④冬市場

「あ、師匠」


 玄関ホールについたリーフェがあたりを見回すと、時間通りにハヴェルはやってきた。

 ハヴェルは普段は時間にルーズだが、自分が楽しみにしていることの予定はしっかり守る男だった。


「待ってた?」

「いいえ、ちょうど今終わったところです」


 鞄から手袋を取り出しつつ、リーフェは久々に部屋着以外を着ているハヴェルの姿を見た。


 ベージュのセーターに上等な生地の濃い茶のパンツを合わせて革靴を履き、その上にダークカラーの分厚いウール地のポロコートを羽織ったハヴェルは、玄関ホールを出入りしていく女性の視線を必ず捉えて離さないほどに素敵だった。

 それはお洒落さよりも防寒を重視しているであろう特別なものは何もないコーディネートなのだが、ハヴェルの背が高く華やかな外見によって絶対無二の格好良さが生まれていた。


「そういえばイグナーツは、急な仕事が入って来れなくなったって」


 リーフェが手袋をはめるのを待ちながら、ハヴェルは言った。イグナーツがリーフェとハヴェルを二人っきりにする方向に気をきかせようとするとは思えないので、本当の本当に急な仕事が入ったのだろう。


 普通に祭りを楽しむ予定が無くなったイグナーツが気の毒で、そしてハヴェルと二人っきりで過ごすことが決まったことがリーフェは嫌で、リーフェは心の底から悲しい顔をして言った。


「それはすごく残念です……」

「ま、いいじゃん。今日は二人で楽しもう?」


 軽い調子で切り替えて、ハヴェルは歩き出す。


(だって二人っきりって、対応に困るし……)


 リーフェは何も起きないことを祈りながら、ハヴェルを追った。


 ◆


 裁判所の外に出るともうあたりは宵闇に包まれている時間で、西の空の端だけがほんのりと赤かった。


 冬市場のメイン会場は市庁舎のすぐ近くのところにある大広場で、裁判所からは徒歩で行くことができる近さだった。この時期は特別に広場の中央には大きなもみの木が置かれ、屋台が軒を連ねている。


 昼間は厳粛な雰囲気だった市庁舎も夜は華やかなに明かりが灯り、木々にはランタンが吊るされている。屋台のランプの灯かりもあわせて、広場は光で満ちていた。


「冬市場って、こんなに綺麗なんですね」


 夜空を明るく染める冬市場の光に、リーフェは寒さを忘れて感動した。田舎でも祭りの夜にはたくさん蝋燭が灯されたが、大都市のお祭りはもっと規模が大きくて、人も多い。


「そうだね。僕は毎年見てるけど、それでも飽きないくらいには綺麗だと思うよ」


 ハヴェルは灰色の瞳に会場の光をきらきらと反射させて答えた。気付けばハヴェルは、人ごみの中でリーフェを守っているような距離にいた。

 銀色の髪を後ろで束ねたその姿はすぐ近くにあるのに、星の見えない空に浮かぶ丸い月と同じくらいに美しくて手が届かないものに見える。


 ハヴェルに比べれば背の低いリーフェはその様子を少し下から見上げ、条件反射で胸を高鳴らせた。


(だってこんな顔がこんなに近くにあったら、好きじゃなくてもどきどきするよね?)


 にぎやかで明るい人ごみの中で誰よりもリーフェの近くにいるのは、世界中の誰よりも美しい瞳で遠くを眺めるこのハヴェルなのだ。目を奪われないでいるのは、無理な話だった。


 やがて自分が見つめられていることに気付いたハヴェルは、いたずらっぽくリーフェの腰に手を回してささやいた。


「景色じゃなくて、僕に見惚れてた?」


 ハヴェルの体温と甘い香水の匂いに包まれたリーフェは、我に返ってハヴェルの手を強く握り、そのまま腕を捻りあげて離れた。


「いや、最近はもう慣れました」


 意地を張って、リーフェはまったくときめかず平気だったふりをする。


 ハヴェルもまたリーフェに掴まれたままの手首が痛むのを我慢して、売り言葉に買い言葉を続ける。


「そんなこと言って、いつも僕の裸体を性的な目で見てるのにね」

「自分から脱いでくるくせに、仕方がなく目をそらしてる私を責めないで下さいよ」


 掴んだ手を離して、リーフェはそっぽを向く。


「やっぱり、見てるじゃん」


 ハヴェルは腕をさすりながら、笑っていた。


 それから二人は、屋台を見て回った。


 素朴な木製の三角屋根が可愛らしい屋台の数々には、色とりどりのキャンドル、天使や星をかたどったオーナメント、硬めに焼かれた日持ちのするケーキなど、季節の商品がところせましと並んでいる。

