新世界

 ビター&スイートの素敵な幻想が消え去っても、モリアーティ球体もその重力も消え去りはしなかった。


「モリアーティは―ありとあらゆる手段を講じて目的を達成するあの犯罪王は、自らを可能性のブラックホールと化すことで、ロンドンを手段ハウダニットの特異点にしたんだ。ここでは何もかもが起こりうる。何もかもが起こりうるというのがここでの現実なんだ」


 わたしはホームズの言葉を聞きながら、背すじを震わせていた。


 深淵から滲み出てくるのは、サンドイッチ状のクッキーだけではなかった。


 誰でも瞬時にカラー写真を撮影できる極小のカメラ。定刻通りに発着する煙を吐かない無数の列車。どれだけ遠く離れていてもまるですぐ近くにいるかのように会話ができる電信装置。建物は回転し、自動車は空を飛ぶ。生命の神秘はあまねくつまびらかにされ、人間の知性すらも電気信号に模擬される。義足、義手、義眼、義脳… …加速する世界。空間とそれに時間を旅する人々。ユニバース。


 ひるがえってロンドンは火星人に吸血鬼、旧世界の神々の脅威にさらされている。語り手は信頼できず、探偵は容易に犯罪者となり、犯人は被害者を、実行犯を、探偵すらをも操って事態を混沌カオスへと導く。次から次へと現れる手がかり。発達した科学と区別のつかない魔法。言葉遊びと衒学趣味が次の瞬間、この世界の真実となる。


 ――我々は今、何もかもがあり得て嘘の地点に立っているのだ。


「ワトスン君、前にぼくが言ったことを覚えているかな」


 探偵は少しの動揺も見せず、凜とした声で言った。


「不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実となる。ぼくの推理方法の根幹は、ひとつには、これだ」


 もちろん覚えている。しかし――。


「しかし、このような何でもありの世界で、何でもなしの世界で、ぼくのやり方は通用しないのではないかと、そう心配しているんだね。大丈夫だよ、ワトスンくん。探偵は時代から逃れられないし、逃げたりもしない。今が千九百なん年だろうが、ね」


 ――そこに真実が待つゆえに。


 ホームズはステッキのようなものを掴んだまま、側面の地面を疾走し、その勢いにまかせてわたしを深淵から見て天上の方向へと投げ飛ばした。反動に耐えきれず、ボキリと半ばから折れるステッキのようなもの。しかし、それもホームズにとっては予測された出来事だったのだろう。


「さよならだ、ワトスンくん」


 ステッキのようなものをやすやすと手放すと、探偵はむしろ自ら進んで深淵へと向かい始めた。


「ホームズ!」


 わたしの視線の先で、ホームズの体が少しずつバラバラにほどけていく。


 無数の糸となり果てたホームズは、放射状に広がりながら、なおも深淵へと踏み込んでいく。


 深淵から漏れ出てくる泡状の可能性にまとわりつき、ひとときでもと、その場に留めようとする。泡が糸をすり抜けることもあった。糸の圧に耐えかねてはじけてしまうこともあった。けれども泡は絶えることなく生み出され、無数の糸はそれを絡め取ろうとする。


 永遠の繰り返し。姿かたちを変えようとも、終わりなどありはしない。つまりはそういうことなのだ――。


 いつの間にか、深淵から漏れ出した泡のひとつが、わたしのすぐ側まで来ていた。幾重にも糸が絡まっていて、見るからに安定した泡だ。


 わたしは口を開ける。

 泡は一直線にわたしの方へと向かってくる。

 わたしは迷うことなく泡を受け入れる。

 パチン!


 そしてわたしは気を失った。

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