第7話 五人
翌日は朝から軽い頭痛があったが、欠席する程ではなかったし、それほど体調も悪くなかったので加賀は普通に学校に向かった。
ホームルームが終わったあとに長崎を呼び止めた。
「先生、もしかして昨日家に来ましたか?」
「あ? なんで俺が?」
「いえ、昨日誰かが僕に会いに来たらしいので、てっきり部活のことで引き止めに来たのかと思いましたよ」
「俺がそんなことするわけないだろ。それとも引き止めて欲しいのか?」
ニヤニヤ笑って長崎が答えた。加賀は、不愉快さを表に出さないように気をつける。
「……部活を辞めることは、伝えてくれましたか?」
「ああ。昨日、天城に伝えておいたよ」
「そうですか……」
彼女がどんな反応をしたのか、聞きたかったが、聞けなかった。長崎も、いつもなら聞きもしないことをペラペラとしゃべるくせに、こういうときに限って何も言わない。
加賀はもどかしさに苛立つ自分を自覚する。しかしそれでも、喉まで出かかった質問は意地で押し留めた。
「どした? また気分でも悪いのか?」
「いいえ。悪くはありませんよ」
そうか、と長崎は答えて、出席簿を軽く振って教室を出て行った。
教室を見回すと今日は辛島も出席していた。目を合わせると気まずいのですぐに視線を外す。
辛島に何か言われるのではないかと内心穏やかではなかったが、その日の授業が終わるまで彼女とは会話どころか目を合わせる機会すらなかった。
帰りのホームルームが終わり、拍子抜けしながら教科書を鞄にしまう。辛島はまだ自分の席に座っていたので、顔を合わせないようにそそくさと教室から出る。
無事に廊下に出てほっとしているところに、廊下の向こうから早足で近づいてくる鮫村の姿を見つけた。
「さんざん人を巻き込んでおいてそれかー!」
開口一番怒鳴られた。その勢いに加賀は肩をすくめる。
「いきなり何ですか」
「ついこの間までは文芸部で一緒に頑張っていこうみたいなノリやったくせに!」
「あれ、そんなこと言いましたっけ」
「騙されたー!?」
鮫村は頭を抱えた。
「というか僕、鮫村先輩には入部してくれとはお願いしてないと思うのですが……」
「……加賀が辞めるならあたしも辞める!」
「なんでそうなるんですか。僕、関係ないじゃないですか」
「だってあんたが誘ってきたんやし。あんたがおらんのに文芸部に行く意味ないやん」
「え、僕がいるから文芸部に来てくれたんですか?」
「ん?」
「ん?」
鮫村としばらく見つめ合う。やがて言葉の意味を理解したのか、鮫村が真っ赤になって首を振った。
「ち、違う、そういう意味やないから! あんたがヤマナシちゃんに変なことを吹き込まないように! 監視のために入部したからあんたがおらんと意味がないって意味で! へ、変な勘違いするなー!」
「わ、分かってます! 勘違いしませんから!」
バシバシと加賀の腕を叩く鮫村を必死になだめた。
大声でのやりとりは廊下どころか教室にまで響いてしまったようで、教室のドアに身を隠して何人かのクラスメイトがこちらのやりとりを覗いていた。加賀は、遠巻きに眺めているクラスメイトたちのひそひそ話に「修羅場」「別れ話」という単語を聞いて、不味すぎる展開に頭ではなく胃が痛くなってきた。
なおも加賀にすがる鮫村を落ち着かせていると、教室がいっそうざわめいた。何があったのかとそちらの方を向くと、鞄を背中に担いだ辛島がずかずかと教室から出てきて加賀の前で立ち止まった。クラスメイトの好奇の視線がいっそう強くなった。
辛島がじろりと加賀を睨む。
「……来い」
返事をするより先に、辛島が加賀の腕を掴んで歩き始めた。辛島の指がスクールシャツ越しに加賀の腕の肉に食い込む。
「い、痛い痛い! 腕が!」
「こうしねーとお前は逃げるだろうが」
抗議は聞き入れてもらえなかった。緩めるどころか一層強く加賀の腕を握りしめた。それを見て、固まっていた鮫村が慌てて追いかけて来た。
「ちょっと! あたしもそいつに用があるんやけど!」
「後にしてください」
鮫村の抗議に、辛島は歩みを止めずに睨みを返した。うっと鮫村はたじろぐが、すぐに言い返す。
「そいつはあたしの男や!」
「…………」
「…………」
「……ごめん今のはナシで」
後ろのほうでわっと教室が盛り上がっているのが聞こえた。加賀は死にたくなった。それでも何事もなかったかのように加賀を連れて行く辛島は大したやつだと思った。
「おい、ちょっと待て。どこに連れて行く気だ?」
「部室に決まってるだろうが」
「嫌だ。僕は部室に行かない」
「行くんだよ」
「い、嫌だ――」
腹に強烈な一撃が来て加賀はうめいた。辛島が加賀の腹にアッパーを打ち込んだのである。加賀は思わずうずくまるが、うずくまった加賀を引きずって辛島は歩き続ける。あまりの容赦のなさに、怒るよりも恐れるよりも、加賀は笑いがこみ上げてきた。
