第四幕


 第四幕



 花飾りなどで派手に装飾された通用門が開放され、そこからは制服姿の本校の学生達だけでなく、私服姿の他校生やOBや、それに父兄と思しき年長者達もまた学校の敷地内へとパンフレット片手に入場して来る。

 校内ではそこかしこから様々な音楽や歌声が流れ、歓声が沸き、飲食物を売る出店からは威勢の良い呼び込みの声が飛び交って客を誘う。学校敷地内の至る所で配布されたり壁に貼られたりしている大小様々なチラシには、各クラスや部活動の出し物の内容やスケジュールを紹介した文字やイラストが躍り、今日が特別な日である事を否応無しに認識させた。

 人いきれと、喧騒。熱狂と、歓喜。今日は記念すべき我が千葉県立東柏台高等学校の、創立九十年の節目にも当たる文化祭第一日目である。

 あまり人混みを好まない性分の僕だが、それでもお祭りともなれば、人並みにワクワクと心を躍らせる。今年の自分のクラスの出し物は出店のたこ焼き屋で、先月一杯は練習と称しては皆で具の無いたこ焼きを大量に焼きまくり、それをおやつにしながらクラスメイト達全員で楽しく準備に勤しんだものだった。

 そして今現在の時刻は、文化祭初日の午前十一時半。僕は第二校舎三階最奥の美術室の入口横で、美術部の展示の案内係兼監視員の任を担っている。

 今年も展示の概要は例年と変わらず、その内容は至って簡単。普段の授業で使用している机と椅子を排除した美術室の壁面と、室内中央に設置された人の背丈よりも大きな展示用パネル六枚に天井から床まで届く暗幕を掛け、それらに現役美術部員の作品をフックで固定しているだけの事であった。

 そこには当然ながら僕のデッサン画や橘部長の水彩画も展示されているし、柏木の描いた油絵もまた、展示用パネルの一角を華やかに飾っている。それらに加えて窓際の一角には漫画系部員達が描いた漫画やイラストも同様に展示されており、その中でも特筆すべきは柳が描いた長編漫画で、こう言っては何だが意外な事に、全編五十ページにも及ぶ壮大な熱血少年漫画が感嘆すべき筆致と迫力で堂々と描かれていた。それは客観的な眼から正直に言わせてもらっても、そのまま商業流通している雑誌にプロの作品として掲載されても全く遜色無いほどの出来である。

 普段はとてもじゃないが真面目に部活動に取り組んでいる様子も見せない柳が、実はこれほどまでの漫画に対する情熱を胸に抱いていた事を思い知らされた僕が、彼女に対する心象を改めたのも決して不思議ではない。また当初は漫画系部員達が描いた漫画やイラストを集めて自費出版の小冊子、つまりは同人誌を作ろうとの案もあったのだが、柳以外の作品の集まりが悪かったために、結局は廃案となった。こうして見ると、ややもすると漫画系部員達の中で柳一人だけが空回りしているような印象を受けるが、彼女が果たしてそれで満足しているのか否かは僕には分からない。柳は柳なりに、美術部の活動に対して思うところがあるのではないだろうかと、僕なりに想像する。

 そんな美術室の中で一際目を引くのが、何も展示されていない暗幕の掛けられた、最奥の一角。

「ああ、そこはね、私が自宅で仕上げた作品を飾る予定なの。だけど車を出してもらう親の予定が狂ってしまったから、搬入するのが明後日の昼以降になりそうでね。だから今日のところは何も展示しないで、空けてもらってるの」

 昨日の準備段階で、何故この場所は何も展示されずに空けてあるのかと橘部長に尋ねたら、そう言って返された。なので今は何も展示されていないが、明日になれば、僕も知らない彼女の作品が届く手筈らしい。

 そして今、その橘部長は二人一組の案内係の一員として、僕の隣の席に腰を下ろしていた。

「去年もそうでしたけど……結構、暇ですよね」

 ややだらけた姿勢の僕が、背筋を伸ばして礼儀正しく座る隣の橘部長に向けて呟いた。

「そうね。でもまあ今はまだ、仕方が無いんじゃないかな? 美術室は第二校舎の最上階の一番奥だから、たまたま通りがかった人が、ふらっと足を踏み入れるなんて事はまずあり得ないもんね」

「まあ、確かにそうですけどね」

「それにまだ、初日の午前中じゃない。来客が増えるのはまだまだこれからなんだから、今からそんなに気を抜いてたらダメだよ。それに、お客さんの相手も結構面倒なんだからね。特に、OBの相手は」

「ああ、そう言えば去年も来てましたね。何だか面倒臭い先輩達が」

 僕は深く嘆息し、昨年の文化祭で訪れた、現役生の作品を端から端までこき下ろす事に情熱の全てを注いでいるとしか思えないOBの存在を思い出してウンザリとした。そしてどうか今年はあの連中が来ませんようにと、たとえ来るとしても僕が当番の時間じゃありませんようにと、心の中で必死に願う。

「ところで、今年の展示の出来はどう思う? 笹塚くんの眼から見て」

 心中で祈祷を行なう僕に、意味深な笑みを浮かべた橘部長が尋ねた。それは僕に作品の値踏みをさせると同時に、僕の審美眼を値踏みする意味もまた含まれた、なかなかに意地の悪い質問だと言える。

「……そうですね。自分のデッサンに関しては、あえて何も言いたくはないです。自分の技量と才能を冷静に評価出来るような度量を、僕はまだ持ち合わせていませんから」

「なるほど、上手く逃げたね。それで、他の人の作品は?」

 橘部長がくすりと笑いながら、尚も尋ねた。

「柏木さんの油絵が、何て言うか、どれもすごく良いです。形の捉え方とかはまだまだ全然拙いんですけど、色使いや筆のタッチがすごいのびのびしていると言うか、彼女、本人の性格は気が小さくて引っ込み思案なのに、絵を描かせると大胆な筆遣いになるんですよね。デッサンでも油絵でも、モチーフの全てを描き切ってやろうって言う気概と言うか、意気込みみたいなものが、ちょっと鬼気迫るぐらいに伝わって来るんですよ」

