【最終話】あなたに出会えた運命に祝福を

 この世の中に、こんな痛みがあったのかと思うくらいだ。

 すっと痛みが遠のいたかと思うと、またすぐに捻じ切られるような、突き破られるような、猛烈な痛みの波が押し寄せてくる。その波が押し寄せてくるのと同時に、全身に力を込める……。


「全身に力を入れたらだめ!」

「んなこと言ったって力はいっちゃうんですもん!」


 怒鳴り散らしているうちに痛みの波がまた遠のく。遠のくっていっても痛くないわけじゃない。


「……ああ。また引いちゃいましたね。パパ、ママの手をしっかり握っていてあげて下さいね」

「しっかりですね!」

「痛い痛い、やめてよこれ以上無駄に痛みを増やしたくない!」


 そんな会話をしている間にまた波が来る。


「ママ頑張ってください! もう頭が見えていますよ!」

「頭出てきましたか!」

「あんたは見るんじゃないよばかー!」


 ああ、格好つけて自然分娩にするんじゃなかった。今度は絶対麻酔使う。もう絶対使う……。




 コウと結婚して一年と少し経った今、あたしは若林病院で長男の出産に挑んでいる。

 芸能人も多く利用しているというこの病院は、他の産院と比べて桁違いの費用を請求するかわりに、施設の充実度も桁違いだ。とはいえ戦前映画の影響を受けて、自然分娩を選択してしまったあたしからすれば、どこで産もうと痛みは同じだったな、などと思っている。


 ……あ……来た来た来た来た……


「ううううううううぅぅぅ……」

「ああ、やっぱり出口が狭いかな。切りましょう」

「切る!? 切るって何切るの!?」


 ……ああ、こんな思いして産んでも、この子、反抗期とかに偉そうなこと言うんだろうな……。


 ものすごくどうでもいいことを考えながら、押し寄せる猛烈な痛みといきみ感にあわせて力を込めた。




 コウが正社員として「会社」に入社してから、「会社」も、社会も、大きく変わっていった。


 戦争の影響による汚染のせいで、永久に出られないと思われていた地上に出られる、と知った、世間の衝撃たるや凄まじいものだった。

 コウが地上で調査した結果は、全て世間に公表された。大気や水、地表の汚染状況、人体の変化などなど、あの数日で、しかも合間合間に告白だのプロポーズだのを挟んでいたのに、よくもまあこれだけのデータを集められたものだと思うボリュームだ。しかもそのデータを取った場所がS区の上あたりだというのもインパクト大だった。


 コウは地上の写真も撮っていた。データと併せて公表された、天井のない空や降るような星、きらきらと輝く川や満開の桜の花の写真は、データを懐疑的な目で見ていた人や、地上移住慎重派の心を動かすのに大きく貢献した。

 それでも当の準備室長は「データを積め」「仕事は丁寧に」がモットーのコウだ。新しく雇用された「技術職」をフルに使って、世間がうんざりするくらい安全性確認が繰り返された。


「技術職」として各部署から引っ張りだこの奪い合いになったのが、マサキさん率いる二班だった。

 マサキさんも含め二班全員があっという間に「技術職」になり、外で活躍するようになった。その姿を見て、他の班の多くの「管理品」の人達も、自分から進んで技術習得に励むようになった。

 会社側も、技能や資格の習得に積極的に援助した。その方が外注業者を使うよりも、結果的に安上がりだからだ。


 「管理品」の存在意義も、社会的立場も、大きく変わっていった。




 で、あたしは、というと、どうなんだろう。

 とりあえず結婚までの二年間は、今まで通り普通に働いて、近所づきあいをして、休日はコウと一緒に過ごした。


 うちにいる時のコウは、感心するくらい居候時代と変わらない。

 朝から待ち構えているちびっこ達と遊んで、大量のごはんを食べて、ご近所のおばちゃんとおしゃべりして、たまに、結婚してからも相変わらずうちに来る前田さんとべたべたして、その隙間時間にあたしと過ごす。


「コウ、あんた本当、感心するくらい変わらないねぇ」

「ん? 何が?」


 きらきらとした澄んだ瞳で見られ、思わずどきりとする。


「だってさ、『会社』では物凄く活躍しているんでしょ。ちょいちょい噂で聞くよ。『移住準備室の若く美しい鬼課長』の話」

「俺、なんでいつも『鬼』ってつくんだろう」


 不満そうに唇を尖らせる。


「いやはたから見ても十分鬼だもん。だけどさ、ここではただの『コウ』じゃない。噂の人物と同じとは到底思えないよね」

「噂がどんなのか知らないけど、俺、ここでは変わりたくないんだよ」


 甘えるようにあたしの肩にもたれかかる。


「ミキは、俺が俺に帰れる唯一の居場所なんだもん」


 そして肩に頬をすり寄せる仕草をしたあと、するりと両腕をあたしの体に回して唇を重ねた。




 新居は「会社」のあるC区の集合住宅にした。

 管理職の住居としては非常識なくらい狭いらしいが、庶民の感覚からすれば足がすくむような豪華なつくりだ。今後、地上に住むことを考え、あえて賃貸にしたのだが、一時住まいにこんな豪華なところを選んでいいんだろうか。


