第六幕


 第六幕



 新校舎と第二校舎を繋ぐ、二階の渡り廊下。そこを渡り歩きながら僕はいつもの習慣で、窓の外をボンヤリと眺める。

「寒いな……」

 空は見渡す限りの曇天。重く垂れ込めた雲に覆われた空の下、本日の予想最低気温はマイナス五度で、降水確率は八十%。夕方から明日の未明にかけては本格的な雪が降る可能性が高く、眼下の遊歩道を歩いて帰路に就く生徒達の誰もが皆、厚手のコート等を着込んで迫り来る寒波に備えていた。当然だがかく言う僕も、制服のジャケットの上から厚手のダウンジャケットを羽織っており、そのあたりに抜かりは無い。

 季節は、まさに真冬そのもの。カレンダーの上で言えば、既に一月も半ばを過ぎた頃になる。遊歩道の脇に植えられた桜の木は全ての葉を落として丸裸となり、再来月に控えた春の到来に向けて、今は幹にその力を蓄えていた。生物室の中庭で生物担当の染谷教諭が育てていた怪しげな植物達も、今は枯れ果てたか、もしくは室内へとその場所を移されている。そんな植物達でも耐えられないほどの寒さの中で第二校舎の薄暗い廊下を歩けば、室内だと言うのに、吐く息が白く輝く。

「もうすぐ今年度も終わりか……」

 秋のあの日以降に発生したいくつかのイベント事は、その全てが予定調和に染まった惰性にまみれて終わり、特筆すべき思い出は無い。

 クリスマスは大学が冬休みを迎えて久し振りに実家に帰って来た姉と共に、父親が買って来た安物のケーキとフライドチキンをモソモソと食んでいる内に、特に何事も無く終わった。明けて迎えた正月もまた、母親がデパートで買って来た出来合いのお節をつまみつつコタツでゴロゴロとしている内に、気付けば松の内と共に冬休みを終える。

 そして学校は何事も無かったかのように三学期を迎え、同時に僕達美術部の部活動もまた、いつも通りに再開された。

「こんちわー」

 第二校舎の階段を三階まで上り終え、更に廊下の先、建屋の最奥に在する美術室の前まで歩を進めた僕は、形ばかりの適当な挨拶をしながらその引き戸をガラリと開く。おそらくは未だ誰も来ていないだろうと踏んでいた僕の予想は外れ、室内に据え置かれた大型の電気ストーブの前には、顧問の椎名教諭と橘部長の二人が向かい合って椅子に座りながら何事かを懇談していた。

「あ、椎名先生、橘先輩、こんにちわ」

「おう、早いね笹塚くん。そうか、もうそんな時間になるのか」

「こんにちわ、笹塚くん。久し振り」

 年長者二人に対して改めて挨拶をし直した僕に、椎名教諭と橘部長の二人もまた、返礼をよこす。

「それじゃあ時間の切りもいいようだし、そろそろ終わりにするとしようか。僕はこれから自分のアトリエに行くつもりだけど、橘くんは、どうするかな? 今後の準備もあるだろうし、もう帰るかい?」

「いえ、学校に来たのも久し振りですし、もう少しここにいます」

「そうか。それじゃあ身体を冷やさないように、気を付けて。今日は特に、これから雪が降るとか天気予報でも言ってたしね。風邪で受験が出来ない、なんて事にだけはならないように気をつけなくちゃ。実際にそれで毎年何人か、志望校を受験出来なかったって子が出るからね。風邪を舐めちゃいけないよ」

 笑ってそう言いながら立ち上がった椎名教諭は、作業用の帽子を被りつつ僕の横を通り抜け、出口へと向かう。

「それじゃ椎名先生、ありがとうございました」

「うん、橘くんも受験、頑張って」

 後ろ手に引き戸を閉めながら退室する椎名教諭の背中に向けて橘部長が一礼をし、教諭もまた、教え子に激励の言葉をかけた。そして引き戸が閉められた後の美術室内には、僕と橘部長の二人だけが残される。

 暫しの間、無駄に広い美術室内を支配する沈黙。

 電気ストーブが温風を噴き出す微かな機械音だけが、妙に耳煩く聞こえる。

「久し振りですね……橘先輩」

「そうだね。笹塚くんに会うのも、久し振りだね」

「受験の方は、どうですか?」

「まあ、ぼちぼちってとこかな。未だセンター試験が終わったばっかりだし、私立にしても国立にしても、学科も実技も本番はこれからってところ」

 当たり障りの無い応答を繰り返しながら、互いの距離感を計り合う僕と橘部長。僕はカバンを机の上に置き、着ていたダウンジャケットを脱いで手近な椅子の背もたれに掛けると、腰を下ろして一息ついた。

 実際のところ、僕が橘部長本人と直接会うのは、実に一ヶ月近くぶりの事になる。我が東柏台高等学校では三学期からは三年生は自由登校になるために、殆どの生徒は自宅や予備校で自習に励んでいて、わざわざ学校にまで出て来る事は滅多に無い。それでも来る機会があるとすれば、何か特別な用事がある場合に限られる。

「今日は、どうして学校まで来たんですか?」

「来たら、悪かったかな?」

「意地悪な言い方ですね」

「ふふふ、ごめんなさい。本当はね、センター試験の結果と、今後の受験の予定を椎名先生に伝えに来たの。それとついでに、一応はまだ部長の肩書きなんだし、美術部の様子も見ておこうかなって」

