第二幕


 第二幕



トイレに行くついでに、第二校舎三階の廊下の窓から戸外へと眼を向ける。すると眼下に広がる校庭の片隅で、前日の部活終わりに回収され忘れたのであろうサッカーボールが一つ、雨に打たれて濡れていた。

 六月も後半に入り、季節はすっかり梅雨の盛り。豪雨と言うほどの激しさではないが、運動部が校庭での部活動を諦める程度の強さの雨が、今日もしとしとと降り続く。植物の育成を考えれば恵みの雨は必要な事なのだろうが、じめじめとした湿気交じりの空気は鬱陶しく、雨嫌いの僕は深い溜息を漏らしながら美術室へと足を向けた。

「外、また少し雨が強くなったみたいですよ」

 引き戸を開けて入室した僕にチラリと目線を向けた橘部長に、特に重要性の無い情報を伝えながら美術室を横断した僕は、自分の座席へと戻ってデッサンを再開する。モチーフに当たる光の加減が変わらないように美術室のカーテンは閉められている事が多いため、ずっと室内に居ると、外の天気の微妙な変化は分かり辛い。

「そっか。絵を描くには向かない季節になっちゃったね。毎年梅雨になると絵の具の渇きが悪くって、困っちゃう」

「ホントにそうですよ、橘先輩。湿度が高いと紙が湿気を吸っちゃって、鉛筆の乗りが悪くて思うように描けないったらないし」

 溜息交じりに橘部長が発した感想に、僕は愚痴で同意した。そして少し遠慮気味に、柏木もまた会話に加わる。

「えっと、油絵も絵の具が乾くのが遅くなっちゃって、この時期は大変なんです……。他の季節でも油絵の具は乾くのに時間がかかるんですけど、湿気があるとますます遅くなっちゃって……」

 何も悪い事はしていないのに、何故だかいつも申し訳なさそうな口調で、俯きながらボソボソと喋る柏木。彼女の癖と言うか生まれ持った性分みたいなものなのだろうが、この気の小ささをどうにかして克服してくれないと、いつか何かしらの酷い目に遭いそうで僕は心配せざるを得ない。

「ホントに油絵は大変だと思うな、こんな天気じゃ。でも柏木さんの絵は色が綺麗で、私すごく気に入っているから、今回も期待しているからね」

「あ、はい、頑張ります……」

 橘部長に期待の言葉をかけられた柏木は、とても嬉しそうな、そして同時に少しばかりのプレッシャーを感じて困ったような、複雑な表情を浮かべた。

「あ、ゴメンね、ちょっと気負わせちゃったかな? 私の言う事は気にしないでいいから、いつも通りに柏木さんが描きたいと思うように、のびのびと描いてね。その方がきっと、良い絵が描けると思うし」

 自身の発言が後輩に対してのプレッシャーとなってしまった事に気付いた橘部長が、すかさずフォローの言葉をかけた。そして言葉をかけられた柏木は、今度はさっきよりも純粋で控えめな笑顔を、その可愛らしい顔に浮かべる。そんな二人の様子は、まるで面倒見の良い出来た姉と、姉思いの素直な妹の様に仲睦まじい。

 ここで一旦気を取り直して、僕は眼前のモチーフに意識を集中させる。僕達美術受験系部員に課せられた本日の課題は、同一のモチーフに対して、それぞれが受験する学科ごとに別々のアプローチで作品を完成させる事。

 モチーフは黒い布が敷かれた台座の上に置かれた牛の頭骨と白い布、そして透明なガラスの花瓶に生けられた、青紫色の紫陽花の花。これらのモチーフを日本画科志望の橘先輩は着彩画で、デザイン科志望の僕は静物デッサンで、油絵科志望の柏木は油絵で、それぞれ仕上げる事となる。

 色彩も多彩で、質感に関しても硬軟取り合わせた複雑なモチーフの数々を正確に描き分ける事は、経験者でもなければ分からないだろうが非常に難易度が高い。そのため僕の静物デッサンはなかなか思うように作業が進行してくれず、さっきから席を立ってはトイレに行ったり小休止を取ったりと、今日の僕は終始イライラしっぱなしだった。

 しかも今回の課題は、今日の部活終わりに顧問の椎名教諭が来るまでに完成させなければならない。しかしこのままではどう考えても、未完成としか受け取られない出来栄えで終わってしまう事が目に見えている。

 厚い生地の黒い布の上に置かれた、薄い生地の白い布。それらの色調と質感の描き分けが思うような具合になってくれず、僕は何度目になるのか席を立つとイーゼルから距離を取り、意味も無くストレッチ体操などを始めた。硬い木製の椅子に座りっぱなしですっかり硬直してしまった肩や腰の筋肉がほぐれて、少しだけ心地良い。そしてふと横に視線を向ければ、半ばその存在を忘れていたが、四名の漫画系部員達も普段と変わらずスナック菓子と漫画雑誌や同人誌を囲んで談笑している。

 二つに断絶した、一つの部活。今日も水と油が交じり合う事は無いらしい。

「ちょっと、この匂い、少しはどうにかなんないの?」

 不意に漫画系部員の芹沢が、その愛くるしい顔を僅かに不快感で歪めながら、モチーフを囲んで部活動に励んでいる僕達に向けて言い放った。「この匂い」とは、おそらくは柏木が油絵の具を溶くのに使っているテレピン油の匂いの事だろう。有機溶剤であるテレピン油の匂いが不快なのは確かに事実なのだが、仮にも美術室内において、その匂いが漂う事を非難されるいわれは無い。

