枝垂れ柳の下で君を待つ。
奔埜しおり
待っていたのは、少女か少年か。
六時十分。少年が交差点の向こう側を見ると、枝垂れ柳の下に、いつもの少女が立っていた。温かな風にそよそよとなびく枝に、少女が見え隠れする。ふっと風が止んだとき、少女が少年を見たような気がした。
信号が青に変わる。少年は止まっていた足を動かして、横断歩道を渡る。そして歩道の横断歩道が接している部分と枝垂れ柳の間くらいにあるバス停で、少年は信号の次にバスを待つ。ふと少年が横を向くと、少女が何とも言えない笑みを浮かべて、少年を見つめていた。
その表情は確かに少年を見ているのに、その目は人ではなく絵画を見るような、そんな感覚を少年は感じていた。二か月くらい前からずっとそうだ。少女とは、去年からほぼ毎朝このバス停で一緒にバスを待っていた。待っていた、と言っても、別に待ち合わせをしているとかではない。そもそも、彼女のことは、少年が通っている高校から近い女子高の生徒なのであろうという、制服を見ればおおよそ見当のつくことしか、少年は知らない。ここは少年たちの通っている高校からはだいぶ離れていて、バスで片道一時間くらいかかる。その距離のせいか、少年の知り合いは誰もこのバス停からは乗らないし、少女が誰かと一緒に乗るところを少年が目にしたこともなかった。
恐らくは規則通りに着こなされているブレザーの制服。すらりと伸びた手足。腰までまっすぐに伸びた艶やかな黒髪。透き通るような白い肌。クリッとした大きくて丸い、小動物のような黒い瞳。そして全体を引き締めるように赤い唇と、ほんのりと色づいている頬。大切に育てられてきたお嬢様。そんな印象を受ける少女のことが、少年は少しだけ気になっていた。何度か話しかけようとしたが、クラスの女子とすらまともに会話ができない少年は、結局少女に話しかけることはできていない。同じバス停で同じバスを待ち、同じバスに学校の最寄り駅に着くまで一緒に乗っているから、機会はいくらでもあったのに、だ。
少年は小さくため息を吐く。そしてそういえば、とここ最近の彼女の不審な行動を思い出す。六時二十分発のバス。それが少年たちの乗るバスだった。だけど二か月くらい前から、少女は少年と一緒にバスに乗ることは無くなった。代わりにじっと少年のことを見つめている。いったいなぜなのか。なんとなく、今日なら訊けるような、むしろ今日訊かないといけないような、そんな気がした。
「あの……」
ビクッと少女の肩が揺れる。少女は小動物のように大きくてクリッとした目をゆっくりと閉じて開くと、恐る恐ると言った様子で口を開いた。
「私が、見えるの……?」
「は?」
意味が分からず、少年は間の抜けた声を漏らす。するとタイミングよくバスが来た。プシューッと音を立てながら入口のドアが開く。入口に片足をかけて少年は振り向く。やはり、少女は柳の下から出てこない。
「乗らないんですか?」
少女は困ったような笑みを浮かべる。
「乗れないんです、私」
「お客さーん、木に話しかけてどうしたの」
「え」
少年は運転手と少女を交互に見る。
「乗るの、乗らないの?」
不審者を見るような目で自分を見る運転手の問いかけに、少しだけ迷った後、少年は足を下した。音を立ててドアが閉まり、目の前でバスが走り出す。
「いいんですか、次のバスまでだいぶありますよ」
「いいんです、朝練には間に合わないけど、学校には間に合うので」
頭の中で、朝練をサボる言い訳を考えながら、少年は答える。そして少女に視線を向ける。
「で、なんで乗れないんですか」
「私ね、この柳の下から出られないんです」
「嘘ですか」
「嘘だったらいいんですけどね」
少女の瞳が、切なげに揺れる。横切っていく風が、柳とともに少女の黒髪も揺らしていく。風が止んだとき、少女はまっすぐに少年を見上げた。その視線から強いものを感じた少年は、少女から目が離せなくなる。
「昔話を聞いてくれますか?」
「昔話?」
予想もしていなかった単語に、少年は首を傾げる。少女は柔らかく笑うと、頷く。
「次のバスが来るまでの、暇つぶしでいいので」
どこか必死さを感じる声色に押されて、少年は頷いた。
*
あるところに一人の少女がいました。少女の通う学校は、少女の住んでいる場所からは遠いところにありました。なので少女はバスで通学します。最初は部活に入っていなかったので、七時ごろに出るバスに、途中からは部活の朝練のために六時ごろに出るバスに乗るようになりました。
そして二年後の春。少女は、少年に出会いました。少年が来ている学ランから、恐らく少女の通っている高校の近くにある高校の生徒なのだと気が付きます。少女は徐々に徐々に少年に惹かれていきます。
少女は何度も少年に話しかけようと思いました。
――おはようございます。今日は暖かいですね。いい天気。今日は何があるんですか?
そんな日常会話がしたくて、少女は何度も口を開きました。でも、結局十年以上親族以外の男性と話した経験があまりない少女の口からは、なにも言葉が出てきませんでした。
このままじゃいけない。そう思った少女はある日。学校の帰りに告白をしようと思いました。そう決めてからの時間は、少女にとって、とても長いものでした。やっと迎えた放課後。その日はたまたま部活がお休みの日でした。少女はいつものバス停に着くと、その近くの枝垂れ柳の下で少年を待ちました。少年が来たらなんて言おうか。いきなり声をかけたら驚かれるだろうか。そもそも少年は自分のことを知っているのだろうか。そんなことを考えている時間は、少女にとってとても楽しい時間でした。――でもその時間は、飛び込んできた一台のトラックによって、突然終わってしまいました。
*
「少女は即死でした。だけど少女は、二か月と少しだけ、猶予をもらえることになりました。その期間に、この柳の下でだけ、彼女はこの世にとどまることを許されました」
少女はそう言うと、静かに笑った。その笑顔は儚くて、少年は、触れると消えてしまいそうな気がした。
「その少女って、もしかして……」
少女は何も言わず、肯定するように微笑む。
「その二か月と少しって――」
「四十九日」
「え?」
「四十九日。今日がその最終日なんです」
「……どこに行っちゃうんですか」
少年の問いかけに、少女はふっと上を見上げる。少女の視線の先にあるものはそよそよと揺れる柳なのか、どこまでも繋がっている青い空なのか、それとももっともっと遠くなのか。少年は、静かに少女を見つめる。
と、バスが止まる音がする。
「ほら、行かないと次は学校遅刻しちゃいますよ」
「あのさ」
少女が少年を見る。
「ありがとう」
少年はそう言うと、少女は微笑んだ。揺れる柳にかき消されるのではないかと思うほど、儚い笑みだった。
放課後、少年がそのバス停に降りたときには、少女はどこにもおらず、ただ柳がゆらゆらと温かい風に吹かれているだけだった。
枝垂れ柳の下で君を待つ。 奔埜しおり @bookmarkhonno
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます