結子さんと文芸部の幽霊たち
叶あぞ
第1話 結子さんの文芸部
第1話 結子さんの文芸部
顔を上げると茶髪の男が席の前に立っていた。ヤンキーではない。担任教師の長崎である。
ホームルームはとっくに終わっている。
「加賀、ちょっといいか」
なおもぼんやりしていると長崎が言葉を発した。長崎は髪を薄茶色に染め肌は小麦色、服はいつも青いジャージで、教壇に立っている姿を見たことがなければ今どきの頭の悪いヤンキーだとしか思わないだろう。
「すみませんが今から帰るので」
「まあそう言うなよ。俺とお前の仲じゃないか」
「つまり無関係ってことですね」
「あっはっは。加賀は冗談が上手いなあ」
長崎は流れるような動きで加賀にヘッドロックを決めた。大して力も入っていないのですぐに解けそうだったが、暴れると面倒なのでされるがままでいた。
教師に限らず他人とほとんど縁を作っていない加賀が、このヤンキー教師とは不思議と気が合うのである。加賀が学校で気安く話せる唯一の相手かもしれない。
「お前にちょっと頼みたいことがあってな」
「頼むのは先生の自由です」
「そうかそうか、引き受けてくれるか」
「先生は一度耳鼻科の診察を受けるべきです。あ、脳外科でしたか」
「いたって健康だっつの。年四回は人間ドックに通ってるんだから」
「え、それ通い過ぎじゃないですか? というか先生まだ二〇代ですよね」
「馬鹿、もう三〇とっくに超えてるわ。それにああいうのは頻繁に受けて悪いところを早めに治さないといけないんだよ。ドックだぞドック。港に年一しか帰らない船なんか怖くて乗れるか」
「なるほど……。僕も今のうちから健康を意識した生活をしないといけませんね。勉強になりました。それでは失礼します」
「おう、気をつけて帰――待て、帰るな。俺の話は終わってないぞ」
教室から出る寸前で引き止められた。加賀は舌打ちした。このまま帰れば有耶無耶にできたのに。
「文芸部って知ってるか?」
「知りませんよ。部活に興味はありません」
嘘をついた。高校に入学した当初は部活動に入ることも考えていた。しかし興味を引くような部活動がなかったのと、部活動に入る決心をしかねているうちに、新入生が入部する期間はあっという間に過ぎ去っていた。
加賀の返事を無視して長崎は続けた。
「まあ本を読む部活だな。部室は部室棟の二階にあるんだが、ずらーっと本が並んでて壮観だぞ。歴代の部員たちが置いてった本だ」
「本を読むなら家で一人で読めばいいじゃないですか。なんだって部活なんかに入ってつるもうとするんですか」
「人は一人では生きていけないのだ」
長崎はしたり顔でそんなことを言った。
「その文芸部なんだが、部員が足りなくてピンチなんだよ。三年は卒業していなくなったし、二年で活動してた奴らも受験があるからって辞めちまった。そして今年は一人も新入部員が入っていない。六月に部活の予算会議があるんだが、それまでに部員が見つからないと廃部だ」
「仕方ありません。人気のない部活は滅びるしかないのです。これ文明の淘汰です」
「廃部になると、歴代の部員たちの善意と叡智の集積であるあの本棚も処分しないといけない。ってことで、何とか力になってくれと頼まれたわけだ」
「相変わらず厄介事が好きですね」
「俺は別に好きじゃない。厄介事が俺を好いているんだ」
「座布団一枚」
「というわけで加賀よ、俺のために一肌脱いでくれ」
「あいにくと厄介事は僕のことを好いてないみたいで。おかげで十六年間トラブルとは無縁の人生を送ってきました」
「嘘つけ、どこが無縁なんだ。去年の室田の件を忘れたのか」
「……今思い出しましたよ」
室田というのは加賀が一年のときに学年主任だった教師だ。加賀自身は特に問題行動をした覚えはないのだが、室田はなぜか無気力で無感動で無表情の加賀をいつも目の敵にしていた。態度が悪いだの意欲がないだのと色々と理由をつけていたが、結局のところ室田は加賀のことがどうしようもなく気に入らなかったのだろう。
当時、いつも室田から加賀をかばっていたのが長崎だった。その室田は今年度から別の学校に移っていた。それに長崎が関わっていたのかは定かではない。
