第6話 嘘と真実
気がつくと私は今朝寝ていたベッドにいた。放心している私の様子を特に気にすることもなく、穣さんは上着を羽織るところだった。
「明日の朝、退院らしい。その時にまた迎えに来るよ。荷物だけまとめておいて」
病室のベッドで上半身だけを起こしていた私に、穣さんはそう言い残し帰っていった。
食事を済ませ、明日すぐに退院できるように荷物をまとめた。体調が悪かったので、すべて済ますことができるか不安だったが、幸い荷物は少なく、すぐに終えることができた。
他にやることがなかったので、まだ寝るには早い時刻だったがベッドに横になった。
消灯前の病棟はまだ明るい。廊下から漏れるてくる明かりは、私の病室に不気味な影を落としていた。天井の凹凸にできた陰影は、今にも私に襲いかかってきそうだ。逃れるように私は頭から布団をかぶった。
無意味な空想で不安な心を慰める一方で、私の頭は極めて理性的に、混濁していた時の記憶を整理していた。
それは診断結果を柿本から聞いて、私が倒れた後の記憶だ。
柿本と穣さんが二人で話している。
これは現実の出来事なのだろうか。それとも私の妄想の産物なのか。
「秋山さん。奥様ですが、心因性だとは思いますが特に、ご主人に関する記憶を失われているようです」
「はあ、やはりそうですか」
「やはり、ということはご主人には心当たりがおありで?」
「はい実は……」
声が遠い。おまけに二人とも小声で話しているのか、はっきりと聞き取ることはできない。
「そうだったんですか。いや、同じ病院の事でしたのに私が知らなかったとはお恥ずかしい。もらったカルテにはそれらしい事は何も書かれていなかったものですから」
「やはり、本人には相当にショックな出来事だったんでしょうか?」
「そうかもしれませんね。ご主人には奥様を優しくしていただくよう、お願いいたします。……ところで奥様の退院は明日の予定でしたか?」
「はい。あの、家の方ですが……やはり対策しておいた方がいいですかね?」
「と、申しますと?」
「……というわけで」
「その方がいいでしょうね。今はなるべく刺激しないようにするべきでしょう」
「分かりました」
ここで記憶は終わる。
この記憶が現実の出来事にしろ、そうでないにしろ、私の身に何かが起こった事は間違いないだろう。それが何かは分からない。
そして私が眠るたびに、私の夢に現れる私を呼ぶ声。あれはいったい何なのだろう。私の今の状況と、無関係とは思えなかった。
一番気にかかるのは穣さんと柿本だ。彼らは私に何かを隠している。そしてどちらか、または両方、私に嘘をついている。
柿本の診断を信じると、私は穣さんに性的虐待を受けていたことになる。その場合、虐待のショックが大きかったために記憶を失った事になる。
また私が記憶を失っているのが嘘だとすると、もう一つの仮説が立つ。それは私は穣さんについて、実は記憶を失っていないのかもしれない、というものだ。
つまりどういうことかというと、穣さんを名乗っていた人物は実はまったくの他人で、私が忘れている誰かこそが、本当の最愛の人なのではないか、という事だ。その場合、穣さんは私の夫になりすましていることになる。
背筋が寒くなる。頭から布団を被ったまま、私は膝を抱えて丸くなった。
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