@kuronekoya

 取引先との打ち合わせが終わり勤め先に戻る途中の電車の中、昼を過ぎたばかりの平日のJRと接続する駅。

 ドアが開くと私が座っているシートの左隣の人が降り、そこに男性がスッと座った。

 手にした資料からちょっと目線が離れた。


 秋の始め、もう半袖では涼しすぎるけれど上着を着るにまだちょっと暑い、そんな季節。

 その男性の腕まくりした右腕にある特徴的な傷跡。

 息を飲み、そっと横目で確かめた。


 もしかしたらいつかこんな再会があるかもしれない、とは少しだけ思っていた。

 ずっと。

 学生時代の数年間を一緒に過ごした人だった。

 あの頃より少しお腹周りが太っているような気がするけれど、きっとそれはお互い様だ。



 一緒に美術館や映画館にはよく行った。

 映画はひとりで見るのが好きだったはずなのに、付き合い始めたときに彼にもそう宣言したのに、いざ付き合い始めてみると「一緒に映画を見に行こう」と誘ってくれないことに腹を立てて、彼を困らせたりした。


 分不相応のレストランに背伸びして行ったこともあったし、カジュアルなビストロとかにはタウンガイドの情報を頼りにあちこち行っては、当たりだ外れだと話しながら手を繋いで夜道を一緒に帰った。


 互いの部屋に行き来しては、一日中本を読んだりレンタルで昔の映画を見たり、一緒にご飯を作ったり、そのまま翌朝まで一緒にいたり…


 やがて卒業、そして就職。

 遠距離、ままならない時間、仕事への価値観の違い。

 夜遅くにやりとりする電話の頻度もだんだん間隔が開くようになってきた。


 嫌いになったわけではない。

 けれど、好きだけでは乗り越えられない何かがどんどん広がっていって、やがて別れを切り出された。


 でも、今私が働いているこの街にも彼の勤める会社の支社ができてから、もしかしたら、とは少しだけ思っていた。



 視線を手元の資料に戻した瞬間、左側から視線を感じたような気がした。

 私もそちらを向こうとした時、目の前を今ターミナル駅から乗ってきた老夫婦が横切った。

 彼の隣、ひとり分だけまだ空いているシートに妻だけでも座らせようと、夫の方が妻の手を引いて小走りで移動してきたのだった。

 反対のドアから乗ってきたビジネスマン風の男性はその老夫婦に向けて、その席に座るつもりはない、という表情を見せて歩みを緩めた。


 私の隣の彼も、その様子を見たようだ。

 そして彼は当たり前のように老夫婦の夫に微笑みかけて、スッと席を立った。


 こちらを振り向くことなく閉まったドアの前まで移動し、ドア横の手すりに背をもたれさせ、電車が発車するとともに手にしていた文庫本を開いて読み始めた。

 その横顔を見ながら、変わらないな、と思った。


 私が視線を手元の資料に戻した瞬間、彼がこちらを見た気がした。

 隣の老夫婦が揃ってそっと頭を下げた。

 私がもう一度彼の顔を見た時には、ちょっとはにかんだような笑顔で既に彼の目線はまた文庫本の方に向いていた。

 こういうところ、あの頃と全然変わってない。


 結局一度も視線は交わらないまま、私の降りる駅に着いた。


 ドアが開く。

 立ち上がり際にもう一度だけ彼の方を見た。

 その文庫本を持つ彼の左手の薬指には何もはまっていなかった。

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