十人の国

枕木きのこ

第1話 

男1


「二十年位前。客船が遭難して子どもたちが十人、無人島に流れ着いた事件があったのを覚えてますか? 世間ではその概要から多数島事件なんて言われたりもしているんですけど。――ああいえ、刑事さんはお若いから。その無知を笑おうなんてつもりはないんですよ。ただ、僕が事件を、殺人を犯した背景には、その事件が関係しているんだということを知っておいてもらいたいなと思って。時間はあるのでしょう? 僕が語って聞かせます。そうすれば動機も少しは、理解してもらえるかもしれません」


子どもたち1


 悟志がその船に乗ったのは、母が商店街の福引で搭乗券を引き当ててくれたからに尽きる。およそ十歳の少年には、二泊三日の船の旅は不釣り合いだったが、母ひとり子ひとり、まして偶然にも彼の誕生日を祝うには、これ以上ないほどの至福であった。

 周囲はいかにも金を持っていそうな家族連れに溢れており、つかの間の休暇を楽しんでいる雰囲気が、空気とともに、身体のうちに入り込んでくるのがよくわかる。そうやって他へ影響を与えるほどの幸せの中にあって、悟志の心持が浮ついてしまうのは、至極当然のことであった。

 船内のレストランで、ウエイターが十本の蝋燭の刺さったケーキを運んでくれる。照明は薄暗く落とされ、予兆のないこの寸劇に、居合わせた人々は拍手で応えてくれる。母が自分のためにこうしてくれること、ウエイターも、ほかの乗客も、見ず知らずの自分へ笑みを向けてくれることが気恥ずかしかったが、悟志はそれを帳消しにできてしまうほどの多幸感に溢れ、漏れ出た幸せが火を消した。

 夜は母と眠った。大きなベッドの中で母に包まれて眠れることを、彼は心の底から喜んだ。十歳にもなると羞恥心も育ち、家では絶対にこんなことはしなかったが、目頭を押さえ、眉間にしわを寄せながら、それでも悲しそうではなく涙を流す母の近くに居てあげたいと思える自分が、少しだけ、大人になったような気さえしていた。

 衝撃は唐突に訪れる。

 瞬間的に地震だろうかと疑ったが、寝ぼけ眼の中、ぐっと強く自分を守る母の腕で、ここは船、海の上なのだと遅れて思い出す。揺れはなかなか収まらず、ともすればより大きな揺れを引き起こしながら、しばらく、身動き一つできず、視線だけをきょろきょろと巡らせていた。見慣れないドレッサー。小ぶりな冷蔵庫。買ってもらったばかりの携帯ゲーム機。あれがあれば学校の友達とももっとたくさん遊べる。楽しいことを考えなくちゃ、きっと今は目覚めたタイミングが悪いだけ。

 悟志の脳内を駆けるポジティブな思考をいとも簡単に打ち砕くかのように、船内放送が鳴り響く。海が荒れ、非常に危険な状態であると。少しの間辛抱してくれと、言葉の裏の切迫感が子どもにも理解できる声音が、千百と居る乗客たちの頭上に鳴る。

 そこから先、悟志の記憶はほとんどなかった。唯一覚えていると言えるのは、形容しがたい息苦しさと、母の腕がそっと離れていく感触だけだった。


 目覚めたとき、彼はまず砂を見た。それから空を見て、海を見た。

 周囲に障害となりうるものはなく、見晴らしのいい風景が、しかし鮮烈に彼の脳に記憶される。

 一瞬、死んだのかもしれないと思ってしまうほどの脱力感に苛まれ、悟志はしばらく起き上がることさえできなかったが、旋回する鳥の鳴き声に交じって、自分と同じような、幼い声音が聞こえてくるのがわかって、ゆっくりと頭をもたげる。

 砂浜を駆けていた少年少女は、全部で五人いた。遊んでいるように思われたが、目を凝らすと、どうやらそうではないらしかった。手を広げ身を大きく見せながら、どこへともなく「おーい、おーい」と声を投げている。あたりに、それに応えてくれそうな影はない。

