第4話

 走り去るバスが全ての音を連れ去ったように、静寂だけが残された。


 彼女を見つめる。膝に顔を埋めていて、あの優しい瞳を見ることは叶わない。

 しかし、どうしてこんな所に? 一度家に戻った様子もない。もしかして、途中で具合が悪くなって動けなくなったのだろうか?


 俺は勇気を振り絞り、声をかけた。


「――――月島、さん?」


 瞬間、彼女はビクリとしたように見えた。でも、何故かいつまで経っても顔を上げる様子がない。聞こえなかったということはないと思うけど、念のため、もう一度声をかけようかと近付く。

 よもや変質者と勘違いされているとは思いたくないが、ここは普段暗いから危ないと、親にでも言い含められているのかもしれない。怖がらせるといけないので、なるべくゆっくりと歩を進め、人一人分くらいのスペースを開けて止まった。

 もう一度声をかけようとする。だけどそれより少しだけ早く、月島さんが弾かれたように顔を上げた。

 驚いたけど、でも彼女の顔を見て、俺はもっと驚いた。


 月島さんは――泣いていた。


 心臓が途端にバクバクと激しく脈動し始める。

 まさか、彼女の身に何かあったのだろうか? 一瞬にして嫌な妄想ばかりが頭を駆け巡り、俺は慌ててそれを振り払った。


「どうしたの? 大丈夫?」


 不用意な態度で怖がらせてはいけない。俺は彼女の目線と同じ高さになるよう跪き、できる限り優しく問いかけた。

 だけどそれを見て、何故か彼女は更に辛そうに顔を歪めた。


「ふじ、くら……くん……?」

「どうしたんだよ、月島さん」


 本当にどうしたんだよ。でもそう呼びかければ、彼女の顔は耐え切れなくなったようにくしゃりと歪んで、そのあまりの切なさに、俺の胸はますます締め付けられた。


 好きな女の子が泣いているのに、力になれないのか?

 思えば月島さんは、何だって一人で頑張ってしまう性分だった。西紅の受験だって、周りが安牌な私立へ流れる中、脇目も振らず頑張っていたのを知っている。

 そして合格発表の日、人目を憚らず泣く彼女を見て、俺の想像以上に、並大抵の努力じゃ成し得なかったことだったんだと悟った。俺だって勿論頑張ったけど、あんな姿を見てしまったら、軽々しく喜ぶ声なんて絶対にかけられなかった。


 全てを一人で抱え込む、きっとそんな不器用な性格。

 だったら――


 俺は彼女を、壊れ物のように、優しく抱きしめた。

 何が君をそんなに傷つけているのか、俺には分からない。けど、弱って冷え切ったその心が、少しでもこの温もりで楽になってもらえたら良い、そんな風に願いながら。

 そして、できれば俺を頼ってくれないか? 背負う重荷を、少しでもいいから分けてくれないか? こんな華奢な腕じゃ、すぐに押し潰されてしまう。


 一瞬、想いが届いたのかと思った。月島さんが、俺を抱きしめる腕に力を込める。

 少しだけ弱みに付け込むような気がして後ろめたかったけど、その気持ちに蓋をした。今はだめだ、彼女が元気になるよう心を砕くのみ。邪心は捨てろ。


「ごめんね、藤倉君、ごめん……」


 月島さんは半ば俺に縋り付きながら、うわ言のようにそればかりを繰り返す。

 涙の原因は、俺にあるのか? 何度も紡がれる謝罪に、そんな疑問が湧き上がった。


「何で謝るの?」

「……酷いこと、したから」


 酷いこと? 考えを巡らせるが、一向に心当たりがない。そもそも、酷いことをされるとかそんなことの前に、俺は最近彼女に会えてすらいないのだ。

 ……まさか、それのことか?


「俺を、避けてること?」

「え?」


 俺はなるべく深刻にならないように、わざとおどけた不貞腐れ顔を披露する。

 でもそれは、彼女の謝る理由には合致しなかったようで、意外なことを言われた、そんな表情丸出しで俺を見上げてきた。

 違ったのか……じゃあ何だ? 

 心当たりを考えていると、月島さんが小さく震えた。それで気付く。

 彼女のコート、何のために持ってんだよ……。己の気の利かなさに、思わず頭を打ち付けたくなった。


「ごめん」


 謝りながら彼女にコートを羽織らせる。震える手が可哀想で、代わりにボタンを留めた。そのとき触れた指先があまりにも冷たくて、いったいどれほどの時間、このベンチで一人泣いていたのだろうと、また胸が痛んだ。