「お前、昨日の天城結子がどんな様子だったか少しは考えてみろ。お前の家に謝りにも行ったんだぞ。てめえがほっつき歩いてたせいで会えなかったけどな。夜遊びは楽しかったかこの野郎!」
「な、なんで謝りに――」
「そういう人なんだ。てめえが知らないはずないだろうが。辞めるんならせめて天城結子に直接言え。それがケジメだろ。オレや鮫村や森川に対しても」
先輩を呼び捨てにして辛島が言う。後ろからついてきた鮫村もうんうんと頷いていた。
部室には、いつもの席で、いつものように、天城が待っていた。机の角には森川もいる。
「……加賀くん」
部室に入った加賀を見て、天城が名前を呼んだ。しかし、続きの言葉は出ない。加賀が何か言うのをじっとこらえて待っていた。
「ほら、言えよ」
加賀の耳元で辛島が促した。部室に気まずい沈黙が続く。天城は泣きそうな顔で、しかし唇をキュッと固く閉ざし沈黙を守っている。加賀は助けを求めて鮫村や森川を見るが、彼女たちも黙って加賀の言葉を待っていた。
覚悟を決めるしかないようだ。
「その……天城さん」
「は、はいっ」
天城はなぜか敬語だった。隣にいる辛島が息を呑むのが聞こえた。
「ちゃんと言います。僕は、この部活を辞めます」
ぶわっ、と天城が泣きだした。
「ちょ、ちょっと天城さん!」
「う、うううっ、ご、ごめんね、ごめんね……長崎先生から聞いたの……加賀くんは先生に言われて入部しただけだって……本には興味なかったんだよね……そんなことも知らずにわたし、わたし、加賀くんに甘えてばかりで……」
天城はぼろぼろと零れる涙をハンカチで必死に押さえた。どうしていいのかわからず、加賀はうろたえた。
「うっうっ……か、加賀くん」
「は、はいっ」
「加賀くんは……わたしのこと嫌いなの?」
「いえ、そんなわけでは」
「わたし、加賀くんに嫌われたら生きていけない……」
「えっ」と鮫村が言葉を漏らした。誤解を招くような発言だったが本人はまったく気づいている様子がない。嗚咽と涙と鼻水が止めどなく流れてくる。
「別に僕は、天城さんのことが嫌いだから部活を辞めるわけじゃないですからね」
「うっ、うううっ。ゆ、結子って呼んで……」
「結子さんのことが嫌いなわけじゃないですから」
「ひうっ、えくっ……か、加賀くん、わたしのこと好き……?」
「だから、嫌いじゃないですって」
「好きじゃないんだ……嫌いなんだ……うううっ」
いっそう激しく泣き出す。
「……加賀」鮫村が加賀の脇腹を肘で突いた。「はやく言わんと」
「な、何を」
「決まっとるやろ……」
「加賀」辛島が加賀の肩を掴んだ。「さっさと言え」
うううっ、と嘔吐するような天城の泣き声だけが響いた。
森川はいつもと同じ表情で成り行きを傍観していた。加賀は助けを求めて彼女の方に視線を送ったが、何も考えてなさそうな笑顔を返しただけでまったく何の頼りにもならなかった。
「結子さんのことが……好きです」
言った。恥ずかしさで顔が熱くなる。最後の方はかすれるような小声になっていたが、天城の耳にはしっかりと届いていたようだった。まったく現金な女だと加賀は思った。
天城はきょとんと加賀の顔をしばらく見つめた後、
「うん、わたしも」
そう答えて無邪気な笑顔を見せた。
その笑顔を見てほっとしている自分がいた。まったく、やはりこの人は苦手だ、と加賀は思う。背後で辛島の舌打ちが聞こえた。
「ねえ……わたしのそばにいてくれないかな?」
「そんなに僕に退部して欲しくないんですか」
「うん。わたし、加賀くんが好きだから」
どストレートに言われると気恥ずかしい。何故か無関係なはずの鮫村が赤面するくらいだった。自分がどんな間抜け面になっているか、恐ろしくて確認する気にもならない。
「大体、僕なんて入部する必要ないじゃないですか。もうこれだけ部員も揃ったんだし……」
「あのなあ」鮫村が口をはさむ。「部員が四人いないと廃部なんやろ。あたし、ヤマナシちゃん、それに辛島さん。三人しかおらん」
「天城さんを忘れてますよ」
「アホか。顧問の先生は部員に含まれないの」
「まあ、そりゃそうなんですけど」
天城の方を見ると、彼女は何も答えず、ただ困ったように笑っていた。
***
それからいつもの文芸部の活動が始まったが、鮫村たち三人はそれぞれ理由をつけて部室から出て行ってしまった。嘘くさい、あからさまな気遣いである。そうして夕方の部室に加賀と天城が二人きりになった。部室に彼女と二人きりというシチュエーションでここまで緊張したのは初めてだった。