 ようやく半身を起こすと、彼らのうちの一人がこちらに気づいた。上背があり、精悍な顔つきをしている。近所のヨシアキ兄ちゃんに似ているから、高校生くらいだろうか、などとぼんやりした頭で考えていると、すっと手が伸びてきて、

「大丈夫?」

 声が降ってくる。悟志はそれを握って引き上げてもらいながら、

「うん」

 芯のない声で答えた。

「いくつ?」

「十歳」

「そっか。そしたらあっちの――」と言って彼が指さしたのは一人の少女である。「恭子ちゃんと同い年だね」

 それから彼は自分のことを「正治まさはる」と名乗ったので、悟志も応える。

 正治は自分の考えている現状を悟志に伝えた。それは彼自身が考えていたように、遭難であった。しかも状況は悪く、今のところ島に流れ着いたのは悟志を含めた六人で、大人は居なかった。

「もしかするとまだこの島に流れ着いた人がいるかもしれない。それでああやって叫んでるんだ。悟志くんは歩けそう? ちょっと感覚を戻しつつ、僕らはこのあたりを歩いてみようか」

「うん」

 手を引いて、緩慢な歩調で隣を歩く正治は、いかにも頼りになりそうだったが、悟志はそんなことよりも、母の安否が気にかかった。彼女の手が離れていく瞬間が頭の中で再生されると、居心地が悪く、きっとこれは悪い夢なんだ、と思い込んでしまいたくなる。それでもこれが現実であることは、十歳の彼にもよく理解できた。照り付けるまぶしいほどの太陽も、頬を撫ぜる潮風も、香りも、すべて鮮明で、連続性もしっかりあった。それが悲しくて、泣きそうになってしまいそうだったが、こんなところで泣くのは子どもだ、と自尊心を強く保つ。

 このあたりとは言っても、すでに合流しているほかの子どもたちとはぐれるのは得策ではない。正治と悟志は、彼らとの間に障害物がないこと、お互いが視認できることを何度も振り返って確かめながら、あてもなく歩みを進める。

「食べられそうなものがあればいいんだけれど」

 そうやってぼやく声が聞こえてようやく、悟志は直面している事実にリアリティを持たせた。食料も、寝床も、ここにはないのだ。幸い、日本は春先の穏やかな気候で、どうやらここもそれに則ったものであったから、暑さや寒さに苛まれることはなさそうだが、それでも当たり前に晩御飯を食べて眠りに就くことは、できそうにもない。

「あれ」

 声を出した正治のほうを向くと、その視線に気づいて彼は前方を指さした。悟志もそれでそちらを向くと、人影が二つ、横になっているのがわかる。ここで待つよう一言添えてから駆け出した正治に、追いつくことはできなかったが、それでも後を追いかけてみると、二つの人影はまたしても子どもたちであることがわかった。

 これで八人だ。

 戻ってみると恭子たちのほうでも二人、新しく仲間を見つけていたものらしく、結局、この島に集まったのは十人となる。


「まず僕が、番場正治。——って、苗字は別に要らないか。年は十七。たぶんこの中では一番年上になるのかな。よろしく」

 夜になり、火を起こすことができなかった彼らは僅かな寒気と多大な不安感を紛らわせるため、身を寄せ合っていた。それぞれ眠ることもできず、改めて自己紹介をしようという段になったのだ。

 悟志は決して物覚えがいいほうではなかった。それで何度も母や先生に怒られているが、改善するにはどうすればいいのかを教えてくれる人はおらず、結局また怒られるという悪循環の中にあった。

