札を持っているんだろう? その一万円札を使っておじさんと楽しいことしないかい?」


 な、なんだ、一瞬ビビったけど結局はキャッチか。


「悪いけど、もう行くとこ決まってるんで大丈夫です。おじさんも風俗斡旋でしょ?」


 すると、「万札大好きおじさん」はキョトンと首を横に傾げた。


「何言っているんだい。おじさんはそんなことしないよ。万札があったらもっと楽しいことに使えるだろう」


「は? そっちこそ何言ってるかよく分かんないんだけど……」


 こんなやつ、さっさと振り切って店の中に入りたかった。だがおじさんは俺から目を離す隙すらなく、間髪入れずにこう言った。


「だってきみ、想像してごらんよ! 一万円あったらね、立ち食いそばが40杯は食べられるんだよ! 一ヶ月毎日一杯食べても余るんだ! すごくないかい?」


「いや、俺そばアレルギーだから店入るだけでじんましん出るし……」


「ちなみにワンカップ大関も40カップいけるぞ! 40カップ大関だ!」


「酒も別に好きじゃないし……」


「じゃあタバコは? わかばなら40箱だ! これで一日一箱吸い潰しても一ヶ月以上もつぞ!」


「いや、タバコも別に吸わない。ってか今時の若者にわかばはないでしょ」


 おじさんはぐぬぬと黙り込んだ。これで勘弁してくれるか。そう思って俺が店の方へ向き直ろうとした時、おじさんが「ならっ!」と大声をあげたので思わずその足を止めてしまった。


「これをきみに伝授するには少々早すぎる気もしたが……レンタルビデオはどうだい? 旧作なら100本くらい借りられるぞ! これで、AVを借りたら……ハァハァ……昼下がりの団地妻とか……んふっ……年の差婚で欲求不満な若奥様とか……アッ……どんなに、欲求ウッ! 不満でも……さすがに大、満足……っ」


 俺は今、なぜにハゲたおっさんの恍惚な表情を目の前で眺めていなければならんのか。


 その時どん、と誰かと肩がぶつかった。いかにもチンピラといった風の金髪に革ジャンの男だった。おじさんのサービス精神のせいで俺の高まっていた体温はすでに相当冷え切ってはいたが、彼の鋭い舌打ちの音と不審者を見るかのような視線で一気に氷河期到来ばりに背筋が凍る思いがした。男は何かいうわけでもなく、くるりと背を向けて俺が上るはずだった店の階段を上っていく。へ、へぇー、ああいう男もお世話になってるってわけね。


「うーん、そうだなぁ、きみがもし実写系じゃ高まらないっていうなら、電子版の漫画とかだったら一話100円くらいだし万札なら100話分」


「まだ続くのかよ!」


 思わず突っ込んでしまった。しかしおじさんは目をキラキラと輝かせて、いつの間にか俺が万札を持っていた右手を、むくんだ両手で包み込んできた。


「だってきみせっかく万札を持っているじゃないか。ここで夢を語るのをやめるなんてゲンキンだよ。ね? 夜が朝に変わるまで……おじさんと万札使って楽しいことしよう?」


 今の俺の心境を例えるならそうだな、背中の背骨が浮いているあたりを、毛むくじゃらの虫が高速で上下に這いずり回っているような感覚。


「うぎゃあああああああああああ!」


 それが自分の悲鳴だと気付いた時にはその場を走り出していた。ああもう散々だ! 女の子といちゃいちゃできるつもりで身体中くまなく洗って、慣れない香水までつけたってのに、くそが、くそが! もう風俗なんてどうでもよくなっていた。とにかく一刻も早く家に帰って、万札大好きおじさんに握られた右手を石鹸で洗いたかった。





——翌日。


 なんとなくネットニュースを眺めていた俺は、とある見出しでふと目が止まった。「S区風俗店で流血沙汰——No.1嬢の元彼の犯行か」。画像にはまさに昨日俺が行こうとしていた風俗店が写っていた。KEEPOUTのテープが入り口に貼られ、うっすら見える店内はガラスの破片が飛び散ったり、カーテンが引き千切れたりしていた。まさか……まさか、ね。


 運が良かったのか、悪かったのか。それは定義によるだろう。このニュースを見るまでは、俺は間違いなく哀れで惨めなアンラッキー男だったのだ。


 ふと思い出して財布を開く。その中には昨日強く握りすぎてぐしゃぐしゃによれた一万円札が入っていた。


(一万円で、できることか……)


 俺はその結局使わなかった万札幸運のお守りを財布から取り出すと、空の茶封筒の中に入れて、そっとデスクの引き出しの奥へとしまった。



〜END〜



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そこのきみ、万札握ってどこへゆく 乙島紅 @himawa_ri_e

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