 新居に越すにあたり、あたしには今の家の売却と家財の処分という大仕事があった。

 大した家具はないが、お父さんの部屋にあるものを処分するのはやはり心が痛む。ものを処分するとき、お父さんの気配を処分するような気持ちになってしまう。

 でも、一生お父さんの持ち物を抱えて生活するわけにはいかない。多分、お父さんはそんなことを望んでいない。

 そう思い込もうと努力しながら、結局、鞄と、鞄に入るだけの作業道具を残して、わんわんと大泣きしながら処分した。


 お父さんの持ち物の処分の日には、コウも手伝いに来た。トラックで運び出される荷物を見て大泣きするあたしのことを、彼は何も言わずにただずっと支え続けてくれた。




 婚姻届は、あたしの誕生日の朝一番に提出した。

 久しぶりに来る「会社」。今日は婚姻届の提出と、転居届と、あとなんだっけ、いいや、コウに丸投げしちゃえ。


「あ、先に自分のところ書いておいてくれた?」


 戸籍課の待合席に座っていると、仕事から抜け出してくれたコウが来た。

 かなり久しぶりに見るコウの制服姿。

 黒ずくめの管理職用の制服にぴかぴかの黒い靴とかっちり頭。恐ろしげな姿に満面の笑み。

 コウの登場で、待合席に座っていた市民がざわめく。


「本物の北山課長だ。きれいねえ……」


 以前、あたしが思い付きで言った「コウと前田さんが映像に出る」という件が実現したことで、コウの顔は広く市民に知られることになった。

 見た目も経歴もインパクト強すぎな彼は、どういうつもりか映像にほとんど登場していなかったが、一瞬だけの登場の仕方が却って話題を呼び、「管理品」の事を、理由もわからず蔑んでいた人達の意識を変える大きなきっかけになったようだ。


「書いたよ。あとこっち書いてね」

「うん」

「あとさー、これとこれも書くらしいんだけど、分かんないから書いて」

「うん」


 独特の釘で引っ掻いたような字で、さらさらと色々な書類を書き込むコウの姿を見て、市民の一人が呟いた。


「やだ本当に尻に敷かれているんだ」


 ちょっと待てちょっと待て、その噂、一体どんな勢いで広まっているんだよ!


 受付の順番が来たので、あたし達は受付のお姉さんに婚姻届を提出した。

 お姉さんは書類を確認した後、にっこり笑って椅子から立ち上がった。


「課長、この度はご結婚おめでとうございます」


 深々と頭を下げるお姉さんの姿を見て、状況を察したカウンターの内側にいた社員から拍手が起こった。社員のおじさんの一人から、「いよっ」と掛け声が上がる。


 頭を下げるコウの隣で、あたしは涙が出そうになった。

 彼を好きになった時、まさかこんなにも皆から祝福される結婚ができるとは思わなかった。彼と想いが通じ合った後も、世間から後ろ指をさされながら息を潜めて生きなければいけないかもしれない、という不安がつきまとっていた。

 それなのに。


「……ミキ、ありがとう」


 コウは頭を下げながら呟いた。そのままなかなか頭を上げない。

 彼の緑がかった茶色の目がうっすら潤んでいる。

 鬼課長の沽券にかかわるから、今、頭を上げられないのだ。

 きっと、彼も今、あたしと同じ思いなのだろう。




 戦前と違い、さほどおめでたいものではないのが現在の結婚だ。だから「結婚式」だの「披露宴」だのといった、やたらお金と手間がかかっていそうな上に謎に満ち溢れたことばかりやっていたイベントは、完全に廃れている。

 そのかわりじゃないが、婚姻届を提出した日の夜、「会社」の同僚が集まって、新居のリビングで「披露宴」をすることになった。

 あたしは引っ越し作業で結構疲れていたので、本当はあまり乗り気じゃなかったのだが、古谷さんが全部取り仕切って開催することになった。

 これは最近知ったのだが、実は古谷さんも、隠れ戦前映画好きだったらしい。


 さすがに「ウェディングドレス」は意味不明すぎるので、かわりに白いワンピースを着ることにした。

 以前、コウに桜色のワンピースを買ってもらったのと同じ店のものだ。

 ワンピースに袖はなく、背中が大きく開いている。左右の太さが同じになった腕や、機械口のない背中を出したかったから。


 ようやく長くなった自慢の黒髪を、久しぶりにコウに編み込んでもらった。未だにどういう構造になっているのかわからない。その上で古谷さんに顔中化粧してもらい、鏡を見ると、「誰ですかねあなた」と思うようなあたしが出来上がっていた。


