第2話 夏

 絶え間なく響く水の音を聞きながら揺れる水面を眺めていた。止まることを知らない水は、その表層で飽きることのない百面相を繰り返している。この人口の泉が作られたときから、取り壊されるまでこれからもずっと。私の生きてきた二十年と少しの時間なんか水底に溶けてしまうくらい長い長い時間。そうして溶け出した私の人生はどんな色をしているのだろうか。

 バサバサと鳥が飛び立つ音がして私は顔をあげた。カラスだろうか。ビルとビルの間にかろうじて見えている狭い空はよく晴れていて、真上から降り注ぐ陽光を背に真っ黒な影が羽ばたいた。一瞬のハレーションに軽く目眩がした。街中から見上げる太陽が自然の中で見るそれより力強く感じることがあるのはなぜだろう。きっと太陽が叱っているのだ。海の底のように太陽光の恩恵が届かない建物の中にこもってしまった私たちのことを。

 取り止めのない思考を巡り始めた頃、遠慮がちに声をかけるものがあった。


「待った?」


 私は振り返り、少し考えて答える。


「待った。もう少しでこの泉に身体が溶けるところだった。見て。ほら。小指が薬指より、ちょっと短い」


 上目遣いで彼の様子を伺う。呆れたような目でそれでも少し口元が微笑んでいる。私はその困ったような顔が好きだった。他人事のようにそう納得する。


「じゃあ君がアメーバのようにぐにゃぐにゃになってしまう前にそこを離れないと。さぁ、行こう」


 私は小さく微笑み、頷いた。

 私たちは水族館での再会以来、たまにこうして街で会った。月に一度か二度、平均するとたぶん二十日に一度とかそのくらいになるのではないだろうか。頻繁に会わないからだろうか、私はしょっちゅう彼にまつわるいろいろなことを忘れてしまう。例えばちょっとした仕草だったり、息遣いとか、どんな歩調で歩くかとか、どんな顔で笑うのかとか。そして、私がそれらをどれくらい好んでいるか、などだ。故郷の町を忘れてしまうみたいに、私はそんなことを忘れてしまう。それが少しだけ切なくて私は彼を笑わせたくなってしまう。彼の微笑みを見るとちくりと胸が痛むけれど、それでも。

 誰かを想うということは、私にとって寂しさを背負うことに他ならないのかもしれない。彼の後ろ姿を見ているとたまにそんなことを思う。


 雑踏を踏みしめる音が好き。彼はいつかそう言った。ザッザッザッザッ。周囲の人と同じ音に紛れると同じ心臓の鼓動を刻んでいる錯覚に陥ることができる。

 レザーのジャケットを着こなしどちらかといえば攻撃的なファッションに身を包んだ彼は、中学のときの彼とは随分印象が変わった。よく言えば垢抜けた。悪く言えば世間にすれた。大学入学とともに一人暮らしを初めて、背伸びしていた私が恥ずかしくなるくらいに。

 歩道橋の階段のずんずん上がっていく背中を私は追いかける。彼はいつだって私の少し前を歩く。再会して半年近く経つが、私たちはいまだに手をつないだことすらない。私たちの距離感はいつもそのくらいなのだ。


「今日はどこにいくの?」


「海が見えるところ」


「……前に行った水族館の近く?」


「いや。……もっと大きな海が見えるところ」


「へぇ、楽しみ」


 だいたい行先は彼がいつの間にか決めていた。電車の二人掛けシートの窓側に腰掛けた彼は食い入るように外の景色を見ている。なんてことのない風景、いろいろな建物があって、道があって、人がいて、ときどき緑がある。ありふれた町の眺め。そんなものを感慨深げに、あるいは何かを見落とすことを恐れるように、彼は凝視していた。

 その街並みのずっと向こうに海が見え始めた頃、私たちは電車を降りた。長方形のタイルが敷き詰められた小道の傍には浅い川がさらさらと流れていて、大きな洋風庭園のようだった。やや傾きかけた太陽の光を川面がやわらかく反射していた。キラキラした水の流れとともに私たちは海を目指した。絶え間なく続くせせらぎの音は誘うようで、その誘惑に身を委ねるように無心に歩いた。


「なんだか川に流されているみたい。私たち」


 思わず口を出た言葉に何も答えることなく、彼はただ川を見つめていた。その顔がどんな表情をしているのか私にはわからなかった。その視線の先では、サラサラ流れていく水がきらめき、それはまるで無数の銀色の鱗をもつ魚たちが身を翻しているようだった。

 そんな儚いきらめきに私の好奇心が混ざりあった川は流れ流れて、その先に海はあった。

 ささやかな浜辺に打ち寄せる波は静かで慎ましい。けれどもその先にある水の色は酷く濃い。あの美しい川の流れを飲み込んでなお、不気味なほどに濃い紺の海。個々に異なる発色の水彩絵の具をひとつのバケツの中に混ぜていくとやがて深い黒になってしまう。その海の濃さにはそんな深さがあるようだった。そこに溶けこんだ色がかつてどんなに眩い輝きを放ったかを、私は知らない。

 堤防に手で触れると少しだけひんやりとした感触が伝わった。私は膝を曲げて勢いをつけジャンプし、その上にお尻をのせた。彼は立ち尽くしたままじっとその海を睨んでいる。なにかを言葉にしようと息を吸いこんだようだったが、やがてそれは深いため息に変わった。そのとき消えた言葉は海に溶けてしまったのかもしれなかった。私は目の前の海に溶けたいろいろを想像して淡いため息をついた。そんな私たちを笑うように波は小刻みにゆれている。気まぐれな波は時折陽光をやわらかく投げかけた。そんな能天気なきらめきのもっと奥の深い深いところに溶け込んだ、彼の哀しみとか孤独とか幸せとか、もう原形すらとどめていない想いとかを私は想像しようとする。彼の横顔は相変わらず生真面目で、魅力的だった。だからこそ、それが私はさみしかった。私のこの気持ちもいつかはこの海に溶けこんで、誰かに鈍い光を返すときがくるだろうか。

 空の一番高いところから太陽があくびをしながら見下ろしていた。じりじりと皮膚を焦がす熱量が心地よい。平和な昼間だった。広い海辺では松林が青々と目に眩しく、あちこちに大きな松かさが転がっている。私たちはきっと悪い若者だ。いつかこの太陽や自然に仕返しされる日がくる。そんな日を私はいつかいつかと待ちわびるのだろう。寄せては返す波間を飽きもせずに見つめながら。

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