第五幕


 第五幕



 B3サイズのパネルに水張りされたケント紙上に、細いシャープペンシルの線で描かれた、複雑な幾何学模様。その直線に沿わせるように、僕はアクリル定規を左手でしっかりと固定する。そして水で溶いたアクリルガッシュを含ませた筆をガラス棒と一緒に右手に握り込むと呼吸を止め、アクリル定規に掘られた細い溝にガラス棒を滑らせて、定規と平行な直線を筆で一気に引き切った。

「ふう」

 美術業界では一般的に『溝引き』と呼ばれる技法を数度に渡って繰り返した僕は、一息嘆息すると、心身の疲労を回復させる。筆とガラス棒をしっかりと固定して握り込まねばならないので無駄に握力を消耗するし、それ以上に、少しでも絵の具を線からはみ出させないための集中力が必要とされる技法だからだ。

 溝引きはデザイン科の課題である平面構成で高評価を得るためには必須とされる技法だが、ハッキリ言わせてもらえば今のご時勢、実際にデザインの現場に出てみれば直線なんてものはコンピュータを使ってモニタ上で引くのが常識だ。そんなフォトショップかイラストレータにでも任せておくべき過程を、美大受験の実技試験の現場では、未だに手作業で行わされる。まずはアナログの技術を肌で感じて体得しろと言う時代錯誤な慣習は、どこの業界でも変わらないらしい。

「調子はどう、笹塚くん? だいぶんお疲れみたいですけど、そんなに根を詰めてばかりいたら将来頭が禿げちゃうぞ?」

 不意に背後から声をかけて来たのは、相変わらずの愛くるしい笑顔を絶やさない、ふわふわの栗毛をなびかせた芹沢。そして彼女の立つ方角へと首を巡らせれば、その奥に在する机を占拠しているのはスナック菓子片手に漫画を読み耽る菊田と柳、それに韮澤の、漫画系部員一派。彼らから見て対角線上の部屋の反対側で部活動に勤しんでいるのは、僕と柏木と橘部長の、美術受験系部員の一団。

 当然だが僕達が居るこの場所は第二校舎三階最奥の美術室で、今の時間は、放課後。文化系の部活動にとっての最大の祭典である文化祭が終了してからそろそろ一ヶ月になるが、僕達美術部の在り様には、それほどの変化は無い。つまり一つの瓶に入れられた水と油は、今も変わらず混ざり合わないままだ。

「笹塚くん、疲れてるようだったらさ、たまにはこっちに来てあたし達と一緒に休まない? お茶もお菓子も用意して待ってるからさ、もっとのんびりしようよ? そりゃ確かに受験も大事だけどさ、あたし達は未だ二年生なんだから、少しくらいは遊んだっていいんじゃないのかな? ね?」

 芹沢がそう言いながら、僕の頭を背後から、軽く優しく抱き締めるかのように密着した。僕の後頭部に彼女の豊かな双丘が押し付けられて、そこから薄いブラウスとカーディガン越しに伝わって来るのは、湿度と体温を伴った二つの柔らかな圧迫感。そして微かに漂うあの甘い芳香に、僕は心ならずも、誘惑に負けそうになるのを禁じ得ない。

「いや、未だもう少し作業に集中したいからさ……。悪いけど芹沢さん、休憩はもう少し後にさせてくれないかな?」

 そう言って、なんとか誘惑を振り払うのが限界の僕。

「そっか、残念。それじゃああたしはいつでも待ってるからさ、休憩したくなったら、気軽に声をかけてね。今日は家から温かいミルクティーを持って来たからさ、出来れば一緒に飲みたいな」

 残念そうに、だが少しばかりの期待を込めながらそう言った芹沢は、手を放して密着していた僕の背中から離れようとする。だがその瞬間に僕の耳元でそっと、「返事、まだかな」と、周囲には聞こえないほどの小声で言うのを忘れはしなかった。

 先程僕は、文化祭終了以降も美術部の在り様にそれほどの変化は無いと言った。だが一つだけ変化を挙げるとすれば、それは以前にも増して芹沢が、僕にちょっかいを出すようになったと言う点だろう。そして当然だがそれは、彼女が機会をうかがって、暗に告白の返事を催促していると言う事に相違無い。

 そう、もうそろそろあれから一ヶ月が経とうと言うのに、僕はまだ芹沢の告白に対して明確な返事を返していない。そしてまた同時に、僕が橘部長に投げかけた告白の返事も、未だに保留にされたままだった。

 芹沢ほどの魅力的な女生徒ならば、時間が経てば僕の様な冴えない男にうつつを抜かしていた事を後悔して、告白などは一時の気の迷いとばかりに忘却してしまうだろうとの期待をしていた事もまた事実だ。だがどうやらそれは、僕の叶わぬ希望に終わったらしい。むしろ彼女の催促は、日に日にその頻度を増している。

「大変ですね……」

 ふと眼が合った隣の席の柏木が、小声で僕に、同情とも心配とも取れる言葉を投げかけた。それに対して僕は、乾いた作り笑いで返答するのがやっとの有様であり、先輩としては少しばかり情け無い。

 その一方で、本日のモチーフである麻縄を絡ませた流木と牛骨を挟んで柏木の正面に腰を下ろした橘部長は、自身のイーゼルに立てかけられたパネルに向かって一心不乱に筆を走らせている。その眼は真っ直ぐに、そしてモチーフとパネルを交互に行き来しており、芹沢に絡まれた僕になど一瞥もくれない。

 文化祭以前までの彼女ならば、もう少しは芹沢にちょっかいを出されている僕の事を、気にかけていてくれたような気がしないでもない。だが最近の橘部長は以前にも増して周囲の由無し事には眼もくれず、只々ひたすらに、眼前に迫りつつある大学受験に向けて全ての力を集中させているようにも思えた。少し言い過ぎかもしれないが、その一心不乱な姿は、鬼気迫るような凄みすらも感じさせる。

 不意にガタンと、美術室の窓が突風に揺れて、大きな音を立てた。戸外では秋の深まりを感じさせる木枯らしが吹き始め、銀杏の木の落ち葉が、不規則に宙を舞っている。

 そろそろ、制服のジャケットだけでは寒さに耐え切れない季節。今年もまた冬が到来したのかと、僕は独り言ちた。


   ●


つめてっ!」

 蛇口から流れ出る水流のあまりの冷たさに、僕は思わず、上ずった声を上げた。

 本日の課題も無事に終わり、僕は美術室のすぐ外の廊下に並んだ流し台の水道で、アクリルガッシュを溶くのに使用した絵の具皿と絵筆を水流の冷たさに耐えながら洗っている。少量の絵の具ならば便利な使い捨ての紙パレットで充分なのだが、本日の課題の平面構成の様な広い面積を塗るための絵の具を溶くには、やはり陶器製の絵の具皿を使わざるを得ない。なので当然、課題の終了後にはそれを洗浄する必要性が生じてくる。

 人影の全く無い、暗く寒々とした廊下で冷たい水仕事をこなしていると、何だか心まで冷え込んで来るかのようで酷く物寂しい。

 クロームメッキされて冷たい銀色に輝く蛇口から少し目線を上げれば、薄いガラス窓の向こうでは、我が校の弱小サッカー部がこの寒いのに半袖のユニフォーム姿で紅白戦を行っている。その試合が行なわれているピッチの周りのトラックを延々と走っているのはプールが使えない水泳部か、それともサッカー部にピッチを取られたラグビー部だろうか。まあどちらにせよ、この寒いのにご苦労な事だと僕は少しばかり同情する。

 そんな事を考えていると不意に背後で、カラリと美術室の引き戸が開く音がした。もしや芹沢が、またしても僕に対してちょっかいを出しに来たのではと思って振り返れば、そこに立っていたのは作業用のエプロン姿の柏木だったので、僕は少しばかりホッとする。彼女は無言のまま僕の隣の蛇口の前に立つと水を出し、エプロンのポケットから取り出した油汚れ専用のハンドクリームで、ゴシゴシと手を洗い始めた。油絵用のパレットや絵筆は水では洗わないが、油絵の具で汚れてしまった手を洗うために、彼女はわざわざ廊下にまで出て来たらしい。

「冷たいよね」

 僕はボソリと呟いた。

「え……?」

「いや、水道の水がさ。もうすぐ冬だもんね」

「あ、ああ、そうですね……。水が、ですね……」

 最初は何が冷たいと思ったんだろうかと推測しながら、二人きりの薄暗い廊下で僕は続ける。

「橘先輩は?」

「まだ、椎名先生と話し合ってます……。今後の受験の日程とか願書の締め切りがいつになるとか、色々と課題と調整したいみたいで……」

「そっか。本当に、受験生は大変だね。……って言っても、僕ももう来年には、否が応にも受験生になっちゃうんだけどさ」

 陶器製の絵の具皿を洗い終えた僕は、今度はナイロン繊維で出来た絵筆を洗い始める。絵筆は使う色の系統に合わせて何種類か用意するのが常識で、特に青系と赤系は、別の筆を揃えるのがセオリーだ。出来れば黄色系とモノクロ系も別に用意しておきたので、自然とその数は増える。

「その……笹塚先輩……。一つ、聞いてもいいですか……?」

「ん? 何?」

 後ろめたそうにおずおずと、柏木が僕に尋ねる。

「文化祭での、その、橘先輩に交際を申し込んでいたのは……。あれから一体、どうなったんでしょうか……」

 絵筆を洗う僕の手が、一瞬止まった。

「そうか、あれか……。あれはホントに柏木さんには、変なところを見られちゃったよなあ。いや、思い出すだけでも恥ずかしいや」

「ごめんなさい……」

「そんな、柏木さんが謝る事じゃないよ。あの時の僕は本当に橘先輩に告白しなきゃって考えで頭が一杯で、周囲に人がいる事なんて、完全に忘れていたからさ。あ、でもちゃんと、他の部員の人達には内緒にしておいてくれてる?」

「はい、それは絶対に……。誰にも一言も、言ってませんから……」

 あの告白の現場の一部始終を柏木に見られてしまったのは大きな誤算だったが、彼女の真面目で実直な性格からして、口止めは問題無いだろう。

「そうか、ありがとう柏木さん。それで知りたいのは、交際を申し込んだ結果だっけか」

「はい……」

 ハンドクリームで泡だらけになった手を、水道の水で丹念に洗い流している柏木。彼女は相変わらずのおずおずとした態度だが、それでも興味深げに、僕の返事を今か今かと待っている。その一方で僕は再び窓の外に眼を向けると、ピッチの脇でサッカー部の補欠らしき生徒が試合に出たそうに監督に向かって熱心にアピールしているのを、なんだか妙な親近感を持って見つめていた。

「今は、待ってくれってさ。受験が全部終わるまでは、返事は出来ないんだって言われちゃったよ。だから短くてもあと数ヶ月は、告白の返事はもらえそうにないかな。それに受験の結果次第では、更に一年先送りだったりしてね」

 僕は少し、自虐的に笑う。

「そうですか……」

「そう。だから今の僕に出来る事は、只ひたすらに、じっと彼女の返事を待つ事しか無いみたいだよ。……まあそれでも、あっさりと断られなかった分だけ、少しは可能性があると思ってみてもいいのかな? それとも単に全てが、橘先輩自身が卒業して逃げ切るまでの時間を稼ぐための方便だったりしてね」

 再び僕は、自虐的に笑う。いや、自嘲気味にと言った方が、正確なのかもしれない。

「いえ、そんな事は無いと思います……。いくらなんでも橘先輩は、そんな人じゃありませんから……」

 控えめにではあるが、あの柏木が珍しく、断言した。その声に、少しだけ僕の事を責めているような声色が含まれている気がしたのは、果たして僕の気のせいだろうか。

「そうか……。そうだよね。僕が信じないで、どうするんだろう。こんなに橘先輩の事が好きなのに、その僕が信じなくっちゃさ」

「良い返事がもらえるといいですね……。いえ、きっと笹塚先輩なら、良い返事がもらえると思います……。あたし、応援してますから……」

 そう言って僕を励ましてくれる、健気な後輩である柏木。だが何故か僕には、彼女の表情が少しばかり寂しげに見えた。


   ●


 ロールキャベツに白米と味噌汁と言う和洋折衷の夕食を終えた僕は、階段を駆け上がると、自宅二階の自室に篭った。今日は特に宿題が出ている教科も無かった筈だし、学期末のテストは、まだまだ当分は先の話だ。なので取り立ててやる事も無い僕は部屋着姿になるとベッドに大の字になって寝転び、自身のスマートフォンを弄くって、適当に時間を潰して余暇を過ごす事に全力を尽くす。

 とりあえずは無料で遊べるスマホアプリのいくつかのノルマを淡々とこなしていると、不意に、着信が入った。発信者は、韮澤蘭造。僕は特に何も考えずに、応答ボタンをタップして通話を始める。

「はい、もしもし、韮澤?」

「ああ、笹塚か。今、電話しても大丈夫か?」

「うん、大丈夫だけど、何か緊急の用事?」

 そう言えば、韮澤から電話をもらうのは随分と久し振りの事だと、僕は気付く。確か夏休みに芹沢と二人きりでプールに行った件を伝えた後から少しばかり疎遠になっていたので、電話もそれ以来な筈だった。

「いや、別にそんなに差し迫った話でもないんだけどさ、ちょっとばかり気になった事があってな」

「ふうん、何?」

「単刀直入に聞くけどさ。今日の部活中、芹沢さんがお前に背後から抱き付いた後にさ、お前の耳元で何かを小声で言ってただろ」

 僕は不意を突かれて、思わず咳き込みそうになる。

「あれさ、俺達には何を言ってるのか全然聞こえなかったんだけど、一体全体、何を言われてたんだ? 何か、俺達には内緒にしているような事でもあるのか?」

「いや、そんなもの、何も無いよ。そもそも芹沢さんからそんな内緒話なんて、一切されてないし」

 僕はやや呂律が回らなくなりながらも、全力でしらを切った。

「本当か? 俺には確かに、何かを言っているように見えたんだがなあ」

 目ざといと言うか耳ざといと言うか、よくもまああんな微かな囁きに気付いたものだと、僕は悪い意味で韮澤の勘の良さに感心する。それとも彼には、芹沢の動向を事細かに監視しなければならない理由でもあるのだろうか。

「そうか。いやまあ、俺の気のせいなんだったら別に構わないんだけどな。……ところでついでに聞きたいんだが、お前、俺達には秘密にして、芹沢さんとまた二人きりでどこかに遊びに行ったりはしてないよな? 例のプールの一件に関しても、あの後菊田さんと柳さんにもバレて、ちょっとばかり揉めたんだからな?」

「断言するけど、それは無いよ。夏休みに無理矢理プールに連れて行かれて以来、芹沢さんとはどこにも行ってないって。それにどこかに行くどころか、誘いの電話がかかって来た事すらも無いんだから」

 これは、紛れも無い事実だ。考えてみれば不思議な話だが、文化祭で交際を申し込まれて以降も、芹沢が僕に電話をかけて来る事は一度として無かった。今日の部活中の様に耳元で催促の言葉を囁く事はあっても、電話で告白の返事を直接迫るような真似は、何故だか分からないが彼女は一切しようとはしない。

「本当か? 信じてもいいんだな?」

「うん、信じてもいいよ。……ああ、だけど文化祭の時には、二人で一緒に模擬店を回ったりはしたな。でもさすがにあれは、二人きりで遊びに行った内には入らないだろ? 一応、学校の中だったんだしさ」

「……いや、それも充分二人きりで遊んだ内に入るだろ……。まあお前は、芹沢さんがどうしてお前ばかりを誘うのかに気付いてないんだから、別にいいけどさ」

「いや、それが気付いちゃったんだよね……」

「……何? 何だって?」

 しまったと思った時には、既に遅かった。自分では心の中だけで呟いたつもりだった発言が、どうやら口からも漏れていたらしい。

「気付いたって、それはどう言う事だ? え? 笹塚」

 電話口の向こうから聞こえて来る韮澤の語気が、目に見えて荒くなって行く。どうやらこれはもう、聞き間違いとかで誤魔化す事が出来る状況ではないようだった。どうやら自ら掘ってしまった墓穴によって退路を断たれたらしい僕は、深く一度嘆息してから、覚悟を決めて口を開く。

「気付いたと言うか、それとも気付かされたと言うか、僕、文化祭の時に芹沢さんの方から告白されちゃったんだよね。ずっと好きだったから、これからは恋人同士として、付き合ってくださいってさ」

「……そうか。それで、お前は何て返事をしたんだ?」

「とりあえずその場はなんとか誤魔化して、ハッキリとした返事は、未だしてないよ。それどころか、未だに信じられない気分さ。あの芹沢さんが、僕なんかの事を好きだって言われてもね。……そりゃ勿論、女の子から好きだと言われて悪い気はしないよ? だけど前も言った通りに僕はさ、彼女の事が、少しばかり苦手だろ? だから返事を先延ばしにしている内に、自然とこの話は無かった事にならないかと期待してみたりもしてたんだけどね……。でもどうやら芹沢さんには、その気は無いみたいでさ」

 訥々と、語り続ける僕。一方の韮澤はと言えば、電話口の向こうで無言を貫き、完全に聞き手に回っていた。

「それにもう一つばかり、問題が発生しちゃってね」

「……何だ?」

 韮澤が問うた。その声色には重く静かな怒気が含まれていたのだが、鈍感な僕は、迂闊にもその事実に気付かない。

「実は芹沢さんに告白された次の日にさ、今度は僕の方から、橘先輩に交際を申し込んだんだよね。これからは先輩後輩ではなく恋人同士として、付き合って欲しいって。まあ、その日になってようやく決心がついたと言うか、自分が橘先輩をずっと好きだった事に、ようやく気付いての行動だったんだけどさ。だけど今度は僕の方が、その告白の返事を保留にされちゃってね。先輩が言うには、受験が全て終わるまでは、返事は待って欲しいんだってさ。それで今も、待たされっぱなしって訳」

 我が事ながらにその複雑さに呆れると、僕は天井に向かって、深い溜息を吐いた。言葉に出して人に説明した事で、その複雑さと面倒臭い人間関係とが、改めて浮き彫りになる。まさか色恋沙汰とは一切無縁だった筈の自分が典型的な三角関係の中心人物になるとは、ほんの数ヶ月前までの自分にタイムスリップして伝えたとしても、絶対に信じないであろう事は確実な事実だった。

「……笹塚」

「ん? 何だ?」

 静かにゆっくりと、腹の底から搾り出すかのような声で僕の名を呼んだ韮澤に、さほど深くも考えずに気安く応答した僕。だが彼は、核心を突いた一言を漏らす。

「お前が橘先輩を好きなんだったとしたら、どうして芹沢さんの告白を、ハッキリと断らないんだ?」

「いや、それは勿論、僕が未だ橘先輩からの返事をもらえてないからで……」

「それはつまり、アレか。芹沢さんの事を、自分が橘先輩にフられた場合の都合のいいキープだとでも考えてるって事なのか?」

 僕は、ハッとした。と同時に、心臓が急に締め付けられるかのようにギュッと縮み上がって、胸が苦しい。

「いや、そんな事は無いよ。そんな風には、勿論考えちゃいないって。ただ僕は、橘先輩からの返事をもらう事で自分の気持ちをハッキリさせたいだけで……それはつまり……その……。そう、決して芹沢さんの事をキープだとか考えてる訳じゃなくて、ただ彼女の気持ちにハッキリと応える事が出来ないだけで……だから橘先輩からの返事をもらえれば、それがハッキリとするから……」

 しどろもどろになりながらも、なんとかその場を取り繕おうと尽力する僕。だが話せば話すほどどんどんとボロが出て来るようで、次第に過程と結果がループを繰り返し、最終的には自分でも何を言っているのかが良く分からなくなって来る。

「だから、まずはお前がハッキリと、芹沢さんからの告白を断るべきなんじゃないのか? そうじゃなけりゃ、橘先輩に対しても失礼だろう? だいたいお前は、返事を待たされている芹沢さんの気持ちを少しでも考えた事があるのか?」

「いや、確かにそうかもしれないけど……でも……」

 この上無い剣幕で問い詰めて来る韮澤に対して、僕はもう完全に及び腰になって声もかすれ、その言葉尻すらも覚束なくなる。出来る事ならば今すぐにでもこの電話を切って全てから逃げ出してしまいたい気分だったが、おそらく韮澤は、そして韮澤以外の全ての関係者もまた、それを許してはくれないだろう。

 だが僕達の会話は、唐突にその幕を下ろす。

「……分かった、もういい」

 何かを諦めたかのように一息嘆息した韮澤が、電話回線の向こうでそう言った。そして暫し、僕達二人の間には、完全な沈黙の時間が流れる。だがその間も静かな恐怖が、じわじわと僕の心を蝕み続けるのをやめようとはしない。