 ただ、たった九人分の名前を覚えるくらいなら、そう難しくはない。

 最年長が正治。この状況にあっても冷静さを欠如することなく、ほかの九人をしっかりと取りまとめてくれている。

 次点は十五歳の達也。彼は年端もいかない少年たちに敵意をむき出しにしており、しかし一方でそれは虚勢であるとわかるくらいに、身体を震わせている。

 それから十二歳の幸子と優子。彼女たちの顔はよく似ていた。二人一緒にここに流れ着いたのはまさに運命と言えるだろう。

 同い年だという恭子はおとなしく、名前だけの紹介で終わった。肩のあたりで切りそろえられた黒髪が、今は潮に充てられてぼさぼさになっている。

 八歳の亮、敦、浩二の三人は正治たちと大声を出していた子どもたちだ。

 そして最年少が六歳の三春。彼女は泣きっぱなしで、ずっと正治に頭を撫でられている。すっかり懐いたと言っても過言ではない。

 あらかた自己紹介が済むと、正治が先導してこれからのことを話し始めた。今のところこの島にほかの人間はいないこと。食料がないこと。だから明日は半分ずつに分かれて島内を散策するグループと魚釣りに勤しむグループで別行動をしようということ。しばらくはきっと、自分たちだけで過ごすしかないこと。

「それで、最低限僕たちの中でルールを決めておきたいと思う」

 誰も返答をしないので、悟志は恐る恐る、

「ルール?」

 尋ねてみた。正治は彼のほうを向き、

「そう、ルール。と言っても難しいことじゃない。これから僕たちはきっといろいろな事態に遭遇すると思う。そうなったとき、イエスかノーか、やるのかやらないのか、多数決で決めようと思うんだ」

「多数決? でも偶数ですよ」

 幸子のほうが問うと、

「うん。だから提案者は除く。例えば僕が、今日は僕だけが寝るからみんなで見張りをしていて、という提案をしたとき、僕を除いた九人で賛同か拒否かを決めてもらう。そうすれば奇数になるから、多数決が成立するでしょ? もちろん提案者は賛同に一票なんだけど、そうすると多数派になりやすいしね。僕たちは年齢も生い立ちも全然違う。でもこの島においては、平等なんだと理解しておいてほしいんだ」

 そうして語られたとき、悟志は思わず、

「賛成」

 と言って手を上げていた。すると各々、すいと手を上げ始め、

「それじゃあ、可決ということで」

 正治は満足そうに、悟志のわからない言葉で場を締めるのであった。


男2


「正治という少年を中心に始まった島での生活は、最初は滞りなく進んだそうです。とはいっても場所が場所だ。毎日のように食事にありつけたり、運よく寝床が見つかったりなんてことはなかった。彼はよくできた人間でしたからね。捕れた魚や山菜はなるべく小さな子に分け与えた。自分が我慢をすることもしばしばあった。夜はほとんど眠らずにほかの子どもたちの様子を見ていた。慈愛に満ちた目で。自分がしっかりしなければならないと、そう強く思っていた。元来、彼は正義感に満ちた男だったのです。あなたと同じ職の父親。医者の母親。三兄弟の長男として弟たちの面倒もよく見た。ただ、そういうことを当たり前として生きてきた彼も、ようやく気づくのです。いや、彼だからこそ、気づいてしまう。もう、助けは来ないのではないか。自分たちを探している人間は誰もいないのではないか。そうやって徐々に、歯車が狂い始めたのです」


子どもたち2


 島での生活も二週間が過ぎようとしていた。子どもたちは順応性に長け、魚釣りや山菜採りもえらく慣れたものだった。この無人島の中にあってもある程度の秩序を保っていられたのは、最初に正治が取り決めた多数決のおかげだろうと悟志にも理解できた。彼が下地を作ってくれたおかげで、自分たちは崩壊せずに済んでいる。時折どちらを選ぶべきか悩む提案もあるにはあったが、たいていそういう時は割合よく分裂し、自分だけが少数派ではなかったのだと、却って安心できたりもした。

 ほかの子どもたちとも次第に打ち解けていく感覚がある。特に同い年の恭子とは話題も近く、最初こそおとなしかったものの、よく話をするようにすらなった。幸子たち姉妹は正治に代わって三春の面倒をよく見たし、達也は亮たちに釣りのコツを教えてあげたりしていた。

 母のことは依然心配だった。自分たちが漂流するほどの事故である。無事である保証は何もない。しかし一方で、このまま、この十人だけの国で人生を終えてしまうのも、ありなのかもしれないと思い始めている自分も自覚していた。それはいかにも、これまでが円滑に進んでいるという砂上の前提で成り立っていたが、十歳の悟志にはそれを自覚するだけの思考力は存在しなかった。