 仮設舞台で弦楽器を弾いている人たちが奏でる陽気な音楽も聞こえてきて、非常に楽しげな雰囲気だ。


「あ、これ可愛いな」


 そう言って、ハヴェルは製菓用品の売場で足を止める。手にしているのは、雪の結晶の形のクッキー型だった。


「すみません。これください」

「お買い上げありがとうございます」


 ハヴェルが小銭で支払うと、売り子の女性は手際よく小さめの紙袋に商品を入れて渡す。

 それをそのまま、ハヴェルはリーフェの前に差し出した。


「はい。イグナーツと二人で使ってね」

「私かイグナーツ先輩に、これ使ってクッキーを焼けってことですね」


 リーフェはため息交じりにそれを受け取り、皮肉を込めて意図を確認する。ハヴェルが自分でクッキーを焼くはずはなかった。


「そうだよ。僕はジンジャークッキーが好きだから、よろしく」


 まったく悪びれずに、ハヴェルがリクエストを述べる。


(本当に、人を困らせることが人一倍得意な人なんだな)


 リーフェは黙ってクッキー型の入った袋を鞄の中にしまった。こうなってくるともう、一周まわってそのわがままには感心してしまう。


 広場にはその場で食べたり飲んだりできるものを売っているお店もたくさんあって、簡易的なテーブルと椅子もあちらこちらに設置されていた。

 ちょうど夕ご飯どきということもありテーブルは大勢の人で埋まっていたが、ハヴェルは要領よく空いている席を見つけて、リーフェに食べ物を買いに走らせて座った。


「それじゃ、飲むとしようか」


 飲み物も食べ物も十分にテーブルの上に並ぶと、冬市場に来た一番の目的であるホットワインの入った靴型のマグカップを手にして、ハヴェルは言った。


 テーブルの上にはトマトソースと香辛料の粉のかかったソーセージ、揚げたじゃがいも、キノコと玉ねぎの煮込み料理など、お酒に合いそうなものが載っている。


 どれもこれも熱々で美味しそうなので、リーフェもホットワイン入りのマグカップの取っ手をわくわくした気持ちで握った。


「はい。いただきます」


 ふわりと香る芳醇なホットワインの匂いを吸い込み、一口飲む。すると濃く凝縮された甘酸っぱい温もりが、冷えた身体に染みわたって気分を高揚させるのを感じた。


(うーん、温まる……)


 ほかほかした気持ちで、リーフェは二口目を飲む。


 ハヴェルの方は、リーフェがちびちびと飲んでいる間に一杯目を全部飲んでしまったようで、すでにもう二杯目のホットビールを飲んでいた。


「冬市場と言えばホットワインだけど、屋台の料理には、ビールが合うんだよね。永遠の悩みだよ」


 そう言って、ハヴェルはソーセージにフォークを刺してビールと交互に食べていた。


「どっちも飲むんだったら、悩むことなくないですか?」


 ハヴェルの語りに指摘を入れつつ、リーフェは慌てて無くなってしまう前に料理をもらう。

 一口大にカットされ盛りつけられたソーセージは、粉状の香辛料がトマトソースに混ざりよく絡んで、甘辛の味付けとミンチ肉の旨みが美味しいジャンクな食べごたえがあった。


(家でも作れそうな味だけど、こういうものはこういうところで食べるからより美味しんだよね)


 冬の夜の空の下で、リーフェはソーセージの弾けるような食感と、口の中に広がる肉汁の熱さを楽しむ。


 付け合せの揚げたじゃがいもも、塩胡椒を強めに効かせた辛さが食欲をそそった。


 リーフェは屋台料理を堪能しつつ、ホットワインを飲んだ。ハヴェルはそのまま飲むことを好んでいるようだが、すっきりと甘すぎない味に仕上がっているホットワインは料理にもよく合った。


 丸々と大ぶりなマッシュルームを細く刻んだタマネギと飴色に炒めて白いにんにくのソースをかけた料理の方も、マッシュルームの淡泊な歯ざわりの良さににんにくの風味がしっかりと感じられ、いくつでも食べられそうなくらいに味が良かった。

