【第二章 招かれざる客の影③】


 ハルと羽純が図書館の地下に降りていった頃、実はアーシャも近くにいた。

 おとなりの文化部クラブハウス三階、文芸部の部室に。

 このとき彼女は、学校指定の制服もジャージも着ていなかった。

 身につけていたのは――エプロンドレスである。

 いわゆる黒と白のメイド服。

 ただし、スタンダードなデザインではない。

 スカートは限界ぎりぎりまで短く、ガーターベルトでストッキングを吊っている。


 部室のドアがコンコンとノックされる。

 「どうぞ」と答えたら、世にふたりといない怪人物・M部長が入ってきた。


「ちゃんと着替えはすんでるわね。上出来だわ」

「でも、どうしてこんな服を着なくちゃいけないんですか?」

「今日の特別講義にぴったりのコスチュームだからよ。覚悟はいい?」

「もちろんです、部長」


 カーテンを引いた薄暗い部室で、アーシャはM部長と向き合う。

 部長は今日も制服姿ではない。

 例のマタニティドレス風の黒い女物である。

 人格と体格の双方が生み出す貫禄のおかげで、どこかのスナックのママに見える。


「本日の講義、テーマはずばり『カフェ』!」

「その心は!?」

「恋人たちの待ち合わせ場所。ふたりは甘く愛をささやき合う。『待った?』『ううん、今来たところ』。仲が深かろうと浅かろうと、かなりの頻度で利用する場所。それがカフェ。ここを攻略せずして、恋愛偏差値七〇以上の女子はめざせないわ! 講義開始よ!」

「サー・イエッサー!」


 M部長の号令に、思わず敬礼で応えるアーシャだった。

 昔、ロシア陸軍での研修で、『狼』と呼ばれし三白眼の教官からコマンドサンボの特別訓練を施されたときの記憶が甦ったのである。

 しかし、M部長はむーんとため息を吐き出して、言った。


「ちょっと待ちなさい、アンタ」

「何か問題でも?」

「問題だらけよ。何、その敬礼?」

「いけませんか? ロシア式に『ダー』と言いそうになったのを、ここは日本なので空気を読み、英語にチェンジした機転、みごとだったと思うのですが」

「ロシア語でも英語でも関係ないわ。そんなだからね、アンタは陰で『戦場帰りのフルメタ傭兵女』とか『山賊系ハンティング女子』なんて、うわさされんのよ」

「な――!? 私、軍にいた時期は全て合計しても六か月程度です!」


 勢いこんで反論するアーシャだった。


「それ以降はときどき属託で協力している程度ですから、謂われのない誹謗中傷ですっ。山賊みたいなゲリラ活動とも無縁ですし」

「って、マジで軍隊経験ありなのね……」

「経験といえるほどでは。たしなむ程度というやつです」


 感じ入っている様子の部長に、アーシャは訴えた。


「自分で言うのもなんですけど、私、ちょっと特殊な経歴の割に上手くそれを隠して、日本の学校生活にもしっかりなじんでいると思うのですが」

「隠せてない隠せてない。順応はたしかにしてるけど、全然隠せてないわ」

「ええっ!?」

「ま、今のことは棚上げして、本題に入るとしましょう」


 M部長は気を取りなおすようにせき払いした。

 それから言う。


「今日のテーマはカフェ。今度こそ講義開始よ!」

「いつでもどうぞ!」

「じゃ、質問。あなたはカフェで頼んだサンドイッチやケーキが出てきて、『いやっ、こんなに食べきれない~』とか言う女、どう思いますか!?」

「うざいですね。注文したものくらい残さず食べろって感じです」


 アーシャは間髪入れずに答えた。


「食べきれる分だけ捕食する。それがハンティングの鉄則です。すぐに食べきれない食糧は保存食に加工するくらいの機転が欲しいですね」

「はい、女子ポイント、マイナス二〇!」

「――!?」

「食べ物を無駄にするなって意見には個人的に同感だけど。アンタは今ね、絶好のスキンシップチャンスを逃したのよ!」

「スキンシップ……?」

「つまり、こういうこと。『いやっ、こんなにたくさん食べきれな~い。ちょっと手伝ってェ。はい、あ~ん。どう、美味しい?』。これよ、これ!」


 M部長のパントマイム付き一人芝居を見て、アーシャは愕然とした。


「な、なんて高度なテクニック……。それを実行すれば『顔と体を寄せ合うようにして、ひとつの皿を仲睦まじく分け合うカップル』が自然に再現できるじゃないですか……」

「ええ。呑み込みが早くて結構だわ」

「で、でも、そのカードを使うには、目の前の食糧を生け贄に捧げなければならない……。わ、私は甘いものもたっぷりいけるクチで、ケーキも大好物なんですよ? たまに一ホールまるごといただきますし」

「そこはアンタ、戦略目標を実現するためにガマンもありなんじゃない?」

「ううううっ」


 せっかく注文したシフォンケーキを誰かに半分譲り渡す。

 その情景をイメージして、アーシャは打ちひしがれ、部室の床にくずおれた。

 それをM部長が厳しい師のまなざしで見おろしつつ言う。


「またひとつ壁にぶつかったようね。その壁をどう乗り越えるか、教えることはかんたんだけど……。それじゃアンタの成長にはつながらない」

「部長!」

「どこまでも悩み、考え抜きなさい。その末に見つけた答えがアンタの女子力を上下どちらかの方向に導くはずよ」

「下がったらダメじゃないですか!」

「まあね。そのときはアンタ、『女子力低め女子』から正真正銘の干物女にジョブチェンジしちゃうから、気をつけなさい」

「ううっ。リスクを冒さずして、成長するチャンスは得られないのですね……」

「そうそう、そのノリよ。ところでアンタ……色気ないわね」


 ぺたりとすわりこむアーシャを見おろしつつ、部長は言った。

 短いスカートは乱れ、奥が見えそうになっている。

 ぴっちりしたストッキングにつつまれた両足は床に投げ出したまま。

 少々はしたない格好だった。


 そして涙目である。

 メイド衣装である。

 そんなアーシャを見つめるM部長の目には、憐憫の情があった。


「ふつう、アンタくらいの見た目とスタイルでそんな表情と格好してたら、中学生以上の男は必ずグッときそうなものだけど。今のアンタ、全然エロくない。色気ゼロよ」

「エロゼロ!?」


 アーシャはふたたび衝撃に打ちのめされた。


「わ、私はこれでも度量の広い女です。まわりにいる男子が妙なことを考えても、私の可憐さにかかる税金くらいに考えて、気づかないふりをしてあげますよ!?」

「見られてる意識が足りないのかしらねェ、たぶん」


 M部長は腕組みしつつ考えこんだ。


「メイドのコスプレさせてもアンタ全然ふつうだし。『こんなカッコした私を見て☆』も『恥ずかしいから見ないで!』とかもないのよね」

「それはまあ、常住坐臥いつでも自然体が私のモットーですので」

「原因はそこか。じゃあ、ちょっと想像してみなさい。今アンタを見てるのはアタシじゃないわ。あのひねた目つきの春賀なのよ!」

「は、晴臣が?」

「アイツにね。いつもとちがう自分を見せるつもりになるの」

「具体的にはどんな?」

「ちょっと失敗しちゃって恥ずかしい……お願いだから見ないで。あ、だめ。顔が赤くなっちゃう、的な。あと、そうね。さりげなくスカートの奥が見えそうで見えないラインを維持しなさい。やりすぎない程度の『媚び』が表情に出ると尚いいわ」

「よ、要求が厳しすぎませんか!?」

「いいからやるの! このままだと、あの唐変木をほかの女に取られるわよ!?」


 強く叱咤されて、アーシャは必死に感情を盛りあげようとした。

 晴臣に見られているつもりで、羞恥心を高めるのだ。

 言われてみれば、たしかにこの格好、スカートの丈が短すぎる――。

 そういうことを注意したことはあまりないのだが、中身が見えないか心配になってきた。

 なんだか顔も熱くなってきたような……。

 急に体勢のきわどさが気になって、アーシャはきゅっと身をすくめた。


「いいわ、その調子よ。雰囲気と仕草に女子っぽさが出てきたわ!」

「本当ですか!?」

「そうね。ちょうどすわってることだし、ためしに女豹のポーズでもやってみなさい。ない胸でも強引に強調して、セクシー度を上げるのよ!」

「な、ないわけじゃありません! こうして、寄せて上げれば谷間くらい……!」

「そこでチャレンジだけでもしてみるアンタの根性、嫌いじゃないわよ……」


 ここは文芸部の部室なのだが――。

 文芸とはまったく関係ない活動に明けくれるアーシャたちだった。

 なにしろ部長自らがこんなことを言い出す始末である。


「次は人の視線を意識しながら動きまわる練習をしましょうか。見ててあげるから、アンタお茶でもいれてみなさい」

「でも、備品の紅茶もコーヒーも切れてますよ」

「仕方ないわねー。買ってくるから、アンタはしばらく個人練習ね」

「ひ、ひとりだけでどうすればいいんですかっ」

「大丈夫よ、台本用意してあげるから。そのうち本物のメイド喫茶でバイトでもして、男どもに見られる訓練をするのもいいかもね……」

「ううっ」





 図書館地下のチェックを終えて、ハルと羽純は一階にもどってきた。


「あ、あの。今度よかったら、お話を聞いてもらえませんか? 実は……春賀さんにご相談したいことがちょっとあるんです」

「僕なんかに? あまり力になれないと思うけど、それでよければ」


 などと話しながら、図書館の外へ出たら。

 おとなりの文化部クラブハウスに知り合いが入っていく。

 推定体重一四〇キロの怪人物、M部長である。

 コンビニ袋を手にさげていた。


「あら。あんた今日来てたの?」

「野暮用があったもので。でも、もう帰ります。連れもいますし」


 羽純に目をやりつつ、ハルは言った。

 連れの少女はぺこりと行儀よくお辞儀した。

 動じた気配はまったくない。

 あからさまにあやしいM部長にも、いつものように透明度の高い微笑を向けている。

 奇人変人に対する許容度が大きいのかもしれない――。

 思わず感心するハルだった。

 一方、M部長はこんなことを言う。


「帰るのは三〇分のばして、文芸部までつきあいなさい。アンタの相方もいるわよ」


 ハルは「アーシャが?」とつぶやいて、連れの羽純を見た。


「もし差しつかえなければ……行ってみてもいいですか? おとなりがどうなっているか知りたいですし、高等部のクラブ活動にも興味があります……」


 おずおずと言われて、ハルはうなずいた。

 いずれ『館』になる場所の近くを知っておいて、たしかに悪いことはない。

 そのままM部長、ハル、羽純の順で階段を登っていく。

 部長は超巨体の割に足取りも軽快で、あとに続く羽純はこんなことを言う。


「実は前々から、文化系のクラブを何かやってみたいなって思っていたんです。運動が苦手なもので。自由になる時間がすくないから、いつも思うだけなんですけど……」

「そういうときはね、アタシの部に来ればいいの」

「でも、あまり活動に参加できないのは申し訳ないですし」

「いいのよ。幽霊部員も、月に一度しか来ない非常勤部員も、この春賀みたいなのだって、まとめて可愛がってるんだから!」


 おとなしい羽純とパワフルなM部長。

 しかし、妙に会話のテンポはいい。

 意外な組み合わせの誕生をハルが見守っていると、文芸部の前に到着した。

 がちゃりと部長がドアを開ける。

 その瞬間だった。


「お、お帰りなさいませ、ご主人さま・お嬢さま。えーと、本日はようこそいらっしゃいました。ただいまお茶をいれますので、少々お待ちを――」


 ハルは見た。

 メイドコスプレをしている幼なじみを。

 さらにいうと紅茶をいれる動作までしている。

 ただし、手には茶器の類が一切ない。

 コントの練習、それともメイド喫茶ごっこのどちらだろうか。


 そして一拍置いて、アーシャはハルたちの視線に気づき、きょとんとした。


「……へ? 晴臣たちがどうしてここに? しかも羽純さんまで!?」

「たまたま会ったから連れてきたのよ。アンタのお茶汲みを見せようと思って」

「きゃああああああっ!」


 部長の説明に絶叫するアーシャであった。

 ともあれ、ハルたちは文芸部に招き入れられ、長テーブルをかこんで席に着く。


「アーシャ。そのコスプレと、今のひとり芝居の意味、訊いてもいいかな?」

「お、多くを語る気はありませんっ。突っこんだ質問は却下です。これはそう……言うなればアレです。練習着!」

「……何の練習をしてるのさ?」

「その質問はNGですからっ。それよりも私の艶姿をとくと観賞してください!」

「あ、でも、すごくお似合いですよ。ふふっ。そういう格好の似合うアーシャさんがすごくうらやましいです。素敵です」

「羽純さん、なんていい子!」

「ところで春賀。あんた、新しい女の子を連れて、モテ期でも到来してるの?」


 アーシャがいれた紅茶をみんなで味わっていたら、不意に部長が言い出した。

 白坂羽純と春賀晴臣をぶしつけに眺めながら。


「白坂は単に付き添いってだけで、僕の恋愛運と何の関係もありませんよ」

「そうかしら? 今はそうでも、将来はちがうかもしれないわよ」


 と、M部長はつぶやいて、おもむろにうなずく。


「いい機会だから、アンタの恋愛運を《恋愛事情察知フィーリングラブ》のスキルで見とおしてあげるわ」

「す、スキル?」

「動いちゃダメよ。はあ!」


 部長のつぶらな瞳に凝視されて、ハルは落ち着かない気分になった。

 そのまま十数秒。

 そして、おもむろに部長は首をかしげた。


「おかしいわね。恋愛事情が全然見えてこないわ」

「そりゃ見えないでしょう」

「いえね。アンタはとてつもなく大きくて厄介な運命に呑みこまれつつあって、恋愛運なんてチャチなものがどこかに吹き飛んでいる……。そんなふうに見えるのよね」


 ハルは絶句した。

 驚いたのである。


 アーシャと羽純も唖然として、M部長を見つめている。

 今の言葉、まるで《弓の秘文字ひもじ》の件を知っているかのような物言いだ。

 ハルがはじめて、この人物の底知れなさに感嘆した瞬間だった。

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盟約のリヴァイアサン/丈月城 MF文庫J編集部 @mfbunkoj

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