「ホント、臭いったらない。こっちまでプンプン匂ってきちゃってさ。一体それ、何の匂いな訳?」

 ソバカス面の柳が、芹沢の言葉の尻馬に乗るようにして、不快感を露にする。その顔には、明らかな嘲笑の色が浮かんでいた。

「そうそう、少しは周りの人の迷惑も考えてさ、遠慮するべきなんじゃない? 美術室を使っているのは、アンタらだけじゃないんだからさ」

 更にとどめを刺すように、ひっつめ髪の菊田があからさまな敵意を含ませた棘だらけの言葉を、柏木めがけて投げ付けた。その顔にはやはり単に不快を示す表情だけでなく、明らかな嘲りの色が浮かんでいる。要は純粋にテレピン油の匂いが不快なだけでなく、それを出汁にして、普段の鬱憤を晴らそうと言う魂胆が見え見えだ。

「あ、その、ごめんなさい……。ほんと、ごめんなさい……」

 柏木が、殆ど反射的に、謝罪の言葉をその小さな口から漏らした。そして肩をすくめ、頭を項垂れ、悪戯を諌められた子犬の様に心の底から申し訳無さそうに詫びの言葉を述べる。生来気が小さな彼女の事だから、たとえ相手があからさまなクレーマーであっても人一倍の罪悪感に苛まれて、その心は押し潰されてしまいそうなのだろう。今にも泣き出しそうな表情の彼女をフォローすべく僕は口を開きかけたが、それよりも一瞬早く橘部長が席を立つと、踵を返して腐女子三人組に向き直る。

「柳さん、菊田さん、それに芹沢さん。確かに油絵の具が臭うのは事実でしょうけど、それは美術部の部活動としては当然の事なのだから、申し訳ないけどちょっとだけ我慢してくれないかしら?」

 冷静かつ落ち着いた声色で、三年生の橘部長は二年女子三人に対して優しく、それでいて有無を言わせぬ強さを含ませた口調で言い放った。決して嫌味にならないように、また同時に恫喝と受け取られる事の無いように、ほんの少しだけ下手に出た言葉選びは彼女の思慮の深さをうかがわせる。

「そうは言いますけどね、部長さん。部活動に勤しんでいるのは、何もアンタ達だけじゃない筈ですけど、違いますか? それともなんですか? あたし達は、美術部の部員として失格って事ですか?」

 ひっつめ髪の菊田が一歩前に出ると、尚も食い下がった。彼女の無駄に長身なその体格が、否応無しに威圧感を増す。

「部活動。そうね、確かに菊田さん達も、部活動に勤しんでいるものね。でも本当にそうだったら、ううん、むしろそれだからこそ、後輩である柏木さんが一生懸命頑張っている姿を応援するべきじゃないの? 後輩思いの先輩だったら、テレピン油の匂いくらい、別に何でもないと思うんだけどね。違うかしら?」

 まるで物怖じしない堂々とした口調と態度で、橘部長が自分よりも一回り大きな相手を諌める。僅かに皮肉を込めながらも理路整然としたその内容に、菊田は反論する事が出来ず、只々歯噛みするばかりだった。

「……はいはい、そうですね、そうでした。あたし達が我慢すればいいんでしょ? ええ、そうしますよ、そうすれば満足なんでしょ? 真面目に部活動に勤しんでいる皆さん達は、ご立派ですからねえ」

 観念した菊田が、踏み出していた一歩を退きながら、吐き捨てるようにそう言った。そして小さく、だがハッキリとこちらまで聞こえるように舌打ちをしてから、立ち去る。そんな彼女の姿を見届けた橘部長は再び腰を下ろして自身のイーゼルへと向き直ったが、その表情には、決して相手を論破した事に対する満足の色は見受けられない。むしろ酷く寂しげな、悔恨の色が浮かんでいるのを僕は見逃さなかった。

「さ、柏木さん。もう気にする事はないから、絵の続きを描いてね。テレピン油の匂い、私はちょっとだけ好きだから」

「あ、その、あ、ありがとうございます……」

 悔恨の色が垣間見えた表情を一瞬で穏やかな笑顔へと切り替えて、橘部長は柏木に作業の継続を促し、柏木は控えめな笑顔で感謝の言葉を述べた。その姿はやはり、仲の良い姉妹の様で微笑ましい。

 その一方でぐうの音も出ないほど言い負かされた腐女子達三人組の方を見遣れば、彼女達は互いに目配せをしながら、何やらブツブツと小声で愚痴らしき言葉を並べ合っている。あの芹沢ですらもその愛くるしい顔をあからさまな敵愾心に歪めて、不快感を隠そうともしない。そしてそんな二年女子三人の傍らに腰を下ろしていた韮澤が、彼女達をなだめるつもりなのか、口を開く。

「まあまあ皆、ここは少し先輩の顔を立ててさ、橘部長の言う事に従おうよ? それにせっかく入部してくれた可愛い後輩がちょっと粗相をしちゃったくらい、我慢してあげようじゃないか、ね? ほら、芹沢さんもさ、そんな眉間に皺を寄せてたら、せっかくの可愛い顔が台無しだよ?」

 そう言って、芹沢のご機嫌を取ろうとする韮澤。僕は彼が柏木の行為を「粗相」呼ばわりした事に少しばかりカチンと来るが、韮澤に悪びれた様子はまるで無い。しかしご機嫌伺いされた当の芹沢は、そんな韮澤の言葉を気に留める素振りすら見せずに無視すると、おもむろに席を立つ。そして彼女は、小休止のために自身のイーゼルから少し距離を取った位置に立っていた僕の方へと、ツカツカと脇目も振らずに歩み寄って来た。その天使の様に愛くるしい顔に、何やらいらぬ妙案を思いついた子供の様な、にこやかでありながらもどこか裏がありそうな不穏な笑みを浮かべながら。

「あのさ、笹塚くん。夏休みは何か、予定入ってる? もし暇だったらでいいんだけどさ、あたし達と一緒に、コミケに行かないかな。あ、その前に、コミケって知ってるかな? 毎年夏と冬にビッグサイトで開かれる同人誌の即売会って言うか、お祭りなんだけど、あたしのお姉ちゃんとその友達がそこでサークル参加するの。だからうまくすればさ、入場チケットを貰えるかもしれないんだ。それにまだハッキリとは決まってないんだけど、もしかしたらそこであたし達も、本を作って売るかもしれないの。で、以前フリライにも描いてたけど、笹塚くん結構イラストとかも上手いでしょ? だからさ、もし良かったら何か一枚くらい描いてくれないかな、ね?」

 そこまで一気にまくし立てると、芹沢は合掌するかのようなお願いのポーズをとりながら、媚びるような表情と上目使いの瞳で僕の顔をジッと熱っぽく見つめる。彼女の様な愛くるしい少女にこんな表情をされれば、誰であれどんな要求であれ、それを飲まずにはいられないのが男のさがなのだろう。

 ちなみに『フリライ』とはフリーライティングの略で、部員同士がやり取りをするために美術室に置かれた、いわば連絡帳兼落書き帳の略称である。そこに何度か暇な時に漫画風のイラストを描いた事を、彼女は目ざとく記憶していたらしい。

 だが僕は、彼女の要求に抗う。

「いや、僕、今年の夏休みの間はずっと予備校の夏期講習に通う予定が入っているから……。それにイラストを描かないかって言われても、ホントにちょこちょこっと鉛筆で落書きみたいなのしか描いた事が無いし、そんな本にするようなちゃんとしたのは描いた事が無いから……。だから誘っておいてもらって悪いけど、ホント、ごめん。遠慮させてもらうよ」

「えー? そんな事言わないでさ、出来れば描いてほしいな、あたし。……ホントに駄目? じゃあイラストは描かなくてもいいからさ、あたし達と一緒にコミケの会場に行って参加するだけでも、どうかな? 予備校の夏期講習って言っても、一日くらいは休んじゃっても大丈夫なんでしょ? ね、駄目かな?」

「そう言われても……」

 尚も食い下がる芹沢に、僕は困惑の色を隠せない。僕としても女子から遊びに誘われるのは決して嬉しくない訳ではないし、確かに予備校の夏期講習も、一日くらいは休んだとしても問題は無いだろう。だが一度休んでしまったらそのままずるずるとサボり癖が付いてしまいそうで怖く、迂闊に甘言に乗る訳にはいかないのも、また動かし難い事実だった。

 愛くるしい少女の懇願の表情を前に、僕はただひたすらに苦悩する。

「芹沢さー、行きたくないって言ってんだから、そんな奴無理に誘わないでも、あたし達だけで行けばいいじゃない。これまでもずっとそうして来たんだし、今更男が増えたって、どうせ目的のサークルも違うんだからさ、誘う意味なんて無いでしょ? むしろお荷物が増えるだけじゃない」

 美術室の向こう側から僕と芹沢の二人を横目に見ていたひっつめ髪の菊田が、不快感を隠そうともせずに、ハッキリとそう言い放った。至極不躾な物言いをされた僕だったが、今はそれも助け舟として、感謝させてもらう。

「そうだよ、芹沢さん。だいたいお姉さんからサークルチケット貰えるって言ったってさ、そんなに人数増えちゃったら、さすがに全員分は無理でしょ? それに仮に本を出すにしたってさ、そいつがあたし達の好きなジャンルに詳しい訳無いじゃんかさ。だから誘うだけ無駄だってさ」

 ソバカス面の柳もまた、僕にとってはあまり嬉しくない助け舟を出した。更にそこに、韮澤もまた加わる。

「そうそう、ほら、笹塚のやつも困ってるじゃんか。そいつには美大受験って言う重要な目標があるんだから、遊びよりも夏期講習の方が大事なんだろうし、無理に誘うのはかえって失礼だって。それにそのコミケとやらで男手が必要なんだったら、俺が代わりに行ってやるよ。荷物持ちくらいだったら、俺の方が体力には自信があるからさ。だから笹塚の事は、そっとしておいてやろうって」

 僕の体力の無さを少し馬鹿にされたような気がしたが、それは確かに動かし難い事実なので、別に韮澤の言に不満は無い。だが女二人男一人の計三人から邪険な扱いを受けている事もまた事実なので、何だか僕の心の奥底に、酷く納得の行かない淀んだ澱のような物がジワリと溜まる。しかも困った事に、眼前に立つ芹沢は彼らの説得に応じる様子は無くらしく、尚も僕に懇願の視線と言葉を投げかけ続ける。

「もー。外野はちょっと、黙っててくんない? あたしはあくまでも、笹塚くんに来て欲しいの! ね、笹塚くん。こんなにお願いしても、どうしても駄目かな? ほんの一日だけ、あたし達に付き合ってくれればいいだけだからさ、ね? それに別に荷物持ちをさせたりしたいんじゃなくて、一緒にお祭りを楽しみたいだけなんだから。ね、お願い。一緒に来てくれないかな?」

 いよいよもって芹沢は僕の元へと歩み寄り、ついには彼女の小さくて柔らかな手が、僕の手を包み込むようにしてギュッと握り締めた。彼女の体温が、汗の湿気が、僕の手の甲の皮膚を通してじんわりと伝わって来る。そして眼前には涙で潤んだガラス細工の様に綺麗な瞳と、手触りの良さそうなふわふわの栗毛が迫って来ていて、心なしかほんのりと甘くて良い香りすら漂って来ていた。この状況に際して僕の心の中では人としての理性と雄としての本能が小さく脆弱な天秤の両端に掛けられ、はたしてどちらかに傾いたものか葛藤し、もしくは天秤そのものが崩壊しそうになっている。

「えっと、芹沢さん、いや、その、そんなに一生懸命に誘われても、僕は一体どうしたらいいか……」

 心臓の鼓動がバクバクと早鐘を打ち、、じんわりと髪の生え際から、嫌な色の汗が噴き出すのを感じる。こう言うのをパニック状態と言うのだろうが、そんな事を冷静に分析している余裕は今の僕には無く、只々視線を泳がせながら口をパクパクとさせるだけだった。そんな僕の有様を見た芹沢は、もう一押しすれば落とせると判断したのか、更にその愛くるしい笑顔を近付けて僕の瞳をジッと覗き込み、懇願する。