「そうですか。でも部内では特に何も、変わった事はありませんよ。……あの日以来、ですけどね」

 僕も少しだけ意地悪な言い方をしたのは、故意にではないとは言え事件の現場から距離を置く事となった橘部長に対して、ほんの少しばかりの反抗心を見せたかったからなのかもしれない。だがその後に訪れた再びの沈黙の時間が、僕を少しだけ後悔させる。

「あの日以来、か……」

「そう。あの日以来、です……」

 僕達二人は揃って窓の外を眺めながら、過ぎ去った過去を懐かしむかのように、遠い眼をする。よく見れば曇天の空に、未だ小さな氷の粒程度の雪が、チラチラと輝くように舞い始めていた。

「こんにちわ……」

 不意に美術室の引き戸がカラリと開いて、小さく控えめな挨拶が僕達の耳へと届いた。振り返ればそこにいたのは、学校指定のカバンを胸に抱え、ややサイズが大きめのダッフルコートに身を包んだ柏木の姿。

「あ……」

 美術室内に橘部長の姿を認めた柏木の顔がぱあっと明るくなり、その頬を緩ませる。それは愛すべき主人を見つけた子犬の様な、純粋で純朴な笑顔。

「こんにちわ、柏木さん」

「こ、こんにちわ、橘先輩……」

 嬉しそうに口元をほころばせる柏木だったが、次の瞬間に僕の姿を認めると、その表情を少しだけ曇らせて困惑の色を浮かべた。そして僕と橘部長の二人の顔を交互に見遣って逡巡した後に、ゆっくりと後ろ歩きで、美術室から退出する。そして寂しそうな笑顔を浮かべながら、そっと引き戸を閉めた。

「ごゆっくり……」

 最後に小声でそう言って、姿を消した柏木。彼女が出て行った後の扉を、僕と橘部長の二人は複雑な心境で見つめる。

「気……使わせちゃったかな……」

「そうですね……」

 図らずも柏木を追い返す形となってしまった僕達二人は少しだけ悪びれて、何だかひどく、居住まいが悪い。僕は意味も無く、痒くもない後頭部をポリポリと掻いて罪悪感を誤魔化し、橘部長もまた腰掛けた椅子の座面をコツコツと爪の先で弾いて、埋まる事の無い間を埋めようとしていた。

 再び美術室内には無言の時間がゆっくりと流れ、やがて僕達の間には、気まずい空気だけがじわじわと淀んで来る。

「笹塚くん。キミ、さ」

 不意に橘部長が、口を開いた。

「裸婦デッサンをやった事は、あるのかな?」

「ラフ?」

「言っておくけど、「荒い」と言う意味のラフじゃなくて、「裸の婦人」と書く方の裸婦だからね? 要は、裸の女性をモデルにしたデッサンを描いた事があるかなと言う意味で、聞いてみたんだけど」

「残念ながら、ありませんよ」

 美術系予備校の夏期講習で着衣の女性のデッサンを体験した事はあったが、裸婦デッサンの経験は、本当に僕には無かった。

「それを今ここで、私をモデルにやってみる気は無いかな? 勿論、キミが拒否しなければの話だけど」

 そう言うと橘部長は、座っていた椅子からやおら立ち上がる。その表情は、意外なほどに冷静沈着とした、涼しげな笑顔のままで。そして彼女は、状況が半分がたも理解出来ずに只々驚くばかりの僕の沈黙を了承の意味と受け取ったのか、ゆっくりとした手付きで着ていた服を脱ぎ始めた。

 まずは制服の上に着込んでいた厚手のダッフルコートを脱ぐと、それを丁寧に畳んで、椅子の背もたれに掛ける。それから制服のジャケットを脱ぐと、その下に着込んでいたクリーム色のカーディガンもまた脱ぎ始め、次第に彼女の身体のラインが露になり始めた。更にネクタイを外し、薄い生地の純白のブラウスをも脱ぎ捨てると、もはや彼女の上半身は瑞々しい色白の素肌を晒した面積の方が広くなる。

 まるでストリップの様に一枚ずつ着衣を脱ぎ捨てて行く、橘部長。そんな彼女を見てはいけないと理性が警鐘を鳴らしながらも、次第にその柔肌を露にする想い人から眼を逸らす事が出来ないでいた僕は、一言も言葉を発する事無く椅子に腰を下ろしたまま硬直していた。だが同時に、今にも鼻血を噴き出しそうな程の興奮と緊張に顔を紅潮させつつも、眼前の光景をジッと見守る事を男としての本能が継続させる。

 斯くして僕の眼前に現れたのは、淡い水色のレースとフリルで彩られた艶やかなブラジャー姿の、橘部長。意外にも着痩せするタイプだったのか、下着姿になった彼女の胸は、芹沢ほどではないにしろ僕の想像以上に肉感的であった。

 やがて脱衣は下半身にも及び、冬用の厚手のタイツを脱ぎ、制服のプリーツスカートのジッパーに手をかけた橘部長は、その薄い布地をもまた静かに脱ぎ捨てる。そして遂に僕の眼前に無防備にさらけ出されたそれは、ブラジャーと同じく水色のレースとフリルで彩られた、最後の薄衣。その薄い布地の向こうに彼女の秘められた恥部が隠されているのかと思うと、僕の興奮は最高潮に達する。

