第5話 それが答え?

 誰かに呼ばれたような気がして、私は目を覚ます。

 目の前には柿本がいた。

「秋山さん、私のことが分かりますか?」

「柿本先生…、治療は終わったんですか?」

 私が尋ねると柿本はにっこりと微笑んだ。私の様子を確認するとカルテになにやら書きつけている。

「秋山さん、ご気分はいかがですか?」

 悪くないことを伝えると、柿本は安心した様子だった。

「いえね、この治療って本来封印しておくべき記憶を催眠によって無理矢理呼び覚ますことになるでしょう? 患者さんの中には、心が受け止めきれずにパニックになってしまう人もいたりしましてね」

 私は身体を起こした。身体は重く、上半身を起こすだけでも気力を振り絞らなければならないほどだった。眠っていただけなのに、全身が疲労していた。

「ああ、まだあまり無理をしないで。記憶を、それも心の負担になる記憶を呼び覚ますというのは、意外に体力を消耗するものなんです」

「そうなんですか。……あの、それで記憶は戻ったんでしょうか?」

 それというのも、何かを思い出した実感が湧かなかったからだ。相変わらず穣さんの事は思い出せないし、治療中に見た夢もなんだかおかしなものだけだった。

「その様子ですと、そう簡単には戻らなかったみたいですね。でも、いくつかの事は分かりましたよ。催眠中の秋山さんが色々と教えてくれました」

「え? 私、何かしゃべりました?」

「ええ、色々と」

 柿本はにっこりと微笑む。

 柿本が言うには、催眠中、私は柿本の質問に受け答えをしていたらしい。

「覚えていらっしゃらない方の方が多いので心配ありませんよ」

 柿本は努めて明るく振る舞って言った。

「さて、内容がとてもプライバシーに関わる事なので、ここでお話してしまいましょう。医者には守秘義務がありますから、この話を他言することはありません。また秋山さんが必要だとおっしゃった時に限り、例えばご主人などに説明いたしましょう」

 これで記憶喪失の原因が分かるのだろうか。否が応でも心臓が高鳴る。

「その根本の原因となるものについては特定することができませんでした。しかし喪失された記憶には、ある傾向が見られるようです。恐らくそれらが、根本となる原因に深く関連する事柄なのでしょう」

 柿本が言うには、記憶とは関連づけられて保存されているものらしい。連想、という言葉があるように、一つの事を思い浮かべるとそれに紐付けられた記憶が矢継ぎ早に思い出されるのが良い例だ。

 つまり都合の悪い記憶がうっかり連想されて蘇らないように、関連がありそうな周辺の記憶を丸ごと忘れてしまっている、と言うことらしい。

「厳密には忘れているのではなく、思い出せない状態なのですがね。データとしては頭に残っているようです。けれども、催眠状態でも思い出すことはできなかった。相当に強い封じ込めが施されているようです」

「私、いったい何を忘れているんでしょうか」

「まず幼少期の記憶に不自然な欠損は見られませんでした。現在の何らかの出来事が引き金になって、幼少期のトラウマがフラッシュバックする、なんてことがあったりするんですが、少なくとも今回は秋山さんにその兆候は見られませんでした。従って原因は、ごく最近起こった事だと思われます。……失礼、秋山さん。お加減は悪くありませんか?」

「ええ、今の所は」

「少しでも気分が優れなかったら、すぐに申し出てくださいね」

 柿本は慎重に私の様子を見ていた。無自覚な自分に気づかされるかもしれないのだから、きっと気分が悪くなったり、取り乱したりする人も中にはいるのだろう。私がその例に漏れないかどうかは、まだ分からない。

「では最近の事柄ですが、ご主人の事や家の事、特に最近の生活について思い出すことに強い抵抗を示していました。突然ですが秋山さん、ご両親の名前は思い出せますか?」

 私は父親、母親の名前を述べる。

「それではお二人は今おいくつですか? どこにお住まいですか? 最後にお会いになられたのはいつですか?」

 柿本のすべての質問に私はすぐに答えることができた。

「催眠中にもご両親の事はいくつか質問させていただきましたが、私には極めて健全な親子関係を構築できているように感じました。よって親子関係が原因ではないでしょう」

 柿本はほとんど確信している結論を、既に持っているようだ。なのにわざと答えを避けるように説明している。

「先生、はっきりおっしゃってください。結局のところ、先生がお考えの原因は何なのですか?」

 柿本は咳払いを一つした。それからゆっくりと口を開く。

「幼少の思い出や両親は関係がない。つまり秋山さんの出自が持つ問題ではない。そして家の、夫の事を忘れている。秋山さん。これが答えです」

「え、それは……」

 聞いた直後は、柿本の言葉の意図を理解することができなかったが、しばらく考えていると私が一つの想像へと辿り着いた。

 私は絶句する。相変わらず記憶喪失の原因は分からない。けれども、忘れた内容が示す状況は、これ以上ないくらいに明々白々だった。

「この病院で行った診察では、秋山さん目立った外傷はありません。つまりご主人による家庭内暴力の可能性はないでしょう。恐らくはもっと、精神的なショックが原因だと。これは私の私見になりますが、過去の例を見ても性的な問題の可能性が高いです」

 私は何も答えられなかった。いつの間にか動悸が激しくなっている。お酒を飲んで酔っ払った時のように、こめかみのあたりがズキンズキンと脈打つのが感じられた。

「解決のためにはご主人の理解を得られた方がいいかもしれません。よろしければ私からご説明いたしますが……、秋山さん?」

 息苦しかった。きっと部屋の酸素が少なくなっているのだろう。私は残り少ない酸素を求めるようにあえいだ。

「秋山さん、大丈夫ですか?」

「は、はい。大丈夫……」

 意識が遠のきそうになる。

 対照的に、酸欠状態であるはずの私の脳は高速で回転していた。

 柿本の催眠療法。

 朝食のおかず。

 発想がどんどん飛躍していく。

 欠落した記憶。

 夢の中で私を呼ぶ、誰かの声。

 あなたはいったい誰なの?

 次々と浮かび上がる記憶に、私の意識は押しつぶされ、次第に混濁していった。

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