水底の唄
カワサキ シユウ
第1話 春
ありふれた恋が静かに終わりをむかえた。おだやかに水を湛える湖の水面に浮かぶ木の葉がひっそりとさざなみに飲まれて沈むように。いつ終わってもおかしくないような、そんなありふれた恋だった。私はまだ十九だった。
その日、私はひとり水族館を訪れていた。昨日、二十歳になったばかりの私が、なぜひとりで水族館なんかに行こうと思ったか。そんな女々しくてぐちゃぐちゃした心情なんて自分自身にさえ理解できていない。誰かと以前来たことがあった。ほつれた糸のはしっこをつかんで引っ張るような思いが私を導いたのかもしれない。
なみなみと溢れるような水が四方八方を取り囲んでいる。私はかすかな息苦しさを感じていた。巨大な円柱型の水槽の側面をなぞるように回りながら階段を降りていく。濃い青の中、時折身を翻した魚の腹が銀色に鈍く瞬くのが見えた。自由に泳ぐ尾びれを眺めていると、指定されたルートをなぞるだけの私の方がずっと不自由を強いられているように思えてくる。息苦しさは少しずつ少しずつ重たくのしかかってくる。私は誰かに当てつけるように分厚いガラスの面を指でなぞりながら、ゆるく歩く。螺旋状の階段を下りながら、私はゆっくり海底に近づいていった。下りるたび不気味に濃さを増していく青色の中、薄暗い間接照明を頼りにした。そうしてやがてたどり着いた暗い暗い深海で蠢いていたのはカニだった。冗談みたいに手足が長いその生き物は水流でわずかに揺れながらも、頑固に一点にとどまり続けていた。海底の岩間に小さく揺れる赤い塊はグロテスクにすら見えた。
キモチワルイ……。
見たままの感想が心に浮かんだとき、私の心は青く塗りつぶされた。不快で汚らしい感情が止めどなく溢れて、それが毒になって手足を痺れさせた。水槽をなぞっていた人差し指の先がぶるぶる震える。冷たいガラスの向こうから、煮詰めた青色の毒が伝わってくるみたいだ。それでも私は不思議とそれを手放せずにいる。なんでだろう。この水槽に棲むすべての生き物たちを惨たらしく殺し尽くしてやりたい衝動に震えながら、そうすることの恐ろしさや虚しさに私は静かに絶望していた。
水槽の表面のガラスのフラットな手触り、肌を撫でる空調の風、足腰にかかる私の重み。そんなもののせいか、私は覚めていた。遠くから音がする。ビィー、とか、ブゥーン、とか、空気が揺れる音がする。なんの音だろう。私の意識はいつの間にかその音に集中していた。ぶぅん? ぶく? ぷく?
だんだん明瞭になるそれはきっと泡の音だ。海底の生物の小さな身体から、水草の葉から、水底を敷きつめた小石の隙間から。小さな小さな気泡はふくふくと寄って集まって次第に定形をもたない歪な塊をなしていく。アメーバの分裂の過程を模したようなその光景を、青暗いライトが映す。海の底で無限に繰り広げられるそんな情景、それを模したのはあるいはアメーバの方であったかもしれない。生まれくる生命たちの産声を聞いたような錯覚に、私はいつしか震えていた。
「泣いているの?」
私は自分の頬に触れる熱いものがあることに気がついた。指ですくってみると、それは青く鈍く光っていた。だから納得した。私は海の底にいるのだから。いつだって溢れるほどの涙の中を泳いでる。視界の端に一面青のスクリーンを映しながら、私は隣にそっと意識を向けた。
「だれ?」
カラスのように真っ黒なスーツを着た男が、一人立っていた。
ここはよく風が通る場所だ。同じ海に接した場所であっても深海と砂浜ではまるで景色は違う。カモメも鳴かないコンクリートの冷たい波止場には北風が遠慮がちに吹いていた。そんな慎ましい風ひとつさえ密室のような水底には吹かない。
「なんだってそんな格好で水族館に?」
その男は馬鹿みたいに気取ったブラックスーツを着込んでいた。
「まるで季節外れのカラスみたい」
彼は自嘲するように唇を歪めて微笑んだ。中学の頃もたまにそんな仕草をしていたようにも思ったが、それも気のせいであるかもしれないと思いなおした。そもそも私と彼とは当時そこまで親密な仲ではなかった。高校にもなればまるで接点がなくなる程度には。しかし、その微笑が彼によく馴染んだ仕草だったのは確かだ。
「カラスだって海に潜りたくなるときがあるさ」
私はその言葉の意図がわからず、小首を傾げた。
「カラスの行水になっちゃったけどね」
どう応えたものか困惑した。私は困ったとき、無表情になる癖があるらしい。最近、友人に指摘されて気がついた。今もきっと仏頂面を晒しているだろうと思い、どうにかならないかと思案するが、そうすることがさらに私を困らせ、頬が強張っていくのを感じた。負のスパイラルである。あぁ、今みたいに頬が緊張しているとき私は無表情を浮かべているのか、覚えとこ。急速に冷静になった頭の隅でそんなことを考えていた。
そのとき彼はふっと微笑んだ。地面の中で時間をかけて満ちていった水がある日ふと地表にこぼれ出るような柔らかな微笑みだった。頬の表面が人懐っこく、ぷにぷにしていそうで手を伸ばして触ってみたい。
「あ、ごめん。なんかおかしくて。いきなり笑われたら気持ち悪いよね? ごめんね、悪気はないんだ」
彼は急にしおらしくうつむいてしまった。その頬は強張っていて、私もさっきまでそんな表情を見せていたのかと少し不安になった。だとしたら、なんというか、申し訳ないことをしてしまった。
「なんか、ほんとごめん……」
「笑顔ってさ」
思わず変な言葉を口走ってしまったと自分でも思った。思ったが、顔をあげた彼の瞳が目に入ってしまってどうにも引っ込みがつかなくなっていた。
「笑顔っていうか、微笑み? ……って、なんか不思議だよね。相手の考えていることなんか一つもわからないのに、それでも相手に受け入れられていることがなんとなくわかっちゃう」
彼は不思議な深海生物を見るような顔で私を見ていた。そのときひとしきり冷たい風が吹いたから、私はその開きっぱなしの口に入りこんで彼の身体を冷やしてしまうかもしれない風の粒子について考えていた。早く口を閉じなきゃ、肺を経由して身体中を巡る冷たい酸素が節々までを冷やしてしまう。彼がぶるりと身体を震わせて、見ると顔は少し青ざめているようだった。あ、と思ったとき盛大にくしゃみをした。ぶえっしゅ! ぶえっしゅ! と二回続けた。それだけ派手にやればきちんと身体に悪いものを追い出すことができただろうか。私は自分の頬が少し緩むのを感じた。
「……あぁ、なるほど。さっき言ってたこと、少しだけわかったよ」
いつしか私の方を見ていた彼が小さく頷いていた。
「でもなんかあれだな……俺の態度がわかりにくくて不快だったなら、ごめん」
彼がなにに納得してなにを謝ろうとしているのかを私はきっとわかっていない。こうじゃないかという考えはあるがおそらくは違っているだろうとしか思えない。だがそれでもいい。そう思えたのはきっと彼がぎこちない笑顔を浮かべていたからだ。
中学卒業以来、およそ五年弱ぶりの私たちの再会だった。どこか知らないところへ行ってしまう船の、いやに間延びした汽笛の音がいつまでも耳に響いていた。
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