 下着姿の、橘部長。

 僕は見てはいけないものを見てしまっていると言う背徳感と同時に、いつまでも眼前の光景を見ていたいと思う高揚感。そして出来る事ならば更に薄い布地の奥までも見てしまいたいと願う期待感によって頭に血が昇り、鼻の奥には噴き出そうとする血の気配が感じられ、自分の意識を保つ事すらもままならない。

 もはや鼻血を噴いて気を失うか、それとも眼前の想い人を性的な意味で襲うか、そのどちらかの行為に及んでしまいそうなほどだった。

「へくちっ」

 そこで不意に、橘部長が盛大なくしゃみを飛ばした。そして更に続けざまに、三度のくしゃみを飛ばす。

「ごめんなさい。やっぱり、駄目みたい。こんな雪が降りそうなほどの寒い日じゃ、さすがに裸でのデッサンは物理的に無理だったみたいね。期待させてしまって申し訳ないけど、やっぱり、着衣のままで我慢してくれないかな? 勿論キミがどうしても裸がいいと言うのなら、多少の無理はしても構わないのだけれど、どう?」

 僕に対して拝むような格好で悪びれ、謝罪する橘部長。どうやら裸婦デッサンの提案は、ご破算となったらしい。

「あ……はい、着衣のままで、充分です」

 そう言って僕は少しばかりホッとし、それと同時に、大いにガッカリもする。と同時に、鼻の奥に疼いていた血の気配もまた、えもいわれぬ本能的な興奮と共にどこかへと遠退いて行く。そんな複雑な心境の僕の眼前で、橘部長は一度は脱ぎ捨てたタイツとスカートとブラウスを着込んでネクタイを締め直すと、更にその上からカーディガンとジャケットを羽織った。さすがにダッフルコートまでは着込まなかったが、これで彼女は一応、元の着衣の状態に戻った事となる。そして制服姿の橘部長は光源を安定させるためのデッサン用パネルの前に椅子を置いてそこに腰掛けると、僕に向けて言う。

「それじゃあ、よろしく頼んでもいいかな」

「あ、はい」

 何だか少し、拍子抜けした返事を返した僕。そんな僕は、果たして今の今まで眼前で繰り広げられていた想い人のストリップショーが本当に現実の出来事だったのかが急に疑わしく思えて、思わず自分の頬をつねっていた。そんな僕を見て橘部長がくすりと笑ったので、おそらくは現実だったのだろう。

 とにかく気を取り直して、着衣の橘部長をデッサンする準備に努める。

 まず僕は自分のロッカーからデッサン用の木炭紙大パネルを取り出すと、部の備品である木炭紙大にカットされた画用紙を一枚持ち出して、それを目玉クリップでパネルに固定した。そして美術室の端に並んで立て掛けてあるイーゼルから適当な一架を持ち出し、橘部長の斜め前に設置すると、そこにパネルを立て掛ける。

 そのまま構図を決定すると椅子とイーゼルの位置を微調整し、その調整された椅子に深く腰掛けてから、デッサン用の鉛筆の準備を始める。

「……どうして、裸婦デッサンを始めようなんて言い出したんですか?」

 僕は鉛筆を削りながら、橘部長に改めて質問した。鉛筆は当然ながら普通の文字を書くような削り方ではなく、俗に「デッサン削り」と呼ばれる、異様に鋭角で長細く芯を露出させた特殊な削り方で削る。見た目はあまり良くないが、鉛筆を横に倒して広い面を塗るには、この方が都合が良い。

「そうだね……高校生活最後の記念として、ちょっとだけ特別な事がしてみたかったから……と言ったところかな。勿論、描いてもらうのがキミだからこその頼みだと言う点だけは、忘れないでおいてもらいたいけどね」

「一応、光栄ですとだけは言わせておいてもらいますよ、先輩。何だか少し、からかわれているような気もしないでもないですが」

 苦笑交じりにそう言いながら、僕は手にした木炭紙用のデッサンスケールで、構図を細かく調整する。デッサンスケールとはグリッド上の分割線が描かれた掌サイズの透明なプラスチック板の事で、これをガイドにして、モチーフを如何にして紙の上に収めて行くかを見極めるための道具だ。

 こうして構図の最終決定を下した僕は、画用紙の上にまずは柔らかめの鉛筆で、橘部長の姿をその輪郭から描き出し始めた。

 描き始めると同時に、橘部長が姿勢を崩さないまま口だけを動かして、僕に問いかけ始める。

「美術部の様子は、アレから何か、変わったのかな?」

「何も、少しも、変わりはありませんよ。橘先輩と芹沢さんが激しくやりあった秋のあの日以来、残された僕達三人がなんだか余所余所しくなってしまったのは、そのままです。それは三学期になってから僕と柏木の二人だけが残されてからも、全く変わりませんよ。……いや勿論、全ての原因が僕の優柔不断さにあるのは分かってますから、先輩を責める気はこれっぽっちもありませんが」

「そうか……でもそうは言われても、やはり責任は感じるよね。私がもう少しハッキリしていれば、芹沢さんも、あんな態度にまでは出なかっただろうし」

「それは、僕も同じですから……」

 モチーフとなる人物の大まかなシルエットと陰影を大雑把に画用紙上に描き出しながら、僕は素直な自責の念を吐き出した。あの日の芹沢の心中を察する度に、今でも胸が痛むのは変わらない。僕が思っていた以上に、彼女の僕に対する想いが本気だった事を察してやれなかった自分の不甲斐無さに、只々恥じ入るばかりだ。

