第6話 ステップとバー



 翌朝のホームルームの終わり、加賀は教室から出ていく長崎を呼び止めた。


「先生、ちょっとお話が」

「あ? それじゃ、職員室でいいか?」

「職員室はちょっと。万が一にも聞かれたくない話なので」


 加賀の言葉で文芸部のことだと察したのか、頷いて加賀を空き教室に連れて行った。

 ドアが閉まっているのを確認してから加賀が用件を切り出した。


「文芸部を辞めようと思うんです」

「部員が戻ってきたからか?」

「知ってるんですか?」

「今朝職員室で聞いた。あと三年の鮫村も新しく入ったらしいな。一体どんな悪どい手段を使ったんだ?」

「ただ腹を割って話しただけですよ」

「また部活に来なくなったらどうするんだ?」

「そこまでは責任を持てません」

「じゃあお前の責任って何なんだよ」


 冗談半分での長崎の返しだったが、加賀は返答に詰まる。幸いにもそれには気付かずに長崎は話を続けた。


「んで……それを俺に言うってのは」

「まあ、そういうことです」

「直接天城に言うのは気まずいってか?」

「元々この話は長崎先生が僕に頼んだことですからね。終わるときも長崎先生に言うのが筋でしょう」


 もっともらしいことを言ったが、実際、長崎の言うとおりである。

 長崎は気まずそうに頭を掻いた。加賀が部活を辞めることについて考えているのかと思ったが、そうではないらしい。


「なんか、悪いな。結局俺は部員を一人も引っ張って来れなかった。この時期に部活に入ってない暇人でかつ押しに弱いお人好しはお前以外に見つからなかった」

「先生は謝り方をご存じないようですね」

「あんまり経験がなくてな」


 本当に神妙な顔をしたので加賀は笑ってしまいそうになった。別に責めているわけではない。


「幽霊部員がいることは知らなかったんですか?」

「天城からは何も聞いてない」


 そうだろうなと加賀は思った。自分の周りに起きたあらゆる不幸の原因を自分に探すような人だ。

 自分が部活を辞めることを知ったら天城はどう思うだろうか。想像しようとして、すぐに打ち切った。


「まあ、退部手続きとか、そういう面倒なところはお願いしますよ。入部のときだって先生がやったんだし」

「辞めることはないんじゃないか」

「でも今辞めないと、もうずっと辞められなくなりますから」

「別にいいじゃねえかよそれで」

「読書が嫌いなもので」


 嘘を吐いた。もちろん、長崎は納得した表情ではなかったが、それ以上の追求はなかった。


「……分かった。天城には俺から伝えておく」


 チャイムが鳴った。加賀は一礼して、長崎と別れた。

 その日の放課後は部活には行かなかった。幸いなことに辛島は授業をサボっていたので教室で顔を合わせることもなかった。高校に入学してから一年以上、授業が終わればこうしてまっすぐ家に帰っていたはずなのに、今日はなぜだかそれがとてつもなく後ろめたく感じられた。

 どうしてもこのまま家に帰る気になれなかった。加賀は家の方向ではなく駅前の繁華街へと向かった。


 平日の夕方だというのに街は腹が立つほど賑やかだった。目的もなく街を歩く。なんとなく本屋に足を運ぶ。平積みになっている本のタイトルに見覚えがあった。ポップには店員の美辞麗句が並んでいた。天城に薦められて読んでみたらまったく面白くなくて、感想を聞かれてとても困ったのを思い出した。


 本屋では何も買わず、加賀はまた街を歩き始めた。目的地もなく歩いていると、何か目的を見つけないといけないような焦燥感が沸き上がってくる。落ち着けない。

 加賀は目についた喫茶店に入った。一度も入ったことのない店だったが、中はまったく特徴のないごく平凡な喫茶店で、仮に入ったことがあってもこれならすぐに忘れてしまうだろうと思った。窓際の席を選び、注文したオレンジジュースを飲みながら通りをぼんやり見ていた。


 夜が深くなる。オレンジジュースはとっくに飲み干して、氷が溶けた水も残らず飲み干して、もう一杯飲む気にもなれず、会計を済ませて店を出た。

 一体自分は何をやっているんだと加賀は思った。一体何から逃げているのだろう。どうしてこんな、現実逃避のような真似をしている?