 隣に添えられたパンの塊をちぎり、にんにくのソースと一緒にくたくたになった細切りのタマネギをすくって食べてもまた美味しい。


「師匠、煮込み料理の残りがいらないなら私が全部食べますけど、いいですか?」

「うん、玉ねぎはもういいかな」


 時折偏食の片鱗を見せるハヴェルが、余らせた皿をリーフェに寄越す。ソースが気に入ったリーフェは、それを綺麗に食べ切った。


「最後にはやっぱり、甘いものとお酒だよね」


 しょっぱい食べ物をあらかた食べ終えると、ハヴェルは五、六杯目にリンゴ酒を飲みながら、フルーツのチョコレートがけに手をつけた。


「私も、この大きいやつをまずもらいますね」


 リーフェもまだ腹八分目以下というところで余裕があったので、大ぶりなリンゴのチョコレートがけをもらう。

 フルーツは食べやすいようにあらかじめ串に刺さっており、二人はそのままかぶりついて食べた。


(りんごとチョコレートって、美味しい……)


 ほろ酔いでやや語彙が少なくなった頭で、リーフェはりんごの酸味とビターなチョコレートのほろ苦い甘さが舌の上で重なるのを楽しんだ。


 それからハヴェルが食べきれなかった分のフルーツも食べてやっと、リーフェは満腹感を感じた。


「美味しかったです。ありがとうございます」


 最後の一本のいちごを食べて、リーフェは奢ってくれたハヴェルにお礼を言った。


「デザートは残ったらイグナーツに持って帰ればいいやと思ってたけど、全部食べちゃったんだね」


 ハヴェルはすべて空になった皿を見て、可笑しそうにくすくすと笑った。


「私が食べる量は、わかっているはずじゃないですか」


 リーフェは食器を重ねて持ち、屋台に返しに立った。


 ◆


 その後、お互い満腹になって酔っぱらった二人は、腹ごなしと酔い醒ましに会場となっている広場の周辺に広がる公園を歩いた。


 公園は屋台がないところまで出ると人影は少なくなるものの、ところどころには木々に吊るされたランタンによるライトアップが施されており、ほどよく静かな明るさが心地良かった。


 遠く聞こえる陽気な喧騒に耳を傾けながら、ハヴェルは何も言わずにリーフェの隣を歩いている。リーフェは目的もなく散歩している気分だったが、どうやらハヴェルには目的の場所があるようだった。


 やがてまた開けたところに出ると、そこには先程までいた場所とは別の冬市場の会場があって、丸い広場には屋台に取り囲まれる形で移動式のメリーゴーランドが置かれていた。


「どう? 遊具に乗るには酔っぱらい過ぎたけど、見る分には綺麗だよね」


 会場の端の塀にもたれて、ハヴェルは家族連れの客が並ぶメリーゴーランドを眺めた。


「そうですね。良い思い出にできそうです」


 都会人のハヴェルと違って、リーフェは本の挿絵ではない本物のメリーゴーランドを見るのは初めてだった。


 各面におとぎ話の絵解きが描かれた屋根がくるくると回り、裕福そうな子供たちが木馬に乗ってはしゃぐメリーゴーランドは、たくさんのランプの光に照らされきらきらと輝いている。


(あれって、乗るのにどれくらいお金がかかるんだろう。どの子も立派な服着てるよね)


 リーフェは単純に、その情景を物珍しく綺麗ものとして見ていた。


 だがハヴェルのような陽気なふりをして暗いものを抱えた人物は、そんな限りなく明るく幸せそうな風景を目にすると逆に悲しくなってくるものらしい。


 ハヴェルは不意に切なそうな顔をして、リーフェを正面から抱き寄せた。


「ちょっと。酔っぱらってるんですか? それなら帰りますよ」


 妙な雰囲気には気付かないふりをして、リーフェはハヴェルを叱った。その腕が冗談にしては優しげに触れてくるので、リーフェは振り払うことができなった。

 コート越しに感じるくすぐったくなるような淡い温もりに、リーフェは思わず目をつむる。


(何? 何がしたいのこの人は?)