「ところでその芹沢さん達は、今はどうしているんだったかな」

 橘部長が、僕に問うた。

「芹沢さんも菊田さんも柳さんも、それにあの韮澤も、皆揃って正式に退部したじゃないですか。クリスマスの、少し前くらいに。……まあそれ以前に、秋のあの日以降は美術室にも顔を出さなくなっていましたけどね」

「ああ、そう言えば、そうだったね。それで、その後は何か変化は?」

「橘先輩は知らないでしょうけれど、三学期が始まってすぐに、芹沢さんが代表になって漫画研究会が発足されましたよ。勿論菊田さんも柳さんも韮澤も、同時に部員になってね。それに他にも結構部員が集まっているらしいですから、今ではウチよりも大所帯になって、来年度には正式な部に昇格するんじゃないですか? 意外にも漫画好きの生徒って、沢山いたみたいですね、ウチの学校にも。まあ、柳さんみたいに自分でも漫画を描く部員がどのくらいいるのかは知りませんが」

「そっか。確かに無理して美術部に残るよりも、その方が芹沢さんにとっても良かったのかもしれないね。勿論、柳さんを筆頭とした他の三人にとっても」

「ええ。それについでと言ってはなんですけど、噂に聞いたところによると、芹沢さんと韮澤が付き合い始めたらしいですよ。……まあ、すぐに別れて、今では韮澤が一方的に芹沢に付きまとっているだけらしいですけどね。いわゆるストーカーってヤツって言うか、フられてもフられても、何度も繰り返しアプローチしているみたいで」

「それはまた、芹沢さんにとってはひどく災難な話じゃない。それにしても、一時的にとは言え、あの二人が付き合っていたとはねえ。……もしかして、韮澤くんは最初から、それが目的だったのかな?」

「そうかもしれませんね。……いや、そうだったのかな」

 思い返してみれば、思い当たる節はあまりにもあり過ぎた。画材屋のトイレで僕が芹沢を苦手だと言った時に、事のほか歓喜していた韮澤。夏休みに二人きりでプールに行った事を、殊更に問題視した韮澤。あの秋の日に、僕を渾身の力で殴りつけた韮澤。それ以外にも一年生の頃から、彼は事あらば、芹沢に構っていたようにも思う。それら全ての事象が、芹沢に対する韮澤の片思いがその根源にあるとすれば、納得が行った。

「それにしても芹沢さんと韮澤くんがすぐに別れたと言うのは、もしかしたら芹沢さんは、未だにキミの事に未練があるのかもね」

「かもしれないですが……それについてはあまり、考えないようにしましょうよ」

「そうだね……。ゴメン」

 芹沢達の現状を語る一方で、僕は自分の手元にも、意識を集中させる。画用紙上に橘部長の大まかなシルエットが捉えられたところで、特に影が濃い顎の下や鼻の下、それに目元や口元等に全体の基準となるポイントを描き出す事により、モチーフの持つ特徴を自分の中のイメージと一致させて行く。この段階まで作業を進めたところで、ようやくマッスとしての姿が見えて来た。

「ところで、橘先輩の受験の具合はどうなんですか?」

 僕は、話題を橘部長の現状へと切り替える。

「受験の具合か……。センター試験はとりあえず、上手く行ったかな。まあ国立の東京芸大の足切りは、自分の名前さえ書ければ合格と言われるほどに意味が無いからね。学科で落ちるなんて事は、まず絶対にあり得ないよ。それに私立の方も、学科に限って言えば、予備校の先生がたからも太鼓判を押されているから問題は無いだろうね。だからやっぱり問題となるのは、実技試験だけかな」

 橘部長は、少しだけ憂いを帯びた表情でそう言った。やはり受験を目前に控えた人間にとっては、デリケートな話題らしい。

「予備校の冬期講習でも、周囲の多浪生達と比べたら私の実力なんて大した事が無いと思い知らされるばかりだったし、やっぱり現役合格の道は厳しいかな。一浪までは予定に入れておけとはよく言われるけれど、一浪で済めばむしろいい方かな」

「橘先輩ほどの実力でもそうだとしたら、僕なんて一体どうしたらいいのか……」

「キミはいいじゃないか。まだ一年あるんだから、その間に頑張って、レベルアップを目指せばいい。でも私はもう、どう足掻いたって今の実力で臨むしかないからね。……地方大学の教育学部の美術科ならば、定員割れを起こしているから簡単に合格出来るらしいけれど、やっぱり出来れば専門の大学に進学したいからね。しかも仮に三大私立にでも合格出来れば、万々歳なんだけどな」

 三大私立と言うのは、私立の美術系大学の中でも特に難関校とされている武蔵野美術大学、多摩美術大学、東京造形大学の三校を指す。その入試倍率は、難関とされている一般大学の学部に比べても、一歩も引けを取らないほどに高い。

「そう言えば冬期講習で思い出したけれど、キミと柏木さんは、今回は参加しなかったんだよね。夏期講習と同じように、また三人で一緒に通えるのかとも思って、密かに楽しみにしていたんだけどな」