「……韮澤?」

 僕は恐る恐る彼の名を呼びかけたが、返事は無い。だが彼が僕の声を、未だに聞き続けていてくれていると信じて、ゆっくりと口を開く。

「……この事は、他の人達には内緒にしておいてくれるよな?」

「……さあな」

 僕の自分勝手な要求を韮澤が半ば拒否した直後に、電話はブツリと切れた。スマートフォンを片手に握ったまま、何度か彼の名を呼び続けた後に、僕は自分が取り返しのつかない状況に追い詰められた事を悟って顔面を蒼白に染める。

 壁に貼られたデッサン画に描かれたマルスの石膏像が、その瞳の無い空虚な眼で、僕を冷たく見つめていた。


   ●


 六時限目の終了と同時に放課後の始まりを告げるチャイムが、鉄筋コンクリート造りの校舎内を、厳かに鳴り響く。脇目もふらずに、荷物をまとめて帰宅する者。大きなスポーツバッグを抱えて、部活動へと赴く者。それぞれの目的を持った生徒達が思い思いに教室を出て行き、後にはポツンと、僕一人だけが残された。

「行くか……」

 自分の席からゆっくりと腰を上げた僕の足取りは鉛の様に重く、その表情は、地獄を覗き込んだダンテの如く暗い。昨夜の韮澤との会話で、自分が芹沢に対して如何に不誠実な行いをしているかを改めて思い知らされ、しかもそれが衆人の知るところとなっているであろう事を覚悟しなければならなくなった今の僕の胸中は、さながら断頭台に自らの足で向かう羽目になった死刑囚の如き陰鬱さだった。

 しかしだからと言って、学校と言う狭いムラ社会の中においては、いつまでも逃げ続ける事など到底不可能なのもまた事実だ。ならば死刑執行はなるべく早い方が傷口も小さくて済むのではないかと淡い期待を寄せながら、僕は重い足を交互に踏み出し続ける事で、刑場である第二校舎の美術室を目指す。

 板敷きの教室を出るとリノリウム張りの廊下を横切り、新校舎の二階から張り出した渡り廊下を、可能な限りゆっくりと歩いて渡る。途中でふと窓の外を見遣り、眼下にそびえる銀杏の木が黄色い扇形の葉をハラハラと散らしているのを見て、僕はますます陰鬱な気分となって胃がキリキリと痛んだ。

 やがて渡り廊下を抜けて人気の少ない第二校舎に足を踏み入れると、美術室の在る三階を目指して、僕は階段に足を掛ける。そして三階まで上り切ると、防火扉の柱を背もたれにして、大小二つの人影が僕を待ち構えていた。

「笹塚、ちょっと、こっちに来てくれる? 勿論、嫌とは言わせないよ?」

 防火扉の脇に並んで立つ二つの人影は、長身であるひっつめ髪の菊田と、チビでソバカス面の柳。明らかな侮蔑と軽蔑、そして怒りの色をその顔に浮かべた彼女達は階段の更に上を無言で指差すと、僕の着ている制服のジャケットの袖口を強引に掴み上げ、強制的に目的地へと連行する。無様にも為すがままの僕が、脚をもつれさせて階段を踏み外しそうになりながらも連れて行かれたのは、第二校舎の屋上に出るための鉄扉の前の踊り場だった。おそらくは菊田と柳の当初の目論見では、僕を校舎の屋上にまで連れ出してから尋問するつもりだったのだろう。だが肝心の鉄扉が思いの外堅く施錠されていたために、消去法でこの場所が選ばれたのだと思われる。

「笹塚、アンタさ、一体どういうつもりな訳? あ?」

 開口一番、ひっつめ髪の菊田が喧嘩腰の口調で詰め寄って来た。だが僕は何も答えられずに、只俯いて、口を閉ざす。

「アンタが芹沢さんに好かれて、しかも彼女の方から告白されたってだけでも信じらんないのにさ。その返事を先延ばしにしている内に、他の女にも告白するなんて、一体何考えてんの? アンタ一体、何様のつもり?」

 ソバカス面の柳もまた、眉間に皺を寄せてあからさまな喧嘩腰で詰め寄って来るが、当然ながら僕に反論の余地など残されてはいない。今は只、サンドバッグとなって一方的に叩かれ続ける事を覚悟するのみだ。

「しかもその告白した相手ってのがさ、よりにもよって、あの橘でしょ? ……あんたさあ、芹沢の事、いや、あたし達全員の事、馬鹿にしてんの? それとも芹沢に告白されちゃった事で、調子に乗っちゃったクチ? 自分は女の子にモテモテなんだとかって、勘違いしちゃってんじゃないの?」

 僕より二回りも長身の菊田が、僕のワイシャツの襟首を掴んで捻り上げながら、嘲笑する。何一つとして反論出来ずに俯いているだけの僕は、本当に情け無い話だが、内心では小便を漏らしそうなほどにビビッていた。

「アンタさあ、黙ってないで、少しは何とか言ったら?」

 そう言って更に一歩詰め寄ると同時に、僕の無防備な脛を上履きの爪先で、ガツンと蹴り飛ばす菊田。彼女の剣幕と脛に走る激痛に気圧されて、僕は重い口を開く。

「そんな、馬鹿にしてなんか……。僕はただ、芹沢さんの事を傷付けたくなかっただけであって……」

 この期に及んで僕の震える喉から漏れ出て来たのは、取って付けたような自己弁護の言い訳でしかなかった。

「ああ? 芹沢を傷付けたくなかった? アンタが一番傷付けてんでしょーが!」

 掴み上げた襟首を支点にして、渾身の力で僕を突き飛ばす、ひっつめ髪の菊田。彼女に突き飛ばされた僕は、踊り場の隅に積み上げられていた不要な机や清掃用具の山へと、脚をもつれさせながら無様に倒れ込む。机の天板で腰をしたたかに強打し、膝から崩れ落ちて床に這いつくばった僕の背中に、立て掛けられていた何本ものモップの柄が次々と降り注いだ。更にその内の一本が後頭部を強打した衝撃で、かけていた銀縁の眼鏡が、僕の顔から埃の積もった床へと転がり落ちる。

「僕は……僕は……」

 決めてきた筈のサンドバッグになる覚悟はどこへやら、見苦しい事この上無く、尚も自己弁護の言葉を並べ立てようと努める僕。だがしかし、もはやこの場を取り繕えるような言葉など、どこにも残されてはいなかった。

「もういいよ、言い訳は。どっちにしても芹沢ももう、我慢の限界だからさ。アンタとはこの後美術室で、ハッキリと話をつけさせてもらうからね。ビビッて尻尾巻いて逃げたりしないで、ちゃんと来なさいよ」

 そう言うと周辺一帯に響き渡るかのような舌打ちを置き土産に、菊田と柳の二人は、踊り場を去って行った。独り取り残された僕は床に転がる眼鏡を拾い上げるとそれをかけ直し、痛む腰と背中をさすりながら、ゆっくりと立ち上がる。未だ背中に乗っていた数本のモップが床に倒れて、ガランガランと大きな音を廊下に響き渡らせた。