 ゲームセンターの中に入る。一瞬で音の洪水に飲み込まれた。しかし加賀はゲームセンターで遊んだことなどほとんどない。加賀に分かりそうなゲームはクレーンゲームくらいしかなかった。小銭を入れてクレーンを動かす。と言っても景品が欲しいわけではない。結局加賀は、クレーンを千円分動かしただけだった。


「あれ? 義経先輩じゃないですか」


 聞き覚えのある声に振り返ると、天城水空が立っていた。




 ***


 水空の軽やかなステップを眺めていた。

 音楽に合わせて床のパネルを踏むゲームで遊んでいた。加賀は順番待ちのためのベンチに座りそれを眺めている。と言っても自分の順番を待ってるわけではない。周囲には水空以外にこのゲームをやろうというプレイヤーは見当たらず、それをいいことに彼女はもう三回連続でコインを投入していた。

 汗をハンドタオルで拭いながら水空が戻ってきた。


「先輩もやりませんか? 体動かすと気持ち良いですよ」

「僕にあんな器用な真似はできない」

「わたしが教えますよ。一緒に汗を流しましょう。体を激しく動かして気持よくなるんです! あ、言い方ちょっとエロくないですか? ないですか?」

「え、何言ってんのこの人」

「マジトーンで返されると恥ずかしいです。ただのジョークです」

「下ネタOKなんだ」

「すみません今めっちゃ反省してます」


 夜も深くなると、ゲームセンターで遊んでいる他の客の雰囲気が、少しずつ清純さを失っていった。

 水空は自動販売機で炭酸飲料のボトルを買うと一息で飲み干した。吹き出した汗をもう一度拭う。


「どこか行きたいところありますか?」

「唐突だね」

「希望ないなら適当にファミレスどかどうですか?」

「……何で?」

「あ、嫌なら別にここで解散でも」

「嫌じゃない。付き合うよ」


 本当は、付き合ってもらったのだ。

 水空の後ろについてゲームセンターを出る。県道沿いにしばらく進むとファミリーレストランの煌々とした看板が見えた。

 店に入ると店員がやってきた。禁煙席で二名だと水空が告げる。店内はガラガラだった。制服の男女二人が顔を突き合わせて座るのは、少し目立ちすぎるだろうか。

 ソファに座っていると、水空がセルフサービスの水のコップを二つ持って戻ってきた。何から何まで水空に任せきりだった。


「先輩先輩、ゲーセンはよく行くんですか?」

「まあ……たまに」

「誰と来るんですか? ……あ、今の感じはさり気なく浮気を問い詰める恋人みたいで良いですね」

「一人だよ」

「わー」


 手のひらを口に当てて、平坦な声を出した。


「何だよその、『わー』ってのは」

「何でもありません。ただの呼吸音です」

「それ、呼吸のたびに誤解されて大変だな」


 店員が注文を取りに加賀たちの席にやってきた。


「あの、ご注文は――」

「ドリンクバーひとつ」

「ドリンクバーとチキンドリアひとつ。あとフライドポテト」


 二人は食い気味に、互いの顔から視線を外さずに即答した。

「ご、ごゆっくり」と、困惑気味の店員がテーブルから離れた後も、加賀と水空は眉一つ動かさなかった。


「ドリンクバー、わたしが取ってきましょうか?」

「悪いよ」

「でもでも後輩ですし」

「悪いね」

「ところでドリンクバーって色々混ぜて飲みたくなりますよね」


 立ち上がった水空の手首を掴んだ。


「……強引な男の人って素敵です」

「待て。今聞き捨てならない言葉を聞いたんだが」

「コーラと烏龍茶が結構合うんですよ。香ばしくて。炭酸が薄くなっちゃうのが残念ですけど。わたしのお好みで砂糖と塩を入れてきます」

「何でお前の好みで入れるんだよ。飲み物は僕が入れてくるからお前はそこに座ってろ。水でいいな?」

「やですよ。なんでわざわざ金払ってお冷縛りですか」

「お前にドリンクバーを使う資格はない。一〇年早いわ」

「わー。わたし今まで生きてきてそんなこと言われたの初めてです」

「僕もこんなこと言ったの初めてだよ」


 結局二人でドリンクバーに行ってきた。色々あって、本当に色々なことがあって、二人がテーブルに戻ったころにはフライドポテトとドリアが先に到着していた。


「ドリンクバーのミックスってやったことないですか?」

「またその話題か」

「コンビニで売ってたら絶対に買わないですけどね。コップ一杯だし、おかわりし放題だから、ついやっちゃうんです」


 水空はドリアを咀嚼すると、烏龍茶のコーラ割りコーヒー風味野菜ジュースミックス塩テイストをストローで啜った。一瞬だけすごい表情になったが、すぐに満面の笑みに戻る。人の意志の力は偉大である、と加賀は思った。だから自分がココアのアールグレイ風味ファンタメロンソーダ割りガムシロップ添えを飲んでも表情に出すのは何とか我慢した。