「冬休みは夏休みと違って短いし、正月に帰省したりなんだりで意外と忙しいですから、今回は僕はパスさせてもらいました。……それとちょっと言い難い事ですけど、今は以前と同じように、三人で仲良く通うって気にはなれなかったんですよね。たぶん柏木さんも、僕と同じ理由だったんじゃないですか。冬期講習に行かなかったのは」

 服の皺や質感、顔の目鼻立ちや手足の骨格等の細部を少しずつ固めの鉛筆に持ち変えて描き込みながら、僕は答えた。その言葉通りに、あの秋の日以降の僕達三人の関係はどこかぎこちなく、互いの心の距離をどう取ればいいのか計りかねて、改めて試行錯誤を繰り返している感じがある。

「柏木さんか……。彼女は、最近どうしてるかな? 元気?」

「今日は僕らに気を使ってか帰っちゃいましたけど、三学期に入ってからはほぼ毎日部活にも顔を出すようになりましたよ、以前と同じように。それで真面目に、毎日コツコツと油絵を描いています。……なんだかそうする事で、自分の気持ちを忘れようとしているようにも思えて、少し怖いようにも、哀しいようにも見えてしまうんですけどね。まあ、僕の考え過ぎなのかもしれませんけど」

「そっか……あの日以来、暫くは彼女、美術室にも姿を現さなかったからね。その頃に比べたら今は、少しは気持ちに整理がついたって事なのかな。そう思いたいよね、先輩としても、一個人としても。何があっても最終的には柏木さんにだけは幸せになってほしいって、本当に心から思うから」

 少しばかりの罪悪感で眼を伏せながら、橘部長が柏木の幸せを願った。その気持ちは僕もまた、少しも変わりはしない。彼女には、僕なんかよりもずっと優しくて頼り甲斐があってかっこ良くて、そして優柔不断じゃない男に見初められて、順風満帆な恋路を歩んでほしいと心から願う。

「現役の一年生部員も、彼女一人だからね……。今年私が卒業しちゃったら、来年はキミと柏木さんの二人しか、部員がいなくなってしまうもの。確か部活動である事を認められるのは部員が最低でも五人は必要だから、来年度に新入部員が三人以上入ってくれないと、最悪の場合は廃部なのかな。そう言う点でも、彼女には本当に、迷惑を掛けっぱなしだね。本当に悪い先輩だな、私達は」

「本当に、そう思いますよ。柏木さんには、迷惑をかけっぱなしです。でもまあ、一応クラスの友人に声をかけて、名義上だけの幽霊部員を三人ほど確保してはいるんですけどね。だから最悪でも廃部だけは、免れると思いますよ」

「意外と抜け目が無いんだね、キミも」

「こんな事態に陥った原因を作った身として、責任を感じているだけですよ」

 次第に細部に手が入り、形を成していく僕のデッサン。しかし細部が整い始めた事によって初期段階でのシルエットの狂いがその姿を現し、描いては消し、消しては描くを延々と繰り返す、試行錯誤の段階へと突入する。

「……ところで橘先輩。僕の告白の返事は、いつになったらもらえるんでしょうか?」

 僕は、最も肝心な疑問を問うた。

「唐突だね」

「そうでもありませんよ。橘先輩に直接問いかけていないだけで、文化祭の二日目にこの場所で告白してからずっと、一日たりとも忘れる事無く抱き続けている疑問ですから。むしろ、遅過ぎるくらいです」

「そうだね……。あの後夜祭の時にも言ったけれど、受験が全て終わるまでかな、返事が出来るのは。悪いけどそれまでのもう数ヶ月はどうか、待っていてほしい。……もしかしたら、もう一年余計にかかってしまうかもしれないけどね」

「それはちょっと、気の長い話ですね」

 僕は半分呆れて、そして残りの半分はヤケクソな達観気味に、鉛筆を削り直しながらハハハと小さく笑った。だが当の橘部長本人はあくまでも本気だったのか、やや遠い眼をしながら、小雪が舞い始めた窓の外をジッと見遣る。その横顔は相変わらず端正で、凛とした美しさに満ちていた。僕が惚れた女性は、今も確かにここにいる。

 暫し美術室は静寂に包まれ、画用紙の上を鉛筆が走る摩擦音と、電気ストーブの立てる機械音のみが支配する世界となった。さすがにこの天候では運動部も戸外での練習を取り止めたのか、校庭の方角からも、いつもの威勢の良い体育会系特有の掛け声が聞こえて来ない。その代わりに旧校舎の方角から時々鳴り響いて来る吹奏楽部の個人練習の演奏音だけが、張り詰めた空気と静寂を微かに破って耳に届き、心地良い。

「……今度は、私の方から質問させてもらってもいいかな?」

 唐突に橘部長が口を開き、僕は応える。

「どうぞ」

「どうして、私なんかに告白したのかな?」

「勿論、先輩の事が好きだからです」

 僕は、一切の迷い無く答えた。その言葉に嘘偽りは無い。

「じゃあちょっと、聞き方を変えさせてもらおうかな。どうして、私なんかを好きになったのかな? いや、好きになってくれたのかな?」

「人を好きになるのに、理由が必要ですか?」

「確かに、理由は必要無いのかもしれない。それでも告白を決心させるだけの原因は、何かしらあって然るべきだと思うの。だからその、キミに告白を決心させた、好きである事を自覚させた直接の原因が何なのかを教えてほしいの」

