第3話 秋

 さざなみのひとつもたたずに闇の中で眠る黒い水はどうしてこう、蜜のように、とろりとした質感をしているのだろう。山の上の少しひらけた場所にあるキャンプ場はぐるりとまわりを囲むように木々が覆い、その中心に湖があった。風に揺れる木々のさざめきと対岸からのときおり上がる笑い声が耳に届くすべてだった。桟橋から覗き込むと、湖は未知の生物の棲む不気味な水槽のように沈黙を守っていた。

 いつのまにか水際のベンチに置物のように収まっていた彼は、座れば、とでも言うように端に座っている。それが気に食わなくて、私は少し離れたところで立ったまま、そっぽを向いていた。彼の方を見ないようにすると、どうしても湖が目に入った。肌がかすかに粟立つのを感じながら、秋の夜のせい、と私は誰に向けるわけでもない言い訳を頭の中に並べる。母に手を引かれなければすぐに迷子になってしまうくせに、黙って一人でどこかに行こうとする。私は昔からそういう意固地なところがあった。水面はなおもその静けさを保っていた。


 ――月を飼うの、この水槽で。


 かつてのクラスメイトが口にした言葉。それを彼に話したことが回り回って、気がついたら私はこんなところに来てしまったのだ。今日はずっと曇り空だった。人生を無駄遣いしているような、あるいは誰かに置いていかれてしまって自分一人がどこにも行けずに取り残されてしまうような、わけのわからない焦燥感が胸の奥をちりちりと焦がす感触が離れない。それはここに立ってからなお強く募った。

 スカッ。ふいに場にそぐわない爽快な音がした。自分の思考に入り込んでいしまっていたことを密かに恥じ、居心地の悪さを感じながら、そっと彼に向き直る。その右の手の中には金色の光をキラリと反射するものがあった。なんでビールなんて持ち込んでいるのだろう。彼の意味不明な行動が、私の神経を逆撫する。


「あ、今日はドライバーだった」


「馬鹿じゃないの」


 思わず冷たい声が出た。今まで生きてきて、こんなあからさまな不快感を人にぶつけたことがあっただろうか。自分の口からあっさりそんな言葉が出たことに驚きつつも、その勢いのまま次の言葉が出かかった。その瞬間、彼がすっと立ち上がった。私は思わずたじろいだ。強張ったままで様子を見ている私を気にかける風でもなく、彼はすいすいと泳ぐような足取りで私の横手を抜けていく。桟橋の一番突き出たところに立つと、何を思ったか手にしたビール缶を頭の上に持ち上げ、そのままバトミントンラケットでも振るうように軽快に缶を振り下ろした。缶の口から飛び出た金色の液体は暗闇の水槽に叩きつけられ、その水面を覆う黒い幕を切り裂いた。彼はでたらめに何度も缶を振るい続け、その度に金色の虹が舞い、黒い幕を突き破っていく。爽やかな水音が響き、幕の向こうには思ったよりも澄んだ水が湛えているように見えた。

 私はぽかんと口を開けたまま彼の奇行を見守った。刺々しい気持ちが急速に萎んでいくのが自分でもわかった。あまりにも馬鹿馬鹿しくて、もう一度口にしてみる。


「……馬鹿じゃないの」


「あ」


 彼の明るい声音につられてその視線の先に目をやる。真っ黒な水槽の中に輝くものが見えた。月だ。黒い幕の波間に浮かぶ月は冴え冴えとした白さを放っている。その姿は真っ黒なかごで飼われている気高い魚のようだった。月を飼う、という言葉がここにきて鮮明に立ち現れてきたことに、私は訳も分からず感動していた。


「きれい……」


 思わず口から出た言葉がきっと一番その場に相応しかった。だから、素直にそれを認めて私は桟橋の先端に立つ彼に並び立ち、黙って月を眺め続けた。気がつくと彼は思ったより近くにいた。その心臓の音すら聞こえてきそうなくらい近くにいた。覗き見た彼の瞳は真っ暗な水のように底知れず、昏かった。その彼の瞳にいつしか私は惹きつけられ、しかし最近では怖れや苛立ちの対象にもなっていたはずだったのに、今はそういった不快感を覚えることはなかった。その瞳には妖しくも眩い光を放つ黄金の魚が棲んでいた。私の心は酷く凪いでいて、それでいて静かに波打っていた。視線が交錯する。


「一緒に堕ちてみようか」


 短い言葉。気がつくと瞳の光が緩く私をとらえていた。


「え?」


 私の身体はぐらりと傾き、やがて真っ黒なかごのなかに落ちた。抵抗の意思を露わにする暇も与えられなかった。きっときれいな半円を描いて落ちただろう。その瞬間、恐怖はなかった。夢のように美しい黄金と漆黒のコントラストが視界に迫って、それから世界は暗転した。身を切るような冷たさの中で、私は近くにあるはずの彼の身体を捕まえようと必死でもがいた。空はどっちだ、月はどっちだ。恐る恐る瞼を開いた。そこに見えたのは泡だった。ぶくぶくと大小の泡が生まれてつながっては弾ける。生命の誕生と死のように何度も何度もそれは繰り返されていた。その様子を優しく見守るように月が照らしている。私は身体の力を抜いて水の浮力に身を任せる。泡たちに追い越されながら少しずつ月に近づいていって、やがて目覚めのいい朝に布団から抜け出すときみたいにするりと、水から顔を出した。それから、呆けるように降り注ぐ月の光を眺めた。

 やがてすぐ後ろから一際騒々しく水を叩く音が聞こえた。バシャバシャとうるさい彼の手を強くつかんで、思い切り引き上げた。


「死ぬかと思った」


 彼は顔を出して一番に、酷く深刻そうな顔でそう言った。それが滑稽で私は思わず笑った。


「死ぬなら一人で死んでよ。巻き添えなんて嫌」


 彼は驚いたように私の顔をまじまじと見て、気まずそうに顔をそらした。


「一人だと思うと、死ぬ気も失せた」


 ぶるると身震いすると、ひとつ大きなくしゃみをした。再度私と目があうと、困ったように苦笑いを浮かべた。その瞳には空に浮かぶ月よりかは幾分弱々しい光が宿っていた。それを見ていると、私は切ないような懐かしいような気持になって、それらを誤魔化すように小さくぶるると震えた。

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水底の唄 カワサキ シユウ @kawasaki

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