 だがその日、魚が捕れなかったことに急激な不安を覚えたのである。

 当然この二週間にそういう日がないわけではなかった。ただその場合は山菜が少しはあった。まったく何も食べられない日は、ここにやってきた最初の日だけだったのだ。

「残念だけど我慢して寝よう」

 正治が小さくこぼす言葉は力なく、彼のような人間にしてそのような声音に貶めてしまうこの事態の深刻さを、悟志は恐ろしく思った。

 次の日も、その次の日もダメだった。

「昔、天気が荒れる前は魚がよく釣れるって聞いたことがある」空腹で虚ろな目の正治は、ほとんど誰に言うでもなく言葉を漏らす。「このままこのあたりを拠点にしていていいのだろうか」

 彼らは漂流初日からずっと、砂浜近くの大木の下で寝食を行っていた。魚を捕るにも、山菜を採るにもそれほどの距離を必要とせず、幼い労働力には好都合な場所だったからだ。しかし嵐が近づいているとなると、海の近くは危険だ。この島がどのくらいの大きさにせよ、ここに留まることは得策とは言えない。

「どうする」達也はその正治に声を投げる。「悟志たちまではともかくとして、最低限三春は負ぶって行かないとならない。これから先食料が取れるとも限らない。まだ体力のある今のうちに――」

「待ってくれ」半ば叫ぶような声を聴き、一番驚いているように見えたのは当の正治であった。「待ってくれよ。聞きかじっただけの情報で、保証はない。明日には捕れるかもしれない。明日には好転するかもしれない。必ずしも移動したからと言って難を逃れられるわけじゃない」

「でも、それだってわからないだろ。未開のところへ足を延ばせばまた木の実くらいは採れるだろうし」

「そんなことを言えば、むしろ奥深くには獣が潜んでいるかもしれないだろ。僕やお前はともかくだ。幸子たちでさえ襲われたらわからないだろ。そんなところに連れていけるか」

 達也は正治の言っていることももっともだとわかってはいた。事ここにおいて、絶対と言えることは何もない。ただ、彼は可能性に賭けてみたかった。達也だって、助けが来ることをもうほとんど期待していない。自分たちはこれに悲観することなく、ここで生きていくしかないのだと、前を向くしかないのだ。

「多数決だ。多数決で決めよう」

 だから正治の目を、その虚ろな目をじっと見つめたまま、静かに言った。

 思えばこれまで、自分から何かを提案することはなかった。協調性がなかったというよりは、不安だったのだ。このルールに十全に従ってしまえば、きっとこのルールから離れられなくなる。それはつまり、この島からの離脱を諦めることと同義なのではないか――。葛藤と、しかし生きていかなければならない本能とのせめぎあいの中、彼は、初めて問いかけるのである。

「ここに残るか、移動するか。移動したほうがいいと思うものは手を上げてくれ」

 まず手を上げたのは、心配された幸子と優子であった。彼女らは姉妹らしくほとんど同時に手を伸ばし、示し合わせた様子もなく、代表して幸子が、

「獣に襲われたって、崖に落ちたって、自分の身は自分で守れます。でも、私たちはもう、波が怖い。迫ってくる波が、怖いんです。どうしても海が荒れると、あの日、あの時、失った命が、記憶の中に――」

「私たちには」言い淀んだ幸子の弁を、優子が引き継いだ。「本当はもう一人いるんです。私たちは三つ子だった。真子、という名前の、姉妹がいたんです。でも彼女はここには辿り着かなかった。無事なのか、あるいは――。私たちは彼女のためにも生きなければならない。だから、行きます」

 次に敦が手を上げ、

「オレ、釣りもあんまうまくないし、役に立たないかもしれない。でも、達也についていく。オレ、兄弟いなくていつもさみしかった。今は母さんたちと会えないけど……、でも達也がいるなら、オレ、ついていく」

 それにつられるようにして、亮も浩二も手を上げた。

 これですでに賛同したものが五人。達也本人を合わせれば六人が移動すべきと考えていることになる。

 悟志は目だけを動かして残りの三人の様子をうかがった。恭子はじっと下を向いたまま身動き一つせず、正治は怒ったようにそっぽを向き、三春だけが困惑を顕わに達也と正治を見比べている。