 理由が必要無くても、原因は存在する。確かに、そうかもしれない。外見が好みだったからとか、優くしてくれたからとか、所作や仕草が綺麗だったからとか、下卑た話ならそれこそ金持ちだったからとか、人を好きになるための理由なんてものはいくらでも後付け出来る。だが僕の背中を押して告白にまで至らしめた最後にして最大の原因が、単に好きである事の理由とは別に存在した事も、偽らざる事実である。

「橘先輩は、覚えていますか? 先輩が描いた、あのガラスの竜胆の絵を」

「ガラスの竜胆?」

「あの文化祭で橘先輩が遅れて展示した、ガラスの花器に生けられた竜胆の花が描かれた水彩画の事ですよ」

 僕は画用紙上の橘部長の、長く綺麗な黒髪に鉛筆を走らせながら答えた。ステッドラー社製の硬い鉛筆と練り消しゴムを駆使しながら、その表面を艶やかに走る光の波を、時間をかけて丹念に描き出して行く。

「ああ、あの時に展示した、ガラス「と」竜胆の絵の事ね。ガラスの竜胆なんて言うから、何の話かと思っちゃった」

「僕にとっては、ガラス「の」竜胆の絵ですよ。僕にはあの絵の全てが、ガラスで出来ているように見えましたから」

 僕の、率直な感想。

「そっか……。そう言われてみれば確かに、花も含めた全てがガラス細工の様に見えても不思議ではないのかもしれないね。自分ではあまりそんな事は意識せずに、あくまでも生花を描いたつもりだったんだけどな。……でも、ガラスの竜胆か。あの絵のタイトルにさせてもらおうかな、それ」

 目を細めて、くすくすと控え目に笑う橘部長。そんな彼女に向けて、僕は質問の答を投げかける。

「あの絵が、とても綺麗だったからです。それが、僕があの場で橘先輩に告白した理由でもあり、また同時に原因でもあります。勿論それ以前から、ずっとずっと、橘先輩の事が好きだったんでしょう。でも最後に僕の背中を押して告白をさせたのは、告白しなきゃならないと決意させたのは、あのガラスの竜胆の絵の美しさに胸を打たれたからだった事だけは間違いありません」

 普段は内気で優柔不断な僕にしては珍しく、胸を張って、そう断言した。自分でも少しばかり気恥ずかしい事を言ってしまったような気もしたが、偽らざる僕の胸の内でもあったので、引け目は一切無い。

「そうか……」

 橘部長がまた少し遠い目をして、小声でそう呟いた。その表情は純粋に嬉しそうな笑顔とも言えず、かと言って僕の返答に不満や憂いを感じるようなものとも言い切れない、複雑な心境を反映したものに見える。

「……仮にの話だけれどね」

 そう前置きしてから、橘部長は続ける。

「だとしたらもっと綺麗な、もっとキミが心を奪われるような絵を描く人物が現れたとしたら、キミはその人の方を私よりも好きになるのかな?」

「そんな事はありません!」

 僕は少しばかり語気を荒げて、橘部長の疑問を即座に否定した。少なくとも今の僕には、橘部長以外の人を好きになると言う選択肢は残されてはいない。

「……ごめんなさい、気に触るような質問をしてしまったみたいだね。……ちょっとね、不安になってしまったんだ。自分が好かれている理由が覆されたとしたら、もう自分はキミから好かれなくなってしまうのではないかと、不安にね……。それともしかしたら未だ私の心のどこかに、キミが芹沢さんや柏木さんと両想いになってくれたら全てが解決してくれるんじゃないかと期待している部分が、あるのかもしれないのかな。本当に悪い女だよね、私は。キミに好かれるだけの価値があるのかどうかと、不安になるくらいに」

 そう言うと橘部長は、更に遠い目で、寂しげに窓の外を見つめる。僕は無言のまま、画用紙の上に淡々と鉛筆を走らせる事しか出来ない。

 再び訪れる、沈黙の時間。

 確かに何らかのきっかけで僕の気が変わり、芹沢か柏木と両想いになれば、今現在僕達が置かれているこのいびつな関係は解消されるのかもしれなかった。だが残念ながら、その可能性は既に否定されている。僕の気持ちは決して変わる事がないし、一度回り始めた時計の針を再びゼロに戻す事は、たとえ神様であっても不可能なのだから。

「それじゃあまた、僕の方から質問させてもらってもいいですか?」

 沈黙を破って、口を開く僕。

「……もちろん、どうぞ」

 少し間を置いてから、橘部長は了承した。まるでこれから何を聞かれるのかを察して、逡巡したかのように。

「橘先輩は、僕の事が嫌いですか?」

 あえて好きですかと聞かなかったのは、僕なりの意趣返しの意味もある。やはり僕もまた、意地の悪い人間なのだ。

「まさか。嫌いだなんて事、ある筈がないじゃない。むしろどちらかと言えば、キミの事は好きだよ。ちょっと頼り無いなと思う事はあるけど、真面目なキミも、優しいキミも、どのキミも私は大好きだから」

「それなら、どうして今すぐ僕と付き合ってはくれないんですか?」

「……何度も同じ事を言うようだけれど、今の私にとっては、眼の前に差し迫った受験の事が一番大事なの。だから君の告白に対して明確な返事をする事は、今は未だ出来ない。そう言う事で、納得してくれないかな」

「それはつまり、僕は受験以下と言う事ですか」

 少しだけ言葉に棘を混ぜて、僕は言った。受験と言う曖昧模糊とした行為に対する嫉妬心もまた、含まれていたのかもしれない。

「……そうじゃない。決して、そうじゃないの。でも、そうかもしれない……」

 自分の口から漏れる一言一句を噛み締めるかのようにして、橘部長は語る。

「受験と言うものはね、本当に、本当に残酷なものなの。たった一回の試験で、その人の人生が大きく変わってしまう可能性すらも秘めているから。キミも来年になってみれば身をもって実感する事になると思うけど、そのプレッシャーは想像していたよりもずっと過酷なもので、もうそれ以外の事が考えられなくなってしまうほどなの」

 人物デッサンのモデルを務めているためにその姿勢を崩していなかった橘部長が、膝頭の上にそっと乗せていた掌を、ギュッと握り込んだ。

「そして私はね、二つの事を同時に、同等に考えられるほど器用な女じゃないから」

 橘部長は続ける。

「私はね、キミの本気の想いに、中途半端な気持ちで応えるような事だけは絶対にしたくはないの。でも今は、キミの事を第一に考えるだけの心の余裕が、どうしても持てない。だから受験が終わって、キミの気持ちに百%の想いで応えられるようになってから、改めて返事をしたいんだ。分かってくれるかな? ……勿論今私が話した事の全てが、単に私の我侭なのかもしれないし、只の方便なのかもしれない。でもキミの事が本気で好きだからこそ、本気で好きでいたいからこそ、今は返事が出来ない。そう言う事なの」

「……ズルい言い方ですね」

 本気で僕の事を想っていてくれるからこそ、受験の事を第一に考えなくてはならない今すぐにでは、中途半端な返事しか出来ない。だから受験が終わって僕の事を第一に考えられるようになるまで返事は待ってくれと言うのが、橘部長の主張するところらしい。

「それじゃあ春が来たら、期待通りの返事をもらえると思っておけばいいんですか?」

「今のままでは、もう一年かかってしまうかもしれないけどね……。いや、もしかしたらその方が、お互いに新一年生として仲良く大学に通えて、かえって良かったりしてね。浪人を許さなければならない親からしたら、冗談じゃない話かもしれないけど」

「それ、僕が来年現役合格出来なかったら叶わない夢じゃないですか。しかも、橘先輩と同じ大学に」

「キミなら出来るよ。うん、きっと出来る」

 そう言って、橘部長はクスクスと笑った。僕も釣られて少しばかり笑いはしたが、告白の返事を先延ばしにされている事実に変わりは無いので、本心から笑う事はとてもじゃないが出来そうもない。やはり本人が言う通りに、橘部長は悪い女なのだろう。

 やがて僕は精神を集中させて、橘部長をモデルとした人物デッサンの仕上げに取り掛かった。ボンヤリとしていた全体のシルエットを引き締め、細部をより緻密に描き込む事によって、モチーフの持つ特徴を際立たせる。すると次第次第に画用紙の上に、彼女の端正な姿が顕現し始めた。僕の手によって生み出された、橘部長の分身。そこには僕の想いもまた、込められているのだろう。


   ●


「ふー、参った参った。本格的に降りだしてきちゃったよ。この雪じゃあもう寒くて寒くて、作業どころじゃないね。いやホント、参った参った」

 不意にガラリと引き戸が開くと、そう言って凍えた手をさすって温めながら、椎名教諭が美術室へと飛び込んで来た。教諭が着込んでいる作業用の帽子とツナギの肩には、僅かにだが白い雪が降り積もっている。

「おや? 何だい? 今日は二人で人物デッサンをやっているのかい」

 イーゼルの前に座る僕と、光源を調節するパネルの前に姿勢を正して座った橘部長の姿を交互に見遣りながら、椎名教諭が興味深げに問いかける。

「おお、なかなか上手いじゃないかい、笹塚くん。橘くんの特徴を、上手く捉えられているね。しかもこの短時間でここまで描けるんだったら、来年の受験に向けて、益々期待が出来るじゃないかな」

「いや、そんなに褒められても、何も出ませんよ」

 椎名教諭の賛辞に、純粋に照れる僕。それに対してモデルを務めた橘部長は、唇を尖らせて、わざとらしく怒ったフリをしながら言う。

「椎名先生、今は受験に自信を持たせるのなら、笹塚くんじゃなくて私にしてくれなくちゃ。そうでないと私、自信を失っちゃいますよ?」

「ははは、ゴメンゴメン。いや、橘くんもきっと、大丈夫だよ。きっと受験、上手く行くからさ。だから少しは余裕を持って、どっしりと構えてなけりゃ。そうしてればきっと、現役合格も夢じゃないって」

「そんな「きっと」がいくつも並ぶような励ましは、信用出来ませんよ、椎名先生。もっと女の子を褒めるのが上手くならなくちゃ、他の生徒からも嫌われちゃいますからね」

 親しそうに笑いながら、談笑する椎名教諭と橘部長。僕はそれを微笑みながら見つめつつ、本当に橘部長の受験が成功してくれる事を、心から願う。その時になって初めて、僕は自分の告白の、彼女からの返事を聞く事が出来るのだから。