「あの……笹塚先輩、大丈夫ですか……?」

 床に倒れ伏したせいで埃まみれになった制服を掃っていると、階段の下の方から聞こえて来た消え入りそうな小さな声が、僕を心配する。

「その……あたしが美術室に行こうとしたら、菊田先輩と柳先輩が笹塚先輩を強引に上に連れて行くのが見えて……。それでその、一体何があったんですか……?」

 オドオドとした態度で質問を投げかけて来る声の主は勿論、僕の事を先輩と読んでくれる唯一の存在である、柏木。彼女はおそらく柱の陰にでも隠れて、僕と菊田達のやり取りを盗み見ていたのだろう。何も事情を知らされていないであろう柏木は階段を上って僕の元に駆け寄ると、一緒になって制服の埃を掃ってくれる。そんな事をしてもらうだけの価値が、今の僕にあるのかも分からないのに。

「ゴメン……。何だかすごく、カッコ悪いところを見せちゃったね」

 踊り場の床に転がる埃まみれの自身のカバンを拾い上げながら、僕はそう言って陳謝した。おそらくはこれから向かう美術室において、彼女にはもっとカッコ悪いところを見せる事になるであろうにもかかわらず。

「さて……」

 改めて覚悟を決めた僕は踊り場から階段を下りると、第二校舎三階最奥の、通い慣れた美術室へと足を向けた。少し遅れてついて来る柏木は、尚も僕の事を心配そうに見つめてくれてはいるが、今はむしろその優しさが何よりも辛辣な罰だと言える。芹沢達には何を言われても構わないだけの覚悟は出来ていたが、この健気で純朴な後輩の前で恥をかかされる事だけが、今は只ひたすらに心残りでならない。

 そして美術室の前へと辿り着いた僕はゴクリと一度大きく唾を飲み込むと、意を決して扉を開けて、その中へと足を踏み入れる。一年生の頃から開け慣れた筈の引き戸が、今日はやけに重く、冷たく感じた。

 入室した僕をまず最初に襲って来たのは、無言の重圧と、突き刺さるかのような視線の雨。美術室内には既に芹沢、菊田、柳、そして韮澤と言った二年生の面々がずらりと揃い踏みであり、それぞれが腰掛けていた椅子からゆっくりと立ち上がると、無言のまま僕の顔をジッと睨み据える。僕の犯した罪を断罪すべく集められた審問官である彼らの表情は一様に険しく、あの芹沢でさえも普段の天使の笑顔を失い、今はその愛くるしい顔を、完全なる怒りの色に染め上げていた。

「来たね」

 ひっつめ髪の菊田が、ボソリと言った。少なくとも逃げ出さなかった事だけは褒めてやると言った感じの口調だが、同時にもう後戻りは出来ない事を宣告されたような気もしたので、僕は恐怖と後悔の念で押し潰されそうになる。針のむしろに立たされると言うのは、このような状況を言うのだろうか。

 並んだ顔の中でチラリと韮澤に眼をやった僕は、今更ながらに彼に問う。

「全部、話したのか」

「自業自得だろ」

 返って来たのは、当然の返答。確かに現状に至る原因の全てが僕の自業自得であり、因果応報であり、反論も弁解の余地も残されていないのは紛れも無い事実だった。だが今現在僕が立たされているこの状況はあまりにも酷薄ではなかろうかと思ってしまうのは、自分自身に対して未だ少し、甘過ぎるのであろうか。

「……笹塚くん、ちょっとこれは、一体どう言う事?」

 沈黙を守っていた芹沢がツカツカと僕の元へと歩み寄ると、声を荒げて問うた。眉間に皺を寄せて唇をキッと結んだその表情は紅潮して怒りに満ち満ちており、握り込んだ拳は、微かに震えている。

「あたしはね、笹塚くんがきっと一生懸命、真剣にあたしとの交際の事を悩んでくれているだろうと信じていたからこそ、返事をずっと待っててあげてたの。それにずっと電話もしなかったのだって、笹塚くんの口から直接、告白の返事を聞きたかったからなんだからね。それなのに、その間に別の女に自分から告白するなんて、あたしの事を一体何だと思ってるの? 自分がフられた時のための、都合のいいキープなの? それとも、こっそり二股でもかけるつもりだったの?」

「ゴメン……」

 芹沢の当然の怒りに対して、首が殆ど真下を向くほど俯いた僕は、この上無く情け無い謝罪の言葉を、緊張と恐怖でカラカラに渇いた喉の奥から搾り出す事しか出来なかった。そして広い美術室内には再び永遠とも思える無言の時間と、ピリピリと張り詰めた重く陰鬱な空気が、いつまでも絶える事無く流れ続ける。

 おそらくはこの場に居合わせた僕以外の全員が、僕の弁解なり、更なる謝罪の言葉なりを、待ち望んでいるのだろう。だが僕の頭の中では何とかこの場を取り繕うための意味の無い言葉の羅列がグルグルと回り続け、明確な一つの意見として、一向にまとまってはくれない。しかしそれでも何かを言わなければこの場は収まらないと思った僕は、何を言うべきかをハッキリとは定めないままに、意を決して口を開く。

「その……」

 僕がそこまで言い終えた時、カラリと軽快な音を立てて、美術室の引き戸が開いた。

「こんにちわ」

 張り詰めた空気の美術室に涼しい顔で入室して来たのは、渦中の人物の一人でもある、橘部長その人。だが彼女の表情を見て、僕は気付く。そしておそらく、僕以外の全員もまた、気付いたのであろう。橘部長は今回の一件が複雑な三角関係を成している事実を知らないし、今この場で何が行なわれているのかも、一切関知していないと言う事に。だがしかし、何も知らなかったからと言う理由で全てを水に流してくれるほど、今のこの美術室に流れる空気は甘くはなかった。

「どうしたの、皆? そんなに怖い顔をして」

 芹沢や菊田と言った漫画系部員一派が睨め付ける相手が僕から橘部長へと移行した事を、当の本人は純粋に不思議がって、率直な疑問の言葉を漏らした。だが重く垂れ込めた陰惨な空気の充満した美術室内では、誰もが微動だにせず立ち尽くし、一言も言葉を発しようとはしない。ただ一人柏木だけが、僕の背後でオロオロと狼狽している。

 僕にとっての現状はまさに、自分自身の優柔不断が原因で愛しい人が糾弾の対象となってしまうと言った、最悪の事態に相違無い。だが同時に、極めて情け無い話ではあるが、石打ちの刑に処される罪人が僕一人だけではなくなった事にほんの少しばかりホッとしていた事もまた、偽らざる事実だった。

 美術室内に流れる、無言の時間。

 暫しの重い沈黙からまず最初に動いたのは、僕を中心とした三角関係の一端を担う、芹沢。怒り心頭の彼女はツカツカと橘部長の元へと歩み寄ると、先輩である彼女の薄い胸元を指先で乱暴に小突きながら、口を開く。