 自分はどうしたらいいのだろう。もちろん、幸子たちの言うように大波が怖い、という感覚はある。あの、母の手が離れていく瞬間の記憶は、今もまざまざと思い出せる。でも、海が荒れるというのも、不確定な情報に違いなかった。はっきりとそうであるとは言えない。正治が挙げる危険性がこの先に潜んでいることは確かで、それがなかったとしても、今までに築いてきたものを棄てるという覚悟が、まだ悟志の中にはなかった。寝床も、食事も、ここに留まっていたほうが確実なのではないだろうか。その疑念が、どうしても払拭できなかった。

「ほかのやつらはどうする」

 達也はほとんど、恭子と悟志に対してそう言った。正治はきっと手を上げない。三春だって、正治にべったりだから彼の意志を尊重するだろう。もはや多数派は確定していたが、これはすでにただの多数決ではない。

 自分につくのか、正治につくのか。

 もちろん、右も左もなく上も下も判別のつかないような状況の中、正治は自分たちをよく先導してくれた。簡潔に言って頼りになったし、彼に従えばある程度の充足と安全は保障されているとも思えた。ただ、もう状況が違う。救いを待つばかりの日々ではない。ここで、この場所で暮らしていく覚悟を、決めなければならないのだ。

「わたしは、移動する」

 驚くことに、手を上げたのは三春だった。小さく肉厚な、幼児の手がすっと眼前に突き付けられ、正治は目を見開き、彼女のほうを見た。

「まさはると一緒に居たい。だから、移動する」

 拙い言葉で、正治への信頼と愛情を伝える。

 悟志はそれを見て、ほとんど衝動的に手を上げていた。

「僕も移動します。できれば、恭子ちゃんと一緒がいい」

 言って、恭子のほうを見ると、彼女は呪縛が解けたようにハッと顔を上げ、悟志を見た。これは三春のものよりもっと欲望に満ちた、本質からは少し離れた愛情なのだろうと、恭子にはわかった。

 でも、彼女はそんな内面よりも、必要とされているという事実それ自体がうれしかった。早くに離婚した母が、再婚相手に見初めた男との旅行に、仕方なく連れ添った自分。ずっと、母にとって邪魔でしかなかった自分が、運よく生き残った。そして、ここにおいて、悟志は自分を必要としてくれている。本当は、自然の流れで死んでしまうのなら、それでもいいと思った。海が荒れ、波に揉まれて息絶えるならば、それは本来、自分が二週間前に経験すべきことだっただけで、何か道筋に齟齬が生じただけで結末は同じ、そういう境遇なんだろうと。でも、違う。悟志が自分を引っ張ってくれようとしてくれている。

 それならば――、

「私も行きます」

「これで九人だ」達也は半ば懇願するように正治を見た。「行こう、正治。お願いだ、その手を上げてくれ」

 しかし正治は、目を瞑って口元に笑みを作ると、

「それじゃあ、行こうか」

 言葉にはしたが、決して、手を上げることはなかった。


 翌日は酷い天気だった。正治の弁は当たり、達也の判断が正しかった。

 彼らは三キロほど歩いた先に見つけた洞穴で、難を逃れることができていた。幸い、波はここまでを飲み込む力もなく、移動中から降り始めた雨で濡れた身体が風に冷えるが、入ってしまえば直接当たることはない。

 悟志は前日の不和を目の当たりにしたショックと、自分が一番余力を残しているという判断から、一人で洞穴の中を散策していた。あまり遠くへは行かないように、と言われてはいたが、男の中で三番目に年上なのが自分であること、そして十歳は大人だ、という漠然とした思いから、奥へ奥へと足を延ばしていく。

 そこで悟志は、水の音を聴く。さざ波の音である。まさか海まで抜けてしまうのか、と不安を覚えたが、正確にはそうではなかった。音に近づいてみると水が張ってあり、どうやら海から延びているものの、だいぶ距離はあるようだった。避難してきたものだろうか、魚が泳いでいるのが視界に映り、この功労を一刻も早く誰かに伝えたくなった。ここが、こここそが住処にふさわしかったのだと、叫びたくさえなった。