 リーフェが戸惑いながらもじっと耐えていると、やがてその温もりは離れていった。

 おそるおそる目を開けると、ハヴェルの造りものみたいに綺麗な顔はまだすぐ近くにあった。


「それ、あげるよ」


 さっき食べたフルーツのチョコレートがけよりもビターに甘い声で、ハヴェルがささやく。

 見れば、リーフェの首には金の鎖に赤い石の埋め込まれた小さな三日月の飾りのついたペンダントがかかっていた。おそらく、ハヴェルが冬市場のどこかで買ったものだろう。


「え? どうしてこれをくれるんですか?」


 あまりの突然のことに、リーフェ何よりも先に疑問を口にした。


「デザインが好みだったのと、あと……おまじないとか、目印みたいなものかな」


 動揺しているリーフェとは対照的に、ハヴェルは落ち着いた様子のまま答えた。ハヴェルの説明は抽象的で、本人以外には意味のわからないものだった。

 だがその理由を深く掘り下げたくはなかったので、リーフェは自分が買いたかったから買って他人にくれるのだろうとむりやり納得して、お礼を言った。


「はぁ……。ありがとうございます」

「どういたしまして」


 ハヴェルはそう言って微笑み、また灰色の瞳で遠くを見た。幸福だけがそこにある風景か、もしくはさらに遠くにある何かが、その瞳には映っていた。


 沈黙の中で、回るメリーゴーランドから流れる楽しげな音楽が聞こえる。


 やがて二人で黙っている時間に耐えられなくなって、リーフェは口を開いた。


「私は今、満腹でほろ酔いで、理由はよくわからないけど可愛いものをもらえて幸せです」


 少し前かがみになり、リーフェはハヴェルの顔を覗き込んで尋ねる。


「あなたは今、幸せですか?」


 リーフェは別にハヴェルのことを知りたいわけではない。だがハヴェルがリーフェの師である限り、リーフェは彼のことをある程度は気にかけるべきだと思った。


 なけなしの思いやりをリーフェが示すと、ハヴェルは細く長い指でリーフェの三つ編みした褐色の髪にふれて答えた。


「そうだね。今ここで無政府主義のテロリストが爆弾を持って現れたとしても、君を庇って死んでもいいかなって思えるくらいには幸せかな」


 リーフェには、どこから急に無政府主義のテロリストが爆弾を持って現れるという例え話が出て来たのかがわからない。

 しかしハヴェルが、大切な人を理不尽な形で失った痛みを抱えているのは確かだった。


(私は今ここでこの人に爆死されたら、まあ嫌だし困るかな。好きか嫌いかは置いといて)


 そう思ったリーフェは、少しだけハヴェルの不幸をいたわる気持ちを持ちつつも、ハヴェルの手を払って微笑んだ。


「残念ながら、あなたが今ここで無差別テロで死んだって無駄死にですよ。私、一人でも生き残れますから」


 こうしてリーフェが冗談交じりに突き放してみせると、ハヴェルは甘えたふりをして塀ではなくリーフェにもたれかかろうとした。


「それは頼もしいね。じゃあ逆に、僕は君に守ってもらっちゃおうかな」

「嫌です。自力で、生き残ってくださいよ」


 今度はそうしたそうした恋愛の真似事に惑わされることなく、リーフェはハヴェルの行動をさらりとかわして公園の出口へと歩き出す。

 するとハヴェルも、リーフェについて歩いてきた。冬の恋の流行歌を口ずさみながら、ハヴェルははリーフェの隣にいる。


(正直、面倒な人だと思う)


 会場の光に背を向けて先を歩きながら、リーフェはハヴェルに人間としての人物評価を下した。

 ポロコートを着たハヴェルはリーフェよりもずっと背が高くて大人で、馴れ馴れしく振る舞うわりに距離を置く。


(でもま、それでも仕方がないか)


 リーフェはハヴェルの恋人ではないので、完全に理解する必要はない。


 影響を与え合ったとしても、決して想いの交わることのないこの関係こそが、お互い自分のためになっているのだと、リーフェは信じた。


 ふと目を上げれば、にぎわい明るい地上とは対照的に雲に覆われた夜空は暗かった。


 酔って火照った頬を、冷たい風が撫でていく。


 ハヴェルからもらった金の三日月のペンダントはまったく防寒の役にはたたないが、リーフェの赤いコートの下に着た黒いブラウスにはよく映えた。

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見習い弁護士と半裸師匠 名瀬口にぼし @poemin

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