10.離れる時まであなたのそばに

 今日はコウがこの家で過ごす最後の夜だ。

 寮に入ってからはうちには泊まらないという。そして寮は外部の人間の宿泊を禁じている。

 だから。


「いやー、あったかいなー。あったかすぎて熱あるんじゃないかっていつも心配になるんだよね」

「うん……」


 困った顔のコウをよそに、あたしはまたコウの布団の中にもぐり込んだ。


「そんな嫌そうな顔しないでよ。だって今日で最後じゃない。ちょっとでも一緒にいたいんだもん」

「うん……」


 曖昧な返事をしたコウは、あたしの首筋に顔を寄せた。


「今日も、つけているんだね」


 香水の事だろう。首筋に軽く唇を触れ、あたしの頭を軽くぽんと叩いた。


「明日は引っ越しだよ。大変だからもう寝よう。おやすみ、『私の愛しい人』」


 そう言ってあたしに背を向け、寝る姿勢に入った。


「コウ」


 眠りに入る彼の広い背中を見つめ、声に出さないように囁く。

 言葉は、あたたかな優しい暗闇の中に溶けていく。


 私の、愛しい人。

 心から、愛しています。




 彼の言っていた通り、翌日は本当に大変だった。

 なんでって、荷物の量は少ないけれど一つ一つが冗談みたいに重かったからだ。


「あたし、これ持つ! この小さい箱!」

「あっ」


 彼の手から荷物を奪った途端、あまりの重量に思いっきり荷物を落とした。

 箱の口が全開になり、ぎっちり詰められていた外国語の書かれた紙類がまき散らされる。


「なんなのあんたの荷物は! 鉄の塊と紙の束ばっかりって、嫌がらせじゃないの全くもう!」


 機械の入っていないあたしは、面白いくらいの役立たずだ。結局、申し訳程度に服類を運んだだけで、後はほとんどコウ一人で運びきった。

 コウがタクシーで家と寮を往復している間、部屋の中で開梱するのも一苦労だ。几帳面で丁寧な仕事をするコウは、機器類の梱包も、あきれるくらい厳重だったから。おかげで人差し指の爪にひびが入った。




「ふえー、疲れたー。近くの店でごはん買ってくるー」


 時計を見るともう昼前だ。今日は休日だからいつもより空いているだろうが、寮住まいの人や休日出勤の人が結構買い物に来るかもしれない。急がなきゃ。


「いいよミキ、少し休んで。俺あとでこれからの練習もかねて買い物してみる」


 ああ、そうか。コウはこれから買ったものを食べる生活になるんだ。

 料理もできないわけじゃないけれど、慣れていないし、残業続きになればそうそう手の込んだものは食べられないだろう。

 ちゃんと栄養のあるもの食べられるかな。知識はあるんだろうけど、店の中からちゃんと選べるかな。あたしが冷蔵庫の中に作り置きでも入れておこうか……。




 気がついたら、あたしはベッドに横になって、毛布までかけてしっかり眠っていた。目を覚ますと、枕元でコウが微笑んでいる。


「疲れたんだね。じゃあ今から買ってくる。何がいい?」

「えーと……」


 あたしが話そうとしたときに呼び鈴が鳴った。引っ越し当日に誰だろう。


「はい?」


 コウがドアを開け、あたしは毛布を掛けたままのろのろと上半身を起こしかけた。


「…………………………!!」

「わあああああああああ!!」

「すみませんでしたああ!!」


 ドアの外には、驚愕の表情であたしを見つめる、いつもの新人三人組がいた。




「――ですよね。いやなんというか、絵にかいたような『今、入っちゃいけない状況』に遭遇しちゃったのかと思いまして」


 佐々木さんはそう言って頭をかいた。

 三人組はあたしとコウ、および室内の状況をなにやら誤解して叫び声をあげたらしい。ここにいる五人の中で唯一何も理解していないコウは、ぽかんとしている。


「引っ越しの手伝いがあるなら何かしましょうかってことで来たんですけれど、もう大体終わっているみたいですね」


 若林さんが話を元に戻した。


「そうなんですけど……あ、そうだ。あたし達まだごはん食べていないんですよ。皆さんは……あ、食べていないんですか。でしたらこの世間知らずの新入社員に、ごはんの買い方教えてあげてくれませんか。皆さんの分もついでに買ってください。費用は全部、課長もちで」