 そうして駆け出そうとしたとき、悟志は見慣れたものが落ちているのに気が付いた。手に取ってみると、まだ使えるもののようだ。

 戻って、魚がいたことと、その手の中の道具を見せると、達也はぐしゃぐしゃと悟志の頭を撫でてほめた。

「でかした! ライターだよ、正治、ライターだ!」

 石を擦ると久しく目にしていなかった鮮烈な赤が、ぼうと洞穴の中に広がる。頭上に隠れていたらしい蝙蝠の羽音が反響し、耳に届くころには姿は見えなかった。

「ライターか。よくやった悟志」正治もまた悟志の頭に手を置き、「待てよ。まだ使えるようなライターが落ちてるってことは――」

「人の出入りがあるってことですか?」

 後を優子が引き継ぐ。

「定期的かはともかく、人が来れる距離にはあるってことだね」

 わっと歓声が上がる。外の豪雨に掻き消されない、それは見事な歓喜であった。

「助かるかもしれないってこと?」

「やった、やった!」

 亮たちが喜ぶ中、功労者の悟志は恭子のほうを見た。ほめてほしかったのとは違う。手を取り合って喜びたかった。

 ただ、彼女は何か、別のことを考えているように、彼には思えた。


男3


「人は火を得て進化した、とはよく言ったもので、ライターの発見から彼らの生活は一変した。取ったものをただ食べるだけではなく、調理することができるようになった。寒ければ木を燃やすこともできる。それで、それだけで、一変してしまったんですよ。僕が殺人を犯したこともまた、同様。春日井恭子にもまた、それがわかっていたのかもしれない」


女1


 野木友恵は、最初にその事実を知ったとき、自分の人生を呪った。しかし次には、自分の人生は最初から呪われていたのだと思いなおした。そんな呪われた自分にかかわったせいで、彼は死んでしまったのだと。

 誰だって、死ぬことは怖い。ただ、彼は死ぬにはまだ若すぎた。これから先、いろいろな人生を歩んでいけるはずだった。その芽を、自分が摘んでしまったのだと思った。

 友恵の両親は、両親と呼びたくないほどに、劣悪な人種であった。母は子どもをほったらかしにしてパチンコに出歩き、父は方々で女を作り家にはほとんど帰ってこなかった。料理の味も知らなければ、父は顔さえおぼろげだ。

 十六になったとき、しかし嫌でも自分は彼らの子どもなのだと思い知る。

 とにかくお金がほしかった。自立するために。あの家から出ていくために。しかし稼ぐ方法がわからなかった。働いている姿なんてろくに見たこともない。働いてくれているおかげで生活できているという自覚も乏しかった。だから手早く、身体を売った。若い身体はよく金になったし、リピーターも多く、多少無理を言われても許諾すれば二倍三倍とお金が積まれていく感覚が、楽しくさえあった。

 十八になって初めて恋人ができたとき、自分は今までひどくみじめな人生を送っていたのだと思い知る。自分は汚い。彼にはふさわしくない。そう思って何度も何度も腕に傷を作った。そうすれば、この汚い血とともに、身体の中の後ろ暗い過去が抜けていってくれると、本気で思っていた。すべて抜け切れば、新しい、綺麗な自分で、彼に抱いてもらえると。

 二十歳になって子どもができたとわかったとき、友恵はそれを彼に言うべきか迷っていた。まだ二人とも若い。自分はパートタイマーとして一応生活できるくらいには稼いでいたが、彼は実家暮らしの学生だ。当然、結婚なんてできそうにもない。下ろせと言われるくらいなら、言わないでいたほうがいいのかもしれない。

 しかし結局、彼女は言いたくなってしまう。喜んでもらいたかった。自分のように望まれずに生まれる子どもは減らしたかった。きっと、この綺麗な自分なのであれば、彼も喜んでくれると、過信していた。