「そう言えば、どうして、これ?」


 月島さんはコートへと視線を向ける。


「影森先生が心配してたよ。急にいなくなって、どうしたのかって。熱高いのに、コートも着ないで鞄も忘れて、いったいどこ行ったんだって」

「それでわざわざ持って来てくれたの?」


 その言葉に、少しだけ焦った。俺が月島さんの家を知ってるなんて、よく考えたらおかしいよな。ストーカーみたいに思われたらヤバい。


「お、俺バス通で、ここちょうど通り道だから」


 慌てて弁解し、だから見掛けたことがあったんだと、そう解釈してくれるよう祈った。


「ありがとう、か、帰るね」


 だけど月島さんは鞄を引っ掴み、ここから逃げ出したいみたいに急いで立ち上がった。

 俺は自分の失言を悟り、更に慌てる。

 邪心は捨てたはずなのに、もう少し彼女と一緒にいたい、彼女と話したい、頼む、せめてもう少しだけ、そんな懇願にも似た思いが頭をもたげてきた。

 想いが天に届いたのか、これだけの寒空の下、コートも着ずに座っていた月島さんの足は、急な動きに対処できなかったようで、瞬間クラリとよろめく。

 俺はこれ幸いと、彼女を支えてみせた。頼りになる男、どうにかしてそう印象付けたかった。


「待って。家まで送る」

「え、いいよ」


 だけど彼女は、素気無すげなく断りの言葉を口にする。


「よくないよ。途中で倒れたらどうするの?」

「倒れないよ、平気平気」

「目の前でよろけられて、一人で帰す方がよっぽど心配なんだけど」


 何でそんな頑ななんだ? 俺は段々苛立ち始める。


「一人で帰れるってば!」


 でも彼女の方も、食い下がってくる俺にイラついていたのか、驚くほど大きな声で拒絶を示してきた。

 ……そんなに俺に送られたくないのかよ。

 ショックだったけど、何でいつも一人でどうにかしようとするのか、それが理解できなくて、そして何もできない自分が不甲斐なくて、間違っていると分かっているのに、少しだけ恨めしい目を向けてしまった。

 するとさっきの威勢は途端に鳴りを潜め、弱々しく俯いてしまう。

 直前の顔には、後悔の色が浮かんでいたように見えた。


「ご、ごめん。でも本当に大丈夫。それに、彼女に悪いよ。たとえ単なる親切心でも、他の女の子と二人で帰ったなんて、気分良くないよ」


 だけど次に紡がれたこの台詞に、俺の思考は酷く乱された。


「彼女って、何の話?」


 辛うじて、それだけどうにか口にする。

 俺に付き合っている女の子がいると、そう思ってるってことか? まさか? どうしてそうなった?


「え? だって今日」


 言いかけて、突然口を噤んだ。

 今日? 

 おいおい、そんな偶然ってあるのかよ! 頭を抱えたくなったけど、それで合点がいった。月島さんは、あの音楽室での出来事を目撃したのだ。


「まさか、見てたの?」


 よりによって、どうして彼女に見られなくちゃならないんだ。


「ごめん。たまたま……」


 がっかりしたように、更に俯く彼女。

 でも俺はその姿に、次第に喜びを感じ始めていた。

 もしかして、それで泣いていたのか? 俺が琴平と付き合っていると勘違いして? コートも鞄も忘れて飛び出すくらい悲しかった?

 今にも問い詰めてしまいたかったけど、まずは誤解を解くのが先決だと考え直して、俺ははやる気持ちを何とか抑えた。


「そうだったのか。でも、あれは月島さんが想像してるようなことじゃないんだ」

「え?」


 意外そうに見つめる彼女に、声を大にして言いたかった。

 本当に違う、信じてくれよ。誰に誤解されても、君にだけは誤解されたくないんだと。


「告白されたんだ」


 でもその言葉に、月島さんの顔はもはや蒼白と言っていいほど色を失くす。不謹慎だけど、そんな彼女に、俺の暗い気持ちは一気に吹き飛んだ。

 代わりに顔を覗かせたのは、いよいよ嬉しさを隠せそうになくなってきた、邪な心。


「待って待って。最後まで聞いてよ」

 さり気なく、でも逃がさないように月島さんの手を絡め取る。

「歩きながら話そう。風邪ひいてるのに、こんなとこに長居したらせっかくの冬休みが潰れちゃう」


 少しだけ表情の柔らかくなった彼女。やっといつもの優しい眼差しが見られて、俺の心は状況も弁えずに弾みだす。彼女も少しだけ握り返してくれたように感じて、俺はもう飛び上がらんばかりだった。


「付き合ってほしいって告白されたんだ。抱きつかれながら」


 だけどそう告げた途端、その表情はまた強張ってしまう。

 ああ、何でこうも言葉の選択が上手くいかないんだっ! 俺は頭をガリガリと掻いた。


「ごめん、バッグ持つ」


 すると月島さんはその手に握られていた自分の鞄に目が行ったのか、手を伸ばしてくる。

 でも俺はそれをひらりと躱した。だってこれは、家まで一緒について行くための人質だからね。


「けど断った」


「――――え?」


 分かる? ちゃんと聞いてる? 俺、告白を受け入れたことってないんだよ?

 彼女を見つめれば、その足はネジの切れたぜんまい人形のように、ゆっくりと動きを止めた。


「ちゃんと、断った」


 この意味、分かるでしょ? 


 俺も止まって、もう一度瞳を覗き込む。

 街灯に照らされ薄く膜の張ったガラス玉が、ほんの僅か、喜びの色を灯したように見えた。


 あと、一押し。


「どうして?」


 月島さんも俺を、ひたと見つめ返す。


「好きな子がいるから。ずっとずっと前からね」

「――それは、誰?」


 その先の期待を乗せて、彼女の声が細かく震える。

 それが俺の脳を痺れさせた。


 今度は俺が、この上なく愛しい彼女に、溢れんばかりの想いを乗せて言葉を紡ぐ。


「それはね――」


 ああやっと、俺はこの子を捕まえられる。



〈了〉

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雨宿りの際は、思わぬ先客にご注意を 平原佑記 @kamometonyanko

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