「まあつまり部員を探してるんだよ。規則だと予算会議の時点で『活動実績のある生徒』が四人以下の部活は廃部にされる。というわけで単に名前を貸すだけじゃなくて、ちゃんと文芸部員として活動してもらうぞ。今、部員はぜんぜん来なくなったんだが、
「絶対嫌です」
「他の部員が見つかるまでの間だけでいいんだよ」
「というか六月の会議ってことはもう二ヶ月もないじゃないですか」
「そう。長くても二ヶ月だ」
「それでもお断りします。他を当たってください」
「つってもな、部活やってなくて塾も習い事もやってない暇なやつって言ったらこのクラスに一人しかいないんだよ。それにお前、本とか好きだろ? 休み時間はいつも読んでるし」
それは事実だったが、加賀は特に読書自体を好んでいるわけではなかった。本を読んでいるのは休み時間に話す相手が誰もいなくて手持ち無沙汰だからだ。
「誠に残念ですが辞退します。長崎先生の今後のご健勝をお祈り申し上げます」
「ぜんぜん真心がこもってねえぞ。それに去年、室田のことでさんざん助けてやった恩を忘れたのか」
「あの時さんざんお礼を言ったでしょうが……」
「あのな、礼は形のあるもので返すのが礼儀だ」
「というか仮にも元学年主任の先生なんですから、呼び捨てで呼ぶのはどうかと」
「俺だって『先生』だ。同僚を呼び捨てで呼んで何が悪い」
ふんぞり返って長崎が答える。格式張ったことが嫌いな男なのだ。じゃあなぜ教師になったのだろう、と加賀はいつも思う。
「頼むよ。ただ部室に居るだけでいいんだ。俺が他の部員を見つけてくるまでのつなぎだから」
長崎に対しての負い目がまったくないといえば嘘になる。面倒くさがりではあったが加賀は義理人情というものを理解していた。
しばらく抵抗を続けたが、結局加賀は諦めて長崎の頼みを引き受けることにした。
「さすが俺の生徒だ。大丈夫、悪いようにはしないから」
「悪くする人はみんなそう言いますよね……」
「今日は大丈夫だろ? 今から文芸部に行くぞ。紹介してやる」
「明日じゃダメなんですか?」
「明日じゃお前、どうせ逃げるだろ」
一年も付き合いがあるとさすがにお見通しだった。
長崎は渋る加賀を急かして文芸部の部室へ連れて行った。校舎から渡り廊下を抜けた先に部室ばかりが集まった古い建物がある。教師も含め、校内の人間は部室棟と呼んでいる。文芸部は部室棟の二階にあった。
長崎は軽くノックして、クリーム色の薄汚いドアを開けた。
「あ、いらっしゃい」
のんびりとした女の声が迎えた。長崎に続いて加賀も中に入る。
そこには天使がいた。天使は読みかけの本に栞を挟んで閉じる。
向かいの窓から差し込む日光が彼女の髪を栗色に透かしていた。体格は加賀の同級生の女子たちと比べてもかなり小柄だ。顔立ちは全体的に幼く、年下と言われても違和感がないほどである。
「天城」という名前になんとなく聞き覚えがあると思ってたのだが、実際に彼女を見て加賀は思い出した。同学年どころかクラスメイトの顔さえ満足に覚えていない加賀でも、校内で何度か見かけた天城のことは強く印象に残っていた。これだけ可愛ければ印象に残るなという方が無理だ。
天城は立ち上がると加賀と長崎を見て微笑んだ。
「長崎先生、どうしたんですか?」
「前言ってた文芸部員の補充だよ。加賀義経っつー、うちのクラスの暇人。ま、よろしくしてやってくれ」
「加賀くん? 本、好きなの?」
幼子をあやすような言い方だった。守ってあげたくなるような美人――加賀の第一印象がここに来て覆された。守るのは彼女の方である。
「いえ、あの……僕は……」
色々と噛み合わずに加賀は狼狽する。
「わたし、
「天城セン――」
「『結子さん』って呼んで。よろしくね、加賀くん」加賀の言葉を遮って天城が言った。
「いえ……さすがにその呼び方は……」
「ダメなの?」
天城の表情に憂愁の影が差した。媚びるでなく、甘えるでもなく、純粋すぎる気持ちがにじみ出ていた。
「……妥協点を探しませんか?」
「それじゃあ、『天城さん』でどうかな? 最初はそれで」
「はい……天城さん」
「えへへー」
平和そうに笑った。そのまま駆け寄ってきて手を握られるかと加賀は思った。
加賀は美人が苦手だった。どう接するべきか分からない。性格の悪い美人ならぞんざいに扱いようもあるが、こうも無邪気な美人だとなお持て余してしまう。超高級なガラス細工を手渡された気分だ。自分ではそれをどうすることもできないが、手を離せば粉々に砕け散る。