 でもそうはならなかった。彼は出ていき、そして、彼は死んだ。

 野木友恵は自分の人生を、呪い続けている。


子どもたち3


 浩二の様子がおかしい、と恭子が進言したのは、火の発見から僅か四日後であった。浩二は顔を引きつらせぐっと口を縛り物を言わなかったが、それが異常であることは誰が見ても明らかであった。

 達也は、あの一件以来あまり口を利いていなかった正治へ報告すると、彼は三春と遊ぶのをやめ、渋々と言った体で浩二の下へ来た。

「破傷風かもしれない」いや――、と一つ断ってから、「これも当て推量でしかないけれど。母の仕事の関係でその手の本は少し読んでた時期があるんだ。記憶が正しければ、そうだと思う」

「それって」不安そうに声を出した敦は、苦々しく、「どうなるの?」

 腕のあたりを確認したのち、くるぶしのあたりに傷口を発見した正治は小さく首を揺り動かし、

「最悪、死ぬ」

「死ぬって……」

「こんなところじゃまともに治療もできやしない。たぶん、無理だろう」

 言下に笑みを作ると、浩二の頭をそっと撫で、彼はその場を去ろうとする。

「待て、待てよ」

 引き留めたのは達也だったが、その先は続かなかった。

 三春の下へ戻ろうと進めた足を止めると、正治は、

「苦しむくらいならいっそ――」

 表情を落とした顔で小さく言った。

「待てよ……」返す言葉も力なく、「そんなことって」

「破傷風は人から人へ移るものではないけれど、食料だってそう多くはない。浩二のための分を確保するのだって、いずれ自分の首を絞める形になる。決断は早いほうがいい。と言っても、多数決を取ったところで、という感じかな」

 舐めるように、彼らを見据えると、正治は無邪気な三春の下へ、ついに戻った。

 意識が混濁し始めている浩二に、今の話はどのくらい聞こえたのだろうか、と悟志は考えていた。死の宣告を受けることは怖い。それは誰だってそうだ。こんな状況でなくとも、人は死を恐れる。浩二は今の話を、どのくらい聞いていたのだろうか。

 悪いことは続くもので、その日、食料は人数分を賄うだけの量を得ることができなかった。浩二の如何を、現実が問うている気配が、洞穴の奥、火の届かない暗闇からぬるぬると近づいてくる感触があった。

 ごうごうと燃える火の周りで、誰も声を出さないまま、夜だけが確実に前へ進んでいく。


 翌朝起きると、正治と浩二の姿がなかった。起き上がってずるずると外へ出てみると、強烈なにおいが鼻を衝く。正治はじっと眼前の炎を見つめていた。

「どうしたの」

 目をこすり、悟志が問うと、

「火種は、燃やさないとね」

 返事こそあったが、正治が本当は何も見つめてなどいないことに気が付いた。

「どう、したの?」

 身体の隅から隅までを、何かが這いずっていくのがわかった。

 それが恐怖というものであることは、遅れて、理解に至るのだ。

「何やってんだ!」

 怒号とともに飛び出してきた達也は、勢いのままに正治を殴ると、そのまま自身も転げるように倒れた。そのあまりにも仰々しい事態に、悟志もそのにおいと炎が何に起因するのか、完全に理解してしまう。

「僕たちのためなんだ、これは僕たちが生きるための!」

 正治の叫びは、木々の中に吸い込まれるようにして、次第に、聞こえなくなっていった。

 ——彼の死体を流そう、と提案したのは、達也だった。三春だけが最後まで手を上げずに泣きじゃくり、海へ消えていく正治を追いかけようとバシャバシャと音を立ててずぶぬれになっていた。ほかの子どもは誰一人声を出さずに、じっと、救いを願った。安寧と、平穏を。無事と、救援を。ただひたすらに、心の奥底から願ったのである。


男4


「並木達也のこの時の判断は、決して間違っているとは言い切れないものだと僕は思います。生きていくには仕方なかった。仕方のないことは世の中にごまんとある。そうでしょう。刑事さんだって、息苦しさを感じるでしょう。生きていることは、生まれることより苦しいんです。生き続けることは、死ぬことより覚悟がいるんです。僕はあの島での生き残りとして、本当に、そう思うんですよ」