「あたし、聞いたんだからね。アンタ、文化祭の時に、笹塚くんから付き合ってくれって告白されたんだって? それで断りもせずに返事を先延ばしにしているなんて、アンタ、一体全体何様のつもりなの? それにね、アンタは知らなかったんでしょうけれど、笹塚くんにはあたしの方が先に告白しているの。これ、どう言う意味か、分かる? ……そりゃ、あたしも返事を先延ばしにされて、未だに正式に笹塚くんと付き合っている訳じゃないけどさ。それでも本来ならね、アンタの出る幕なんて、どこにも無いの。だからとっとと身を引いて、どこかに消えてくれる? ハッキリ言っちゃえばアンタね、目障りなの! あたしの前から、消えちゃいなさいっての!」

 眉間に皺を寄せた芹沢は、自分より一回りも大きな橘部長を下から睨み上げながら、捲くし立てるようにハッキリと言い放った。その語気の荒さと剣幕に、直接面と向かって言われた訳でもない僕の方がビビッてしまい、腰が引けて膝が笑い始める。だが当の橘部長は意外なほど冷静な表情を保ったままであり、その凛とした姿勢も、一向に崩そうとはしない。そしてチラリと僕の方に眼を向けた彼女は、全ての事情を察したのか、それとも僕の優柔不断さに心底呆れたのか、小さく溜息を漏らしながら呟く。

「なるほど、ね」

「なあに? 何がなるほどね、なの? やっと自分が置かれた立場が理解出来たって事? だとしたらさっさと、自分から身を引くって笹塚くんに、それとあたし達に、宣言してくれるかしら? それとも今ここで笹塚くんに、直接あたしとアンタのどっちを選ぶのか、決めてもらいましょうか?」

 尚も橘部長の薄い胸元を乱暴に小突きながら、喧嘩腰の言葉を絶える事無く投げかけ続ける芹沢。彼女の声は次第にそのボルテージを上げ、それはもはや、美術室の外にまでも聞こえていそうな程の声量だった。

「ここで笹塚くんに、直接選んでもらう、か……。でもあなたは私と違って、選ばれなかったんでしょ? 少なくとも、返事を先延ばしにされたって事は」

「う……」

 痛い所を突かれた芹沢が、顔面を真っ赤に紅潮させ、眉間の皺をより深くしたまま口篭る。果たして何を言っているのかはこの距離からではハッキリとは聞き取れなかったが、彼女が口の中で何かボソボソと小声で呟いているのが、まるで呪詛の念を吐き出しているかのようで僕はゾッとした。

「あの……お二人とも……。どうか喧嘩はやめて……ください……。あの……お願いしますから……」

 僕の背後、美術室の入り口脇でオロオロと狼狽し続けていた柏木が意を決して、睨み合って対峙する二人の先輩に対して仲裁の言葉を投げかけた。だがしかし、それは当然のように場の空気に呑まれて、あえなく無視される。だがそれでも、当事者でありながら何も出来ずに只々立ち尽くしているだけの僕の不甲斐無さに比べたら、彼女の方がまだ何十倍も勇敢なのは間違い無い。

「それじゃあ悪いけど、今の私にはもっと大事な事があるから。ちょっとそこ、どいてもらえる?」

 そう言うと橘部長は、憤怒の心冷めやらぬ芹沢の横をふいと通り過ぎると、美術室の奥の部員用ロッカーに向かってすたすたと歩み去ってしまった。そしてナンバーロックを解除した自身のロッカーから描きかけのデッサン画が固定されたパネルを取り出すと、何事も無かったかのように再び美術室をすたすたと縦断し、それを部屋の隅に置かれたモチーフの前のイーゼルへと立て掛ける。更に事も無げにデッサン用の鉛筆の準備を終えた彼女は、制服の上から作業用のエプロンを、涼しげな顔で着込み始めた。

 それら一連の所作はあまりにも平然とし過ぎており、怒り心頭な芹沢やその一派を完全に無視したその態度は、却って場の空気に新たな火種を撒き起こす。本人の自覚無自覚は別としても、今現在の僕達美術部員が置かれた状況がますます悪化して行く一方な事だけは、まず間違いが無かった。

 当然の事だが橘部長が平然としている一方で、完全に虚仮にされた格好の芹沢の顔は益々血が昇って真っ赤に滾り、血が滲む程にまで握り込まれた両の拳はワナワナと震えている。もはやその怒りの程は、計り知れない。

「アンタねえ……。アンタねえ……」

 もはや一刻の猶予も許されない一触即発の気配を察した柏木が、涙眼になりながらも芹沢の震える手をギュッと握り締めて、暗に自制を促す。だが無情にも、その手はあえなく振り払われた。

 そして遂にキレた芹沢は、イーゼルの前で鉛筆デッサンの準備を淡々と進めていた橘部長の元にツカツカと早足で歩み寄ると、イーゼルに立て掛けられたパネルから描きかけのデッサン画を力任せにもぎ取った。もぎ取られた勢いで、デッサンの描かれた画用紙の端が固定用の目玉クリップの周辺から破けて飛び散り、木製のパネル自体も床に転がり落ちてガランガランと盛大な音を立てる。

「こんな物が、こんな物が何だって言うのよ! こんな物が、今のあたしとアンタが置かれている状況よりも、大事だって訳?」

 そう叫びながら、もはや自制の効かなくなった芹沢は、もぎ取った橘部長の描きかけのデッサン画を真っ二つに引き裂いた。そしてそれを二つ折りにして更に四つに、四つを八つに、八つを十六にへと、ビリビリに引き裂き続ける。そして最終的には何枚にまで引き裂かれたのか見当も付かないほどバラバラになったデッサン画を、まるでこの場に居合わせた全員に見せ付けるかのようにして、頭上へとばら撒いた。

 無数の紙屑と化して、紙吹雪の様にはらはらと舞い散らばる、橘部長の描きかけのデッサン画。

 勝ち誇ったかのような、それでいて鬼気迫るかのような張り詰めた笑みをその顔に浮かべた芹沢が、息を荒げながら高らかに言い放つ。

「いい? あたしはねえ、アンタの事が、前からずっとずっと気に食わなかったの! いつもいつも一人で余裕ぶっちゃって、毎日毎日真面目に部活動ばっかりしちゃってさ! 何? アンタ一体、何なの? 優等生でも気取ってる訳? 今時そんなの、流行らないんだからね? それに部長だか何だか知らないけどさ、それだって結局は、たった一人しかいない三年生だからってだけで自動的に選ばれただけじゃないの! それをまるで自分だけは特別みたいな顔してお高く止まっちゃってさ! 一体全体、何様のつもりだっての! ホントにアンタさえいなければ、あたしは、あたしは……」

 ゼエゼエと肩で息をしながら、胸に秘め続けて来た積年の不平不満をぶち撒け切った芹沢の表情には、一分の余裕も感じられなかった。むしろ真っ赤に滾らせた顔には大粒の汗が額から顎先へとボタボタと流れ落ち、余裕を見せるどころか、興奮のあまり今にも気を失いそうなほどに見える。