「都合のいいように立場を使い分けるなあ……」


 コウはぶつぶつ言っていたが、勿論昼食代を出し渋るようなことはしない。四人はわいわいと外に出かけて行った。




 結局、三人組は昼食をコウの部屋で食べるだけ食べて一旦各自の部屋に戻った。

 そして夕飯の時間に再び集まって来た。「新入社員歓迎会」という名目で、あたしのごはんを食べに来たのだ。


「凄い! こんな狭い台所で、よくこんな料理が出来るね!」


 佐々木さんが叫んだ。


「別にそんなに狭くないですよ。うちもこれと大差ないです」

「いやー俺、この台所使ったことないもん。これじゃ何もできないよ」

「そんなこと言っているから貯金できないんです」


 佐々木さんが台所を狭い狭いと言っているのを聞いて、前田さんがふと嫌そうな顔をした。


 あ、しまった。前田さんの家……。


「前田さん。昨日ミキさんが、移住準備室の映像の件で提案していたのですが」


 そこへコウが割って入って来た。多分コウも前田さんの表情に気付いたんだろう。


「準備室の映像に、部長と前田さんが前面に出るというのはどうでしょう。前田さんでしたら映像に慣れていますし、昔のファンの方も喜ばれるでしょうから」


 おい、自分の事を抜かして話を進めるんじゃない!


「映像ですか。そうですねえ、出るのは構いませんが、俺、移住の担当じゃないですけれどいいんでしょうか」

「詳しいことは広報室に聞きませんと分かりません。別に今はまだ具体的な仕事の話として言っているわけではあり」

「あれー、じゃあどうせならコウさんと前田でばーんと出たらいいじゃないすか。前田は勿論外せませんけど、コウさんインパクト大きいですよー」


 佐々木さんがコウの話の途中で割って入って来た。

 ほーら見ろ。皆思いつくことは一緒だよ。逃げようったって無駄だよ。


 


 しかし、男性四人の食事風景というのは凄いもんだな。

 あたしは自分の食事も忘れて四人の食べっぷりに見入ってしまった。

 前田さんも、「明日の朝食抜かなきゃ」と言いながら、皆と同じ勢いで食べている。コウも勢いに乗ったのか、久しぶりに三人前食べた。

 若林さんはあたしのごはんを食べるのが初めてだったが、「これ毎食食べていれば、そりゃ体の回復が早いわけだ」なんて独特の感想を言いながら、もりもり食べていた。



 前田さんがベルトを緩めながら苦しげに呻いた。


「久しぶりにお腹いっぱいで動けない……」


 そんな前田さんを佐々木さんが襟首を掴んで立ち上がらせる。


「でも動けよ前田。いい加減俺ら、邪魔すぎだ」


 若林さんが爽やかに挨拶をした。


「それじゃあ長い時間失礼しましたー」


「では皆さん、明日からよろしくお願いいたします」


 コウが玄関先で皆に頭を下げた瞬間、自分たちの明日からの立場を思い出したのか、三人組は冷や汗を流してぎこちなく笑いながら去っていった。




「……もう帰らなきゃ」


 洗い物を済ませ、呟く。


「下まで送るよ」


 玄関に立ったコウの後ろ姿を見て、あたしはその背中に抱きついた。


 あたたかくて広い背中。

 あたしの大切な、大好きな……。


「大好き……」


 自分の声が、コウの背中に響いてはねかえってくる。

 あたたかさが、じんわりと染み渡る。


「あと、二年とちょっと」


 コウの低い声が背中に響く。


「うん。そうしたら」


 二人の声が同時に響きあう。


「ずっと一緒だね」




 帰りのタクシーに乗ると、コウが手を振った。


「じゃあね」


 今日、寮に着いた時は、帰りのタクシーの中で大泣きするんじゃないかと思っていたが、不思議と涙が出なかった。


 あと、二年とちょっと。


 あたし達の行き着く先は、最初、暗闇と奈落しかなかった。

 なのに今は、一日ごとに天井のない空に近づくようだ。

 そりゃあ寂しい。だけど決して悲しい事じゃない。


 あたし達の行き着く先は、きっとあの日見た夜明けの太陽みたいに輝いているから。

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