   ●


 僕と橘部長の背後で、椎名教諭が美術室の扉を固く施錠した。

「じゃあ、僕は鍵を職員室まで返しに行って来るから、キミ達は先に帰ってなさい。もう遅い時間だし、それにこんな天気だから、充分に気をつけて帰るんだよ」

「はい、椎名先生。また試験の結果が分かったら、お知らせに来ますから」

「それじゃあ椎名先生、お先に失礼します」

 第二校舎と新校舎とを繋ぐ渡り廊下を渡り終えたところで、そう言って互いに挨拶を交わしながら、椎名教諭は僕達と別れて職員室へと向かう。厚手のダッフルコートに身を包んだ橘部長と、羽毛で満たされたダウンジャケットに身を包んだ僕との二人は、真っ直ぐに生徒用の昇降口へと向かった。僕の手には黒い折り畳み傘と、つい先程描き終えてフィキサチーフで定着させた橘部長を描いたデッサン画が、丸められた上に画材屋のビニール袋で何重にも巻かれて納められている。

「それ、どうするのかな?」

 昇降口へと向かう廊下を並んで歩きながら、橘部長が僕の手にしたデッサン画を指差して、興味深げに言った。

「家に持って帰って、自分の部屋に飾るつもりですよ。これまでに描いてきた他のデッサンも全部、そうしてきましたから」

「それならさ、そのデッサン、私にくれないかな? 三年間の高校生活の記念の意味も込めて描いてもらった物だからさ、記念として、部屋に飾っておきたいんだよね。まあ、自分がモデルになった絵を自分の部屋に飾るって言うのも、何だかナルシストじみていて、恥ずかしい気もしないでもないけどさ」

「いいですよ。……その代わりに、交換条件がありますけど」

 僕は丸めたデッサン画を橘部長に手渡しながら、少し意味深な空気を含ませて言った。

「交換条件?」

「そうです。あの橘先輩が描いたガラスの竜胆の絵、アレを僕にください」

「ええ? そんな、アレはダメだよ。アレは三年間の高校生活の集大成として、時間と手間をかけて描き上げた物なんだからさ。そう易々とは、人にはあげられないな」

 手にしたデッサン画と僕の顔とを交互に見遣りながら、橘部長は困ったように言う。

「他の、もっと簡単な交換条件じゃダメかな? 例えば、キミの頬にキスをしてあげるとか、そんなんじゃ」

「またそうやって、ズルい事を言って僕をからかうんだから。橘先輩って、思っていた以上に意地悪な人ですよね、実は」

「やっと気付いた?」

 クスクスと、ほくそ笑む橘部長。

「それじゃああのガラスの竜胆の絵を貰うのは、しばらくは我慢しておいてあげますよ。いつか手に入れたら、僕達の寝室に飾る事にしますから」

 笑っていた橘部長が、今度は眼をぱちくりとさせて、驚きの表情を隠さない。そして次の瞬間にはニヤリと意味深な笑いを浮かべて、言う。

「「僕達の寝室」とはまた、大きく出たね。勿論その僕達と言うのは、キミと私の事なのだろう?」

「他に、誰がいますか?」

 橘部長は僕の問いかけには答えず、嬉しそうな足取りで新校舎の階段を一段一段踊るかのようにして下りると、昇降口の下駄箱前へと辿り着いた。そして上履きを革靴へと履き変えてから、僕達は真冬の戸外へとその身を晒す。

「おお、すごい雪」

 とうに陽が落ちた空は厚い雲に覆われて濃い灰色に染まり、そこからは絶える事無く、首都圏にしては珍しいほどの大粒の雪が舞い落ちていた。既に昇降口から通用門まで続く遊歩道は真っ白な積雪に覆われており、このままの勢いで振り続ければ、明日の朝には交通が麻痺するほどの雪害が予想されるだろう。

「そう言えば橘先輩、傘は?」

 目の前が真っ白になるほどの降雪の中、僕は隣に立つ橘部長に尋ねた。

「それがね、持って来てないの。本当は椎名先生にセンター試験の結果を報告し終えたら、雪が降り始める前にさっさと帰るつもりだったから」

「それじゃあ、仕方ありませんよね」

 僕は自分の折り畳み傘を開くと、その薄い防水布が覆うスペースの半分を、無言で指差す。すぐに僕の言わんとする事を察した橘部長は、空いているスペースにその身を躍らせると、僕と隣り合って相合傘の体勢となった。しかし残念ながら二人が並ぶには僕の折り畳み傘は小さ過ぎて、いくら身体を密着させても、互いの傘に覆われていない側の肩には雪が降り積もってしまう。だがそんな事は微塵も気に留めずに、僕達は通用門を抜けて街路を歩き、柏駅を目的地とした帰途に就いた。

「今の僕達、傍から見たら、完全に恋人同士ですよ」

「そうだね。でも未だ私達は、付き合い始めてもいないのにね」

 そう言って僕達は、どちらからともなくそっと、手を繋いだ。毛糸の手袋越しにだが、橘部長の暖かな体温が、じんわりと僕の掌にも伝わって来るのを感じる。互いの体温を感じ合う、僕と橘部長。それと同時に、僕達は頬を赤らめながら見つめ合って、微笑み合う。いつかは互いの事を第一に考えられる日が来る事を、そっと夢見ながら。



                                    了

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デッサン ―ガラスの竜胆― 大竹久和 @hisakaz

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