奇説、邪馬台国は九州に有った!

時織拓未

九州北部に存在していたと考えると、こんな可能性も!

 2世紀前後の日本には、卑弥呼という女王の統べる邪馬台国が存在したそうです。

 “そうです”と断定調にしない背景は、邪馬台国の存在が、お隣の中国で勃興した魏などの歴史書に記載されているけれど、肝心の日本の歴史書には記載されておらず、真偽が定まっていないからです。

 後の大和朝廷にすれば、日本は日本であって、その日本の中に別名称の国が有ったという記述をするはずがありません。でも一方で、卑弥呼という有名な女王の存在も、日本書紀などの歴史書の中では希薄なので、照合作業を進めようがないというのが実情です。

 こういう情報の乏しい古代には、幾代にも渡り、多くの者が貴賎を問わず、ロマンを掻き立てられてきました。端的には「邪馬台国の所在地は?」という疑問ですが、九州北部説と近畿説が有り、今以って決着していません。

 そこで、『邪馬台国は、佐賀県鳥栖市に所在し、石灰石文明を築いていた』という仮説を、私は主張します。

 まず、佐賀県鳥栖市という場所は、九州最大の平野、筑紫平野の中央に位置します。稲作の盛んな弥生時代後期において、都を構えるならば、広大な平野の中央部でしょう。

 次に、石灰石文明。聞き慣れませんね。

 ですが、鳥栖市の北東50㎞程の場所に、日本三大カルスト地形の1つ、平尾台が広がっています。羊のような白い岩石が草原に群れている、あの光景です。あの下には、石灰石(炭酸カルシウム)と石膏(硫酸化カルシウム)が埋まっています。

 この炭酸カルシウムと硅石を混ぜて焼き固めると、ベーシックな耐火レンガになります。硅石は、火成岩に含まれる石英ですが、鳥栖市の東70㎞程に位置する大分県由布市の伽藍岳で採取できます。

 この耐火レンガは、製鉄プロセスでのキー・テクノロジーです。

 肝心の鉄鉱石の産出地は、朝鮮半島南端の慶尚南道にある梁山鉄山。任那という国があり、その後の大和朝廷が友好関係を結び、新羅に滅ぼされる直前には援軍を出したほど、大和朝廷には重要な土地でした。武器や農具の材料となる鉄の原料ですから。

 鉄鉱石とは酸化した状態の鉄です。

 ですから、炭素と一緒に強い火力に焼べると、還元され、純粋な鉄に戻ります。

 たたら製鉄で有名な、あの製法をイメージしてください。この際に強い火力を必要とするのですが、焚火程度では温度が不十分なので、窯の中で加熱します。

 ところが、鉄が溶けるくらいの高温ですから、窯の内部も無傷では済みません。ここで耐火レンガの登場です。耐火レンガで作った壺の中に、溶けた鉄が溜るのです。

 また、炭素ですが、当時は木炭などを使用したのでしょうが、石炭の方が強い火力を得られます。

 日本の炭鉱は深い坑道を必要とする炭鉱ばかりというイメージですが、実は露天掘りできる炭鉱が有ったのです。福岡県若宮市の貝島炭鉱。鳥栖市から北北東50㎞程、平尾台の西隣です。歩いても1~2日の距離です。

 ところで、韓国に相当する当時の朝鮮半島南部では、任那、百済、新羅の3国が睨み合っていました。

 高句麗は今の北朝鮮の位置です。北朝鮮は鉱物資源に恵まれる一方で、韓国は日本と同様に鉱物資源には恵まれていません。ですが、百済と新羅の領土には小さいながらも炭鉱と鉄鉱山の双方が有り、任那には鉄鉱山しか有りませんでした。

 これは、武器が鉄器化し始めた頃では、致命的な弱点です。

 つまり、任那と邪馬台国には戦略的互恵関係が成立します。

 任那は鉄鉱石を、邪馬台国は石炭と耐火レンガを融通し合えば、安全保障面で安心できます。

 恐らく、鳥栖市から博多湾を経由して、壱岐・対馬、そして釜山を結ぶ海上航路が盛んだったはずです。対馬海峡を50㎞弱の間隔で中継する位置に、壱岐島と対馬島が浮かんでいます。

 さて、石灰石文明は、耐火レンガを介した鉄器時代の重要な要素として以外にも、特長があります。

 石灰石は、セメントの材料にもなります。セメントの製造プロセスではクリンカーという中間材を準備します。クリンカーとは、石灰石・粘土・硅石・製鉄プロセスで発生する副産物を粉状で混成した状態の物です。

 粘土は、全国で弥生土器が作られたくらいですから、至るところにあったでしょう。ちなみに、鳥栖市の南南西100㎞にある熊本県天草下島で採取される天草陶石は有田焼の原料として有名です。島原湾・有明海を船で運搬すれば、鳥栖市まで容易に運び込めます。

 このクリンカーを1,000℃~1,450℃で焼成し、焼き固めた物と石膏を粉砕して粉状にしたものがセメントです。

 この温度は窯が無いと実現できませんが、時代は、野焼きの弥生土器から昇り窯などで作る須恵器に移りつつありました。製鉄業のノウハウが伝播したことも一因でしょう。機は熟していたのです。

 これらを使って、邪馬台国はセメントを製造していたのでは? と、私は睨んでいます。

 このクリンカーの配合比率は企業秘密なのですが、長い時間を掛けて習得していった配合比率を、卑弥呼は門外不出の情報として独占していたのでしょう。卑弥呼は神術に長けた巫女だという説が、生まれる土壌になったのではないでしょうか。

 セメントが入手できれば、次は煉瓦です。

 煉瓦とは、粘土を焼き固めたものです。セメント以上に製造は容易です。

 想像するに、邪馬台国の建築物は、煉瓦を積み、床や屋根には平板を渡した構造。今でいう2×4工法みたいな感じだったでしょう。

 施工も簡単だし、頑丈です。煉瓦を並べれば済むので、地面は整地するだけ。特段の基礎工事は不要です。

 反面、石材に比べると劣化の早い煉瓦は、千年以上の長い時間を超えられません。基礎工事もしないので、遺構の類も見当たりません。

 だから、邪馬台国の都の遺跡は、今以って発掘されないのだと思います。

 こんなロマンに想い馳せ、筑紫平野の田園風景の中に佇んでみてください。卑弥呼の笑い声が、あなたの耳にも聴こえてきませんか。

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