「おーー……」


 あたしの登場に、リビングから歓声が上がった。


「ミキ、きれいだ……。美の女神みたいだ……」


 コウはあたしを見て、そう言ったまま硬直して動かない。もう全く動かない。

 あんまり動かないので、仕方なく部下の面前で後頭部をひっぱたいた。


 今日初めて会う人もいる。結構な広さだと思っていたリビングなのに人でぎちぎちだ。皆、仕事の後で疲れているだろうに。

 ちょっとだけお父さんの小野さんや、お腹だけお母さんのマサキさんも来ている。

 マサキさんは長袖の制服姿だ。コウに次いで二番目の、管理品出身の係長になったらしい。




「披露宴」とはいっても、巨大ケーキを切るだの空中の椅子から降りてくるだの酒の入ったグラスの塔だのは勿論ない。皆、なんとなく食べて、喋って、各自の都合でなんとなく帰る、という形だ。

 コウを見ると、始終にこにこ顔で、時々何を言われているのか顔を赤紫色にして顔から頭から汗を流していたりする。この姿を初めて見る女性社員達が、「課長、かわいいよね」とひそひそ話していた。


 今日の準備を手伝ってくれた前田さんや佐々木さんも、今ではベテランだ。「会社」では新人相手に結構偉そうにしているらしい。

 若林さんも呼んだのだけれど来られなかった。そのかわり、式の途中、あたしに電話があった。


「ねえみんな、聞いてください! 若林さんから電話ありました! 今、お子さんが産まれたそうです!」


 憧れの人と「運命」で結婚した若林さんも、今、夜明けの太陽のような思いでいることだろう。




 最後の一人も帰り、片付けも終わったリビングは、やはり相当の広さだ。

 これから、ここでコウとの新しい生活が始まる。


「ミキ、ありがとう」


 窓の外を眺めていたあたしのそばに、コウが並んだ。

 どちらからともなく手をつなぐ。


「俺、幸せだ」


 柔らかな、穏やかな笑顔。あたたかな手。あたしもにっこり微笑み返す。


「そんなの、あたしもだよ」


 お互いの心が、ゆっくりと絡み合う。


 あ、そうだ。

 忘れていた。これ、言ってみたかったんだ。よく分かんないけど。


「あのね、よく意味は分かんないんだけど、小説に出ていたの。これ、コウに言うんだっけ、それとも親に言うんだっけ」

「小説って、戦前の?」

「うん。えーと、あ、そうだ」


 あたしの顔が映っている、彼の澄んだ目を見つめた。


「ふつつかものですが、どうぞよろしくお願いいたします」


 真剣にあたしの言う事を聞いていたコウが、くすりと笑う。


「よろしくお願いいたします」


 あたたかな感情がじんわりと湧き上がる。


「ミキ」


 コウがまっすぐあたしを見つめる。


「必ず、幸せにする」


 天井のない空に舞い上がるような気持ちの中で、あたしは強く頷いた。



 その日、あたし達は夫婦になった。





 渾身の力を込めた瞬間、するするっと子供の姿が現れた。それと同時に力強い産声が響き渡る。


「元気な男の子ですよー」


 コウが臍の緒を切り、病院の人が子供を拭いてあたしに手渡してくれた。

 産まれたばかりの子供は、まだ体のあちこちにお腹の中にいた痕跡をつけたまま、ぱっちりと目を開いた。


 コウは子供をじっと見たまま、何も話さない。彼が子供の手元に指を添えると、子供はその指をちいさなちいさな手で握った。


「……ああ……」


 その瞬間、彼は顔を伏せて涙を流した。

 子供を抱いたあたしの手を強く握る。


「ミキ、大変だったね……。ありがとう」


 激しい疲労感の中、あたしは破裂しそうなほどの幸福感の渦の中にいた。



 コウは涙の跡を頬につけたまま、あたしに微笑みかけた。あたしも微笑み返し、愛しい愛しい二人の子供を抱き上げる。

 まだ小さくてくにゃくにゃしているこの子も、いずれ大きくなって世の中に羽ばたいていくんだろう。




 S区の路地裏で出会ったあたし達は、色んな壁にぶつかりながらも、今日、ここまで来た。

 あたし達はきっと偶然じゃない。それだけは確信できる。

 コウ、そしてこの子。あなたたちに出会えた運命に、心からの感謝を。



「生まれてきてくれてありがとう。こんにちは。……アイ」

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きっとあなたは偶然ではない 玖珂李奈 @mami_y

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