 一方で描きかけのデッサン画をビリビリに破り捨てられた橘部長の方はと言えば、目を見開いて多少は驚いているものの、椅子に腰掛けた姿勢のまま意外なほど冷静さを保っていた。そしてその冷静な態度が、怒髪天を突く芹沢の逆鱗を、更に逆撫でしてしまったのだろう。彼女はその顔を怒りに紅潮させたまま僕の方へと振り返ると、ツカツカと早足でこちらに歩み寄りながら、その口を開く。

「あーあー、そうですよ。あたしが本当に、馬鹿でした。こんな頼りの無いヒョロヒョロの坊やに惚れて、おまけに自分の方から告白しちゃうなんてさ。ホント、馬鹿みたい。もっとカッコ良くて優柔不断じゃないイケメンにでも惚れて、さっさと付き合っとけば良かった。まったく、アンタなんてお呼びじゃないっての」

 呆れ果てたかのような、そして同時に後悔と自棄の念で自らを嘲笑するかのような口調でそう言い終えた芹沢。彼女は僕の眼前にまで迫って来ると、その右掌底で、僕の肩をドンと突き飛ばした。

「あいてっ」

 僕は小さく声を上げる。

 勿論女の子のか細い手による当て身なので、実際には見かけほどの威力は無い。だが緊張と恐怖によって膝の力が完全に抜け切っていた僕はその程度でも簡単に身体のバランスを崩し、脚をもつれさせて転ぶと、無様に尻餅をついて床に倒れる。

 次の瞬間、橘部長が座っていた椅子から一瞬にして立ち上がると、こちらに向けて素早く駆け寄った。彼女が立ち上がった勢いでイーゼルが勢いよく倒れて、ガシャンと大きな音が美術室中に響き渡る。その音に驚いて振り返った芹沢の無防備な左の頬を、橘部長の渾身の力を込めた強烈な平手打ちが、襲った。

 柔らかな肉が弾けるパアンと甲高く乾いた音が鳴り響き、美術室内の時間が止まる。

 先程までの冷静沈着な表情をその顔から消し去り、キッと結んだ口元に明確な敵意を滲ませて芹沢と対峙する、橘部長。彼女の振り抜いた右掌が空に留まり、誰もが驚愕で動かないし、動けない。

「あ……アンタ、何すんのよっ!」

 ようやく状況を把握したのか、叩かれた頬を左手で押さえたまま大声でそう吠えた芹沢が、反撃の平手打ちを橘部長の左頬に勢いよく叩き込んだ。またしてもパアンと乾いた衝撃音が美術室内に響き渡り、今度は橘部長の頭部が弾ける。すると間髪を容れずに、再び橘部長の平手が、芹沢の頬を打った。そして更に反撃の平手打ちが、橘部長を襲う。

 暫しの間、女二人による本気の平手打ちの応酬が、延々と繰り広げられた。

「もうやめてぇっ!」

 突如として美術室内に轟いた、もはや絶叫とも言える、悲痛な叫び声。それを受けてか、橘部長と芹沢による平手打ちの応酬は、ようやくにしてその終焉を迎えた。叫び声を発したのは、離れた位置から遠巻きに二人を見守っていた、唯一の一年生部員である柏木。彼女は叫び終えると同時に床にへなへなとへたり込むと、その両の瞳からぽろぽろと大粒の涙を零して、眼前で繰り広げられた部の惨状を嘆く。

「もう……もうやめてください……。こんなの……こんなのもう、あたしの知っている美術部じゃありません……」

 泣き崩れ、嗚咽交じりに呟く柏木。その一方で睨み合う女二人は互いにゼエゼエと肩で息をしており、双方共に、その頬を赤く腫らしていた。特に芹沢は、片方の鼻の穴から真っ赤な鮮血を一筋垂らしている。

「……アンタなんかに、アンタなんかにねえっ!」

 最後のとどめとばかりに間合いを詰めた芹沢が、大声で叫びながら橘部長の両肩に手をかけると、そのまま全体重を乗せた渾身の力で彼女を突き飛ばした。大きく体勢を崩し、後方に勢いよく倒れ込んだ橘部長は、デッサンの課題である石膏像が乗せられていた台座に背中から激突して諸共に床に崩れ落ちる。

 ガラガラと、盛大な衝撃音が外の廊下にまで響き渡った。

 硬い床板へと落下したシーザーの石膏像の頭部が、破砕音と共に、グシャリと砕け散る。そして突き飛ばされた橘部長本人はと言えば、アルミ合金製の台座にもたれかかるようにして床に転がり、その長く綺麗な黒髪が、ざんばらになって彼女の顔を覆っていた。

 訪れた、静寂と沈黙の時間。

 一つの修羅場が、嵐の様に過ぎ去った後の、凄惨にして陰惨な光景。

 床に倒れ伏した橘部長は己の怪我の具合を確認しながら上体を起こし、興奮冷めやらぬ芹沢はゼエゼエと息を荒げながら仁王立ちし、部の惨状を嘆く柏木は、床にへたり込んだままさめざめと泣き続けている。そして彼女らを取り巻く僕とその他の四人の男女は、只々為す術も無く、呆然とその場に立ち尽くしていた。誰もが一歩も動き出す事が出来ない無言の重圧が、無駄に広い美術室内を支配する。

「うえ……」

 不意に芹沢が、喉の奥から搾り出すような、小さくか細い嗚咽を漏らした。そしてまるで堰を切ったかのように、彼女はその愛くるしい顔を大粒の涙と鼻血と鼻水でドロドロにしながら、幼い子供の様にわあわあと泣き出す。

「さっきの……さっきあたしが言ったのは、全部、嘘だから……。あたし……あたし本気で笹塚くんの事……。ずっと……ずっと大好きだったんだからあぁ……。一年生の頃からずっと……。ずっと笹塚くんの事だけが……本当に、本当に大好きだったんだからあぁぁ……。今だって、今だって……うわあああぁぁぁ……」

 芹沢の、真っ赤に充血した両の瞳から零れ落ちた涙が頬と顎を伝ってポタポタと滴り落ち、寄木細工の床板の上に鼻血交じりの小さな水溜りを形成する。彼女が着ているブラウスとカーディガンにも同様に、流れ落ちた体液による染みが拡がって行く。しかし悲痛で沈痛なその光景を、僕は只、呆然と眺めている事しか出来なかった。

「いやだよお……。笹塚くんと一緒にいられなくなるなんて、そんなの、そんなのいやだよお……。ずっと……ずっと大好きで……。ずっと……ずっと一緒にいるんだって、決めてたんだからあ……」

 恥も外聞も無く泣きじゃくる芹沢が、呆然と立ち尽くす僕の方へと、ゆっくりと向き直った。その顔は頬が真っ赤に腫れ上がり、薄く施されていた化粧が涙でドロドロに流れ落ち、流れ出た鼻血と鼻水と涎で口内もぐちゃぐちゃの惨状になっている。普段の彼女が見せている天使の様な愛くるしさが完全に失われているのと同時に、全ての虚飾が取り払われてもいる、ある意味での素顔をさらけ出す格好となった芹沢。彼女は涙で滲んだ瞳で僕をジッと見据えると、一縷の望みにかけて懇願するかのように言う。

