第9話 日常
その夜は穣さんがわざわざあつらえてくれたベッドに入りながら戻らずに、穣さんの側で朝を迎えることにした。
「穣さん。私、穣さんに謝らなければならないことがあるの」
テーブルランプは灯っていたが、穣さんの表情を見ることはできなかった。穣さんの胸中を確かめるのが怖くて、私自身顔を上げることができなかったからだ。
「穣さんの事を思い出せなかった理由。私、ずっと考えてた。でも確証が持てる答えを見つけることができなかったの。だからもう一つの可能性を考えてたの。私は穣さんの事を忘れたわけじゃない。元々知らなかったんじゃないかって」
「なんだって? おいもみじ……」
私は穣さんに絡めた腕に力を入れ、穣さんを制した。
「分かってる。最後まで聞いて。穣さん、私に秘密にしている事があるでしょう? 柿本って先生も知ってる秘密が。それは穣さんが私にとって大切な、思い出せない誰かになりすましてるんじゃないかって。私、今日一日ずっと疑ってた」
「……」
穣さんは何も言わなかった。
「けれども今日この家で過ごして、記憶をなくす前の写真を見て、そしてこうやって抱かれてみて、私の考えは間違ってたって感じたの。こんなに心が安らいで幸せを感じることができるのは、あなたが私の最愛の人で、私の事を本当に心配してくれているからなんだって確信できたの。だから、ごめんなさい。疑ってごめんなさい」
私の心臓は早鐘のように脈打っていた。そしてそれは穣さんも同様だった。穣さんに押し当てた耳がそれを教えてくれている。
「もみじ。僕も謝らないといけない。たしかに僕と柿本先生は君に内緒にしていた事がある。でもそれは君を想ってのことだったんだ。柿本先生も、君の心の負担になるようなことをしてはいけないと言っていたから。でも隠した事によって君が苦しむのなら、本当の事を言うよ。実は……」
真実を告げようとする穣さんの口を私は塞いだ。
「いいの。私がそれを知る必要なんて、ない。だってもう誤解はないのだし、私を想ってくれてる気持ちが本当だって分かっているんだから」
「もみじ……」
穣さんは私を抱きしめた。それも力いっぱい。私も同じように抱きしめ返す。息苦しくなるまでずっと。そうすることでお互いの気持ちを確認し合えると信じて。
結局これは私がなくした記憶を取り戻す物語ではなく、記憶をなくした環境を受け入れるまでの物語だったということだ。少なくとも穣さんに対しては、そういうことにしておきたい。
こうして私は記憶をなくす前の、元の生活を取り戻した。
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