終わり、あるいは始まり
目覚めるとわたしは堅いベッドの中にいた。
1891年のスイス、マイリンゲン。
頭は泥のようにけだるく、体は鉛のように重い。備え付けのテーブルの下に、ブランデーの空瓶が転がっている。
わたしはゆっくりと身を起こして、枕元のシガレットケースを手に取った。銀のシガレットケース。親友が愛用していたその品の下に、三枚の手帳の切れ端が置いてあった。
やはり、先ほどまで体験していたことが夢で、この切れ端が現実なのだ。
――パタスン警部に、一味の有罪決定に必要な書類は『モリアーティ』と表書きした青い封筒に入れて、分類棚のMの部にあるとつたえてくれたまえ。財産は英国を出る前にすっかり整理して、兄のマイクロフトにわたしてきた。どうか奥さんによろしく。
君の真実なる友 シャーロック・ホームズ――
どんなにひどい悪夢でも、現実よりはましだと思う。
どんなにひどい悪夢でも、ホームズがいないこの現実よりはましだと思う。
わたしだからは、運命のあの日から二週間が経った今もこの部屋から一歩も出られずにいた。
カタンと音がしてそちらを向くと、登山杖が倒れていることに気が付いた。
シガレットケース、手紙とともに持ち帰ったホームズの登山杖だ。
持ち上げると、半分ほどのところでぶらりと曲がった。
ほとんど折れかかっている。
滝の側そばで発見したときには、そんなことはなかった。
それどころか、昨日だって!
――あの時の傷だ。
悪夢のさなかにホームズが街路に突き刺したステッキのようなもの。
あれはそう、登山杖だったのだ!
わたしはベッドから出ると、ぶるぶる震える手で折れた杖を手に取った。
この残酷な現実もまた、モリアーティが生み出し、ホームズが安定させた世界のひとつなのだろうか。
移ろいやすく脆弱な、泡のごとき世界。であればわたしもまた、火星人や吸血鬼、旧世界の神々の脅威に立ち向かう世界のわたしと同様に、吹けば飛ぶような存在なのかも知れない。
聖典すらも、あるいは。
しかし、そうであってもわたしにはなすべきことがあった。
窓の外では上り始めた太陽が、空を黄金色に染めている。
親友が自己の存在を賭してもたらしてくれた希望の朝だ。
――まずはこの部屋を出なくては。
わたしは身支度を整えながら、思う。いつの日か今朝の冒険を小説にすることがあるならば――。
その時は『最初の事件』と名付けよう、と。
最初の事件 mikio@暗黒青春ミステリー書く人 @mikio
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