「おうおう見せつけてくれるな。じゃ、あとは二人でよろしくやってくれ。そのうち次の部員を捕まえてくるからな」
「ダメですよ長崎先生、捕まえるなんて言っちゃ」
「はいはい。……じゃあな加賀。サボるなよ」
長崎は加賀の肩を掴むと天城の方へぐいと一歩押し込んだ。長崎が出ていき、加賀と天城は狭い部室に二人きりになった。
「加賀くん、どうぞ座って」
天城は立ち上がると、部屋の隅に片付けられていたパイプ椅子を広げ、自分の椅子のすぐ隣に置いた。
加賀は言われるまま椅子に腰掛けると、座り直すふりをして天城から少し距離をとった。
「加賀くん、普段はどんな本を読むの? わたしね、最近は八〇年代のアメリカのSFが好きなの。あの時代のSFってとっても前向きで科学や人間を本当に信じてる感じがしてとても勇気づけられるの――」
自分の手を胸元で重ねながら、天城は嬉しそうに話し始める。話に熱が入ると椅子ごと体を寄せてきた。生返事をする加賀。距離が詰まると彼女の甘ったるい香りがより一層強く加賀の脳髄をくらくらと揺らした。
家に帰りたかった。
***
それから加賀は、毎日放課後になると部室で天城と二人きりで過ごすことになった。
文芸部とは本を読む部活である。とにかく本を読むことに没頭していれば天城と二人きりの状況も気にならなくなると思っていた加賀だったがその目論見は甘すぎた。
部室には加賀が先に来ることが多かった。その場合は職員室から部室の鍵を取ってくる。部室で一人天城を待っている短い時間だけが、唯一加賀が心を休められる時間だった。
「ただいま~」
と、のんきな声で言いながら天城が入ってくる。
「どうも」と挨拶を返してから読書の続きに戻ろうとするが、天城は構わず加賀に話しかけてくる。
「ねえ加賀くん、今何読んでるの?」
「国語便覧です」
「わたしあれ好きー。ああいう資料集みたいなのって面白いよね。図鑑系のおすすめといえば――」
「すみません冗談です」
天城が本棚から分厚い宇宙図鑑を取り出したのを見て慌てて謝った。タイトルを忘れたので本の表紙を彼女に見せた。古典SFで、文芸部の棚にあったのを適当に引っこ抜いたのだが、翻訳文体の読みづらさに辟易していたところだった。
「あ、それ! わたしも好きなの。名作だよねー」
好きだとは一言も言っていない。
「……面白くないの?」
天城は泣きそうな顔になった。この程度でいちいち感情が動くというのはさぞ生きにくいだろうと同情する。
「まだ読みかけなので……」
「あ、そうだね。えへへ。失敗失敗。そうだ、あのね、そういう感じの話が好きならねー、えーと、どこだったかな」
立ち上がると本棚に沿ってぐるりと室内を周り三冊ほど選んで取り出した。自分の椅子を持ってきて加賀のすぐ隣に座る。
「はい、これもとっても面白いよ。もしかして読んだことある? まずこの小説なんだけど、月面に宇宙飛行士の死体が見つかったって話で、調査するとこの死体が――」
加賀に本の表紙を見せながら説明する。加賀は生返事をしながら、ときおり自分の腕と天城の体が触れるのを気にしていた。天城の方はまったく気にする素振りがない。話に夢中になっている。
「――だからね、SFが面白いならこっちもおすすめかなって思うよ」
「ありがとうございます」
「加賀くんが今読んでるやつもすごく面白かったよ。最後がとっても感動する展開で……詳しくは言えないけど」
それから一日中、加賀は本を読みながら、天城がちらちらとこちらの様子を伺っているのが気になって仕方なかった。
おそらく天城が言うところの「とっても感動する展開」を読んだ反応を待っているのだろう。仕方なく、それらしいシーンを読んだときにわざとらしく「おお……」などと感嘆の声を上げてみせた。それを聞いて天城は満足そうに微笑む。ちなみにその「とっても感動する展開」のシーンは、安っぽくてとても読めたものではなかった。
文芸部の一日の活動が平均二時間程度で、加賀は最初の一週間で一冊目の本を読み終えた。
読み終えた本を本棚に戻して、天城の方に視線を戻した加賀はぎょっとした。わくわくした表情で天城が加賀を見ていた。