「ね、お願い、笹塚くん」

 だが次の瞬間にトンと、不意に何かが芹沢の肩の上に置かれた。

「芹沢さん。もう、そのくらいにしておいたら?」

 いつの間にか僕らの元に歩み寄っていた橘部長が、芹沢の肩にその白く美しい手を乗せて、彼女に自制を促す。

「笹塚くんも嫌がっているようだし、あんまり強引に誘うのも、彼に対して失礼なんじゃないかな? それにそんな強引に誘って無理矢理そのお祭りに連れて行っても、楽しいのはあなただけで、笹塚くんは楽しめないと思うの」

 その端正な顔に、穏やかであると同時に意志の強さを感じさせる凛とした笑顔を浮かべた橘部長が、小さな子供に諭すような口調で芹沢を説得する。

「芹沢さんの熱意は笹塚くんに充分に伝わった筈だから、あとは笹塚くんの自由意志に任せた方が、お互いのためにいいんじゃないかしら? もしも気が変わったなら、彼だってそのお祭りに一緒に行ってくれるだろうし、無理強いはお互いにとっても良い結果にならないんじゃないかな? どうかしら、芹沢さん?」

 僕にとっての助け舟でありながらも、同時に芹沢の言い分もまた決して全否定はしない、橘部長の仲裁の言葉。その並べ立てられた一分の隙も無い正論と、有無を言わせない絶対的強者の笑顔を前にして、橘部長と視線を合わせた芹沢は僕の両手を握ったまま言葉も無く狼狽していた。

 そして広い美術室に訪れたのは、一時の静寂。

「……そうですね。はいはい、そうですね。分かりましたよ、分かりましたってば! 無理強いしなければいいんでしょ、無理強いしなければ!」

 しばしの沈黙の間を置いてから吐き捨てるような口調でそう言い放った芹沢は、あからさまな敵意をその表情から隠す事も無いままに、握っていた僕の手を放すと肩の上に置かれた橘部長の手を強引に振り払った。そして再び僕の方に向き直ると、今度は打って変わって甘えるような表情をその愛くるしい顔に浮かべて、最後の懇願をする。

「じゃあさ、笹塚くん。ホントに、無理に誘ったりしちゃってごめんね? でも一緒にコミケに行ってくれたら、あたし本当に嬉しいな? だからさ、ホントに一日だけでいいから、考えておいてね?」

「あ……うん……。その……考えておくよ」

「約束だよ? いい返事、ずっと待ってるからね?」

 そのガラス細工の様な美しい瞳を涙で潤ませながら上目遣いで自分の言いたい事を一方的に言い終えた芹沢は、満面の笑みを浮かべると、再び他の腐女子仲間達の元へと戻って行った。つい今しがたまで橘部長に向けられていた敵愾心剥き出しの表情が、一瞬で愛くるしい天使の笑顔へと変化するその様を見せつけられた僕は、女の恐ろしさの一端を感じて背筋にゾクリと冷たいものが走る。

 だがとりあえず当面の危機が去ったらしい僕は大きく一息嘆息すると、胸を撫で下ろしながら、描きかけのデッサンが立て掛けられたイーゼルの前の自分の席へと戻って腰を下ろした。そして隣の席に既に戻っていた橘部長に向けて、小声で礼を言う。

「橘先輩、ありがとうございました」

「どういたしまして、笹塚くん。でもね、あの程度の事くらいは、自分で何とか出来るようにならなきゃ駄目だよ。キミだって立派な男の子なんだから、もうちょっとくらいはしっかりしなきゃ」

「はい……」

 橘部長から小声で窘められ、少しばかり落ち込んで項垂れる僕。確かに言われてみれば、たとえ年長の先輩で部長とは言えども、一端の男である僕が女の子に助けられた事実は情け無い事この上無かった。

「笹塚先輩、あの、大丈夫でしたか……?」

「ああ、うん、大丈夫大丈夫。このくらい何でもないから」

 橘部長とは反対隣の席に座る後輩の柏木からも、心配の声を掛けられてしまった。彼女にまでも無様な醜態を見られたのかと思うと、ますます気分が塞ぎこんで来る。とりあえず一息入れようとイーゼルの横に置いておいた紅茶の入ったペットボトルを手に取った僕は、その中身を三口ばかり一気に胃袋へと流し込んだところで、自分の喉が酷くカラカラだった事に改めて気付いた。

「ところで笹塚くん、もう時間が無いけれど、デッサンの方は大丈夫なの?」

 そう橘部長に忠告された僕が改めて美術室の壁に掛けられた時計を見遣れば、顧問の椎名教諭がやって来る時刻が、刻一刻と差し迫っていた。椎名教諭の美術室到着と同時に今回の課題は終了となるので、このままでは僕の静物デッサンは、不本意にも未完成のまま提出する結果となってしまうだろう。今更焦ってもどうしようもない事ではあるが、あまりにも不本意な結果過ぎて、もはや溜息しか出てこない。

 僕は深く嘆息しながら天井を仰ぎ見ると、今日はなんて厄日なのかと、己の運の無さと間の悪さを呪う。


   ●


 新校舎の一階まで降りて下駄箱前の昇降口から戸外を見遣れば、まだ僅かに明るい雲に覆われた空模様は、やはり雨だった。

 それほど強くはない、しとしととそぼ降る程度の雨ではあったが、それでも傘が必要な強さである事に違いはない。散々な結果に終わった椎名教諭によるデッサンの講評の結果を思い出して陰鬱な気持ちになりながら、僕は学校指定の上履きから革靴へと履き変えると、黒い蝙蝠傘を開いて天を仰ぐ。