「なるほど」

「それと今回の展示で一番意外だったのが、柳さんの漫画かな。まさかあんな大長編を描いていたなんて、これっぽっちも予想していませんでしたから。間違い無くあれが一番、驚かされましたね」

「そうだね、私も笹塚くんと、全くの同意見。あれには本当に、驚かされちゃった。正直な事を言っちゃうと、彼女達はただ漫画を読んでいるばかりだと思ってたのに、本当は自分でも作品を描きたくて、描き上げてみたくって、仕方が無かったんだろうね。……あーあ、私もまだまだ、人を見る目が無いなあ」

 橘部長は深い溜息を吐きながらそう言うと、自分の頭をコツンと、軽く叩いた。彼女なりの、反省を意味するジェスチャーなのだろう。

 そうこうしている内に、生徒の父兄と思われる新たな来客が美術室に姿を現わしたので、気を取り直して居住まいを正した僕は椅子に深く腰掛けて正面を見据える。案内係兼監視員として座る僕の眼前に展示されているのは、皮肉な事に、僕自身が書いたマルス像のデッサン画だ。それも予備校の夏期講習最終日に仕上げた、現段階では最高の出来と自負している内の一枚に相当する。そのデッサン画を見ながら、あの日の帰途で芹沢と偶然出会ってから今までの一ヵ月半の出来事を、僕はボンヤリと思い出していた。

 結局一度プールに遊びに行って以降は、お互いに学校の宿題に追い立てられていた事もあり、芹沢と二人きりで遊びに出かける機会も無いままに夏季休暇は漫然と終了した。そして迎えた二学期の初日から今日まで、芹沢は何かと言うと理由をこじつけては、相も変わらず僕に対してちょっかいを出して来るのをやめようとはしない。しかもそれは以前よりもスキンシップの度合いが明らかに増しており、そのあまりの馴れ馴れしさに、僕は少しばかりウンザリとしていた。

 またその一方で、菊田や柳との関係は、芹沢の馴れ馴れしさに正比例するかのように以前よりもその険悪さを増した気がしてならない。もはや彼女達に挨拶をしても無視シカトされるのは至極当たり前の事で、僕ら美術受験系部員が部活動に励んでいるその背後で、あからさまに集中力を阻害するための嬌声を張り上げる事なども日常茶飯事だった。一応はその度に芹沢が二人を注意して諌めてくれてはいるのだが、残念ながら今のところ、その効果は極めて薄いように思われる。

 同時に確証は無いが、なんだか最近、韮澤が僕から距離を置くようになった気がしてならない。以前の様に僕の事を「なつめちゃん」と呼んで馴れ馴れしく絡んでくる事も無くなり、必要以上の接触や会話も避けているようにも思えた。

 果たしてこれらの事象のきっかけが何だったのかは、僕には分からない。だが厳しい残暑に見舞われた九月一杯の我が美術部内が、これまでには無いほどの殺伐とした空気に覆われていた事だけは、疑いようの無い事実だった。

「あ、いらっしゃ……なんだ、芹沢さんか」

 出入り口を開放された美術室内に現れた人影に挨拶をしかけた僕は、相手が芹沢だった事を確認すると、途中で言葉を切った。いつも一緒に行動している菊田と柳の姿は見えず、どうやら彼女は一人でここまでやって来たらしい。

「なんだとはご挨拶じゃないかな、笹塚くん。せっかく来てあげたのにな」

 ややもすれば恩着せがましい物言いで、僕に微笑みかける芹沢。そんな彼女に、僕の隣に座る橘部長が小さな会釈と共に挨拶の言葉をかける。

「こんにちわ、芹沢さん」

 だがその挨拶に対して、返礼は無い。

 僕に対してはいつもの天使の様な愛くるしい笑顔を向けながらも、橘部長の挨拶に対しては、事も無げに無視シカトを返事とした芹沢。彼女は椅子に腰掛けたままの僕の手を唐突に握り締めると、その小鳥がさえずるかのような甘い声で語りかけて来る。

「もう十二時だからさ、笹塚くんが当番の時間は、お終いでしょ? だからさ、これからあたしと一緒に、文化祭を見て回らない? とりあえずはどこかの教室か出店で、お昼ご飯にしようよ」

 芹沢の突然の誘いに、僕は困惑する。

「え? あ、いやでも、まだ十二時の交代時間になるまで十分あるし……。それに次の当番の韮澤も未だ来てないから、もうちょっとだけ待っててくれないかな? それからだったら、僕も特に予定は無いから……」

「えー? いいじゃない、十分くらいさ。それにこんな当番なんて、本来は二人も必要ないでしょ? どう考えたって、一人いれば充分じゃない」

「そうは言っても、一応は交代要員が来るまで待機する決まりだから……」

 渋る僕。だが意外にも、隣に座る橘部長が承諾の弁を述べる。

「いいんじゃないかな、笹塚くん。そんなに厳密にマニュアルを守ろうとしなくても。残りの十分は私が一人でここを見ているから、芹沢さんと二人で行って来たら? それにほら、女の子を待たせちゃ悪いでしょ?」

 事も無げにそう言った彼女は、僕の退席を暗に促す。普段は真面目な橘部長が規則を破る事を了承する姿に、僕は少しばかり驚いた。

「ほら、それじゃ、決まり。一緒に行こうよ、ね?」

 握り締めた手を引き、半ば強引に、僕を美術室から連れ出す芹沢。当然のようにその表情には悪びれた様子は一切無く、また結局最後まで、彼女が橘部長と言葉を交わす事は無かった。

 僕は背後を振り返り、もう少しだけでも橘部長と二人きりでいたかったなと、惜しむ。そんな僕の背中に当の橘部長は、その端正な顔にいつもの穏やかな笑みを浮かべたまま、小さく手を振るだけだった。


   ●


 ふわふわの栗毛をなびかせた芹沢に手を引かれながら最初に訪れたのは、昼食代わりのベルギーワッフル屋。とは言っても、壁面にレース模様の紙皿を大量に貼り付けてファンシーな雰囲気を無理矢理に醸し出した只の教室で、市販の家庭用ワッフルメーカーで焼いたホットケーキミックスにメープルシロップをかけ、業務用の生クリームと缶詰のカットフルーツを乗せただけの物が供されるに過ぎない。だがそんな物でも一応は甘味として満足したらしい芹沢は、今度は僕を連れて、観劇の趣味に興じる。

 新視聴覚室で上映された映画製作研究会の自主制作映画を半分笑い飛ばしながら鑑賞し、その後は体育館で、いかにも劇団四季に影響を受けたと思われる演劇部のミュージカルもどきを、それなりに真剣に嗜んだ。

 更には吹奏楽部によるブラスバンドマーチに軽音楽部のロック演奏、有志による素人漫才、落語研究会の大喜利等々。正直に言ってしまえばどれも高校生レベル、つまりは素人のお遊戯の域を出ないものばかりであったが、それでも同じ高校生のお子ちゃまに過ぎない僕達にはそれなりに楽しめた。

 そして気付けばすっかり陽も傾き、時刻は既に、午後の五時を回ろうとしている。間も無く文化祭の初日も終わろうと言う中で、少しばかり小腹が減った僕達は、様々な飲食物の出店に囲まれた中庭へと赴いた。

 ゆっくりと赤焼けて行く空の下で、片手にパック入りの焼きそばを持った僕とフランクフルトを持った芹沢は並んでベンチに腰を下ろすと、それらを互いに咀嚼する。周囲のベンチの八割方は様々な年恰好の来場者で埋まっていたが、既に閉会も間近と言うこの時間帯では、人出はそれほど多くはない。

 どこかの教室から流れて来るスローテンポなジャズの音色をBGMとして、背の高い松の木が散在する中庭は、ゆったりとした秋の空気で満たされていた。

「ねえ、笹塚くん」

 フランクフルトを咀嚼し終えた芹沢が、その燻製肉が刺さっていた串棒を手の中で弄びながら、僕の名を呼んだ。

「ん? 何?」

 呼びかけられた僕が隣に座る彼女の方を見遣れば、芹沢は僕の瞳を眼鏡のレンズ越しにジッと、まるで媚びるかのような上目遣いで見つめている。表情こそはいつもの愛くるしい天使の笑顔を崩してはいないが、その眼はいつに無く真剣な眼差しで、心なしか少しばかり熱っぽさを帯びているような気もした。

「あのさ、ちょっと、重要な話があるんだけど。真面目に聞いてくれる?」

「え? ああ、うん」

 僕は、口元に運んでいた箸をプラスチックのパック皿に戻し、焼きそばを食べるのを一時中断した。そして少しばかり居住まいを正すと、かつて見た事が無いほどの気負いを感じさせる芹沢に、改めて相対する。

「あのね、その、さ。あたしと、付き合ってほしいの」

「うん、どこに?」

 これからまたどこかの出店か出し物へ赴く誘いかと思った僕は、ややもすればひどく間抜けな返答を返した。そんな僕の反応に呆れたらしい芹沢は、少しばかり眉根を寄せて苦笑いすると同時に小首を傾げてから、自身の発言を補強する。

「そうじゃなくてね、これからはあたしの彼氏として、つまり恋人として、あたしと付き合ってほしいって言ってるの。気付いてくれてたかどうか分かんないけど、あたし前から、笹塚くんの事が好きだったんだから」

 そう告白し終えると同時に、これまでに無いほどの、そして少しばかりの色気を帯びた満面の笑顔で、僕の瞳を熱っぽく見つめる芹沢。その高校生とは思えぬ色香と告白の驚きに、僕は捕食者プレデターに睨み据えられた草食動物の如く動く事が出来ず、前身の毛穴からはジトリと緊張の汗が滲み出る。と同時に、本当に今更だが、僕の脳内ではこれまでの彼女の様々な行動の所以に合点がいった。

 一年生の頃から何かとばかりに僕にスキンシップを図って来たのも、今年の夏休みに虚偽の約束を取り付けてまで二人きりでプールに誘い出したのも、今日こうして二人揃って文化祭を満喫しているのも、その全ての理由は、まさに今現在彼女が僕に対して行なっている愛の告白に集約される。

 混ざる筈の無い水と油に、密かに忍び寄っていた混合の手。

 要は単に、気付かなかった僕が馬鹿なのだ。

「ねえ、どうかな?」

「え? ああ、ええと、その、どうって言われても……」

 一人の男として本当に情け無い話だが、僕は本当にどうしたら良いのか分からなくなってしまい、食べかけの焼きそばが入ったパックを片手にオロオロとするばかりだった。

「イエスかノーか、それだけを答えてくれればいいの。でも勿論、あたしと付き合ってくれるよね?」

 ベンチの座面の上を更に半歩分、僕の方へと向かってズズイと迫り来る芹沢。彼女の期待に満ち満ちた天使の笑顔が、むしろ今は何よりも恐ろしい。

「ね?」

 甘い声でねだるかのようにそう問いかけながら、芹沢の小さく柔らかな手が、僕の無防備な太腿の上を怪しく這う。彼女の綺麗にセットされたふわふわの栗毛から漂う、いつもの甘く芳しい芳香。益々をもって強さを増すその香りと、熱を帯びて潤んだつぶらな瞳に、柔らかで艶やかな彼女の唇。それら全てが僕を怪しく誘惑しているかのようで、緊張と興奮と混乱によってバクバクと動悸の止まない心臓は、今にも喉から飛び出しそうだった。僕は今現在自分が置かれている状況に対してまるで現実感が沸かず、まるで夢の中で意味不明な選択を迫られているかのような心境で、只々混乱が増すばかり。

 やがて自分の取るべき最良の選択が全く分からなくなった僕は、何故かパックの中の焼きそばの残りを一気に口の中へと詰め込むと、ろくに咀嚼もしないままに嚥下した。そして軽く咳き込みながら、口を開く。

「あ、その、ごめん。急な話だったからビックリしちゃって、なんて答えたらいいのか分からなくて……。それでその、悪いけど、返事は暫く待ってくれないかな。……その、芹沢さんと付き合いたくないとか、そう言う訳じゃないんだ。ただちょっと、ホントに急な話だったから、もう少し考える時間が欲しいと言うか……」

 早口で一気に捲くし立てながら、僕はなんとかその場を取り繕う事に必死だった。そしてベンチからやおら立ち上がると、ポカンとした表情でこちらを見つめる芹沢を残して、小走りでその場を立ち去る。

「そう言えば僕、自分のクラスの片付けの当番だったんだ。だからもう行かなくちゃいけないから、ゴメン、芹沢さん。その、返事はまた今度、必ずするからさ。今日のところはホント、ゴメン」

 どもり気味にそう言い残しながら、僕は逃げるように退散する。肩越しに背後のベンチを見遣れば、その愛くるしい顔を不服の色に曇らせた芹沢が、唇を尖らせてやり場の無い怒りを露にしていた。それを眼にした僕は益々をもって早足になると、やがて殆ど全力疾走に近い速度で通用門を抜け、学校の敷地外へと出る。そしてそのまま商店街を駆け抜けて柏駅まで無心に走ると、条件反射的に電車に乗リ込み、やがて隣の我孫子駅を経てから自宅の前まで帰って来てしまっていた。

「一体何なんだよ、もう……」

 扉を潜り、自宅の玄関にまで辿り着いた僕はようやく平静を取り戻し始めてはいたが、その呼吸はゼエゼエと乱れ、心臓は破裂しそうなほどの動悸を止めようとはしない。そして全身を汗だくにしながら上り框に腰を下ろすと、頭を抱えて苦悩した。

「あら、棗? どうしたの、早かったじゃない。文化祭は?」

 背後からは、何も知らない呑気な母の声。僕は返事もせず顔も向けず、只ひたすらに頭を抱え続ける。

 そしてこの段に来てようやく、僕はクラスの出し物であるたこ焼き屋の片付けをすっぽかして来てしまった事と、全ての荷物を教室に置いて来てしまった事に気付いた。だが当然、それらを取りに学校まで戻るだけの気力は、今の僕には無い。


   ●


 文化祭の片付けをすっぽかし、学校から自宅までの長距離を全力疾走したせいで汗まみれになったシャツとパンツをドラム式の洗濯機の中に放り込むと、僕は夕食よりも先に早めの一番風呂を浴びる事にした。

 脱衣所で全裸になり、洗い場で股間を軽く湯で荒い流してから、熱い湯船にゆっくりと肩まで浸かると大きく息を吐く。すると全身の硬直していた筋肉と共に心もまたほぐされて行くかのようで、今更ながらようやく、自分の身に降りかかった事象の全てを冷静になって振り返る事が出来るように思われた。

「はあ……。付き合ってほしい……か……」

 芹沢は、未だに信じられない事だが、この僕の事が好きだった。そして彼氏として、恋人として、自分と付き合ってほしいと言う。おそらくその事実は、一人の男としては、純粋に喜ぶべき事なのは間違いないのだろう。だが僕の心中は、どうしても晴れ晴れとはしてくれない。むしろ何と表現したらいいのか自分でも分からない暗雲が、心の奥底を覆い尽くすかのように立ち込めて、暗澹たる気持ちになる。

 湯船から上り、全身を軽くシャワーで流してから風呂場を出た僕は、脱衣所に立つ。バスタオルで全身を拭いてから替えのボクサーパンツを履くと、ふと洗面台の鏡に映る、自分の裸体に眼が向いた。

「まさか、芹沢さんがねえ……」

 湯気で曇った鏡に映る、全裸にパンツ一枚きりの、等身大の僕。その顔を、身体を、改めて観察する。

 自分自身に対する評価なので多少は贔屓目に見ているのかもしれないが、それでも決して僕の顔の造形は、眼も当てられないような不細工ではないと思う。だが同時に、お世辞にも今時の爽やかなイケメンとは言えないし、昭和の任侠俳優の様な、いかにもな男臭さが漂う渋みも凄みもまるで無い。要は女の子にモテるようなハンサムとは、口が裂けても言えない程度の容貌と言う事だ。

 更に顔の造形だけではなく、首から下の体躯にも眼を向ける。身長は、ハッキリ言って、平均以下。体育の授業で落第点をギリギリ取らずに済む程度の筋肉しか付いていない色白で貧弱な体格は、腕を曲げても殆ど力瘤は出来ないし、脇腹にはうっすらと肋骨が浮いて見える。唯一の長所は太っていない事くらいなのかもしれないが、痩せ過ぎている点と相殺すれば、プラマイゼロでしかない。

「眼がパッチリとした二重な事以外には、どこをどう見たって良い所が無い……。しかもその眼だって、眼鏡が無ければ何も見えないほどのド近眼だ。それに髪型だって全然気を使った事も無いボサボサ頭だし、一体芹沢さんは、僕の何が良かったんだ……?」

 自己卑下も極まったりな自問自答を繰り返すが、当然ながら、明確な答は一向に出て来ない。だがそれでも芹沢は、あの芹沢が、僕の事を好きだと言う。恋人として、付き合ってくれと言う。果たしてこんな僕の一体どこに惚れ、彼女を告白に至らしめるだけの要素があったと言うのか、僕にはまるで見当が付かないし、見当の付けようもない。只々ひたすらに、困惑の度合いを深めるのみであった。

 そこでふと、異なる考えが頭をよぎる。これまで僕はずっと、何故自分が芹沢に好かれているのかばかりを考えていた。だが果たして、自分は彼女の想いに対して、如何にして答えるべきだったのだろうか。何故あの場ですぐに、芹沢胡桃と言う名の少女と、互いに恋人同士となる事を了承しなかったのだろうか。その答えは、単に僕が彼女を苦手としている事以外にも、存在する気がしてならない。そう、芹沢と恋人同士になってしまった場合に、その代償として失ってしまう何かが。

「それじゃあ僕自身は、一体誰の事が好きなんだろう……。一体誰の告白だったとしたら、嬉しかったんだろう……」

 鏡に映る自分の瞳を見つめながら、僕は再び自問自答した。すると脳裏にボンヤリと、二人の女性の顔が浮かぶ。だが果たして彼女達は、僕を一人の男として好いてくれるのだろうか。果たして僕に、それだけの価値があるのだろうか。

 次第に熱気が冷め行く脱衣所の中央で、ボクサーパンツ一枚姿の僕は、いつまでも自問自答を繰り返し続けていた。


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 廊下の先にこちらに近付いて来る芹沢の姿を認めた僕は、気付かれない内に手近な教室の一つに飛び込んで身を隠し、彼女をやり過ごす。飛び込んだ教室で行われていたのはCGA《コンピューターグラフィックアソシエーション》、要はコンピューター研究会の実演展示だったので、特に興味の無い僕はスタスタと素通りして出口から退出した。

 今日は、文化祭二日目。初日である昨日の夕方に芹沢から告白され、もし今日校内で再会すれば確実にその返事を求められるであろう僕の足取りは鈍く、そして重い。だがそれでも自分のクラスと美術部の案内係の当番が課せられている僕は、生まれ持っての真面目さ故にか、もしくは気の小ささ故にか、律儀にも予定通りの時刻に登校した。特に自分のクラスの出し物に関しては、昨日の当番を無断ですっぽかしてしまった前科があるために、これ以上サボる事は道義上許されない。

 自分のクラスの当番の時間ギリギリに登校し、さっそくエプロンと軍手を着込んだ僕は、たこ焼き屋の屋台の中へとその身を躍らせる。幸いにも中庭に面した一等地を抽選で獲得した我がクラスのたこ焼き屋台は、まだ開場したばかりの午前中から軽い行列が出来るほどの盛況ぶりを誇っていた。おたふくソースによって最低限の味が保障されている安心感と、学生ならではの採算を度外視した値段とボリュームによるコストパフォーマンスの良さが、否が応にも購買欲を加速するのだろう。

 当番を課せられた一時間余りの間、僕はガス台と専用の鉄板の前で、休む事無くひたすらにたこ焼きを焼き続けた。

 先月から幾度も練習し続けた甲斐もあって、半円形の窪みが並んだ鉄板に出汁入りの水溶き小麦粉を流し込み、そこにみじん切りのキャベツと紅生姜と親指大に切った茹でダコを放り込む手際は、もはや慣れたものだ。そして焼き加減を見極めながら手にした千枚通しでクルクルとタコ入りの小麦粉塊を回転させ、やがて見事な球形のたこ焼きへと変貌させると、素早く十玉をプラスチックのパックに並べてカツオ節と青海苔とソースをかける。これら一連の作業を無心に繰り返していると、あっと言う間に時は流れて、やがて交代時間が来た事を次の当番のクラスメイトに告げられた。

 屋台の背後へと回り、額に噴き出した玉の様な汗をシャツの袖で拭いながら、エプロンと軍手を脱ぐ僕。ガス台からの絶え間無い熱気に当てられて全身の汗腺が汗を噴き、おそらくは、顔面も真っ赤に焼けている事だろう。用心のために装着した軍手越しにでも熱せられたサラダ油が指先を焼き、軽い火傷を負っているのだろうが、治療が必要な程の深度ではないので今は放置する。

 一時間毎に交代の当番を無事に終え、晴れてお役御免となった僕だったが、不用意に校内をうろついている内にうっかり芹沢と遭遇してしまう事を恐れて、そのまま屋台の後ろの休憩スペースで時間を潰させてもらう事にした。

 気の利く女子が買って来てくれたペットボトル入りの麦茶を飲みながら、形が悪かったり焦げたりしてお客には出せなくなった出来損ないのたこ焼きを時々摘ませてもらいつつ、無為な時間はまったりと流れて行く。程よい疲労によって芹沢の事もしばし忘却した僕は、腰を下ろした椅子に全体重を預けると、ぐったりと脱力して天を仰いだ。何も考えずに済む時間が、今は一番心地良い。

 やがてたこ焼きで腹が膨れたせいか、それとも昨日の全力疾走の疲れが今頃になって出たのか、僕は椅子に座ったままウトウトと舟を漕ぎ始めた。


   ●


 ガクンと椅子から転げ落ちそうになって、僕は不意に目覚める。どうやらうたた寝をしていたようだと気付いた僕は、一体どれほどの時間を居眠りに費やしてしまったのかと思い、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出して現時刻を確認した。

 液晶画面が表示した時刻は、午後三時十分。美術部の当番交代の時間を、十分ほどオーバーしている。

「やっば」

 僕は飛び上がるように椅子から立ち上がると小走りで中庭から昇降口を抜け、昇降口から新校舎の二階に上り、新校舎の渡り廊下を駆け抜けて第二校舎の美術室へと急いだ。やがてそれほど人出の無い美術室に辿り着いてみれば、その入り口横にふんぞり返るかのように立っていたのは、あからさまに不機嫌な表情を隠そうともしないソバカス面の柳。彼女は僕の姿を認めると、その口をゆっくりと開き、怒気を孕んだ声を発する。

「遅い」

「ゴメン、柳さん。すぐに当番、代わるから」

 そう言って詫びた僕とそれ以上言葉を交わす気も無いらしい柳は、わざと聞こえるように小さな舌打ちをすると、さっさと美術室を出て行こうとした。だが僕は何を思ったのか、立ち去りつつある彼女の背中に向けて声をかける。

「柳さん。あの柳さんが描いた漫画、全部読んだよ。すごい面白かったし、すごい上手かったし、何て言うかその、とにかくすごくてビックリした。上手く言えないけれど、とにかく僕、すごいと思ったから」

 一切の具体性を欠いた貧弱な語彙の、偏差値の低い子供の様な僕の感想。しかしそれを聞いた柳は足を止めると、妙に間の抜けたキョトンとした表情をそのソバカス面に浮かべながら、ゆっくりと振り返った。そして僕の眼を暫くの間ジッと見据えてから、歯を剥いてニヤリと笑うと、口を開く。

「ざまあ見ろ」

 一音一句を噛み締めるかのような口調でそう言い残すと、柳は第二校舎から、その姿を消した。それが一体どう言う意味の発言だったのかは僕にはさっぱり分からなかったが、彼女なりに普段の部活動で、僕達美術受験系部員達に対して思うところがあったのかもしれない。とにかく僕は、正直な自分の胸の内を伝える事が出来た満足感に少しだけ心を軽くすると、美術室へと足を踏み入れた。

 予想していた通りだが、やはりこの時間の美術室内に、人影は少ない。たった今しがた僕と入れ違いで出て行った中年の夫婦を最後に、どうやら観覧客は、一人もいなくなってしまったらしい。だが当然、客が皆無だからと言って、展示会場を無人にする訳にもいかないのもまた事実だった。

 僕はここまで走って来たせいで荒くなった呼吸を整えながら大きく一度嘆息すると、入口横の案内係兼監視員の椅子に、どっかと腰を下ろした。隣の椅子にはちょこんと膝を揃えてコンパクトに座る、小柄な柏木の姿。彼女が僕へと向けている素朴な笑顔が、今はなんだかひどく懐かしい。

「笹塚先輩、お疲れ様です……。あの、柳先輩ものすごい怒ってましたけど、大丈夫でしたか……?」

「ん? あ、いや、交代の時間に遅れたのは、本当に僕の責任だから……。それに柏木さんにも迷惑かけちゃったよね、ゴメン」

 先輩を気遣ってくれる心優しい後輩である柏木にも一言侘びを述べてから、僕は半ば無意識に握ったまま屋台から持って来てしまったペットボトル入りの麦茶を一口飲み下して、ようやく人心地付く。

「ふー……」

 なんだか、ここまで来るのに走った距離以上に、ひどく疲れた。そして同時に、普段は心休まる場所である筈の美術室に居ても、いつどこから芹沢が襲来するかもしれないと思うと気が気ではなくて、一向に落ち着く事が出来ない。

「どう、柏木さん。初めての高校の文化祭の感想は」

 そう言って、柏木を見遣る僕。自分の気を紛らわせる意味も込めて、ちょっと意地悪かなと思いつつも、隣に座る彼女を構う事で時間を潰させてもらう事にする。多分そんな事を考える僕は、悪い先輩なのだろう。

「あ、はい……。中学の頃の文化祭に比べたら全然規模が大きくて、正直言って、ビックリしてます……。中学ではバザーの延長みたいなのばっかりで、本格的に食べ物を作って売ったりはしてませんでしたから……」

「そっか。そう言われてみれば、確かにそうだよね。中学の頃の文化祭なんかでは、こんなに現金が飛び交ったりなんてしてなかったもんね」

「ホントになんか、ちょっとだけ大人の世界に足を踏み入れたような、そんな気分です……。あたし、バイトとかもした事が無いから、実際のお金で人に物を売るのって初めての経験なんで……」

 ほんの半年ちょっと前まで中学生だった柏木の、純朴で素朴な飾らない感想が、今は何だか耳に心地良い。

 おそらく僕の様な冴えないチビで眼鏡の草食系男子には、芹沢の様な華やかな女性よりも、柏木の様な地味な歳下の少女の方がお似合いな事は間違いない。もし仮に昨日告白して来たのが柏木だったとすれば、僕は芹沢の場合ほど、返事を迷いはしなかったであろう事が容易に想像出来る。

 だがそう思う一方で、やはり自分は柏木を一人の異性として意識する事が出来ずにいるのもまた、偽らざる事実だった。僕に実の妹はいないが、おそらく今現在の僕が抱いているこの心情は、愛すべき価値のある妹を持った兄の抱えるそれと大差無いに違いないのだろう。兄と妹の禁断の恋路は文学的には魅力的な題材なのかもしれないが、現実にそれを持ち込むのは、決して気安い話ではない。

 僕は再びペットボトルの麦茶を一口飲み下すと、天井を仰ぎ見て嘆息した。そんな僕を少しばかり不思議そうな眼で見ながら、柏木が口を開く。

「そう言えば笹塚先輩、あれ、もう見ましたか……? 例の橘先輩の作品、ちょっと前に届いたんですよ……」

 控えめな声でそう言いながら、美術室の奥を指差す柏木。彼女の指差す方向、今僕が座っている位置からでは暗幕を掛けたパネルが邪魔で見えない、昨日までは何も置かれていなかった空きスペースだった場所。そこに橘部長渾身の作品が、既に届いているらしい。

「ああ、そうなんだ。じゃあちょっと、見て来てもいいかな?」

 柏木に断りを入れてから席を立った僕は、軽い気持ちで歩を進めると、パネルの角を曲がる。そして美術室の最奥に堂々と飾られた、その一枚に相対した。

 その瞬間、僕の全身の毛穴が拡がり、ゾワリと総毛立つのを感じる。正面に見据えられたそれは、B全よりも少し大きなサイズのパネルに描かれた威風堂々とした大判の水彩画で、そのあまりの美しさと透明感に、僕は言葉を失った。

 モチーフは、布とガラスと水。そして大量の、生花。

 淡い藍染模様の布の上に置かれた大小様々なガラス製の花器になみなみと水が湛えられ、そこに数多の種類の花々が、まるでこちらに向かって飛び出して来るかのような俯瞰の構図で見事に描かれている。植物は日本画が最も得意とするモチーフの一つだが、この作品内では様々な季節の様々な種類と色の花が、決して画面を埋め尽くすと言うほどではないまでも、見る人を圧倒するほどの密度で配されていた。

 モチーフとされた花には特に紫系や青系の色のものが多く、黒蝶ダリア、ベロニカ、矢車草、アイリス、紫陽花あじさい、アリッサム等が並ぶ。だがそれらの中でも一際眼を引くのが、一番手前に置かれた大振りな竜胆りんどうの一束だ。

 やや紫がかった小さな青い花を大量に連ねる、竜胆。その鮮やかで瑞々しく、そして生き生きと描かれた青い花弁の束が周囲のガラスの花器と水に複雑に反射し合い、まるで全てが一つの巨大なガラス細工の様に美しく映える。そしてまた同時に驚くほど滑らかで、透き通るかのような透明感に満ち溢れた輝きを放つ水とガラスの調和は、見る者に言葉に出来ないほどの爽快感をもたらしていた。そのあまりにも清涼な美しさに、僕は全身に鳥肌を立てながら、只静かに立ち尽くす。

 そして同時に僕は、確信する。僕は、この絵が好きだと。そしてこの絵を描いた人が、好きだと。この絵を描いた人の傍に、いつまでも寄り添っていたいと。そう、つまり僕はどうしようもないくらい、この絵を描いた橘部長が好きなのだ。僕は橘部長を、誰よりも心から愛しているのだ。

 たった一枚の絵を見ただけでそんなに簡単に愛情が芽生える事などあるものかと、人は異を唱えるのかもしれない。だが今の僕の心の中では、橘部長に出会ってからこれまでの一年半の間に積み重ねられて来た様々な由無し事の全てが、一つの愛情と言う形を取ってストンと、胸の奥の大事な箇所に納まったような気さえした。小さな砂粒が少しずつ積み重なる事で、今この瞬間に、巨大なピラミッドを形成し終えたと言い換えても良いだろう。その最後の砂の一粒が、たまたまこの絵だっただけの事なのだ。

 とにかく言葉にし切れなかった些細な想いや、決意に至らなかった瑣末な気持ち。そう言った感情の全てが集約された今、僕は心の底から断言出来る。

 僕は、橘部長が好きだ。

 誰よりも、橘桜さんが好きだ。

「どうかな、笹塚くん? 気に入ってくれたかな?」

 ふと声をかけられて首を巡らせれば、すぐ隣に、まさに渦中のその人が立っていた。本当に何気無く、自然体のままで、そっと静かに。

「予定が狂っちゃって一日半しか展示出来ないのがちょっと残念だけど、今の自分が持っている力の全てを出し切ってみたくて、夏休みが始まってからこっちの空いている時間の殆どを利用して描いてみたの。でも描きたかった物の全てを詰め込んだみたいに結果になっちゃったから、何だか全体の構図がごちゃごちゃしてるし、このままコンクールとかに出したら季節感がバラバラだって、怒られそう」

 そう言って僕の隣に立つ橘部長は、ぺろりと舌を出して笑った。

「でもこの絵ね、自分で言うのもなんだけど、とても良く描けたと思って気に入ってるの。ほら、以前にいしだの絵の具売り場で言ったでしょ? 青系のリキテックスを上手く使うと、ガラス細工みたいな透明感のある色彩になってくれるって。だからこの絵ね、思い切って、全てをリキテックスだけで描いてみたの。何度も習作を重ねながら少しずつ色味を調節して、それでやっと、思い通りの色が出せたんだ。この透明感が出せたから、自分ではこれでもう、大満足。高校三年間の集大成として、胸を張れる物が出来たと自負している……は、ちょっと言い過ぎかしら?」

 その端正な顔に穏やかな笑みを浮かべながら、自身の作品の出来栄えに関して、忌憚の無い言葉を並べ続ける橘部長。だが彼女の発する言葉の大半は、僕の耳と脳を素通りして行く。

「橘先輩……」

 僕はゆっくりと、隣に立つ橘部長に向き直る。

「ん? 何?」

 橘部長もまた、僕へと向き直った。そして僕は、やおら彼女の手をギュッと握り締めると、彼女の澄んだ瞳を真っ直ぐに見つめる。

「えっ? あれ、笹塚くん? 一体どうしたの?」

 突然の接触に驚く、橘部長。だが彼女は手を振りほどく事も無く、僕の瞳を、ジッと見つめ返す。そして僕の真剣な眼差しから何かを汲み取ったのか、穏やかな笑みを浮かべていた顔を真剣な表情へと変えると、姿勢を正して僕と相対した。そして僕は静かに、だがはっきりと、胸の内を語る。

「橘桜さん。僕は、あなたの事が好きです。これからは先輩後輩ではなく恋人同士として、僕と付き合ってください」

 観覧客のいない静かな美術室の一角に、僕の告白が響き渡った。

 僕達が立っているのとは反対側の奥の壁際からこちらを見ているのは、柏木。彼女が頬を赤らめながら驚いているのが、視界の隅に映る。


   ●


 見上げた空は次第に宵闇へと染まり行き、一等星のシリウスを筆頭とした明るい星々がちらほらと、秋の夜空を幻想的に彩り始めていた。そんな夜空の下、広い校庭の一角に焚かれた急ごしらえの営火が、ぼうと大きな火柱を噴き上げて周囲一帯を明るく照らし出す。どこかのクラスが教室の飾り付けに使った大量の紙束を、まとめて放り込んだらしい。

 準備期間も含めると実に数ヶ月に渡った今年の文化祭も最終日である三日目を無事に終え、今現在は校庭で、本校の学生達だけによる後夜祭が執り行われている真っ最中である。照明で照らし出された校庭の中央にはステージ代わりの朝礼台が設けられ、その上に立った司会進行役の生徒と文化祭の実行委員長が、今年の文化祭の盛況ぶりについて台本通りの自画自賛をマイクに向かって訥々と語っていた。

 その朝礼台を取り囲むように思い思いに集った生徒達の顔を、激しく燃え上がる営火が、鮮やかなオレンジ色に照らし出す。そしてその炎の中には、、各クラスや部活の模擬店などが文化祭期間中に使用した大道具や小道具などの不要となった品々が、燃料として絶えず次々と投下され続けていた。それは炎によって浄化する事で、一時の思い出を永遠のものにしようとする象徴的な儀式なのだろうか。それとも単に、不用品の焼却処分に過ぎないのだろうか。おそらくはその両方なのだろうと、僕は思う。

 そんな幻想的な光景の中で、僕は賑わいを見せる後夜祭の中心部からは少し距離を置いた場所から一人ポツンと、ごうごうと焚き上げられる営火の炎をボンヤリと眺めていた。ここが郊外の、歴史がやたらと古いおかげで無駄に広い校庭を有する県立高校だから問題にならないが、都心部の小さな学校だったら舞い散る灰等の苦情でこんな大きな営火を焚く事は出来ないのだろう。

 ふと気付けば、僕の立っている位置からは営火を挟んで反対側に位置する電源を確保出来る校舎沿いの一角で、軽音楽部か有志によるバンドだかが、ゲリラ野外ライブを開始したようだ。さほど上手くもない素人演奏だったが、それでも見る限り、それなりの聴衆は集まっているように思われる。

「笹塚くん」

 背後から不意に声をかけられて振り返れば、そこに立っていたのは、妙に意味深な笑みをその顔に浮かべた芹沢の姿。そのふわふわの栗毛も、天使の様に愛くるしい顔も、今は立ち上る炎が発するオレンジ色一色に染まっている。

「そろそろ、返事を聞かせてくれないかな?」

 そう言った芹沢の十数mばかり後方では、菊田と柳の二人があからさまに不機嫌な表情で、僕の事を睨み据えていた。どうやら芹沢は僕との会話を聞かれないように、彼女達をあの場所に留め置いてから、僕の元へと歩み寄って来たらしい。自分達が邪険に扱われた事が、彼女達は気に食わないのだろう。

「返事……か」

「そう、返事。告白の。一応はあたしだってさ、急にあんな事を言い出しちゃったんだから、笹塚くんにも少しくらいは考える時間をあげるべきだと思って、それで待っててあげてるんだからね。だけど、さ。いつまでも待たされ続けるのはやっぱり嫌だから、早く返事、聞かせてほしいな」

 いつまでも待たされ続けるのは嫌だから、か。確かに、そうに違いない。自分の想いを伝えておきながら、その想いが果たして報われるか否かを知らされる事無くいつまでも待たされ続けるのは、誰だって苦痛に感じるに違いない。それは芹沢も、そして今現在のこの僕自身もまた、同じ思いだ。

「ねえ、どうしたの、笹塚くん? さっきから、ボーっとしちゃってさ」

 芹沢が、宵闇の星空を見上げて物思いに耽っていた僕の手を、そっと握った。握られた手から伝わって来るのは、芹沢の体温。しかし今の僕は彼女のその行為に対して、さほどの感慨を抱かない。

 そしてふと僕は、焚き上がる炎の向こうに、今の僕が最も恋焦がれる人物の姿を発見した。端正な顔立ちに、長い黒髪が似合う長身痩躯のあの人の姿を。

「ごめん、僕ちょっと用事があるから、もう行くね。それでその、例の返事はまた今度の機会にするから、もうちょっと待っててくれないかな? 悪いけど、時間をかけてゆっくりと考えたいんだ」

 とるものもとりあえず、誤魔化すようにそう言った僕は握られた芹沢の手を振りほどくと、彼女をその場に残したまま小走りで立ち去った。少し驚いたような、そして同時にひどく不服げな表情で僕の背中を見送った芹沢に対しては少し悪い気もしたが、今の僕には、罪悪感に苛まれている余裕は無い。

 やがてオレンジ色に輝く炎の脇を抜け、目当ての人物の前に立つ僕。そして彼女の瞳をジッと見据えて、呼びかける。

「橘先輩」

 僕の恋焦がれる人、橘部長。彼女は僕の姿を認めると驚いたような、困ったような、それでいて少し嬉しそうな複雑な表情をその端正な顔に浮かべて、僕の瞳を見つめ返す。

「こんばんわ、笹塚くん。文化祭、終わっちゃったね」

「ええ、残念ですけど、終わっちゃいましたね。来年の文化祭までまた一年、文化系の部は静かになりますよ」

「私はもう今年で高校生活も終わりだから、何だかすごく、寂しいな」

 オレンジ色に燃え上がる営火を見つめながら、橘部長が感慨深げに呟いた。そんな彼女の横顔もまた、美しいと僕は思う。

「ところで橘先輩、昨日の返事、そろそろ聞かせてもらえませんか」

 僕は思い切って、単刀直入に切り出した。そして昨日の夕方、文化祭二日目の美術室での一幕を思い出す。

 橘部長の描いた水彩画によって背中を押され、自分の偽らざる気持ちを確信させられた僕による、一世一代の愛の告白。しかしそれに対する彼女の返答は、至極残酷な事に、結論の先送りだった。少しだけ返事を待ってほしいと僕に告げると、美術室を足早に立ち去ってしまった橘部長は、今の今までその姿を眩ましていたのだ。それはまるで、僕が芹沢から身を隠していたのと全く同じように。

「返事、か……」

 少し俯いてそう呟きながら、橘部長は自分の長い黒髪の毛先を、指先でくるくると弄ぶ。いつでも迷い無くハキハキと行動する彼女が、こう言った無意味な手慰みの行為を行うのは珍しい事だった。

「はい。僕の気持ちは、変わりません。誰よりも、橘先輩の事が好きです。正式に恋人として、交際してください」

 再び繰り返された、僕の告白。しかし橘部長の表情は冴えず、尚も黒髪の毛先を弄びながら、躊躇いがちに口を開く。

「ゴメンなさい。待たせてしまうのは本当に申し訳無いと思っているんだけれど、返事は当分の間、保留にさせておいてもらえないかな?」

 それは僕の期待を裏切る、残酷な言葉。

「今の私には、目の前に差し迫った受験の方が、何よりも大事だから。正直に言えばキミの気持ちは本当に嬉しいし、その気持ちに応えてあげたいと本気で思っているのは、嘘じゃない。でも今は受験に、全ての力を集中させたいの。だからそれら全ての結果が出るまでは、返事は待ってほしい。決してキミを失望させるような結果にはしないから、まだ当分の間は、今の関係を続けさせてもらえないかな」

 その言葉に、僕は立ち尽くす。

 陽は完全に落ち切り、頭上に広がるのは、満天の星空。周囲から聞こえて来るのは文化祭実行委員会による余興を受けた生徒による歓声と、野外ライブを執り行っている軽音楽部の電子楽器による、野放図な喧騒。そこにジャズ研究会のサックスの音も混じり、場は益々をもってカオスを成す。

 焚き上がる炎が放つ、オレンジ色の光。その光に照らし出されながら見つめ合う僕と橘部長を、遠くから芹沢が、恨めしそうな眼で睨み据えている。

 どこかのクラスが営火に放り込んだ演劇の大道具のハリボテが盛大に燃え上がり、一際大きな炎が噴き上がった。

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