暮樫或人は怪異が見えない。
一見これは普通のことに思われるかもしれないが、暮樫の家は基本的に怪異が見えるらしく、彼が唯一の例外ということになる。
問題は「見えていなければ存在しない」というわけではないということだ。
これはなかなか小説というメディアの面白いところで、もしもずっと或人の一人称で物語が進むのであれば、怪異たちの存在は、二次創作的には存在するかもしれない潜在的な可能性としてしか把握することができない――つまり怪異は存在しないということになるが、この作品ではもう一人の視点人物として妹の言鳥が活躍する。
言鳥は例外である兄とは異なりもちろん怪異が見えるわけだが、そちらの方はまるで兄の物語の反動でも受けたかのようにオカルト異能バトル然とした物語を展開する。
面白いのは言鳥自身が、兄には見えないものが見えてしまう自分の物語それ自体が虚構でないとどうして言えるのか、というようなメタ視点を持っているところだが、そういった視座がどう展開していくかも一つの見物となるだろう。
(必読!カクヨムで見つけたおすすめ5作品/文=村上裕一)
井上円了は妖怪を分類した際に、実怪と虚怪という言葉を用いました。「まこと」の怪と「うそ」の怪。
さて、この物語の主人公が求めるのは、そのどちらでもないのです。彼――暮樫或人はただ、怪異というものの本質に近付きたいと願う。存在非存在には無頓着ですらある。
なぜなら、彼にとっては妹こそが第一であるからです。妹!
妹――言鳥に対し、彼は全幅の信頼を置いています。言鳥の見たものなら信じるとすら(キャッチコピーでも)断言しているほどです。
ところが両者は食い違います。或人は己のスタンスを崩さず、妹は「見える」人間として至極当然の行動を起こす。
鈍感だと片付けられる或人の行動ですが、それは本当か? と疑ってしまうような場合すらあります。ひょっとして、おかしいのは言鳥のほうではないか? 怪異の存在と非存在を問わない或人のほうが、ひょっとしたら正しいのかも……?
そして軽妙な会話劇が続く話の中で、ちらりと垣間見える不穏な空気。いや、怪異を扱うのだから不穏なのは当然なのですが、それを上回る不穏さが渦巻くのが曲者です。
でも、きっと大丈夫。主人公の行動原理は明確です。
妹かわいい!
それさえあれば、彼はどんな困難も乗り越えてくれるはずです。