「雨……か」

「笹塚くんは、雨は好き? それとも、嫌い?」

 いつの間にか背後に立っていた橘部長が、唐突に僕に問いかける。振り返ってみれば更にその背後には、赤い折り畳み傘を開くのに手間取っている柏木の姿もあった。

「そりゃ、嫌いですよ、雨は。服が濡れるし、傘を持って歩かなきゃならないのが面倒臭いですから。それに何よりじめじめして、気分が落ち込みますしね」

「そうなんだ。でも私は雨、結構好きよ。雨が降った後は、いろんな汚れが全て洗い流されて、綺麗になったような気がするから」

 そう言って、たおやかに微笑む橘部長。僕の立つ位置からでは雨粒で拡散された街灯の明かりが彼女の姿を逆光で照らし出し、長身痩躯の肢体と長く美しい黒髪が、まるで後光を放っているかの如く輝く。

「さて、それじゃ笹塚くんも柏木さんも、行きましょうか」

 遅れていた柏木が赤い傘を片手にやって来るのを確認した橘部長はそう言うと、通用門の方角を指差す。

「ねえねえ、笹塚くん達さ、これからどこか寄って行くの?」

 昇降口の前から一歩を踏み出そうとした僕の背中に、小鳥がさえずるかのような澄んだ声が届いた。振り返ってみればそこにいたのは、花柄模様の傘を持って立つ、ふわふわの栗毛の芹沢の姿。当然だが彼女の背後には、菊田、柳、韮澤と言った他の漫画系部員の面々も揃っている。少し考えてみれば分かりそうなものだが、同時に部活動を終えた同じ美術部員なのだから、昇降口で彼女達が僕達と鉢合わせをするのは至極当たり前の事に過ぎない。だが何故か僕は、そんな事すらもすっかりと失念していた。

「あ、うん。絵の具を買いに、いしだまで行こうかなって」

「ホント? 超奇遇! あたし達もさ、これから皆でいしだに行くつもりだったの! じゃあさじゃあさ、一緒に行ってもいいでしょ? ね?」

 満面の笑顔で、同行の承諾を求める芹沢。彼女の一片の罪悪感も感じさせない純真無垢な笑顔が、逆に酷く恐ろしく薄ら寒いものに思えて、僕はゾッとする。

「いいじゃない。皆で一緒に行きましょ」

 困惑する僕に代わって事も無げに同行を承諾した橘部長が、その端正な顔に穏やかな笑顔を浮かべながら、紺色の傘を片手に先頭に立って歩き出す。そのすぐ後ろを主人によく懐いた子犬の様に柏木が付き従い、少し遅れて僕と、僕の隣から離れようとしない芹沢とが続いた。傘とカバンで両手が塞がっていなければ、強引に腕を組まれていたかもしれないほど密着して来る芹沢が、少しばかり鬱陶しい。

 そんな事を考えていると、背後で誰かが小さく舌打ちをする音が、僕の耳に届く。果たしてその舌打ちの主は菊田か柳か、それとも韮澤だろうか。とにかく僕達美術部の一行総勢七名の一団は、正門よりも駅に近い通用門の方角を目指して、そぼ降る雨の中をぞろぞろと歩き続けた。


   ●


 僕らが『いしだ』と呼ぶ店とは、柏駅のすぐ傍に伸びる二番街商店街の途中に在る画材屋、『いしだ画材』の事である。ここはプロ御用達の画材から額縁や絵画に彫刻、それに各種小物や文房具、更には漫画やアニメの製作に特化した画材や書籍やグッズも取り扱う、この街最大の画材屋だ。

 そのいしだ画材を訪れた僕ら美術部の一行は、それぞれが目当てとする画材の売り場を目指して、店内で散り散りに別れ合った。

 一年生の柏木は只一人、油絵の具売り場で絵の具と絵筆、それにテレピン油を物色している。広い店内で一人きりになると彼女の小柄で痩せた身体がますます小さく見えて、我が校の制服を着ていなければ、一介の女子中学生にしか見えない事だろう。一方で僕と橘部長の二人は隣のアクリル絵の具売り場に並んで立つと、それぞれが目当ての絵の具を求めて思い思いに棚を物色していた。

 平面構成の課題で減ってしまった絵の具を補充するために、ターナー社のアクリルガッシュをカタログ片手に棚から取り出していた僕が、ふと気になって隣の橘部長に尋ねる。

「あれ? 橘先輩、日本画の水彩画はアクリル絵の具じゃなくて、透明水彩を使うんじゃないんですか?」

「え? ああ、基本的にはそうなんだけどね。リキテックスの発色の良さが気に入ってるんで、私は両方とも使ってるの。特に青系の色は透明水彩よりも艶やかな色味がとても綺麗なんで、透明度が高めの色を中心に、色々と試してみようと思ってね」

 微笑みながらそう言うと、橘部長はアクリル絵の具の一種であるリキテックスのチューブを数本棚から取り出して、僕の前に示して見せた。確かに青系のリキテックスは発色がとても良く、日本画の実技入試科目である着彩画で使用したとしても、美しく映えるであろう事は間違い無い。

「笹塚くんも、平面構成のマチエールでリキテックスを使ってみたら? 薄く延ばしてムラにすると、雰囲気のある、いい下地が出来るわよ?」

「いや、僕、マチエールとかはホントに苦手で……。濃い目のアクリルガッシュでベタ塗りする方が、性に合ってるんですよ」

「そう、それは残念。透明度の高いリキテックスを白いジェッソの上に伸ばすと、ガラスの様に透き通るような質感になって、とても綺麗なのにね」

 その穏やかな微笑みを僅かに曇らせて、提案を拒絶した僕の言葉を残念がる橘部長。彼女は再びリキテックスが並んでいる画材屋の棚に視線を戻すと、カタログと現物の絵の具を見比べながら、透明度の高い種類を厳選しているようだった。