「笹塚くん……どうしても、あたしじゃダメなの……?」

「……ゴメン……」

 そう答えるのが、僕の精一杯だった。

「うわあああああああああああぁぁぁ……」

 盛大な嗚咽と共に、益々大粒の涙を鼻水と共に零れ落としながら、幼子の様に泣き喚き続ける芹沢。完膚なきまでに恋に破れた彼女は、まさにトボトボと言った表現がしっくりと来る足取りで、ゆっくりと静かに美術室から退出する。そして彼女の止む事の無い嗚咽が、第二校舎の暗く無人の廊下に響き渡りながらも少しずつ遠退いて行くのを、僕は只々唖然とした表情で聞いている事しか出来なかった。

 敗者は只、去るのみ。そんな無情の鉄則が、一人の女子高生を恋の舞台から降板させる。

 決して混ざり合う事の無い水と油が湛えられた一つの瓶が、たった今、叩き割られて粉々に砕け散った。

 そして叩き割ったのは、誰あろうこの僕自身だった。

「芹沢!」

「芹沢さん!」

 茫然自失とした状態からハッと我に返った菊田と柳が、芹沢の分のカバンも担ぐと、彼女の後を追って薄暗い廊下へとその姿を消した。彼女達が出て行った後の美術室の扉をボンヤリと眺めていた僕の肩を、背後から近付いて来た何者かが、ガシリと掴む。振り返ればそこにいたのは、憤怒の表情の韮澤。そして次の瞬間には彼の岩の様に硬い右拳が、僕の無防備な左頬を、有らん限りの力で殴り抜いていた。

 ゴキンと言う頭蓋骨の奥にまで響く鈍い音と、一瞬遅れてやって来たのは、血と肉の味がする激痛。

 殴られた衝撃で一瞬意識が飛び、受身も取れないままに床板の上を転がった僕は、再び制服を埃まみれにする。一拍の間を置いてから意識を取り戻すと同時に、殴られた頬を撫でてみれば、その手にはべったりと真っ赤な鼻血が付着していた。それにどうやら口内も少し切れたらしく、鉄臭い血の味が舌に広がる。

「言っとくが、全部お前が悪いんだぞ」

 床に倒れ伏したままの僕を指差して、そう言い放った韮澤。怒り心頭の表情を隠そうともしない彼もまた、子供の様に泣き喚きながら廊下に消えた芹沢の後を追って、美術室から駆け足で出て行く。

 そして全ての修羅場を終えた美術室に残されたのは、砕けた石膏像の傍らで頬を腫らして倒れ込んだ橘部長と、鼻血を垂らしながら床に転がる僕と、さめざめと泣き続ける柏木の三人だけだった。

 柏木の悲痛なすすり泣きを除けば完全な静寂に包まれた室内に、重く暗く、陰鬱とした空気が立ち込める。誰も一言も発しない無言の時間が、只々残酷に、僕達三人を蝕み続けた。

「……橘先輩、大丈夫ですか?」

 意を決して立ち上がった僕は、床に倒れたまま上体だけを起こしている橘部長に近付くと、彼女が立ち上がるのに手を貸す。

「私は、大丈夫だから。……それよりもキミの方こそ、大丈夫? 随分と鼻血が出ているみたいだけど」

「大丈夫ですよ、このくらい」

 そう言ってシャツの袖口で鼻血を拭いながら僕は、ふと床板の上を転がる、無残にも頭部が砕け散ったシーザーの石膏像に眼が行った。彼に比べたら、このくらいは怪我の内にも入りませんよと言う冗談を思いついたが、どう考えても今のこの場で言うのは不謹慎だし、さして面白くもないので口には出さないでおく。

 そして僕は制服の埃を掃うと、立ち上がった橘部長に改めて向き直り、深く頭を垂れて謝罪する。

「本当に、ごめんなさい。僕が芹沢さんの告白に対してハッキリと断らなかったせいで、先輩まで巻き込む結果になってしまって……」

「いいえ、それを言ったら、キミにハッキリと返事をしないで先延ばしにしていたのは私も同じだから……」

 互いに互いの行いを謝罪し合った僕達の間には、何とも言えない、微妙で気まずい空気が流れる。同義的、倫理的には自分自身の責任の重さを痛感しながらも、その一方で、どこかしら相手の責任にも言及しかねない自分勝手な胸の内。そんな自分に対する甘さを抱えたどっちつかずの心情、誠実と不誠実の狭間に在る人間の暗部のようなものが、僕達二人の間に深い沈黙をもたらす。要は僕達二人は互いに咎人であり、また同時に、互いを断罪せし者でもあったのだ。

 僕も橘部長も、互いに向かい合ったまま眼を合わせる事も無く俯いて、静かに時が過ぎるのだけを待っていた。時が過ぎたからと言って何が変わる訳でもなく、只々罪の意識に苛まれ続けるだけだと言うのに。

「あの……」

 不意に横手から声をかけられて、僕達二人は揃って顔を上げた。声の主はいつの間にか立ち上がっていた柏木であり、彼女は既に泣き止んでいたが、赤く泣き腫らした両の瞳が見るからに痛々しい。

「柏木さん……。その……ホントにゴメン。柏木さんには何も関係無いのに、なんだか僕のせいで、色々と巻き込んじゃって……」

「私もごめんなさい……。先輩として、みっともない所ばかり見せちゃって……」

 この場において只一人、何の罪も無い、只一方的に巻き込まれただけの純粋な被害者である柏木。彼女に対しては深く心から、僕と橘部長は恥じ入りながらも謝罪した。だがしかし、柏木にとって最も重要なのは、そんな事ではなかったらしい。

「それで結局、笹塚先輩と橘先輩は、付き合うんですか……?」

 唐突な柏木の問いかけに、僕と橘部長は、互いに面食らう。だが驚きで言葉も出ない僕達を尻目に、柏木は続ける。

「お二人がハッキリしてくれないと、あたし、困ります……。だって、あたしも笹塚先輩の事が好きだから……。でも同時に、橘先輩の事も大好きだから……。だからお二人が仲良くなってくれて、それでちゃんと付き合ってくれたら、あたしもきっと諦められるって……。それでいいって思ってたから……。でもお二人がハッキリしてくれないままじゃ、こんなんじゃ、あたし笹塚先輩の事、諦め切れないよお……」

 そう告白し終えると同時に、柏木はまたぽろぽろと、大粒の涙を零して泣き始めた。

「ごめんなさい。本当に、本当にごめんなさい……」

 泣きじゃくる柏木をギュッと優しく抱き締めて、謝罪の言葉を並べる橘部長。そんな二人の抱擁を、ただ遠くから見守っている事しか出来ない、無力で無価値な僕。

 広い美術室の片隅では、頭の砕けた物言わぬシーザー像が静かに転がっていた。

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