第7話 退院
退院後、穣さんの運転で私は自宅へと向かった。とはいえ、そこが我が家かどうかは私には分からない。穣さんが信用できないのであればなおさらだ。
「ここが私たちの家?」
呆れるほどの拍子抜けだった。身構えていたのが滑稽に思えるほどだ。
連れられて来たのは、小さいながらも庭付きの可愛らしい一軒家だ。隣には同じデザインの家が何軒か並んでいる。
「そうだ。どうだもみじ。気に入ってくれたか?」
穣さんは「何か思い出したか?」とは聞かなかった。
「ええ、とても素敵な家」
率直な感想だった。思い出さない方がいい記憶が詰まった家なのだから、きっともっと嫌な気持ちになるかと思ったが、予想は私にとって良い意味で外れてくれたようだ。
玄関から入ったところはリビングだった。リビングはテレビ、机、ソファとありふれた物がゆったりとしたスペースで並べられている。床にはカーペットが敷かれており、足の裏に伝わる感触は心地よかった。
リビングのすぐ隣にはキッチンが見える。いわゆるシステムキッチンでキッチンからはリビングが一望できた。私はあそこで毎日料理をしていたのだろうか。
「寝室は二階にあるんだ。まあ、まずはゆっくりしたらいい」
穣さんは私を気にかけながらも手は休ませずに動かしていた。病院から持ってきた荷物を片付ける物、洗濯する物とてきぱきと仕分けしている。
私はソファに腰掛けた。座ったのはいいが、何もしないでいるのも逆に落ち着かないものだ。何かないものかと、キョロキョロと視線を動かした。
リビングの壁の一角にはカラーボックスを積み重ねたような棚があった。見上げるとそに高さは天井まで届くくらいある。最上段にもなると私の背では届かないほどだ。
私の目線の高さの段には、手乗りサイズの植木鉢がいくつか並んでいた。近くまで行き、鉢を覗き込むと小さなサボテンがちょこんと頭を出していた。その姿があんまり可愛らしいので、私は思わずニヤけてしまう。
他に何かあるか、棚を一段、一列ごとに観察していった。ある棚の段で私は足を止めた。そこにあったもので、ほころんでいた顔も急に真剣なものに変わる。
そこにあったのは写真立てに飾られた私と穣さんの姿だった。それも一枚ではない。二人一緒に写っているのもあれば私や穣さん一人が写っている写真もあるが、様々な場所で撮られた写真が何枚も、何枚もあった。
穣さんの隣で笑っているのは、紛れもなく私だった。写真の中の私は幸せそうに微笑んでいる。
自分が笑っている事が信じられなかった。私にこんな笑顔ができるのかと驚いてしまう。写真の中の私は確かに私なのだが、とても自分のようには思えなかった。
そんな自分を観察した時の気持ち。それは言葉にできないほど複雑なものだったけれど、無理に一言で表すなら、寂しさ。
「穣さん」
私は穣さんへ問いかける。
「私達って、結婚してから何年になるの?」
穣さんは私が写真を眺めているのを見ると微笑んだ。
「ああ、もうすぐ丸二年になるな。生活も大きく変わって、ホントあっという間だったなあ。色々と忙しくてろくに旅行にも行けなかったから、そこにある写真はどれも近所で撮ったものだよ」
たしかにどの写真もこの家の前だとか、うっすらと記憶にある公園だとかで撮られたもので、特別な写真には感じられなかった。そのためだろうか、余計にこれらの写真が身近というか、現実味を持ったものに感じられた。
「他にも写真はある? もしかしたら何か思い出せるかもしれない」
そう言うと穣さんは嬉しそうに顔をほころばせた。
「ああ、ああ、あるぞ! もみじの子供の頃の写真も結婚してからの写真も、みんなあるんだ」
穣さんは仕分けしていた洗濯物をほっぽり出すと嬉しそうに駆け出す。しばらくすると二階からアルバムの束を持って降りてきた。
「こっちはもみじの実家から持ってきた子供の頃の写真。こっちは結婚式の時のやつ。これだけで丸々一冊分あるんだ。そしてこっちは結婚してからの写真」
穣さんはアルバムを開いては次々と私の前へ積み上げていく。
「ちょ、ちょっと。こんなたくさん、いっぺんに見ることなんてできないわ。少し時間をちょうだい」
「そ、それもそうだな。よし、お茶でも入れよう。お茶でも飲みながらゆっくり見ようじゃないか」
穣さんは慌ててキッチンへと駆け込む。その姿を見て、吹き出さずにはいられなかった。
「まるでサボテンみたい」
「サボテン? どういう意味だい?」
「ううん、いいの。こっちのはなし」
例え説明したとしても、男の人には意味が分からないだろう。
穣さんの様子を十分に観察すると、私は再びアルバムへと視線を戻した。
「これ、まとめたの穣さん?」
「僕がやったのは、自分の写真をアルバムに仕舞っただけさ。二人の写真はもみじと二人で選んだんだぞ」
穣さんは几帳面な性格のようだ。撮った写真は時系列毎に綺麗に並べられている。アルバムの表紙には収められた写真の期間はもちろん、主なイベントも列挙してあった。アルバムはお互いの子供の頃の物から、最近の物まである。結婚してからの写真は、半年毎に二冊にまとめられていた。
「とても見やすく並べてあるなって。……ほら私の子供の頃のアルバムを見てよ。中学校の部活の写真の隣に、離乳食を食べてる写真が並んでたりしてるんだから」
「もみじのご両親はどちらもおおらかな人だからなあ。おおかた束にしてとっておいた写真を、嫁入りで持たせるために、後で慌ててアルバムに入れ直したんだろう」
「ええ、きっとそうね」
両親の事を想像するとその予想は外れていないように思えた。穣さんと二人で笑い合う。
写真を眺めているうちに胸がチクリと痛んだ。
ついさっきまで、私は穣さんの事を疑っていた。彼の尊厳を貶めるような酷い想像までしていた。
けれども今いる我が家や、手元にある写真達は、私と穣さんの関係は決して捏造されたものなんかじゃないとはっきり言っている。
顔を上げると、ちょうどティーカップを持ってきた穣さんと目があった。その目は私が記憶をなくしたと発覚した時と同じ目で。私の事をを大切に思ってくれている目だった。
「そうだ。そうだったのに……」
穣さんが私にとって敵ではないのは、始めから分かっていたことではないか。
なぜ疑ってしまっていたんだろう。きっとそれは孤独だったから。記憶をなくし、誰が味方なのか分からなくなっていたために、私の心は必要以上に頑なになっていたのだろう。それこそ善意や親切心をそのまま形で受け取れないほどに。
「僕の顔なんかジッと見てどうしたんだい? 何かついてる?」
「い、いえ。なんでもないの」
慌てて顔をアルバムで隠した。これ以上穣さんと顔を合わせていたら、罪悪感で押しつぶされそうだった。
目の前の、写真の自分ともう一度目を合わせる。
羨ましい。幸せそうな彼女の事が羨ましいと思えた。
記憶が戻れば、私も写真の中の私のように笑うことができるのだろうか。
きっと答えはノーだ。
それほどに写真の私の笑顔は眩しかった。
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