第3話 心療内科
「秋山さん。今回の診察の結果ですが、秋山さんの記憶には部分的な健忘症状が見られます。まあ、いわゆる記憶喪失ってやつです」
そう診断を下した心療内科の先生の胸元には、柿本と書かれたネームプレートが差してあった。
「不安になられているかもしれませんが、大丈夫です。記憶喪失は誰でも起こりうるものですし、そこまで珍しいものでもありませんから」
柿本はにこやかに笑ってみせたが、いったい何が大丈夫だと言うのだろう。根拠のない自信や無責任な発言は、若さの為せるわざだろうか。
柿本の見た目は若かった。私より年下に違いない。
「あのそれで……。記憶はちゃんと戻るんでしょうか?」
「大丈夫だと思いますよ。CTでも特に問題は見つかっていないようですし」
そう言いながら柿本はデスクの上のパソコンのマウスをささっと動かした。何度かクリックするとディスプレイに脳の輪切りの写真が映しだされた。医療系のドラマでよく見る写真だ。きっとここに来る前に撮影した、私の脳の写真だろう。柿本は一部を拡大してはじっと細部を確認する作業を何度か繰り返した。素人には何を見ているのかさっぱり分からない。
「うん。出血や腫瘍、脳の萎縮も見られない。いたって健康な脳ですね」
脳が健康とはなかなかシュールな表現である。
「記憶が飛ぶような外因性のショック……そうですね、どこかに頭をぶつけたとか。そういった心当たりは?」
柿本がそう尋ねてくるが、私には首を傾げることしかできない。なにせ記憶がないのだから、私に心当たりがなくても、それが頭をぶつけていないことの証明にはならない。
柿本も途中で気づいたらしく、視線を穣さんの方へと移した。
「……特にないと思います。私は昨日の夜に見舞いに来ていましたが、少なくともその時点では記憶喪失にはなっていなかったと思います」
「ふむ。となると原因は外因性のショックではないのかもしれませんね」
「他にはどんな原因が考えられるのですか?」
私の問いに柿本は自分の胸を指さして答えた。
「心です」
「心……」
「誰だって思い出したくない過去や辛い記憶ってのはあるでしょう? そういった記憶は思い出すだけで心の負担になってしまうから、なるだけ思い出さないように、私達の頭はできてるんですよ」
柿本は両手をぐるぐると回すジェスチャーをしてみせる。
「ほら。なんでもいいから十年くらい前の事を思い出してみてください。大体が良い思い出ばかりでしょう? よほどショッキングな出来事でない限り、嫌な思い出は出てこないはずだ。これが『過去は美化される』ってやつの理由の一つです」
「でも先生。それは私の場合とは少し違うような……」
私の問いに柿本ははっきりと断言してみせる。
「同じです。心の負担にならないように、特定の記憶にアクセスできないようになる、という原理に違いはありません。ただ秋山さんの場合は、思い出すだけで心が壊れてしまうくらい辛い記憶だったから、より思い出せない状態になっていると。そういうことです」
「そんな……」
私の表情を見て、脅かし過ぎたと思ったのか、柿本は必要以上におどけてみせた。
「これはあくまでストレス性の記憶喪失だった場合の話です。心因性の記憶喪失は他の可能性もあります。例えば催眠術をかけられているとか、意識レベルが低下していたから記憶に残っていないとか。あまり深刻に考えないでください」
「催眠術って……」
柿本の出した他の例があまりにも突飛なものだから、余計に忘れているものが辛い記憶だったのかもしれない、という推測が確固たるものに思えてしまう。
柿本のフォローになってない発言に、私は皮肉を込めた笑いを返すことしかできなかった。しかし柿本はその笑いを別の意味として受け取ったようである。
「あ、秋山さん。いま笑いましたね? 催眠術の事を信じてないって顔だ。催眠術ってそんなオカルトでもないんですよ。医療行為としての催眠だってあるんだから。かくいう私もできるんですけどね」
柿本は胸元のポケットから糸のついた五円玉を取り出すと、それを揺らしてみせる。
「催眠術って別に五円玉を使うわけじゃないですよね?」
「ええ。これはまあ、デモンストレーションですね。患者さんにイメージしてもらいやすいですから」
「たしかに分かりやすいですけど。逆に胡散臭いですよ」
「あれ、そうですか?」
柿本の冗談に自然と笑ってしまう。すると柿本も安心したのか表情を和らげた。せき払いを一つすると、また真面目な口調へと戻す。
「催眠療法という治療をすることで、失われた記憶を取り戻すことができるかもしれません」
ただし、と柿本は前置く。
「先ほども申し上げました通り、秋山さんの失われた記憶は、思い出したくもない、辛い記憶の可能性があります。思い出さない方が幸せかもしれない。医者として治療法の提案はさせていただきますが、治療を受けるかどうかは秋山さん、ご主人と良く話し合われて決めてください」
後ろでじっと立っていた穣さんを見た。穣さんは言いたいことがあるようだった。けれども言いづらそうな、気まずそうな顔をしているだけで、それを言葉には出さなかった。
私はそれが穣さんの意見だと確信すると柿本に結論を告げる。
「先生、よろしくお願いします。催眠療法を受けさせてください」
穣さんと話し合わずとも、私の選択肢は始めからそれしかなかった。最愛の人であるはずの、夫の事が思い出せないのだから。
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