 さておき、絵の具の物色もほぼ終わってふと周囲を見渡してみれば、営業時間も残り僅かな画材店内は客足も少なく、微かに流れている有線放送のクラシック音楽を除けば比較的静寂に包まれている。だがその一角からは、妙に甲高い女性特有の喧騒が、この絵の具売り場にまで届いていた。

 僕が首を伸ばして通路越しに喧騒の発生源を見遣れば、そこにいたのはやはり、芹沢を中心とした漫画系美術部員の一団。彼女達は画材と共に売り場に並べられている漫画雑誌やアニメの情報誌を見比べつつ、何事かを楽しそうに談笑している。しかしここが、まがりなりにも公共の場所である以上、周囲の迷惑を顧みない彼女達の行為はお世辞にも褒められたものとは言えない。

 そんな芹沢達のマナーを欠いた姿を見て呆れていた僕の背筋に、突然ぶるっと、震えが走る。それと同時に、下腹部の辺りに鈍く張り詰めた重みを感じた。どうやら雨で少しばかり身体が冷えたせいだろう。急激な尿意が、僕を襲う。

「あ、橘先輩。僕ちょっとトイレに行きたくなったんで、すいませんけどこれ、持っててもらってもいいですか?」

「ええ、行ってらっしゃい」

 購入予定のアクリルガッシュのチューブ数本が放り込まれた小さな買い物カゴを、申し訳無いと思いながらも橘部長に手渡した僕は、このビルの中央を貫くエスカレーターを目指して小走りで急いだ。そしてトイレが敷設されている上階まで上ると、鮮やかな青色に塗られたドアから男子トイレへと素早く入り、壁沿いに並んだ小便器の一つの前でズボンのベルトを外し始める。

「よう、なつめちゃん」

 まだズボンのチャックを下ろし終えてもいない段階で突然男子トイレのドアが開いたかと思うと、僕は唐突に、不本意な呼び名で声を掛けられた。当然だが声の主は、さっきまで下の階で芹沢達と談笑していた筈の、韮澤。果たして尿意をもよおした僕の後を追って来たのか、それとも単に偶然鉢合わせしたのか。とにかく僕は、隣の小便器の前へと歩み寄った彼と、意図せぬ連れションをせねばならなくなったらしい。

 そして小便をしながら、韮澤は問う。

「あのさ、なつめちゃん。ちょっとお前に聞きたい事があるんだけど、いいかな?」

「……僕の事を金輪際その呼び方で呼ばないなら、考えてやらなくもない」

 少しばかり不貞腐れながらそう返答した僕に、小便器を前にして隣り合った韮澤は、イエスともノーとも受け取れる曖昧な笑顔を向けて来た。どうやら僕の要求を体よく誤魔化すつもりらしいが、この男を相手にそれを殊更に責め立てても無駄に疲れるだけなので、深い溜息を一つ吐いて僕は諦める。

「で? 聞きたい事って、一体何だ?」

「あのさあのさ、お前、うちの部内の女子をどう思う?」

「どうって……それ、どう言う意味で?」

 韮澤の吐いた予想外で曖昧な質問に対して、僕の返答もまた当然ながら、要領を得ない。だがそんな僕に構わず、尚も彼は質問を続ける。

「だからさ、うちの部は俺達二人以外は全員女子だろ? だからどの子が好みとかさ、そう言うのって、男だったら当然あんじゃん? そうでないとしたらお前、自分のクラスに好きな子とかいたりすんの? ……それともまさか、部内では隠してるけど、もう既に彼女がいたりするとか?」

「まさか。いないよ、そんなの。……いやまあ、そりゃ彼女とかいるんだったら、それに越した事は無いけどさ」

 韮澤が色恋沙汰に関して聞き出そうとしている事をようやく察した僕は、少し呆れながら、溜息混じりに答えた。

 恋人と呼べる異性を求める欲求は、年頃の健康な男子として、当然ながらこの僕も人並みに抱いてはいる。だが残念な事にその欲求は今のところ満たされてはいないし、過去にもまた、満たされた事は一度として無い。甚だ不本意ながら僕は年齢と彼女いない歴がイコールの、寂しい青春を満喫している非モテ系男子である。

「そっかそっか。ま、確かに既に彼女がいたとしたら、周りにいる俺達にとっくの昔に気付かれてるだろうしな。……で、話を戻すけどさ。ぶっちゃけうちの部内の女子では、誰が一番お前の好み? 勿論、誰でも望めば彼女になってくれると仮定した上での話でさ。深く考えずに直感的にズバッと、言っちゃいなよ」

 小便を終え、ズボンのチャックを閉じて手を洗おうと洗面台に向かう僕の背中に、尚も韮澤は問うた。僕は水道の蛇口をひねって流れ出た水で手を洗いながら思案し、慎重に言葉を選びながら答える。

「誰が好みって言われてもな……。そりゃ勿論彼女は欲しいけど、正直今は受験の事もあるし、そんなに真剣に恋愛の事は考えられないかなあ……。それにうちの部の女子は皆、甲乙つけ難いくらいに可愛いじゃないか」

 半分は本当で、半分は真っ赤な嘘の、無難な返答。彼女が欲しい事は事実だが、そのための苦労はしたくないと言う草食系男子の方便でこの場を切り抜けようと、僕の本能が選択した結果の産物だ。

「そうか? 本当に? なーんか嘘臭い答えだなあ」

 小便を終えて隣の洗面台で手を洗いながら、韮澤が僕の顔をジロジロと覗き込んで訝しむ。このままこの問答が終わってくれる事を僕は期待したが、どうやらそうもすんなりとは行かないらしい。