「どうだった?」
「あの……すごく個性的な話でした」
「どんな風に?」
「どんな風にって……その……天城さんが言ってた――」
「結子さん」
「……結子さんが言ってた最後の展開ですとか。自分の身を犠牲にして仲間を守った自己犠牲的なのが……」
「つまり?」
「つまり……あの……主人公が最初忠誠を誓ってて、ストーリーの中で色々あっても最後までそれを貫き通したのが……何というか……そういう愚直さがとっても突き抜けてたなあと……」
「えへへ。最初主人公のキャラがちょっと『あれ?』って思ったんだけど、ストーリーが進むとどんどん感情移入しちゃった。加賀くんはどのキャラが好き?」
「あの……僕は、そうですね、主人公の助手が好きですね」
「どうして?」
「どうしてって、それはあの……えーと……普段はおちゃらけてるのに、実は裏で主人公を守ってるっていうギャップが面白かったです」
「ふーん。加賀くんってああいうタイプが好みなんだ」
「別に僕の好みは無関係――」
「感動した?」
「はい。感動しました」
「どのあたりで感動した?」
「ええと――」
このような調子で読んだ本についての感想を根掘り葉掘り聞かれ続けた。
加賀は読書感想文が苦手だった。どんな高尚な本だろうと、本を読み終えた後に残るのは面白かったとか面白くなかったとか、その程度のことだけだ。そして今はその読書感想文を即興でやらされているようなものだ。ここでもし「感動しなかった」なんて答えた日には人間失格の烙印を押されそうで怖かった。
「そういえばあの本で、主人公のお父さんのエピソードがあったけど、あれって――」
天城は加賀の方にさらに体を寄せた。まったく躊躇することなく至近距離で加賀の目を覗き込む。顔をそらすのも不自然だから、加賀はそれを真正面から受け止めた。椅子の背もたれに擦れる自分の背中がべっとりと汗で濡れているのが分かった。
この点も加賀にとっては非常にやりづらい点だった。とにかく天城は距離が近い。他人との距離感に無頓着なのだろうと加賀は思ったが、ひょっとすると自分のことを路傍の石程度にしか思っていないのかもしれない。
もちろん加賀たちは毎日読書ばかりをしていたわけではない。ときには新入部員の勧誘活動にも精を出すことがあった。
「加賀くん、ただいま~」
ある日、のほほんとした声で部室にやってきた天城の手には、筒状に丸めた紙があった。
「どうしたんですかそれは」
「ふふん。ポスターを作ってみたの。新入部員歓迎って」
胸を張って答える。幼女が威張っているみたいで可愛いが、年上である。
天城がポスターを机の上に広げた。
「これは……」
「どう?」
「その………………個性的、ですね。い、色使いとか」
「いわゆるフォーヴィスム? とかいうのをやってみたの」
「これは下書きですか?」
「ううん。ちゃんと清書したよ」
「……そうですか」
「え、どうしたの? なんでそんな死にそうな顔してるの?」
「線がぶれまくってるような」
「いわゆるキュビズム? 的なものに挑戦してみたの」
「『いわゆる』が多いですね」
「文学って、過去に生きた人の知恵や魂をよみがえらせるものだと思っているの。そういう姿勢をアピールしようと思って」
生兵法は怪我の元、という言葉が浮かんだ。
「どう思う?」
「良いとは思いますが、あまり個性的すぎるのも考えものです。もう少し個性を落として、事務的な感じで作れないでしょうか」
「いわゆる写実主義、みたいな?」
「イラストを入れる必要はないのでは……」
「そうかなー。こういう可愛らしいモチーフがあった方が、女の子とかは来てくれるんじゃないかと思ったの」
「……可愛らしいモチーフ」
「そう。わたし、熊さん好きなの」
「…………熊か」
「熊は嫌い?」
首をかしげてポスターを自分の前に掲げる天城。角ばった線と原色で塗りつぶされた名状しがたいものがポスターの中で暴れていた。熊の凶暴さを表現するという意味では確かに成功しているかもしれない。
結局天城のアイデアは加賀の反対でお蔵入りとなった。あんなポスターを張り出せば六月どころか未来永劫誰も来なくなるだろう。
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