初めて彼女と会ったときのことを思い出す。あのときも加賀は緊張の中にあった。三年生の担任で、担当教科の体育ではいつも女子を受け持っている天城とは、文芸部に来るまでまともに話したことがなかった。美人で童顔の体育教師の噂は二年生の加賀の耳にも届いていたが、その存在が目の前にいたのだ。
二人だけの部室はこんなにも広いのに、相変わらず天城の距離は近かった。
「そういう距離だと男は誤解します。生徒をからかわないでください」
「からかってないよ」天城は加賀の目をじっと見つめた。「誰にでもこんなことするわけじゃないよ」
「……本気なんですか?」
「遊びでこんなことをする女だと思ってるの?」
吐息のような天城の言葉は、普段の彼女からは想像できないほど大人っぽかった。
「加賀くんのことが好き」
「ありがとうございます」
「……返事を聞かせて」
「先生の――結子さんの気持ちには応えられません」
「……そう」
天城が静かに頷いた。
「僕、結子さんのことは好きですよ」
「じゃあ付き合って」
「それはできません」
「どうして?」
「それは、僕が生徒で、結子さんは先生だから」
「もっと自分の気持ちに正直になっていいと思うけど」
「僕の気持ちと、僕がどうするかは、別の問題ですから」
「……ままならないんだね」
「僕の行動を決めるのは僕の気持ちだけじゃないんです。結子さんにだって失うものはあるでしょう」
「いいよ、わたしは。加賀くんと一緒なら……」
「教師の仕事は、結子さんにとってそんなにつらいものなんですか?」
「……どうして?」
「いえ、すみません。ただの思いつきです」
天城は息を飲んだ。じっと目を伏せて、ぼそりと呟いた。
「わたし、嫌な女だね」
「人はいつも後悔のない判断ができるわけじゃありません」
「でも、加賀くんのことが好きなのは本当だよ」
「ありがとうございます」
そのとき、ガタン、と部室のドアの動く音が聞こえた。
思わず天城と顔を見合わせて黙る。耳をすましてみれば、ドアの向こうから人の気配がする。
加賀は忍び足でドアまで近づくと、ドアノブを掴んで一気に開け放った。
「わっ」とすぐ近くで声が聞こえた。ドアの向こうには鮫村と森川、そしてなぜか天城水空がいた。その少し後ろに、辛島が呆れ顔で立っている。
「何やってるんですか」
「ははは……何やろうね」
「森川さん、何やってたんですか?」
「盗み聞きだよ」
「ちょ! ヤマナシちゃん!」
「ていうかなんで天城水空までここにいるんだ」
「あはは。今日は何か進展があるんじゃないかとこのあたりをウロウロしてたら森川先輩に見つかりまして」
「水空っ! そこで何してるの!」天城が悲鳴のような声を上げた。
「あはは……こんにちはお姉ちゃん」
水空はバツが悪そうに笑顔を作って、さり気なく加賀の体に隠れた。
「そ、そんなことより結子ちゃん男の趣味悪すぎやよ!」鮫村が加賀を押しのけて部室に入ってきた。天城に詰め寄る。「こんなやつのことすぐに忘れた方がええって! もっといい男なんてそこら中におるから! 具体的には全人類の半分はこいつよりマシな男やから!」
「でもわたし、義経くんに付き合ってって言われたら付き合うかな。決めるの面倒だし」
空気を読まない森川の爆弾発言に、鮫村は踵を返してとんぼ返りした。
「駄目駄目駄目駄目の駄目! こいつと付き合うのだけは絶対駄目!」
「……お前みたいな節操のない男はろくな死に方しないぞ」遠くから辛島が冷淡に言った。
「別に、節操あるだろ僕は」
「どうだか」
ぷい、と加賀にそっぽを向いた。
「辛島さん、やきもち焼いてるの?」森川が何のためらいもなく言った。
「はあ? 意味分かんねーんだけど」
「私だったら義経くんが浮気しても許しちゃうかなー。私と付き合ったら浮気し放題だね。どう?」
ちら、と加賀の方を見る。
「……べ、別に、付き合いませんからね」
さっきからずっと加賀を睨みつけている鮫村に慌てて弁解した。
「どうするお姉ちゃん。倍率高そうだよ?」
ニヤニヤ笑って、水空が姉の脇腹をつついた。
「そうだね。でもわたし、妹相手にも手加減するつもりないから」
「な、何言ってんの、わたしは別に……」
「ふーん」
今度は天城の方がニヤニヤ笑って妹を見つめた。
「まったく……」
加賀はつぶやいた。気がつけば自分も人間関係の網に取り込まれていた。これでは身動きも取れない。部活を辞めるなんてもってのほかだ。
「加賀くん」
「はい」
天城が唐突に名前を呼んだ。思わずかしこまる。
ふっ、と天城の表情が緩んだ。
「これからもよろしくね」
「……こちらこそ」
そう答える以外に、一体何を答えられただろうか。
結子さんと文芸部の幽霊たち 叶あぞ @anareta
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。