「俺はてっきり、柏木さんあたりなんかがお前に惚れてんじゃないかと思ってたんだけどな。彼女、俺とは全然口も利いてくれないけど、お前とはいつも仲良さそうにしてんじゃん? それかもしくは、既に橘先輩とこっそり付き合ってるとかさ。……ああ、でも橘先輩とお前が付き合ったら、絶対に尻に敷かれそうだな、うん。歳上のお姉さんと付き合うのもちょっとは憧れるけど、尻に敷かれるのだけはちょっと勘弁してほしいしなあ」

 好き勝手にべらべらと喋り続ける韮澤に、僕は只々呆れて、言葉も無い。だがこのまま彼の気が済むまで付き合ってやろうかと諦めかけたところで、質問の矛先が変わる。

「じゃあ逆にさ、うちの部内の女子で、この子とだけは付き合うのは無理だなーって相手は、いる?」

 韮澤の新たな問いかけに、僕の思考が百八十度反転する。好意ではなくその反対の感情で異性を選べと言うのは、いかなる返答をしても遺恨を残す結果となるので、なかなかに酷な選択を友人相手に迫るものだと軽い怒りすらも沸いた。どうせなら、「一番付き合いたくない相手はお前だよ」との皮肉で返そうかとも考えたが、喉元まで出かけたその言葉を今は我慢して、グッと飲み込む。

「付き合いたくない相手ねえ……」

 僕の脳裏にはまず第一に、菊田と柳の顔が浮かんだ。理由は分からないが、この二人はどちらも明らかに僕に対して、と言うよりも僕を含めた美術受験系部員全般に対して明確な敵意を抱いているのが明白なので、彼女達と恋仲になる事は天地が逆転しても考えられなかった。だが一歩引いて冷静に考えてみれば、それは彼女達が僕を嫌っているのであって、僕が彼女達を嫌っているのとはまた少し意味が違う。では僕自身が最も距離を置きたい人物は誰であろうかと考えた時、自然と脳裏に浮かんだのは、ふわふわの栗毛をなびかせて微笑む愛くるしい少女の姿だった。

「芹沢さん……」

「え?」

 韮澤が、一オクターブ高い声で驚いた。

「芹沢さん……かな」

「マジで? それ、マジで言ってる? マジでお前、芹沢さんと付き合いたくないの? 何? お前、彼女の事嫌いだったのか?」

「いやその、嫌いって事はないし、彼女のどこが悪いって事も無いんだけど、何て言うか以前から僕、なんとなく苦手なんだよね、芹沢さんの事が。何て言えばいいのかな。どうしてもテンポが合わないって言うか、それとも価値観が違うって言うか、とにかく一緒にいると、変に疲れるんだよね」

 僕の本音を聞き出す事に成功した韮澤の顔の表情筋が、急速に、そして気持ち悪いほどにほぐれ始める。

「そうかー。そうかそうか、そうだったのか。なつめちゃんは芹沢さんの事が苦手だったのか。いや、そりゃ気が付かなかったな。うん、全然気が付かなかった」

 妙に上ずった調子の声で嬉しそうにそう言いながら、韮澤はバンバンと僕の背中を叩いた。トイレで用を足した後に洗った手を背中で拭かれたようで、僕は何とも言えない不快感に襲われる。

「言っとくけど韮澤、この事は誰にも言わないでくれよ? 特に芹沢さんには、絶対にな。絶対に、絶対にだぞ」

 僕はしつこく、何度も繰り返し念を押した。韮澤の問いに対する僕の答えに芹沢を傷付ける意図は一切無いので、その点を誤解されては困るからだ。それにただでさえ芹沢と仲の良い菊田と柳から僕達美術受験系部員は嫌われていると言うのに、これ以上部内の空気が険悪になってしまっては、たまったものではない。一つの瓶の中で混ざり合わない水と油を、不用意に掻き回すような真似はするべきではない。

「大丈夫大丈夫、絶対に誰にも言わないから、心配すんなって」

 小さく鼻歌すらも歌いながら、妙に上機嫌で男子トイレを出て行く韮澤の背中に、僕は何とも言い知れない不安感と不信感を覚える。そして同時に遅ればせながら、僕だけが一方的に質問された事にようやく気付いて急に腹が立って来たが、既に韮澤の姿はドアの向こうへと消えた後だった。

 果たして同じ問いを韮澤本人にぶつけていたとしたら、彼は一体誰の名前を挙げていたのだろうか。そして女子部員達にも全く同じ問いをぶつけていたとしたら、誰が誰と付き合いたいと答え、誰が誰と付き合いたくないと答えていたのだろうか。そんな事を止め処も無く考えながら、僕は濡れた手をズボンで拭きながら男子トイレを後にする。

 階下の絵の具売り場に戻るべく階段を下りる僕の足取りは、橘部長が待っていてくれている事の嬉しさを差し引いても、少しばかり重かった。


   ●


「ただいま」

 自宅の玄関扉をくぐり、靴を脱いで上り框を跨いだ僕はそう言いながら、脇目も振らずに階段を上って二階の自室を目指す。途中で台所の方から小さく「おかえり」と言う母の声が聞こえたが、特に気にも留めずに歩き続ける。両親とは決して不仲ではないが、母親とは進路の件で一悶着あって以降、交わす口数は少ない。

 自室で制服から部屋着兼用のパジャマにさっさと着替えた僕は、ベッドの上にゴロンと大の字に寝転ぶと、天井をジッと見詰めながら今日一日に起きた出来事を順繰りに思い返す。買って来たばかりのアクリル絵の具と絵筆が詰まった画材屋のビニール袋は、机の上に放り出したままだ。

「誰と付き合いたいか……ねえ……」

 画材屋のトイレで韮澤に投げかけられた問いを心の中で反芻する僕を、無数の視線が刺し貫く。それら視線の発生源は、壁一面に貼られた数多くのデッサン画に描かれた物言わぬ石膏像達の、凪いだ海の様に静かな瞳の群れ。つまり僕の部屋の壁は隙間無く、自筆のデッサン画によって埋め尽くされていた。自分が描いたデッサン画を壁に貼って毎日見直し続ければ、眼が肥える事によって次第に自分の短所が自覚出来るようになり、やがては上達の近道になる。去年入部した直後に顧問の椎名教諭からそうアドバイスされて以来続けている、僕の密かな習慣だ。だが自分の作品を飾っていると言うのは何だか気恥ずかしいものがあるし、それにたとえ絵に描かれた石膏像とは言え、こうも多く人型が壁を埋め尽くしている光景は少し不気味で、まるで精神異常者の部屋の様な佇まいさえも見せている。もう少し厳選して、数を減らした方がいいのかもしれない。

「菊田さんと柳さんは……無いな」

 うら若き女性相手に失礼な事を言っているのは百も承知だが、さすがに自分を嫌っている相手と恋仲になる自信は、僕には無い。更に失礼な事を言わせてもらえば、あの二人は外見も僕の好みではないので、そうなればもう、付き合うきっかけ自体が存在しないと考えてもいいだろう。なのであの二名は僕の恋人候補からは、除外させてもらう。おそらくは向こうも、僕など願い下げだろうし。

「芹沢さんは……やっぱり苦手だなあ……」

 脳裏に浮かぶのは芹沢の愛くるしい笑顔と、彼女に接近された時に感じた、何とも言えない甘く芳しい芳香。

 誰が考えてもどう考えても、芹沢胡桃と言う女性が非の打ち所の無い美少女である事に間違いは無いし、僕自身もまたその事実に異論を挟む気は毛頭無い。だがどうしても僕は、そんな完璧な美少女である筈の彼女に対して、純粋な好意を抱く事が出来ないでいる。

 その原因が何であるのかを、上手く言葉で説明する事は出来ない。だが彼女の愛くるしい笑顔を一枚めくったその奥の人間性や価値観に、決して相容れる事の出来ない何かがあると、僕の本能が警鐘を鳴らしているのかもしれない。

 だから残念ながら芹沢もまた、僕の恋人候補には入らない。勿論僕の様な何の取り柄も無い冴えないチビの眼鏡にそんな贅沢を言う権利があるとすればの話だがと考えると、一体僕は何様のつもりでこんな妄想を描いているのかと思えて、「ははっ」と小さな笑いが口から漏れた。どう考えても僕と芹沢とでは、カップルとして釣り合わなさ過ぎる。童貞の妄想も、ここに極まれりだ。

「柏木さん」

 改めて彼女の名前を呼んでみる事で、柏木の素朴で地味だが、良く見れば意外と可愛らしい笑顔が思い出された。そして「けっこう悪くないな」と、本当に自然に、僕の口からポロリと率直な感想が漏れる。

 決して美人ではないが、かと言って不細工でもない程度の器量の持ち主であり、また同時に部活の一年後輩と言う絶妙なポジション。そして小柄で痩せた体格の彼女は、チビでガリの僕と並べば、傍目にはお似合いのカップルに映るのかも知れない。そう意識すると急に、柏木の事が一人の後輩としてではなく、一人の女性として僕の心の中での立ち位置を主張し始めるのを感じた。だがその一方で、彼女に対しての僕の感情は、純粋で対等な男女の愛情とはまた違うのも確かであった。その感情はどちらかと言えば、父親が愛娘に対して抱く庇護欲に近いものであろう。つまりは恋人同士になりたいと言うよりも、良き兄として見守っていてあげたいと言う思いに近いのだろう。

 なので恋人候補としての柏木は、決してあり得ない事も無いが、今のところは恋愛対象からは少し外れている。だがもし何かしらのきっかけさえあれば、この父性的庇護欲が愛情に変化する可能性も無くは無い。

「最後は……橘先輩」

 その名を挙げた瞬間、僕の心臓はいきおい早鐘を打ち、動悸が止まらない。そして頚動脈の流れる首筋から頭の天辺へと、決して初夏の暑さのせいだけではない熱の塊がぐんぐんと上り詰めて、頬が赤らんで行くのを感じる。

 脳裏に浮かぶのは艶やかな黒髪に包まれた彼女の端正な尊顔と、そこに優しく浮かぶ、穏やかで暖かな微笑み。その物腰は常に柔らかでありながら、芯に一本不動の信念を抱いているかのようにも感じる、凛とした佇まい。その全てに、僕は心を奪われそうになる。いや、既に心を奪われていると言った方が正しいのかもしれない

 だが果たしてこれが異性に対する純粋な恋心なのかと問われれば、今の僕には、ハッキリとした答えを出す事が出来ない。何故ならばそれは、単に自分よりも優れた資質を持つ先達として、橘部長に憧れの気持ちを抱いているだけなのかもしれないからだ。つまりは僕が彼女に対して抱いているのは只の尊敬の念であって、男女の愛情とはまた別のものである可能性が捨て切れない。

 そう考えると、僕は今までに、真の意味で異性に恋をした経験が無い。幼稚園児の頃に一緒に遊んでくれた保母さんに憧れた事はあったし、小学生の頃に仲良く遊んだ幼馴染の女の子もいた。だが明確に、それなりの年齢に達した男女の間柄として、異性に心からの愛情を抱いた事は無かったのではないだろうか。もしくは抱いていたとしても、自覚出来ていた事は無かったのではないだろうか。

 愛情とは、一体何なのだろうか。恋とは、一体何なのだろうか。そんなガラにも無い事をボンヤリと考えながら、僕の頭の中を、美術部内の全ての女生徒の顔がグルグルと回るように浮かんでは消えて行く。

 なんだか急に知恵熱が出て来たような気がした僕は、枕ですっぽりと顔を覆うと、丸めた毛布を股の間に挟んで意味も無くウンウンと唸りながら、何の創造性も無い思慮を巡らせて悶絶した。

 戸外では未だ、しとしとと生温い雨が降り続き、その雨粒が屋根瓦を叩いて不規則なリズムを刻む。

 本格的な夏の到来も近い。

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