解答編

エピローグ 蛇足としての真実

 これで、この物語は終わりにすべきなのだろうけれど、真実を明らかにするために顛末を語ろうと思う。

 私が元の生活を送り始めて数日が経った。その夜、私は一人だった。

「泊まりで出張に行くことになったんだ。もみじと長くいる時間をしばらく取ろうと思ってたから断りたかったんだけれど、どうしても外せなくて」

「いいの。気にしないで。最近は調子もいいから心配いらないわ」

「そうか。明日の夜には帰ってくるから」

 そう言って穣さんは出掛けていった。

 今夜は、私が穣さんに知られないで動ける、初めての夜だ。やっと取り戻した穣さんとの関係を壊したくはなかった。それはまだ治りかけの傷と同じで、私が軽率な行動を起こすことで壊れてしまいかねなかった。だから穣さんに知られずに行動する必要があった。

 次のチャンスがいつ訪れるかは分からない。行動を起こすなら今夜しかない。

 私は上着を羽織ると車に乗り込み、病院に向かった。

 病院に行けば真相が分かるという核心があった。明確な理由はない。

 思えば手掛かりはいくつもあった。

 記憶を失った朝、私は病院のベッドにいた。そして穣さんが私の記憶喪失に気づいたのは、私と病室で会ってからだった。

 つまり私は記憶喪失で入院していたわけではない。だったら入院していた理由はなんだったのだろう。

 柿本は穣さんに教えられるまで、私が記憶を失った理由について知らなかった。本来はカルテに書かれるべき事実だと言っていた。それはなんだ。

 考えているうちに私は病院へと辿り着いた。まだ外来受付時間中だったので建物には難なく入ることができた。

 そのままトイレに隠れ、時間が過ぎるのを待った。きっと夜警や宿直の看護師が見回りを行うだろうが、これだけの大病院だ。上手くやりすごすための場所はいくらでもある。適当な時間になったら場所を変えて、遅出の人が帰るまで待てばいい。

 待っている間に情報を整理した。

 柿本は、穣さんの事を思い出せないのは、性的な理由の可能性が高いと言っていた。けれども確認のために及んだ行為は至って普通のものだった。

 穣さんの温もりを感じながら、私を貫く快楽が絶頂に達した時、私は新しい生命が宿るのを感じた。それと同時に私は、私をずっと呼んでいた声の正体を悟った。

 過去の私との決別のためだったのに、むしろ逆に真実に辿り着くための最後のピースだったことは何とも皮肉な事である。

 穣さんは私と結婚して二年になると言っていた。なのになぜ、結婚してからの写真は一年分しかなかったのだろう。この答えは簡単だ。穣さんが1年分の写真を隠したからだ。恐らく二度と私の目につかぬように処分してしまっているだろう。その理由についても穣さんはすでに語っている。柿本から言われたからだと。それらの写真が私に心の負担になるからだと。

 これらの手掛かりから導き出される結論は一つだ。

 記憶をなくす程の性的な問題とは性行為そのもののことではなく、それはおよそ1年分の写真に写るものであり、病院に入院するようなこと。そして思い出せない誰か。

 外に人の気配がなくなったことを確認すると、私は隠れ場所にしていた倉庫からするりと抜け出した。

 ずっと私を呼ぶ声がしていた。

 始めは夢の中でぼんやり聞こえるだけだった声は、やがてはっきりと聞こえだし、今では起きている間でも神経を集中させれば、いつでも聞くことができた。そして病院に来てからはより一層はっきりと、声がする場所が分かるほどに聞こえる。

 私は人に見つからないように足早に声のする場所へと向かう。

 それは非常口のような扉の中だった。

 扉の上には何の部屋なのか何も書かれておらず、扉にはただ『関係者以外立入禁止』と書かれているだけだった。

 扉を開こうとするが、開かない。鍵が閉まっているのかもしれない。

 守衛室かどこかで鍵を手に入れなければならない。そう思い踵を返した直後、ドアの隙間から黄金色の光が漏れた気がした。

「なに、今の……?」

 目をこすり扉を見るが、今はもう光ってはいなかった。

「幻でも見たのかしら」

 幻を見たのだとしたら、いつからだったのだろう。私はたしかにドアを開こうとしたのだろうか。確認のためにもう一度ドアに手をかけると今度はあっさりと開いた。

 ドアの向こうは真っ暗だったが、ドアのすぐそばに照明のスイッチがあった。明かりをつけると、ドアの先は下り階段が続いている。地下への階段だ。

 この先に声の主がいる。名前も思い出せないけれど、その正体を私は穣さんに抱かれた時から悟っていた。

 階段を降りた先は倉庫になっていた。薬品の匂いが鼻を突く。学校の理科準備室のようだった。広い空間にキャビネットや大きなガラス容器がたくさん並べられている。中身を確かめようとは思わなかった。

 声の出どころはたくさん並ぶキャビネットのうちの一つだった。それを見たとき、私の直感は外れていなかったことを知る。

「そんな。こんなことって……」

 その光景に私はその場で嘔吐した。立っていられず、私はそのままかがみこんだ。服が汚れたがまったく気にならなかった。

 目の前にあった光景が答えであった。私は記憶を失った真相をここで理解した。誰かの陰謀があったわけではない。誰かの責任であったわけでもない。ただ何千分の一の確率で起こる悲劇があり、それを私が知ってしまっていた。ただそれだけだったのだ。

 しばらくすると落ち着いた。私は立ち上がるとそれを容器ごと抱える。

 生きているのか、死んでいるのかすら分からない。いや、声がするのだからきっと生きているのだろう。頭に響く声だけが私に生きていることを確認させてくれた。

 不思議な、不思議な現象だった。なぜ遠くにいても声は届いていたのだろう。この声がなければ私はここまで辿り着くことはできなかった。だからきっとこれは奇跡、なのだろう。この子が私に再び生きる力をくれた、そんな奇跡。

 私はガラス越しにキスをすると、私から贈る、最初で最後の言葉を述べた。その時の自分の声が鼻声だったので、そこで初めて私は自分が泣いているのを知る。

「ありがとう。きっとあなたは私にずっと名前を呼んでもらいたかったのね。名前は、あなたの名前は」

 本当は別の名前を考えていたのかもしれない。しかしその名前はいろんな記憶ごと失われてしまった。なのでこれは今思いついた即興の名前だ。二度と使うことのない名前を口にすると、私は手を離した。

 するとそれは私の足元にまっすぐ落下し、ガラスの破片とひどい臭いの薬品とで辺りを散らかしたのだった。

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