あなたの名前は

捨 十郎

出題編

第1話 空白の朝

 誰かに呼ばれた気がして、私は目を覚ました。

 目は開いたが、頭はぼんやりとしている。身体もだるく、まだ十分な睡眠がとれた気がしなかった。何とか眠気を呼び戻そうと、私は寝返りをうった。

 私の天邪鬼な性格を表しているのだろうか。私の頭は、眠気など必要ないと言わんばかりに、寝覚めた最初に感じたことをようやく考え始めていた。

 不意に目が覚めてしまった理由は何だったのだろう。直感で目が覚める直前まで見ていた夢のせいだろうと思った。しかし具体的に何の夢だったのかまで思い出すには考え始めるのが遅すぎたようで、答えが出るまで私の眠気は待ってはくれなかった。


 人は一体、どのタイミングで自分が記憶喪失だと自覚するのだろうか。この問いについて事前に考えておけば、直面した時のショックも少しは軽くなったのだろうか。しかし客観的に見てもあまりにレアな問題である。後にして見ても、考えたことのない私に、非があったとは思えない。

 とにかくどのタイミングだったのか、という問いの答えは、私の場合には自分の夫を目の前にして、彼の名前が思い出せなかった時だった。

 その日、私は病院のベッドで目を覚ました。どうも入院中だったようだが、なぜ入院しているのか、その理由は思い出せなかった。けれどもその時はまだ、まさか自分が記憶を失っているとは、思いもしなかった。

 思い出せなかったのは起きたばかりでまだ頭が回っていないせいだと思った。あるいはただ、ど忘れしていて思い出せないだけだと。

 普段過ごしていても、思い出せない事など山ほどある。

 毎週見ているテレビドラマの前回の内容。

 三日前の晩御飯のおかず。

 昨日の夢。

 人は日々、多くのことを忘れながら生きている。それでも生きる上で困ることがないのは、忘れた記憶がその人にとって必要のない物だからだ。とんだ思い違いをしていて恥ずかしい思いをした記憶、課題をこなすために徹夜をした記憶、ずっと前に押入れに入れたきりの洋服のデザイン、小学校の頃の、特別仲が良かったわけでもないクラスメイトの名前。

 必要なことでも忘れることがある、と思う人もいるかもしれない。でもそれも概して必要ではない記憶だと私は思う。致命的では決してない。記憶喪失にならない限り、人は本当に大事な事は決して忘れない。忘れてはならない。


 一人の男性が朝早くに私の病室を訪れた。

「おはよう、もみじ。体調はどう?」

 もみじは私の名前だ。それはすぐに分かったが、私はキョトンとしてしまった。私を呼び捨てにする目の前の男性に見覚えがなかったからだ。

「ええ、悪くはないわ。ただ少し、疲れているけど」

 やや時間を要したが、私は平静を取り戻して返答する。

 男性はそんな私の胸中をまったく悟っていないようだった。少しの間、私の表情を確認すると、何やら作業をし始める。

「そうか。ゆっくり話したい所だけど、これから会社なんだ。また帰る時に寄るから」

 男性は手に持っていた紙袋から衣類を取り出し、ベッドの隣にあった棚にしまう。代わりに使用済みの服を、空になった紙袋に回収した。

 どちらも私の服だった。

「えーと、あの……一つ聞いてもいいかしら?」

 彼の遠慮がない話し方や態度、そして私の身の回りの世話をしてくれている事から、彼が私にとってとても親しい人だということは分かった。なので今思っていることを質問するのは若干気が引けた。それなのにそれがそれほど深刻な問題だとは、その時の私は考えすらしなかった。

 彼は「なんだ?」と言いたげな顔でこちらを見ている。

 私は素っ気なく尋ねる。

「どちら様でしょうか?」

 男性が、さっきの私以上にキョトンとしているのは明らかだった。

「どちら様って、……僕のこと? どういう意味だい?」

 おそらく冗談か、あるいは別の意図がある質問だと思ったのだろう。

「えと、だから。あなたの名前は……」

みのりじゃないか。何を今さら聞いているんだい?」

「穣さん……」

 聞き覚えがなかった。まるでニュースで読みあげられた、自分とは何の関係もない人間の名前みたいだった。

 私の困惑する顔を見て、彼ー夫の穣も私のただならぬ事情を感じたようだった。

「おいもみじ、何の冗談だ? まさか僕の事が分からないのか?」

「え、ええ」

 私はただ頷くことしかできない。

 穣さんは私の肩を掴むと、じっと私の瞳を覗きこんだ。穣さんの瞳はとてもまっすぐで、きっと真面目で誠実な人なんだろうなと思った。

「嘘や冗談じゃないのか? 本当に僕の事が分からない?」

「……ごめんなさい。思い出せないの」

「他の事はどうだ? 何か思い出せないことはあるか?」

 そんなことは分からない。なにせ人は多くのことを忘れながら生きているのだから。

「さ、さあ。思い出そうとしてみないと分からない」

「家の住所は分かるか?」

 私は住所をスラスラと述べる。

「そうだ。僕とお前が暮らしている家だ。三十年のローンを組んで購入したんだぞ。一軒家だ」

「そこが自分の家だということは分かるけど、それ以上のことが全然思い出せない。家の外観や間取り、家具、そこでの生活の記憶や一緒に暮らしてた人のこと、全然思い出せない」

 穣さんは口をあんぐり開けている。

「そ、それじゃあ自分の両親のことは覚えているか? もみじの母親の名前は?」

「ゆり。私と同じで自然の名前」

 今度は顔や一緒に過ごした思い出も思い出すことができた。

「あの、穣さん。私、一つ思いついたことがあるんだけど……」

「な、なんだ? 言ってみろ」

「ひょっとして穣さんが単身赴任か何かをしていて、あなたと会うのがとても久しぶり、なんてことはない?」

 ふと思い付いて聞いてみたが、それを聞いた穣さんの顔を見てすぐに失言だったことに気づいた。

「毎日会ってるよ! 昨日の夜だってこうして会ったばかりじゃないか!」

 そこでようやく私は、私の身になにかとんでもないことが起こっているのだと気づくことができた。

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