第2話 偏りの記憶、または愛
結局、穣さんは会社を休んだ。今いる場所が病院だけに、すぐに私の診察を行うことになったのだ。穣さんは会社への連絡と、主治医の先生に相談するため、一旦病室を出て行った。
「穣さん、会社にはどうやって説明するつもりなのかしら」
私は病室に一人残されたので、これはもちろん独り言だ。電話での説明だけで、夫は会社の人には信じてもらえるだろうか。あまりにも突飛で唐突で、非現実的だ。妻が記憶喪失になりまして、なんて突然説明しても信じてもらえないかもしれない。当人の私ですらいまだに信じられないのだから。
しかし記憶喪失のなんと気持ち悪いことか。当然知っているはずのことが、思い出せない。
思い出せる記憶はある。むしろ大半の記憶がこれに該当する。例えば先ほど確認した家の住所がそうだ。しかし家の住所は思い出せるのに、肝心の家の外観や同居人であるはずの夫のことはまるで思い出せなかったりする。それらは本来、地続きの記憶であるはずだ。なのに記憶の糸を辿って行くと途中で、急にふつりと切れてしまっている。そこには深い断絶があった。まるで一部の記憶だけ、鋭利な刃物で切り取られてしまったかのよう。
思い出す作業は深い草原を歩くかのごとく不安で、億劫だった。地面だと思って踏みしめた所が落とし穴かもしれないと思うと、一歩を踏み出す足取りも次第に重くなる。
特に収穫もない自己分析をしていると、やがて穣さんが戻ってきた。
「主治医の先生に相談したら、診察のアポイントメントが取れた。朝一番で脳外科と心療内科の先生が診てくれるそうだ」
「心療内科?」
私の反復に、穣さんは一瞬顔を引きつらせた。
「そうだが。何か問題でも?」
「それ、精神科のことですよね。心を病んでるって思われてるんでしょうか?」
私は気弱に、落ち込んでいるように話す。本当はそこまで気にしている訳じゃない。ただのフリだ。けれどもフリをしているだけなのに、続けていると本当に気分が落ち込んでくるから不思議だ。
そんな私に対し穣さんは首を大げさに振ってみせた。
「そんなわけないじゃないか。俺はそんなこと思ってないぞ。一応診るだけさ」
「……それならいいですけど」
良く考えてみれば穣さんを問い詰めても何もならない。疑問があるならば医者に聞けばいいのだ。
ちょうどその時、私達のことが巡回していた看護師が食事を持って私のところにやってきた。
「秋山さん、お食事の時間ですよ」
「……だ、そうだ。とりあえず食べたらどうだ? 僕はコーヒーでも飲んでくるよ」
穣さんは食べるように手で促すと、廊下へ出て行った。私からの詰問がちょうどいいタイミングで途切れたのできっと内心ホッとしているだろう。
朝食のメニューはご飯に大根の味噌汁、目玉焼きと、あと煮物が小鉢で出てきた。その一つ一つを名前を思い出しながら口に運ぶ。どの名前もすぐに頭に思い浮かべることができた。
失われた記憶には明らかに偏りがある。
私が朝食を食べ終わる頃、穣さんが病室に戻ってきた。そのタイミングは計ったかのように正確だった。
「あら、ちょうどよかったわね。今食べ終わったところ」
穣さんは首をすくめてみせる。
「これでも、もみじの食事のペースくらいは、分かっているつもりだからな」
朝食を済ませると私達は心療内科のある棟へと向かった。心療内科までは車椅子で向かう。私は車椅子の必要はないと言ったのだが、穣さんは譲らなかった。理由は万が一、脳の障害があるかもしれないから、とかなんとか言っていた。
私は穣さんが押す車椅子に身体を預ける。車椅子越しでも伝わる穣さんの優しさは、私が愛されているのだと確信するには十分だった。でもその優しさが私には気持ちが悪い。見ず知らずの人間から与えられる過剰な愛情。穣さんの優しさを相応のものとして受け取れないことは同時に申し訳なくもあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます