第三幕


 第三幕



 昼の休憩を告げるチャイムが窓の無いアトリエ内に響き渡ると同時に、僕は硬い木製の椅子から腰を浮かせて大きく伸びをし、背中と肩の筋肉の凝りを少しでもほぐそうと努めた。そして貴重品の置き忘れが無い事を確認してから母親が作ってくれた弁当を手に取ると、他の学生達の波に混じって、デザイン・工芸科のアトリエを退出する。

 アトリエの出入り口から空調の効いていない戸外に出た途端、殺人的なまでに熱された空気の塊となってムッと押し寄せて来る、強烈な暑気。地獄の業火の如く燃え盛る太陽から発せられた直射日光が僕の痩せ細った色白な肌を焼き、日なたにほんの数秒間立っているだけで、瞬く間に玉の様な汗が汗腺から噴き出し始める。

 季節はまさに、夏の盛り。太平洋から吹きつける南風が今年も日本列島に強烈な熱波と湿気をもたらし、老人達は熱射病と熱中症でバタバタと倒れ、若者達はひと夏の思い出へといざなわれる。

 ちなみに今しがた僕が出て来たアトリエと言うのは、いつも僕達が集っている高校の美術室の事ではない。本格的な夏の到来と共に僕達の通う千葉県立東柏台高等学校は永い夏季休暇に突入し、今現在僕が立っているこの場所は、県境を跨いだ東京の池袋に在る美術系予備校の第一校舎だ。

「うあっつー……。なんだよこの暑さは……」

 デザイン・工芸科のアトリエを出た僕は、あまりの暑さに愚痴をこぼしながらも、待ち合わせの場所である地下一階のベンチを目指してゆっくりと階段を下りる。既にカレンダーの上では八月も後半だと言うのに、このどうしようもないうだるような暑さは、その勢力を衰えさせる兆しすらも見せようとはしない。地球温暖化だかエル・ニーニョ現象だか何だか知らないが、おそらくは今年の残暑もまた、相当に厳しいものとなるのはまず確実だろう。出来る事ならば、夏休みをもう一ヶ月延長してほしいと本気で思う。

「笹塚くん、こっちこっち」

 日陰に覆われた地下一階へと辿り着いてみれば、既にベンチに席を確保していた橘部長が、僕の姿を見るなり手招きをして声をかけて来た。なので僕も急いで彼女の元に馳せ参じ、向かいのベンチへと腰を下ろす。

「こんにちわ、橘先輩。柏木さんは?」

「彼女は、まだ。油絵科のアトリエは、遠いからね」

 僕達がそんな言葉を交わしていると、この第一校舎の地下一階から地上の建屋外へとつながる階段を、柏木がコンビニ袋を片手に小走りに下りて来るのが見えた。油絵科のアトリエは通りを挟んだ向かいの第二校舎に在るので、彼女はいつも、待ち合わせの時間に少しばかり遅れてやって来る。

「遅く……なりました……」

「いいからいいから、早く食べちゃいましょ。こうも暑いと、お弁当もすぐに悪くなっちゃいそうだしね」

 遅れて来たのは彼女の責任ではないのに、生来生まれ持った気の小ささからか、反射的に謝ろうとする柏木。そんな彼女を制して、橘部長はベンチに早く座るように促した。勿論それには理由があり、周囲のベンチが次々と他の予備校生達に占拠されて行くこの状況下では、モタモタしている余裕は無いからだ。

「さて、と。こうして三人で仲良くお昼ご飯を囲むのも、今日と明日の二日間で、もう終わりか。三週間なんて、早いものねえ」

「ええ、永かった夏期講習も、もう明日で終わりかと思うとちょっと寂しく……も、ないか。正直な事を言わせてもらえれば、朝から晩までずっと課題の絵を描きっぱなしの毎日は、予想以上に辛かったです。舐めてましたよ、完全に」

 溜息混じりにそう言ってぼやく僕をクスクスと、橘部長と柏木が、それぞれの弁当と惣菜パンの包みを開けながら笑った。

 高校の夏季休暇を利用し、美術受験系部員の僕達三人は示し合わせて、共にこの美術系予備校のそれぞれの志望学科の夏期講習に通い続けた。それは文字通り朝から晩まで、途中に一回の昼休憩を挟むだけの、後は延々と課題をこなし続けなければならないまさに受験対策に特化された美術漬けの日々。それは僕の甘い予想を遥かに上回る、過酷で濃密な、そして容赦の無い三週間であった。だがその苦行の日々も、明日の午後をもって、その全カリキュラムを無事終了させる事となる。

「で、どうだったの、笹塚くん。その朝から晩までずっと描きっぱなしの夏期講習を終えた結果、少しは上達出来たのかな?」

「ああもう、それは本当に聞かないでくださいよ、橘先輩。むしろ毎日毎日周囲の皆の上手さを見せ付けられた結果、僅かに持ち合わせていた自信を粉々に打ち砕かれて、落ち込まされただけなんですから」

「それは、私も同じ。……まあ、仕方が無いよね。夏期講習に来ている学生の大半は、もう何年も予備校に通い続けている浪人生ばっかりなんだもん。私達現役の高校生と経験の豊富さで単純に比較されたら、どう考えたって相手になる訳が無いものね。……あーあ、やっぱり現役合格の道は、厳しいなあ」

 橘部長から投げかけられた意地悪な質問に僕は溜息を漏らし、当の彼女は達観した眼で空を見上げながら、弁当の卵焼きを上品な仕草で咀嚼する。考えてみればこの三人の中で一番受験に直面しているのが橘部長なのだから、自分の実力を思い知らされたショックと重圧は、僕などとは比較にならない程の強烈さなのだろう。

「でもその、あたしはすごく楽しかったです……」

 ボソリと消え入りそうなほどの小さな声で、柏木が言った。

「学校の美術部では油絵科を志望しているのはあたしだけだから、周りの皆で仲良く一緒に油絵を描くのはなんだかすごく楽しくって、夏期講習に来れて本当に良かったと思ってます……。それにここだと、テレピン油の匂いが周りに迷惑をかけているんじゃないかって気にしなくていいのが、すごく気が楽で……。勿論あたしも、周りの人達の上手さに尻込みをしちゃいましたけど……」

 内気で口下手な柏木にしては珍しく、自分の胸の内をハッキリと吐露した事実に、僕は少しばかり驚いた。そして急に恥ずかしくなったのか、彼女は口にしていた惣菜パンをモソモソと急いで頬張ると、ペットボトルのミルクティーで強引に胃に流し込んで一息ついた。その言葉から推測するに、以前美術室でテレピン油の匂いを芹沢一派に咎められた時の事を、今も気に病んでいるのかもしれない。

「うんうん、柏木さんはとっても純粋で、可愛らしいわねえ。そのままずっと、いつまでも絵を描く事が好きでいて欲しいな」

 橘部長が本当に嬉しそうにニコニコと微笑みながら、柏木の寝癖交じりのくせっ毛頭を、愛しむように撫でる。そして撫でられた当の柏木もまた、その可愛らしい顔に嬉しいような恥ずかしいような微妙な表情を浮かべながら、頬を赤らめた。本当にこの二人は、実の姉妹の様に仲睦まじい。

「で、その柏木さんにとっては楽しかった夏期講習も明日で終わりな訳だけれど、残りの夏休みの期間は二人とも、何か予定はあるのかしら? たとえばどこかに遊びに行くとか、家族と旅行に行くとか」

「いいえ。僕は、特に何も。お盆に家族と一緒に田舎にも帰れなかったし、特にこれから遠出する予定も無いです。だから後は学校の宿題を消化しながら、ゲームでもやりつつダラダラ過ごそうかなって」

「あたしは、ちょっと遅くなっちゃったけど田舎のお婆ちゃんに会いに行こうかなって……。田舎と言っても茨城だから、一人でもすぐに行けるし……」

「あらあらあら、なーに? 二人とも、ぜんぜん色気の無い、現役高校生らしさの欠片も感じられない返答じゃない。受験生の私と違ってキミ達二人はまだまだ余裕があるんだから、少しくらいはどこか賑やかな所に遊びに行くとか、恋人でも作ってみるとか、十代の若者らしい夏休みの過ごし方をしてみなさいよ。寂しい青春なんて、受験生の私だけで充分なんだから。そうでないとお姉さん、ちょっと悲しいな」

 わざとらしく怒った表情を作って見せながら、面白味の無い返答を返した僕と柏木の二人に、年長者気取りの橘部長が取って付けたような説教をした。当然だが彼女は本気で怒っている訳ではなく、単に甲斐性のまるで無い草食系を極めた後輩二人をからかって、遊んでいるだけに過ぎない。

「じゃあお言葉ですけど橘先輩は、どこか賑やかな所に遊びに行ったり、恋人を作ったりする予定があるんですか?」

「そんなもの、ある訳が無いじゃない。さっきも言ったように、私はあなた達と違って、余裕の無い受験生なんですからね。学科試験で少しでも点数を稼ぐために、夏休みの残りの期間はひたすら勉強に励まなきゃ」

 腕組みをして堂々と胸を張りながら、後輩である僕達二人と同じく、色気の全く無い返答を返す橘部長。

 幸いにも、僕達の通う千葉県立東柏台高等学校は、全国でも指折りの進学校だ。故に自慢ではないが、僕達の有する学力は、全国平均に比べても格段に高い。だがそれに対して芸大や美大の学科試験のレベルは一般の大学と比べても一段低く、その結果僕達ならば、学科試験で不合格となる可能性はほぼ皆無と言っても過言ではない。むしろ橘部長が言うように、己の学力を利用して学科試験で限り無く満点に近い点数を叩き出し、実技試験で浪人生達に劣る分を穴埋めするのが僕達にとっての常套手段となる。

「ごちそうさま」

 僕が学科試験に関して色々と思いを巡らせている内に、若い女性特有のやけに小さな弁当箱の中身を全て食べ終えた橘部長は、そっと箸を置いて手を合わせた。彼女の隣に座る柏木もまた、コンビニで買って来た惣菜パン一つだけと言う簡素な昼食を既に終えて、ペットボトルのミルクティーでティータイムと洒落込んでいる。そんな中で一人取り残された僕は早く昼食を食べ切ってしまわなければと、自分の弁当の残りを急いで口の中に詰め込んで嚥下した結果、不覚にも喉に詰まらせてしまった。

「ゲホゲフッ! グホフッ!」

「ちょっとちょっと、大丈夫? ほら、これ早く飲んで」

 咳き込んで苦しむ僕に橘部長が差し出したのは、未だ半分がたが飲みかけの、彼女の麦茶のペットボトル。それを手渡された僕はその中身を勢い良く飲み下す事で、喉に詰まった咀嚼物を食道から胃へと強引に流し込んだ。そして一息ついてから僕は、たった今橘部長と関節キスをしてしまった事に、改めて気付く。そして一拍の間を置いてから橘部長もまたその事実に気付いたのか、僕達二人は一瞬だけ視線を合わせて言葉も無く見つめ合った後に、すぐに眼を逸らして無言となった。

 なんだか少しだけ、夏の暑さのせいだけではない熱量を、首筋から頬にかけてじんわりと感じる。僕の気のせいなのかもしれないが、橘部長の頬もまた、少しだけ赤らんでいるような気がした。

 そんな僕達二人の姿を、柏木がほんの少しだけ寂しそうな笑顔で見つめている。


   ●


「笹塚くん、ちょっとこの後時間があったら、私に付き合ってくれないかしら? それにもし良かったら、柏木さんも一緒に」

 午後の講習を終えて一緒に帰途に就こうと準備をしている最中、橘部長が唐突に、僕達二人に向かって言い出した。

 時刻は既に、夕方。今現在僕達が立っているこの場所は、美術系予備校第一校舎の校門前。夏期講習最終日を明日に控えた今日のこの日に、一体こんな時間から何処で何の用事があるのかと、僕は訝しんで足を止める。だがそれと同時に、憧れの橘部長から誘われた事実に対して、たとえ柏木が一緒とは言え喜びを隠せない自分がいる事もまた事実だった。

「いいですよ、どこに行くんですか?」

 可能な限り平静を装いながら、僕は応えた。だがその心中は、たとえ取り越し苦労に終わるとしても、様々な事態に対する自分にとって都合の良い期待に満ち溢れてもいる。場合によってはある種のデートに誘われるのではないかと言う、そんな余計な事すらも考えてしまうほどに、僕の心は舞い上がっていた。

「いや、そのね、本当に大した事は無いの。ただちょっと一緒に、あるお店でご飯を食べてくれないかなと思ってね。だから一緒に来てくれるなら、笹塚くんも柏木さんも、ご両親に晩御飯は済ませて帰ると断っておいてくれないかな? ……ああ、お金の事なら大丈夫。私が誘った以上は、二人とも奢ってあげるから」

 そう言うと橘部長は、池袋駅の方角を指差して歩き始めた。僕と柏木の二人はそれぞれの携帯電話で夕御飯の不要を自宅に連絡しながら、その後を追う。


   ●


「ここ……ですか?」

「そう、ここ。前からここに入って御飯を食べるのが、ちょっとした夢だったの」

 そう言うと橘部長は僕の背中をそっと押して、目的地である飲食店に先頭に立って入る事を促した。その飲食店とはどこにでも在る牛丼チェーン店「松屋」の、池袋西口駅前店。果たして自動ドアからその店内へと足を踏み入れた僕と橘部長と柏木の三人は、食券販売機の前に並ぶ。

「へえ、こう言うお店では、まずは食券を買うんだ」

「それは、お店によりますよ。食券なのは松屋だけで、吉野家やすき屋では、普通に店員に口頭で注文しますから」

「ふーん、そうなんだ」

 物珍しげに券売機を眺めながら硬貨を投入し、ボタンを押して牛めしの並盛りの食券を購入した橘部長。彼女はそれをカウンターの前でおひやを持って待機していた店員に手渡すと、意気揚々と自分の席へと腰を下ろした。そんな彼女を左右から挟み込むようにして、僕と柏木の二人もまた自分達の席に腰を下ろすと、それぞれが購入した食券を店員に手渡す。勿論事前に宣言した通り、代金は全額橘部長が支払ったが。

「しかしなんでまた、こんなお店に来たがったんですか? 牛丼屋ぐらい、いつでもどこでも入れるじゃないですか」

 僕の問いに、橘部長はふふんと鼻を鳴らす。

「笹塚くん、それは、男の子ならではの意見だね。意外と女の子だけではね、こう言うお店には、入り難いものなんだよ。だから今日はね、キミと言う男の子が一緒にいる機会を最大限に利用させてもらって、これまで一度も入る事が出来なかった牛丼屋に入ろうと思ったって訳なの。……柏木さんは、こう言うお店に一人で入った事、ある?」

 橘部長の問いに、柏木は無言のまま、首をぶるぶると横に振って否定した。ちなみに柏木が注文したのは、牛めしの小盛り。夏期講習の期間中もずっと昼食を惣菜パン一つだけで過ごして来た彼女だったが、どうやら小さいのは気の持ちようだけでなく、胃の容量もまたその範疇に含まれているらしい。

 しかし一方で僕は、橘部長の主張に疑問を呈す。

「そう言うモンですか? 男の僕には、よく分かりませんが」

「そう言うモンだよ? 男のキミには、よく分からないだろうけどね。牛丼屋とかラーメン屋とか言うものは女の私達からすると、意外なほどに閉鎖された、男だけの世界に見えるものなの。だから男である事を当然として生きているキミには理解出来ない事かもしれないけれど、若い女の子だけでは入り難いものなんだよね、こう言うお店には。……キミだって、女だけの世界であるランジェリーショップに男一人で入れと言われたら、足が止まるでしょう?」

「まあそりゃ、確かにそうですけど」

 橘部長の言に、少しだけ納得する僕。確かに男だらけの牛丼屋や家系のラーメン屋に一介の女子高生が一人で入店するのは、敷居が高い事象なのかもしれない。またそれと同時に、僕にランジェエリーショップに一人で入店する度胸は無く、それは確かに疑いようも無い事実である。そして図らずも僕は、憧れの女性の口から「ランジェリー」と言う言葉が聞けた事に、少しばかりドキドキしていた。

「お待たせしました」

 そう言って店員が配膳した牛めしの並盛りを、妙にキラキラとした、子供の様な瞳で眺める橘部長。そして彼女は「いただきます」と礼儀正しく一礼してから、ニコニコと微笑んだまま、眼前の牛肉と玉葱の煮物を乗せた丼飯を嬉しそうに頬張る。

「そっか、なるほど、こう言う味だったんだ。ちょっと味が濃いけれど、これはこれで美味しいね」

 本当に嬉しそうに牛めしを口へと運びながら、橘部長は率直な感想を漏らした。彼女の隣では同じく牛めしの小盛りを配膳された柏木が、これまた妙に嬉しそうな、だが控えめな笑みを浮かべて、醤油出汁で煮込まれた牛のバラ肉と玉葱を御飯と一緒に口へと運んでは嚥下している。

 男である僕にとっては何の変哲も無い牛丼屋が、女子高生にとっては足を踏み入れる機会も限られた不可侵アンタッチャブルな領域なのかと思うと、ほんの少しだけこの世界の真理の一端を知り得たかのようで面白くもあった。また同時に、こんな些細な事で喜んでいる橘部長の貴重な姿を拝めた事実も、僕にとっては又と無い僥倖と言えるだろう。意外と彼女にも子供っぽいところがあると言うか、無邪気な一面があるものなのだと思うと、その笑顔が歳相応に可愛らしくすらも見えた。

「どうしたの? 笹塚くんは、食べないのかな? それとももしかして、思っていたよりもキミ、小食だったの?」

 眼前に配膳された牛めしの大盛りには手も付けずに、隣に座る女子高生二人をジッと眺め続ける僕。そんな僕を橘部長は訝しみ、まるで珍獣でも眺めるかのような不思議そうな眼差しで見つめ返す。それに対して僕は、自分でも少し気持ち悪いかなと思うくらいの朗らかな笑みを浮かべながら、牛めしを頬張る彼女達を見守り続けた。


   ●


「それじゃあ、無事に夏季講習を終えました事を祝して、乾杯」

 橘部長の音頭に合わせて、僕達は手にしたジュースの缶を互いにカチンと打ち鳴らし合い、その中身を飲み干した。

「ホントだったら昨日の牛丼屋みたいに、どこかのお店にでも入ってちゃんとお祝いをしたいところなんだけど、こうも全員荷物が多くっちゃ、ラッシュの時間前に帰らなくちゃならないもんね。また今度日を改めて、柏のファストフード店か喫茶店辺りで打ち上げでもしましょうか?」

「いいですね、それ。それじゃあ来週辺りにでも、日程の調整をします? 柏木さんも、それでいいかな?」

 橘部長が打ち上げの提案をし、僕がそれに賛同し、誘われた柏木が無言のまま小さく首肯した。

 東京は池袋の美術系予備校で行なわれた、三週間に渡る過密な夏期講習。その全日程を無事に終えた僕達三人が今現在立っているこの場所は、JR上野駅の、常磐快速線下りプラットホームの自販機前。

 橘部長の言う通り、僕達三人の荷物は、異常なまでに多かった。なにせ夏期講習で使用した各自の大判パネル数枚や、大量の絵の具やパレットや絵筆が詰まった大型のツールボックス等を、三人全員が各自のキャリーカートに乗せてガラガラと引きながらここまで移動して来たのだ。その量は軽く見積もっても、ちょっとした海外への小旅行の荷物にも匹敵する。そのため、夜の退勤ラッシュが始まる前に帰途に就かなければ他の乗客の迷惑になると判断し、講習終了を祝した乾杯は駅のホームでささやかに行われる事となったのだ。

 辛く苦しく、そして地獄の様な暑さに悩まされ続けた三週間の夏期講習。その終了を、出来る事ならば盛大に祝いたいと言うのが僕の偽らざる本音ではあったが、今は缶ジュース一本分の喜びで我慢する事としておく。

 プラットホームで缶ジュースを片手にそうこうしている内に電車の発車ベルが鳴ったので、僕達三人は急いで下り方向の常磐線に乗車すると、車輌の端の三人掛けの座席を確保して人心地付く。

「おお、涼しい」

 僕の口から思わず、歓喜の声が漏れた。陽が傾いても衰える事を知らない熱気と湿気で蒸し焼きにされそうだったプラットホームに比べると、空調の効いた車内は格段に涼しく、まるで天国の様に快適だった。そして僕が着ているポロシャツの胸元をパタパタと拡げて汗を乾かしている内に乗降口のドアが閉まり、電車は千葉県方面へと向けて、ゆっくりと発車する。

 ふと僕の隣の、ドア寄りの座席に座っていた柏木が腰を浮かせると、ほんの少しだけ奥に詰めた。

「あれ、ひょっとして僕、汗臭かった?」

 急に自分の体臭が気になった僕は、ポロシャツの胸元を拡げる手を止めると、柏木に尋ねた。あまり気にしていなかったが、そう言えば今日も大分汗をかいた筈だし、ここに来るまでに大荷物を運んで来た事を考えれば尚更だ。

「あ、いいえ、そんな、笹塚先輩が汗臭いなんて事、絶対に無いです……。ただ、あたし身体が小さいから、大きい先輩達に余裕を持って座ってもらおうかと思って……」

 相変わらずの消え入りそうな小さな声でそう言うと、控えめな笑顔を見せる柏木。確かに僕達の方が彼女よりも体格的には大きいが、それでも僕は男子の平均以下の身長だし、橘部長も僕も、どちらかと言えば痩せている方だ。詰めて座る必要なんて微塵も無いだろうに、あまりにも彼女は気を使い過ぎている。

「柏木さんは、気を使い過ぎだね」

 壁沿いの席に腰を下ろした橘部長が僕を間に挟んだ格好で、僕が心の中で抱いたのと全く同じ感想を柏木に告げた。

「謙虚なのはいい事だけど、その引っ込み思案過ぎると言うか、人に遠慮し過ぎる性格を少しは直さないとね。そうしないと、何をするにも貧乏クジばかりを引く事になっちゃいそうで、お姉さん心配だな」

「でも、その、苦手なんです……。あたしが遠慮しないと、そのせいで他の人が損をしちゃうんじゃないかと思っちゃって……」

 モジモジと、居住まいが悪そうに弁解する柏木。

「うーん、柏木さんはね、もうちょっとだけ自分勝手になった方がいいと、私は思うんだけどな。もっと自己主張して、少しくらいワガママにならなきゃ。……まあでも、その控えめなところが、柏木さんの可愛らしいところでもあるのかもね。その可愛らしさに気付いてくれる男の子とかが、将来現れてくれるとお姉さん、嬉しいな」

 そう言うと橘部長は、柏木の純朴で澄み切った瞳ををジッと見つめて、ニコリと微笑む。柏木もまた、控えめな笑顔をその返事とした。そんな二人の姿はやはり、実の姉妹の様に微笑ましい。

 やがて電車内に、松戸駅に到着するとのアナウンスが流れる。

「あ、それじゃあたし、お先に失礼します……」

 松戸駅から各駅停車に乗り換える柏木は席を立つと、自身の荷物を積載したキャリーカートをガラガラと引きながら、電車の乗降口へと向かった。そして停車した車輌のドアが開くと、その小柄で痩せた身体のせいでやけに大きく見える荷物を苦労してプラットホームへと下ろし、雑踏の中へとその姿を消す。

 そして彼女と入れ替わるようにして乗降口から車輌に乗り込んで来た少女に、僕は見覚えがあった。

「あれ? 笹塚くん?」

 驚いた顔でそう言うと、そのふわふわの栗毛をなびかせた少女は、天使の様な愛くるしい笑みを浮かべる。そして遠慮する事無く僕の隣の、さっきまで柏木が座っていた座席に腰を下ろすと、その身を僕に密着させた。周囲の乗客の何人かが彼女の容姿に惹かれて、チラリとこちらに視線を向けるのに気付く。

「奇遇だね、一緒の電車なんて。ねえ、なんかすごい大荷物だけど、これ、どうしたの? どこに行った帰り? あ、デッサンのパネルが入ってるって事は、もしかして、前に言ってた予備校の夏期講習の帰りなのかな? そう言えば夏休み中はずっと会えなかったけど、元気してた?」

「え、ああ、うん、そうだね……」

 矢継ぎ早の質問攻めに、僕は気圧されて言葉を詰まらせた。

 栗毛の少女の正体は勿論、芹沢胡桃その人。学校の制服に比べると格段に露出度の高いピンク色のキャミソールとデニムのミニスカートに身を包んだ彼女に密着されて、僕は不覚にも、少しばかりドキドキしてしまう。そしてまた同時に、例の甘く芳醇な香りがふわりと、僕の鼻腔に届く。

「あ……」

 何かに気付いたらしい芹沢は、突然口篭ると、その愛くるしい笑顔を急速に曇らせた。そんな彼女の視線は、僕を挟んで反対隣の座席に座る人物へと向いている。その人物とは当然、艶やかな黒髪と凛とした佇まいが美しい、白いブラウス姿の橘部長に他ならない。

「こんにちわ。いや、もうこんばんわかな、芹沢さん。久し振りだけど、元気だった?」

「どーも……」

 いかにも渋々と言った面持ちで、形ばかりの挨拶を返す芹沢。対して姿勢を正した橘部長は、強者の余裕なのか、それとも先輩としての矜持なのか、穏やかな笑顔を微塵も崩さずに微笑み返す。そしてその笑顔が却って癪に障ったのか、芹沢の表情はみるみる内に、その曇りの度合いを増す。

 決して混ざり合う事の無い水と油が、こんな場所で巡り会う事になるとは思ってもみなかった。

「ねえ、笹塚くん。笹塚くんは夏休みの間、どこかに遊びに行ったの?」

 強引に話題を切り替えると僕と視線を合わせて笑顔を作り直し、先程までの不機嫌さが嘘のような明るい口調で問いかける芹沢。どうやら彼女にはこれ以上橘部長と言葉を交わす気は無いらしく、無視を決め込む構えのようだ。

「え? いや、ずっと予備校の夏期講習に通ってたから、どこにも行けなかったな……。家族はお盆に田舎に帰ったんだけど、僕は独りでこっちに残ったから」

「ふーん、そうなんだ。それにしても大変そうだね、夏期講習。毎日こんな大荷物を持って、通わなきゃいけないんでしょ?」

 芹沢が、各種の画材やパネルの積載された僕のキャリーカートをコンコンと叩きながら言った。

「あ、いや、これは今日だけだから……。今日が夏期講習の最終日だったから、これまでに予備校に持って行っていた画材を、全部まとめて持ち帰らなきゃならなくなったんだ。それで、こんな量になっちゃったんだよ。普段は昼の弁当を持って行くぐらいで、あとは殆ど手ぶらで通ってたよ」

「へえ、そうなんだ。……え! て言う事は笹塚くん、今日で夏期講習終わったの?」

「え? あ、うん、そうだけど?」

 急にテンションが上がったのか、声のトーンを一オクターブ跳ね上げて尋ねて来る芹沢に、僕は気圧されて座りながら後退る。周囲の乗客の何人かが今度は好機の視線を彼女へと向けたが、興奮した芹沢は一向に意に介さない。

「じゃあさじゃあさ、今度一緒に、どこかに遊びに行かない? それとも、未だ夏休み中に何か予定が入ったりしてるの? もしも入ってないんだったらさ、残りの期間、色んな所に遊びに行こうよ! ね?」

「あ、う、うん」

 僕の返答を待つ間も惜しむように、矢継ぎ早に捲くし立てる芹沢。彼女の勢いに負けて、僕もついつい無責任な首肯をしてしまう。

「ホント? ホントだよ? じゃあさじゃあさ、今度電話で連絡するから、一緒に遊びに行こうね? 約束だよ?」

 興奮冷めやらぬ芹沢に、僕が一方的に約束を取り付けられていると、常磐線の車内には間も無く柏駅に到着する旨のアナウンスが流れた。

「あ、もう着いちゃったか。それじゃあ、あたしはここで降りなきゃいけないからさ。今度一緒に遊びに行く約束、絶対だからね? 絶対に絶対、忘れないでよ? それじゃあ笹塚くん、またね」

 電車が駅に到着すると同時にそう言いながら席を立った芹沢は、乗降口のドアが開くと、駆けるかのようにプラットホームへと降り立った。そして彼女の背中が小さくなるのを見ている僕の隣で、橘部長もまた、ゆっくりと席を立つ。

「キミも色々と、大変そうだね。でも悪い結果にはならないように、よく考えて行動するんだよ?」

 肩越しにチラリと僕と視線を合わせながらそう言った橘部長は、自身のキャリーカートを担いでスタスタと、電車の乗降口から柏駅のプラットホームへとその姿を消した。そろそろ退勤ラッシュの時間が迫りつつある車内には結構な数の乗客が乗り込んで来ていて、彼女の背中を眼で追っていた僕の視界を塞ぐ。そして橘部長の最後の言葉の意味するところを今一つ得心出来ないでいた僕などお構いなしに、常磐線は隣の我孫子駅へと向かって、ゆっくりと静かにその車体を前進させ始めた。

 電車の窓の光に吸い寄せられた一匹のセミがガラス戸にぶつかって、ジッと鳴いた。


   ●


 自室の天井近くの壁に設置された、やや型遅れのエアコン。そこから冷風が噴き出す微かな機械音だけが、まるで小動物の鳴き声の様に、耳に届く。チラリとベッド脇のデジタル時計に目を遣れば、時刻はまだ、夜の八時半を少し回ったばかり。夕飯が終わって机に向かってから、未だ一時間ほどしか経過していない。

「あー、だめだ。ぜんっぜん集中出来ない」

 そう言うと僕は握っていたシャープペンシルを問題集の上に投げ出し、椅子の背もたれに圧し掛かるようにして全体重を預けると、天井に向かって深く一息嘆息した。そしてフラフラと立ち上がると、まるで誘虫灯に吸い寄せられる愚かな羽虫の如く、ベッドの上へとその身を大の字にして投げ出す。

「しばらく勉強なんて、してなかったからなあ……」

 美術系予備校の夏期講習は日中の講習そのものだけでなく、量こそ少ないものの自宅で行なう課題もまた、同時に課されていた。それらの忙しさにかまけて学校の宿題を殆ど放棄した状態にあった僕は、いざ残りの宿題を片付けるべく机に向かってみても、思うように集中力が持続出来ないでいたのだ。

「まあ、未だ夏期講習が終わって二日しか経ってないんだしさ。その内に段々と、ペースが掴めて来るさ」

 誰に対しての言い訳なんだか分からない希望的観測に満ちた独り言を、虚空に向かってぼんやりと漏らす僕。そんな僕の視界の隅に、壁際のメタルラックの上に乗せられた三十二型液晶テレビと、その横に置かれた据置型コンシューマーのゲーム機が映る。

「ちょっとだけ……」

 誘惑に負けた僕がそう言いながら半身を起こしたところで突然、ベッドの枕元に投げ出してあったスマートフォンから、結構な音量の着信音が鳴り響いた。急いで拾い上げて着信画面を見れば、そこに表示された送信者名は、『芹沢胡桃』。僕は少しばかり嫌な予感に襲われながらも、応答ボタンをタップする。

「はい、もしもし」

「あ、こんばんわ、笹塚くん? 今、電話しても大丈夫だった? この前は時間が無くてあんまり話せなかったけど、どう? 元気?」

 回線の向こうから聞こえて来る声の主は、やはりと言うか当然と言うか、芹沢。些末な事などは何も考えていなさそうなその声の調子は、妙にテンションが高く、機嫌が良い事をうかがわせる。だが果たしてそれを無邪気と評していいのか、それとも無思慮と評すべきなのかは、僕一人では判断がつかない。

「あ、や、やあ、芹沢さん。うん、別に今電話しても大丈夫だけど、何?」

「あのね、この前電車で会った時に言ったでしょ? 今度電話で連絡するって。で、話したい事は沢山あるんだけどさ、とりあえずは今度一緒に遊びに行こうって、約束したじゃない? それでさっそくで悪いんだけどさ、笹塚くん明日は、何か予定が入ってたりする? それとも、暇かな?」

「あ、うん。えーと、一応何も予定は入ってないから、暇と言えば暇だけど?」

 早口で捲くし立てる芹沢に、相変わらず小心者の僕は気圧される。だが彼女の声は少しトーンが高過ぎる点を除けばとても澄み切っていて可愛らしく、その内容さえ気にしなければ、耳に心地良い。

「そっか、特に予定は入ってないんだ、良かった。それじゃあさ、明日一緒に、プールに行かないかな? プールに」

「プールに?」

 鸚鵡返しで問い返した僕に、芹沢は水を得た魚の様に言葉を並べる。

「そう、プール。あの、ほらあれ、柏の六号線沿いに在るでしょ? ウォータースライダーが外からも見える、結構大きなプール。ホントに急な話で悪いんだけどさ、笹塚くんさえ良ければ明日、あそこに一緒に行かないかな? まだまだ当分の間は猛暑日が続くって天気予報でも言ってるしさ、ちょうどいいプール日和だと思うの。だからさ、ね? 一緒にプール、行こうよ。予備校の夏期講習も終わったんならさ、少しくらいは夏らしい事しなくっちゃ、損じゃない? ね?」

「プールかあ……」

 僕は少しばかり語尾を濁しながら、逡巡した。年頃の女の子と二人きりでいきなりプールに赴くのは、草食系男子の僕には、少しばかりハードルが高過ぎる。

「あ、一緒に行く人数を気にしてるのなら、全然大丈夫だよ? 菊田も柳も韮澤くんも、皆一緒だからさ」

「ああ、そうなんだ」

 僕の警戒心が、少しばかり緩んだ。

「うん、そう。美術部の二年生全員で行こうって計画だから、そのあたりは心配しないでもいいよ。で、どうかな? 一緒に行く気になってくれた? それともやっぱり、プールよりも別の場所の方がいい?」

「うーん……」

 スマートフォンを片手に、僕は再び逡巡する。正直な事を言わせてもらえば、体力にも体格にも全く自信の無いチビでモヤシの僕は、プールが苦手だ。決して泳げない訳ではないが、人様の前で披露するほどの技量も肉体美も、当然ながら持ち合わせてはいない。それに二人きりではないと言われても、僕の事をあからさまに嫌悪している菊田と柳が一緒なのは、決して評価点には成り得ない。だがそれでも韮澤が一緒ならば、いざとなれば彼と終始行動を共にするか、もしくは女子の相手を彼に押し付けてしまえばいいだけの話だとも考えられる。それに何よりも、このまま夏の思い出が夏期講習だけで終わってしまうのは、僕個人としても本望ではないのもまた事実だ。

「うん、分かった。韮澤も一緒なら、僕も行こうかな」

「ホント? じゃあさじゃあさ、明日の十時に、柏駅の東武野田線の改札前に集合ね。……うん、そう、南口の方の。それとあそこのプール、確か水着や浮き輪やタオルのレンタルもしてた筈だから、殆ど手ぶらで来ても大丈夫だと思うから、安心してね。……あ、でもお金はそこそこ用意しておいた方がいいと思うよ。うん、じゃあ明日、遅れないでね。……あ、ちょっと待って」

 僕が通話終了ボタンをタップしようとしたところで、芹沢が急に引き止めた。そして思い出したように、付け加える。

「さっき韮澤くんに連絡した時に、今日はもう寝るって言ってたから、今からは電話はしない方がいいと思うよ? 何だかすごく疲れてたみたいだし、安眠を邪魔しちゃ悪いと思うからさ。それに明日になれば、いくらでもお喋り出来るんだし」

「ああ、うん、分かった」

 何故そんな事を付け加える必要があるのか少し不審に思ったが、取り立てて追求するほどの事でもなかったので、僕は特に気にせずに受け流した。

「じゃあ、また明日ね、笹塚くん。一緒にプールで遊べるのを楽しみにしてるから、絶対に来てね」

「うん、じゃあ、また明日」

 そう言うと僕は液晶画面に表示されたボタンをタップして、通話を終了させた。そして再びベッドの上にゴロリと大の字になって横たわると、真っ白い壁紙が貼られた天井をジッと見つめる。

「プールか……」

 特に深い感慨も無くそう呟いた僕は、去年の夏に買った筈の水着がクローゼットのどの辺りにしまってあるのだろうかと、自分の記憶を掘り起こす。そして二年生だけでなく美術部員全員が呼ばれていれば、橘部長や柏木の水着姿も拝めたのになと、少しばかり残念に思うと同時に悶々とした。

 部屋の片隅では型遅れのエアコンが、いつまでも絶える事無く冷風を噴き出し続けている。


   ●


「おーい、笹塚くーん。ゴメンね、待たせちゃった?」

 そう言って詫びながら、許しを請うように胸の前で手を合わせたキャミソール姿の芹沢は、東武野田線柏駅の南口改札からその姿を現した。小走りでこちらに駆けて来る彼女の顔には申し訳無さそうな表情が浮かんではいるが、何だかそれも妙に芝居がかっていて、こう言っては悪いが少しばかり嘘臭い。

「いや、それほど待ってないから」

 スマートフォンの時刻表示によれば、現在の時刻は、十時十二分。僕も待ち合わせ時間の五分前に到着したところなので、それほど待ってないと言う僕の言葉は、紛れも無い事実だ。だがそんな僕に芹沢は、取ってつけたかのような弁解をする。

「いや、乗ろうと思ってた電車が目の前で出ちゃってさ、一本遅れちゃったんだよね。だからホントだったらさ、間に合う筈だったの。あたしはちゃんと、間に合う時間に家を出たんだからね」

 別に待ち合わせ時間に多少遅れた程度の事を僕は何とも思っていないので、それは特にどうでもいい。それよりも問題なのは、僕と芹沢以外の二年生である菊田も柳も韮澤も、未だにそれら三人の誰一人としてこの場に現れていないと言う事実の方だ。

「ところで、皆遅いね。芹沢さんが僕に次いで二番目だよ、ここに到着したのは」

「あ、それなら大丈夫。笹塚くんには言ってなかったけどさ、ここで待ち合わせなのは、あたしと笹塚くんの二人だけだから」

「え?」

 芹沢の唐突な告白に、僕は頓狂な声を上げた。

「他の三人はね、プールの前で現地集合って事にしてるからさ。だから気にしないでいいから、早くプールに行こ、ね?」

「え? ああ、うん」

 なんだか狐につままれたような気分の僕を気にかける様子もなく、芹沢はプールの在る国道六号線の方角へと足を向けた。そしてそのまま歩き出した彼女の後を追うように、僕もまた水着やタオルの詰まった自身のショルダーバッグを肩に掛けると、タイル敷きの駅前遊歩道を歩き出す。

 改札前の日陰から一歩外に出てみれば、そこは直射日光によって熱された、真夏の戸外。焼けたタイル敷きの地面からはゆらゆらと陽炎が立ち上り、遠くに立ち並ぶビル郡が、まるで波打つかのように歪んで見える。ふと頭上を見上げれば、雲一つ無い真っ青な空の中央で、白熱した太陽がさんさんとその存在感を主張している。当分は猛暑日が続くと言う天気予報が外れる確率は、どうやら極めて低いらしい。

 今日が絶好のプール日和である事に異論を挟む気は毛頭無いが、快晴の空模様に反して、何故か僕の心中は僅かに翳っていた。


   ●


 国道六号線沿いの、夏休みを満喫する老若男女で賑わうプール前に辿り着いた僕と芹沢の二人だったが、そこには菊田も柳も韮澤の姿さえも無かった。

「あれ? おかしいな、皆は未だ来てないのかな。芹沢さん、さっき他の三人は現地集合だって言ってたけど、待ち合わせの時間は何時にしてたの? あ、それとももう皆は先に中に入ってて、中で待ち合わせなのかな?」

 他の二年生部員達の不在を不思議がる僕が隣に立つ芹沢の方に視線を向けると、彼女はまたしても取って付けたような謝罪の表情を作り、許しを請うように合掌させた手を僕の方に向けていた。その光景を前にして、何となく状況を察した僕の心中は、ますますをもってその翳りを増す。

「ホント、ごめん! 実はプールに行く約束をしたのはあたしと笹塚くんの二人だけで、美術部の二年生全員で一緒に行くって言ったのは、嘘だったの。……だって、こうでもしないと笹塚くん、一緒にプールに行ってくれないと思ってさ。だからさ、ホントに悪いと思ってるから、今日は一日あたしと二人だけで遊んでくれないかな? ……その、お昼ご飯くらいなら、奢ってあげちゃうからさ、ね?」

 妙にわざとらしく悪びれながら、事の真相を詳らかに白状する芹沢。彼女は呆然とする僕に向かって何度も繰り返し謝ってくれてはいるが、その口調と態度はあからさまに芝居がかっていて真剣味が薄く、心の内ではさほど罪悪感を覚えていないのが手に取るように分かる。それと同時に、昨夜の電話の最後で韮澤に連絡を取らない方が良いと芹沢が付け加えた理由も、得心がいった。

「あっちゃー……マジか……」

 僕は呆れと怒りと、そして少しばかりの達観を含ませた深い溜息を一息吐いてから、諦めの言葉を漏らす。

「分かったよ。もうここまで来ちゃったんだし、何もしないでこの暑い中を帰るのも癪だから、一緒にプールに付き合うよ」

「ホント? 笹塚くん、ありがとう! じゃあさじゃあさ、早く中に入ろうよ、ね?」

 今の今までその顔に浮かべていた懺悔の表情が嘘の様に消え去り、普段の愛くるしい天使の笑顔へと、一瞬で変貌する芹沢。もはや罪悪感の欠片もうかがえない態度の彼女は意気揚々とプール目指して歩を進めると、背後で立ち尽くしている僕に向かって手招きし、急かす。すっかり呆れ果てた僕は再度深い溜息を吐いてから、栗毛の少女の後に続いてプールの入場ゲートをくぐった。

 受付で学生料金の入場料を支払い、バスタオルと浮き輪をレンタルしてから、それぞれの更衣室へと姿を消す僕と芹沢。去年の夏に買ったハーフパンツタイプの水着にさっさと着替えた僕は、レンタルの浮き輪を片手に、更衣室を出る。

 屋根のある建屋から陽射し溢れる戸外へと一歩足を踏み出せば、そこはもう、老若男女で賑わう真夏のプール。飛び込み台の設置された上級者向けのプールから、底の浅い子供用のプール。更には環状構造の流れるプールに、小さいながらもウォータースライダーまでもが敷設され、その全てが冷たい水で満たされて行楽客を待ち受ける。猛暑日のうだるような暑さの中、照りつける太陽光線を受けてキラキラと輝く水の快適な冷たさを想像し、僕は不覚にもワクワクと、期待で胸を膨らませた。

「笹塚くん、お待たせ」

 背後から声を掛けられて振り返れば、そこに立っていたのは当然ながら、水着姿の芹沢。彼女は着痩せするタイプだったのか、普段の制服姿よりも明らかに出る所の出た魅力的な身体のラインが白日の下に晒されていて、眼に眩しい。男の僕には詳しい分類は分からないが、そのセパレートタイプの花柄模様の水着によって彼女のスタイルの良さと肌の白さがより強調されており、何だか見ている僕の方が気恥ずかしくなってくる。

「どう? この水着。さすがにビキニは派手過ぎるかなと思ったんで、ちょっとだけ露出度控えめのを選んでみたんだけどさ、似合ってるかな?」

「え? あ、ああ、うん。良く似合ってると思うよ、うん。すごく可愛いし、色もすごく綺麗だし」

「ホント? これ、気に入ってくれた? へへ、良かった。それじゃあさ、さっそく遊ぼうよ。まずは、流れるプールからね」

 同世代の異性から水着姿を見られても恥ずかしがる素振りも見せず、むしろ見せ付けるかのように胸や腰を突き出しながら、芹沢は僕の手を引いて人波でごった返す流れるプールを目指す。握られた手から伝わって来る、彼女の体温と湿度。そんな些細なスキンシップにもドキドキと心臓が脈打ってしまう僕などお構い無しに、芹沢は今この瞬間を、精一杯に遊ぶ事に夢中らしい。

 周囲の男性客が一瞬視線を向けるほどの愛くるしい容姿の芹沢と、そんな彼女に強引に手を引かれた、色白で痩せ細ったチビで眼鏡の僕。誰の眼から見ても不釣り合いな取り合わせである僕達は、流れるプールに勢いよく飛び込んで監視員に注意されながらも、心地良い水の冷たさに歓喜の声を上げた。

 だが水遊びに興じる僕の心の片隅には、何故か橘部長の端正な横顔が、絶えずちらちらとよぎって離れない。それは今この瞬間にプールで遊ぶ相手が芹沢ではなく彼女であったならばと言う願望によるものなのか、それとも彼女に対する罪悪感によるものなのかは、僕には判別が付かなかった。


   ●


「あー、ホントに楽しかったね、プール。チャンスがあったらさ、夏休み中にまた一緒に行こうよ、ね?」

 現在の時刻は、未だ完全には陽が沈み切っていない、宵闇が迫る夕刻。その愛くるしい顔に満面の笑みを浮かべた芹沢は、二番街商店街のファストフード店のテーブル席でフライドポテトを摘みながら、満足げにそう言って笑った。僕は返事を誤魔化すためにアイスコーヒーを飲んで口元を隠しつつ、微妙な表情を浮かべる。

 プールでの水遊びが楽しかった件に関しては、異論を挟む余地は無い。終始芹沢にリードされっぱなしではあったが、流れるプールの中を浮き輪に掴まりながら漂流するのは快適だったし、思い切って覚悟を決めての飛び込み台からのダイブもまた、刺激的で面白かった。それにウォータースライダーを二人で滑り落ちるのは、子供の頃の無邪気さを思い出させて言うまでもなく楽しかったし、昼食代わりに食べた出店のホットドックと焼きそばも美味しかった。快楽の代償として、明日一日は筋肉痛に悩まされる事は免れ得ぬであろうが、それでも半日の間、夏のレジャーを満喫出来た事は間違い無い。

 第三者視点から客観的に見れば、今日の僕は文句の付けようも無いほどに、青春を謳歌していた筈だ。だがしかし、僕の心中は今一つ、晴れやかと言うには程遠い。その原因は勿論、そもそもが芹沢に騙されてプールに連れ出されてしまったと言う不本意さにもあるし、また同時に、それでもプールを楽しんでしまった事に対する背徳感にもある。せめて最初から二人きりでプールに行こうと誘われていたのならば、少しは気が楽だったのであろうか。それともその場合は、プールに来ると言う選択肢自体がそもそも消滅していたのであろうか。今更そんな事を考えても詮無い事だが、僕の葛藤は尽きない。

「笹塚くんさ、もしかして、夏休みに遊びに出たのはこれが初めて?」

「え? ああ、うん。まあ、そうかな」

「ホントに? ホントに今日のプール以外には、どこにも遊びに出なかったの? この夏休みの間中、ずっと?」

「いや、そりゃ近所の本屋に行ったり、コンビニに行ったりはしたけどさ。丸一日遊びが目的で外出したのは、これが初めてなんじゃないかな。そう言われてみれば」

「えー? 信じらんなーい。来年になったら、受験でますます遊べなくなるんだよ? 今年の内に、もっと遊んでおかなきゃ。しかもせっかくの夏休みなんだからさ、遊ばなきゃならないのはむしろ義務だよ、義務。貴重な十七歳の夏はもう二度と来ないんだからさ、もっと積極的に、人生を楽しまなきゃ」

 フライドポテトを咀嚼する芹沢が、もはや人を騙して強引にプールに連れ出した事など全て忘却したかのような無邪気さで、僕の出不精ぶりを非難した。だがその点を今更追求しても、おそらくは無視されるかもしくは逆ギレされそうなので、僕は無意味な愛想笑いを浮かべてその場を乗り切る。

「ところでさ、来てくれなかったね、コミケ」

 唐突にその声色を不機嫌なものに変えて、芹沢が言う。

「もしかしたら気が変わって一緒に行ってくれるかもと思ってさ、ギリギリ当日まで、返事を待ってたんだけどね。でもそれも結局、あたしの独り相撲で終わっちゃったか。コミケ当日の会場は馬鹿みたいに暑かったし、すごい人混みだったけど、それ以上にすっごく楽しかったんだから笹塚くんも来れば良かったのに」

「いや、でもその頃はほら、僕は夏期講習に通ってる真っ最中だったからさ。それに僕、暑いのは苦手だし」

 取って付けたような言い訳で、なんとか誤魔化そうと注力する僕。これ以上この話題を拡げても以前の梅雨の放課後の二の舞になるだけとしか思えないので、出来る事ならば別の話題に切り替えたいのが本音だ。

 だがしかし、芹沢はコミケについて語り続ける。

「ほらほら、これ見てよ、当日の会場の写真。ホントにすっごい人ばっかりでさ。それで皆で同人誌を売り買いして、それにコスプレとかしてる人も沢山いてさ、見てるだけでも楽しかったのに」

 そう言って芹沢は、ポケットから取り出した自身のスマートフォンのアルバムに収録された写真のスライドを、僕に向かって提示する。

 そこに収録された写真に写されていたのは、確かの物凄い数の人の波と、詳しくは知らないが、様々なアニメなり漫画なりのキャラクターの仮装をした人々の姿。一見すると、まるで本物かと見紛うかのような見事な出来のコスチュームを全身に纏ったものもあれば、ダンボールを加工して作ったのがバレバレの簡単な小道具を持っただけのものまで、その出来栄えは千差万別である。だが写真に写された人々に共通して言える事は、その全員が全員、とても気持ちの良い笑顔をカメラに対して向けている事だった。またそれは、コスプレこそしていないものの、随所に写っている芹沢や菊田や柳の姿もまた例外ではない。

 とにかくコミケと言うイベントが芹沢達にとってとても楽しいものであったと言う事は、門外漢である僕にも、それとなく伝わった。

「へえ、楽しそうじゃん」

「でしょでしょ? だから笹塚くんもさ、あたし達と一緒に来てくれれば良かったのに。それにコミケ以外にもね、この夏はいろんな所のいろんなイベントに顔を出して来たんだよ。日焼けするのが嫌だからプール以外の野外イベントだけは避けて来たけどさ、どこもホント、楽しかったなー。……でさでさ、話は変わるけど、笹塚くんの方の夏期講習って、どんな感じだったの? 楽しかった?」

 唐突に、話題が僕の夏期講習へと切り替わる。

「いや、楽しかったって事は無かったな……。所詮は一種の勉強だからね。毎日毎日、朝の九時から夕方の五時まで、ひたすらにデッサンか平面構成か彫塑かの課題をやらされるだけだからね。それに周囲には沢山の浪人生達もいて、結構雰囲気はギスギスしているしね。まあ、充実していたって言えば充実していたのかもしれないけれど、楽しかったって言うのとはまた別かな」

「えー、何それ。超つまんなそう。それじゃあ、普段の学校の授業よりもキツイじゃん。それを夏休みの間ずっとやってたなんて、信じらんない。あたしだったら、絶対途中で投げ出してるな。パスパス」

 いかにもウンザリと言った表情と口調で、芹沢がげげーと拒絶の言葉を漏らす。確かにその気持ちは分からないでもないが、言われたこちらは、あまり気持ちの良いものではない。そこで僕も少し意地悪になって、微力ながらも反論させてもらう。

「でも芹沢さんもさ、来年は、大学受験するんでしょ? 確かに僕は皆より一年早く取り組み始めたけどさ、来年の夏休みになったら芹沢さん達も一般大学の予備校の夏期講習に通って、同じ眼に遭うんだからね? そんな他人事みたいに言ってると、あっと言う間に一年経っちゃうよ?」

「うわー、考えたくない」

 芹沢が、ファストフード店のテーブルに突っ伏して、受験生となった来年の自分に思いを馳せた事を後悔した。そんな彼女を見て更に僕は意地悪になり、追い討ちをかける。

「ところで、夏休みの宿題はもう終わった? 学校の」

「……終わってない。未だ、全然残ってる」

「早く片付けないと、もうすぐ夏休みも終わっちゃうよねえ」

「あー、やだやだ。なんで宿題なんてものがあるんだろう。せっかくの夏休みなんだからさ、もういっそ、丸々全部遊ばせてくれればいいのに」

 芹沢が唇を尖らせて、現代の学校運営の在り方に対して愚痴を吐いた。実際のところは僕も未だ、学校の宿題を全然終わらせてはいないので、他人の事は言えない。だが今は、その事実はあえて伏せておく事にする。それにしても、なんだかんだで愛くるしい芹沢の表情がみるみるうちに曇って行くのを見て少しばかりほくそ笑んでいる僕の性根も、結構腐っているのかもしれなかった。

「それじゃあ宿題の続きもやらなくちゃならない訳だからさ、今日はもうそろそろ、お開きにしようか」

 そう言って僕は、飲み終わったアイスコーヒーのカップが乗ったトレイを手にすると、隣の座席に置いていた自身のショルダーバッグを肩に掛けた。窓の外を見遣れば既に陽も落ちかけているので、こんな所でいつまでもだらだらと油を売っている暇は無い。

「あ、そうだ笹塚くん。そう言えば、文化祭はどうするの? うちの部は、何やるかもう、決まってたんだっけ?」

 僕が座席から腰を浮かせかけたところで、それまでテーブルに突っ伏して受験と宿題の板挟みを嘆いていた芹沢が、顔を上げて問いかけて来た。僕は少しばかり記憶の海を遡った後に、答える。

「一学期に、部会で決まったじゃないか。美術室を会場にして、各自のデッサンや油絵なんかの絵画を展示するって。それに柳さんなんかも、イラストだか漫画だかを展示するんだって、随分と息巻いてた筈だし」

「あー、そうだったそうだった。要は、去年と同じって事だよね。そっかそっか、忘れてた忘れてた」

 正確に言えば、去年と同じではなく、例年と同じだ。文化祭で遊びに来た過去のOB達から聞いた限りでは、もう何十年も、美術部の文化祭での出し物は作品の展示で変化が無いらしい。もっともそれ以外に、何の演目が僕達にあるのかと問われれば、何も無いと答えざるを得ないのだろうが。

「柳は自分で漫画も描くけれど、あたしは読むの専門だからね。だから彼女には頑張ってもらうとして、あたしは今年も、特に何もする事は無いかな」

「一応、展示の監視と案内の仕事はあるけどね」

 職務放棄とも受け取れる芹沢の発言に釘を刺してから、僕達二人は、改めて席を立った。そしてファストフード店を出ると柏駅へと向かい、東武野田線の改札前で別れる。

「それじゃあ、笹塚くん。今日はあたしに付き合ってくれて、ありがとう。それと今更だけど、騙しちゃってゴメンね? それでさ、また近い内に、一緒に遊んでくれると嬉しいな」

「うん。それじゃ、また。今度は騙さないでよ」

 その懺悔の言葉とは裏腹に、悪びれた様子の欠片も無い愛くるしい笑顔で別れを告げた芹沢が、手を振りながら改札の奥の雑踏へとその姿を消した。彼女の背中が見えなくなったのを確認した僕は、隣のJR柏駅の改札口へと向かいながら、軽い溜息を吐く。

 なんだか、妙に疲れた。単にプールでの水遊びで体力を消耗した以上に、芹沢胡桃と言う名の女の子によって半日間に渡り振り回され続けたのが、精神的疲労となって双肩に重く圧し掛かって来るのを感じる。

 僕は疲労で寝過ごさないように注意しながら、常磐線の下り電車の座席に、その重い腰を沈めて帰途に就いた。


   ●


 その夜、JR我孫子駅から徒歩十五分ほどの新興住宅街に在る自宅に戻った僕は、両親と共に夕飯を食べ終えると二階の自室に篭った。二歳年上の姉は去年大学に進学してからは東京で一人暮らしをしているので、今は空室となった隣室からの騒音も無く、夜の静寂を破るのは冷風を噴き出すエアコンからの微かな機械音しか無い。

 部屋着姿の僕はベッドにゴロリと横になるとスマートフォンを手に取り、アドレス帳に登録された韮澤の電話番号を探し出す。そして発信ボタンをタップすると、数回の呼び出し音の後に、回線が繋がった。

「あ、もしもし、韮澤? 今、電話しても大丈夫?」

「おう、なつめちゃんか。ああ、別に大丈夫だけど、何? 何か急ぎの用事か?」

「いや、別に急ぎって訳でもないんだけどさ……。一応は伝えておくべきかなって思う事と、ついでに相談しておきたい事があってさ」

「ふーん。……で、何? 俺に伝えておきたい事って」

 それほど気負った様子の無い、完全に肩の力の抜け切った韮澤の声。僕からの電話に、それほどの重要性を感じていない事が手に取るように分かる。

「実は今日さ、プールに行ったんだよ、プール。ほらあの、六号線沿いの、ウォータースライダーが外からも見えるあのプール」

「ふーん、一人で?」

 スナック菓子か何かを咀嚼しながら通話しているのか、韮澤の口調に、ポリポリと言った何かを噛み砕く音が若干ながら混じっていた。やはり僕からの電話に対して、それほどの真剣味を持って応答しているとは言い難い。だがそれも、次の瞬間までの話。

「それがさ、一緒にプールに行ったのがさ、うちの部の芹沢さんだったんだよ」

「何! 何だそりゃ!」

 芹沢の名前を挙げた途端に、回線の向こうの韮澤の口調が豹変した。それと同時に何かを落としたのか、それとも韮澤自身がどこかから落ちたのか、ドスンと言った衝撃音もまた僕の耳に届く。

「おい笹塚、お前芹沢さんとプールに行ったって、それホントか? 嘘じゃないよな? 一体なんでまたお前が、彼女と一緒にプールに行ったんだ? 待て、待て待て。それよりもまずは最初に確認するが、まさか、二人きりで行ったんじゃないよな? 誰か他の人も一緒だったんだろ?」

 この上無く焦りまくりながら、半ばどもり気味の早口で疑問符を並べ立てる韮澤。僕は少しばかり、彼に電話した事を後悔する。

「いや、僕と芹沢さんの、二人きりでだよ。……て言うか、二人きりにされた件に関して、お前に伝えておきたい事があってさ。だからこうして、電話してるんだけどね」

「……どう言う意味だ、それは?」

 先程までとは打って変わって、鬼気迫るほどの真剣な声色で問い返して来る韮澤に、僕は順を追って説明する。

「まず三日前にな、予備校の夏期講習の帰りの電車の中で、偶然芹沢さんに会ったんだ。それでさ、その時に今日で夏期講習が終わったって言ったら、今度一緒に遊びに行かないかって、半ば強制的に約束させられたんだよ」

「うんうん、それで?」

 かつて例が無いほどの焦燥感を滾らせて、話題に食い付いて来る韮澤。

「で、そうしたら昨日の夜に突然電話で、明日一緒にプールに行かないかって誘われたんだよ。でもほら、僕もさすがに二人きりで行くのは恥ずかしかったからさ、最初は断ろうと思ったんだ。だけどそうしたらさ、菊田さんや柳さんや、それに韮澤、お前も含めた美術部の二年生が全員来るって言われたんだよね。それでまあ、皆が一緒に行くんだったら僕も行ってもいいかなと思って、それでプール行きを了承したって訳なんだ」

「……俺は、そんな話、これっぽっちも聞いてないぞ」

 韮澤の苛立ちが、回線越しにもひしひしと伝わって来る。

「まあやっぱり、そうだよな。……で、話の続きに戻るけど、それで今日の朝の十時に、指定された待ち合わせ場所に行ってみたんだ。そうしたら実は皆で行くって言うのは真っ赤な嘘でさ、最初から二人きりで行くつもりだったって白状されたって訳。それでまあ仕方無くって言うか、もう半分ヤケクソになって、今日一日芹沢さんと一緒にプールで遊んでさっき帰って来たって訳。……それで韮澤、お前はどう思う?」

「どう思うって、それは、俺に対する自慢か? それとも嫌味か?」

「いやいやいや、そんなんじゃなくて。僕を誘い出すためのダシに、お前や他の皆が使われたのをどう思うのかって話だよ。だいたいこっちは別にプールにそれほど行きたかった訳でもないんだから、自慢にも何にもなりゃしないさ」

 実際にはプールでの水遊びをそこそこ満喫したのだが、話が複雑になりそうなので、その点はあえて伏せておく。それよりも今は、ダシに使われた韮澤の反応を知りたかった。

「……なんか、ムカつくな」

「だろ? やっぱり人を騙すためのダシに使われて、怒らない人間はいないよな?」

 期待通りの反応に、僕は満足げな笑みを浮かべた。だが通話口から次に聞こえて来たのは、僕の予想外の返答。

「いや、ムカつくのは笹塚、お前に対してだよ」

「……え? いや、僕は一方的に騙されただけで、お前にムカつかれるような事は何もしてないぞ?」

「だから、俺達をダシにしてでもプールに誘い出そうと芹沢さんに想われているお前に対してムカつくって、俺は言ってんだよ」

 韮澤の語気が妙に荒いが、その理由が、僕には分からない。何故騙した芹沢ではなく、騙された僕が糾弾されなければならないのか、その理由が。

「……まあ、分からないなら分からないで、別にいいや。それで笹塚、もう一つの相談したい事ってのは何なんだ?」

「ああ、その事なんだけど……」

 未だ語気の荒い韮澤に、僕は少し遠慮がちな声で言葉を続ける。

「これも芹沢さんがらみの話なんだけどさ。彼女、どうして僕なんかを、二人きりでプールに誘い出そうなんて思ったんだろう? そりゃ、夏期講習で夏休みの間中どこにも遊びに行けなかった僕を哀れに思ってくれたのは分かるけどさ、それにしたって、なんで二人きりだったんだろうね? 嘘なんて吐かずに、本当に美術部の二年生全員を誘っておけば、もっと楽しかったかもしれないのに」

 率直な疑問を投げかけた僕の耳に届いたのは、無言。電話口の向こうの韮澤は、何も答えようとはしない。

 暫し続く、完全なる静寂。

「……韮澤?」

 痺れを切らした僕が彼の名を呼んだが、それでも尚、無言の時間は続いた。そして再び彼の名を呼ぼうかと僕が口を開きかけたところで、重く鈍い、怒気を押し殺したかのような声が回線を通して電話口から漏れる。

「お前、本当に気付いてないのか?」

「え? 何に?」

 韮澤の言葉の意味が純粋に理解出来なかった僕は、とぼけたような声で問い返した。そんな僕に、更に重い声で、彼は言い放つ。

「そうか、それならもう、いいや。もうお前は深く考えるなよ、笹塚」

 その言葉を最後に、プツリと回線は切れた。

「韮澤? おい、韮澤?」

 電話口に向かって、何度も彼の名を呼ぶ僕。だが回線が切れているのだから当然、僕の呼びかけに対する韮澤からの応答は無い。そして僕はただ独り自室のベッドの上で、何が彼をそんなに怒らせてしまったのだろうかと、そして芹沢は何故僕だけをプールに誘ったのだろうかと、いつまでも悩み続けていた。

 エアコンの効いていない戸外は、今夜も熱帯夜。だがあと一週間ほどで、永かった夏休みも終わる。

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