第8話 これが真実
その夜、私は寝床を抜け出した。
隣の、二人の寝室だった部屋からは明かりが漏れていた。きっと穣さんはまだ起きているのだろう。
そっと扉を開いて中を覗くと、穣さんはベッドに入りながらテーブルランプで本を読んでいた。そのまま室内に体を滑り込ませる。そのわずかな気配だけで穣さんは私の存在に気づいたようで、本から顔を上げた。
「どうしたんだもみじ。何か困ったことでもあったかい?」
穣さんは優しく微笑みながら私の返答を待っていた。
私はある決心をしてここに来ていた。
私は先ほどまで頭の中で反すうしていた言葉を口にする。
「穣さん、お願いがあります。私を、抱いてください」
穣さんの顔から瞬時に笑みが消えた。
「……それはどういう意味だい?」
「暗喩でもなんでもなく、そのままの意味です」
この家に帰ってくるまで、少なくとも朝の段階ではこんな事、これっぽっちも考えてなかった。私という人間は、結構行き当たりばったりなのかもしれない。けれども今、私がしている決心は本物だった。
穣さんも私の提案を単なる思いつきだと思ったのだろう。静かに、諭すように言った。
「もみじ。この二日間とてもたくさんのことがあった。僕らの関係も、本当は何も変わっていないけれど、君の中では大きな変化があったんだろう? つまり君は人生で初めて起こった、今まで体験したことのない大きな変化を今現在、身をもって体験していて、きっと気が動転しているんだ。もみじがまともな判断ができているように、僕には思えないよ。焦らないで一つ一つのことをやっていけばいいんじゃないか。だから今夜は、このまま部屋に戻って寝た方がいい」
「焦っているように思われているのは分かっています。でも私は記憶喪失になったんです。いつかは記憶は戻るかもしれない。けれどもいつ戻るかなんて誰にも分からない。私は記憶を失ったままの生活が明日から始まることを受け入れなければならないんです。だからこその今、なんです」
私が明確な意思を持っていることに穣さんは驚いていた。
「けれども君の中で、僕は限りなく他人に近い存在なわけだろ? 覚えてないんだから」
「そうです」
「それでもその……、構わないのかい?」
「ふしだらかしら?」
「そうじゃない。そんなことは思っちゃいない」
「穣さん、私。不安なんです。きちんと記憶が戻るかどうか。あなたを記憶を失くす前のように愛せるかどうか自信がないんです。それを確かめるまでは、安心して眠ることなんて、きっとできない」
「そうか……」
穣さんは納得したようだった。けれども穣さんが納得した理由は、本当の理由ではなかった。
私は嘘をついた。穣さんにとって優しい嘘を。
穣さんは私を抱き寄せると自分のベッドへと招き入れた。私の心は、使命感に似た目的意識と明日からの不安、そして穣さんへの罪悪感がないまぜになってバラバラになりそうだったけれど、身体は正直なもので、これからの行為への期待で高揚していた。
心を騙すように私は穣さんと唇を重ねる。
私は焦っていた。
昨日の朝に記憶喪失になってから、色々と見聞きするうちにいくつかの記憶が戻ったのだと思う。断定できないのは、一度失われた記憶は私には既に馴染むことがなかったからだ。感覚としては忘れた内容を聞いて覚えたという方が近い。
私という存在は常に変化している。私だけではない。すべての人間は常に情報をインプットし、思考し、それによって自分を変化させている。自我は時間軸に沿って連続しているように思えて、実は不連続な存在なのかもしれない。その意味で私という自我は一つ所には留まっていない。
アルバムの中の私は、私であったが私ではなかった。
私とはつまり終着駅のない列車のようなものだ。そしてポロポロとこぼれ落ち、途中下車をしていった記憶たちは、それらを思い出すことはあっても、再び私という列車に乗ることは二度とない。
私は違和感があると知りながらも、一度失った記憶を受け入れ、生きていかなければならない。
だから安心して穣さんを愛せるようになりたいというのは、嘘。
これは変わってしまった私という存在を受け入れて生きていく、その覚悟を持つための儀式なのだ。
そんな理性的な理由付けも流れに身をまかせるにつれ、徐々に薄れていった。
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