女2


 遺体が上がったという話を聞いたとき、友恵はまず、泣いてしまった。そして警察へと向かい、続報を待った。

 発見現場となった場所へは何度も足を運び手を合わせた。母親にも会い、互いに不幸を呪った。涙を流し、語りつくせぬ不幸の数々を。

 警察から、見つかった、という連絡があったのは、ついに半年も経ってからだった。

 ヘリの中から、身体を支えられて出てきた彼の姿を見たとき、自分の悲願は叶ったのだと彼女は思った。ついに見つかった。悪いことをした人間は、正義によって咎められるべきなのだと心の中で思った。

 そして彼に向けて、

「悟志!」

 名前を叫ぶと、

「お母さん」

 まるで別の人間を見ているような、そんな心を抱かせるに十分な声音を、彼は吐き出すのだ。彼は、死んでいなかった。

 息子の生存を信じられなかった私は、咎められるべき悪だ――。

 

男5


「番場正治の遺体が発見されたおかげで、行方不明扱いだったほかの九人の子どもたちにも生存している可能性が沸いた。すでに遭難から三か月も経っていたが、それでも希望は残されている。そう、誰もが思った。結局、見つかったのは野木悟志と、春日井恭子の二人だけだった。彼らと正治以外の七人の遺体も、島で見つかった。ひどいありさまだったと聞くよ。一部は、食べられてさえいたらしいと。それでもきっと彼らは多数決でそれを決めたんだ。彼らの国の、ルールに則って」

 男が訥々と語るのを聞いていた若い刑事は、拳をとん、と机の上に出すと、

「いい加減、その昔話をやめて動機を話しちゃくれないかな」

「せっかちですね。もう答えはすべて出ていますよ」

 書記係の手が止まるのを、背後に視線を投げて咎めてから、

「その口で言ってもらおうじゃないか」

「やっぱり、そういうのが大事なんですか? それとも、刑事さんにはわからなかったですかね。僕が何者で、なぜ罪を犯したのか。——疲れたんですよ、好奇の目にさらされるのは。あの島の話は、世間的にはこれで終わり。ネットで調べてもこれ以上のことは出てこない。でも、人の口に戸は立てられないとはよく言ったもので、近親者はすべてを知っている。そこから少しずつ、人の口を渡って知れていくんです。僕が、並木達也と春日井恭子の息子である、と。島で何があったのか、詳しいことは当人たちにしかわからない。ですが二人も死んだ時点で、輪が崩れていくのは目に見えている。最初はきっと、一番の弱者である君津三春だったでしょう。そして悲観した及川幸子と優子が自害し、増田敦と富永亮は食料となった。並木達也は気が狂い春日井恭子を犯し、激高した野木悟志が彼を殺した――。遺体の状況から見ても、きっとそんな感じだったのでしょうね」

 刑事は押し黙って男の話を聞いていた。否、彼の意志に問わず、何も言葉が出てこなかったのである。何も言うことができなかった。

「僕は呪われた子だったのでしょう。野木友恵の比じゃないくらいに。きっと誰にも理解されず、何とも言えぬものに負い目を感じながら生きていくことになる。唯一にして絶対の孤独なのです。そんな未来、嫌でしょう?」

「だから殺したのか」

「短絡的に、悲観して? 冗談はよしてください。僕は馬鹿ではない。誰かれ構わず殺したかったわけではないんです。ただ、生きたらいいのか、死んだほうがいいのか、わからなくなった」

「要点が見えないな。何が言いたい」

「僕の事件は、裁判員裁判になることでしょう。いえ、そうでなくては困る。――いいですか、提案者はこの僕だ。僕は、生きるべきか死ぬべきか。それを裁判官三人、裁判員六人、合わせて九人に、多数決で決めてもらう。多数島と呼ばれたあの国で生きた人の子である僕にとって、これ以上ないくらいおあつらえ向きの、素晴らしいルールじゃないですか」

 男が小さく笑うのが、取調室によく響く。

 十人の国が、また、生まれようとしている。

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