「子供みたいだね」

「ですねー」


 水空はなぜか嬉しそうに笑う。

 しばらく当り障りのない会話を繰り返した。せっかくこんなところまで来たのに、水空はなかなか本題に入らなかった。いや、そもそも本題なんてあるのだろうか。

 そう思っていた矢先、唐突に水空の方から話題を変えた。ドリアを食べ終えて決心がついたのか、これ以上の時間稼ぎは不可能だと感じたのか、どちらなのかは分からない。


「何かあったんですか?」

「何もない人間なんていないだろ」

「わー哲学的」

「……それも呼吸音?」

「今のは皮肉です。……何があったのか聞いてあげましょうか?」


 びっくりするほど優しい声色だった。それで思わず、皮肉交じりの返事をするでもなく、誤摩化すでもなく、ここ数日のうちに文芸部で起きた出来事を、自分がやってしまったことを、素直に水空に打ち明けた。まるで懺悔するかのように。


「それで、先輩は何をそんなにやさぐれていたんですか?」

「やさぐれてない」

「ほんとに?」

「別にやさぐれてねえよ。楽しくて楽しくて、仕方ないから一人遊びだよ」

「そういえば、部活辞めるって言ってよくお姉ちゃんが納得しましたね」

「そりゃ、まだ言ってないからね」


 水空が表情を崩した。


「うわぁ……お姉ちゃん、絶対がっかりしますよ」

「そうかな。他に部員を三人も連れてきたんだし、十分だろ」


 突き放すような言い方になってしまった。水空が口角を伸ばしてかすかに笑った。


「もしかして、やさぐれてるのってお姉ちゃんが原因だったりします? お姉ちゃんと何かあったんですか?」

「別に、何もないよ」

「お姉ちゃんに何か言われたとか」

「例えば?」

「その……例えば……いえ、何もないなら、わたしの勘違いです」

「何だよ。気になる言い方だな」

「あはは。忘れてください」

「言えって。別にいいだろ。もう僕はあの人とは無関係なんだから」


 加賀は自分の言葉の意味するところに、その空々しさにぞっとする。


「……お姉ちゃんに『好き』って言われたとか」

「はあ?」

「やっぱり何でもないです忘れてください!」


 水空は早口で言って、加賀の目の前に両手を向けた。しばらくそうしていたが、そろりと両手を膝の上に戻す。


「何だよ、それ……。何であの人が、僕のことを。あり得ないだろ」

「先輩、お姉ちゃんと一緒にいて何も感じなかったんですか?」

「……嫌われてるわけじゃないとは思うけど」

「それだけですか?」

「それだけだよ。何を期待してるんだ」

「最近、家に帰ってきたお姉ちゃんがずっと浮かれてるんですよ。あんなの初めて見ました。ひょっとしたら毎日先輩と一緒にいるからかな……なんて」

「じゃあ本人から直接聞いたわけじゃないんだな」

「そうですけど、見たら分かりますよ。ただの部員としか思ってないなら、放課後にデートになんか行きません」

「デートじゃねえよ。単にお茶を飲みに行っただけだ。っていうか何で知ってるんだ」

「お姉ちゃんが嬉しそうに教えてくれましたよ。それ、男女が二人でお茶を飲むのは一般的にはデートって言いますよ」

「じゃあこれもデートなのか」


 加賀がそう言うと、水空は言葉をつまらせて俯いた。ほんのりと顔が赤い。それを見ていると加賀も釣られて気恥ずかしくなった。


「も、もとい」加賀が仕切り直す。「あの人が浮かれてたのは文芸部に部員が入ってきたからだろ。別に僕じゃなくても同じはず。大体、なんで僕に惚れるんだ。そんなきっかけなかったぞ」

「義経先輩はどうやって人を好きになるんですか?」


 水空はすぐに切り返してきた。自分の初恋はいつだっただろう、と加賀は考えた。忘れもしない、小学生のときにクラスメイトに惚れたのである。別に、加賀とそのクラスメイトの間に交流があったわけではなかった。ある日加賀は唐突にその恋を自覚したのだ。彼女のことを思い出すと未だに平静でいられなくなる。加賀にとっては苦い記憶だ。


「……あの人は、どんな人を好きになるんだろうな」


 他人事のように言葉を漏らした。今考えなければいけないのは、天城のことだ。


「先輩は、お姉ちゃんのこと、どう思ってるんですか?」

「それは――」

「くだらないボケをかましたら怒りますよ」


 水空が怒る姿を想像した。それはあまり見たくないなと加賀は思った。なので素直に答えることにした。


「好きだよ、本当に……。優しいし、健気だし、偉ぶらないし。子供っぽいところも……良いと思う」


 言葉にしてから猛烈に後悔し始めた。顔が熱い。飲み物を飲むふりをして視線をそらす。加賀の口の中で強烈な味が暴れ回った。落ち着くのを待ってから顔を上げると、水空の方も真っ赤になって飲み物を啜っていた。


「そんなにはっきり自分の気持ちを解ってるなら、何を悩んでるんですか」

「お前だって知ってるだろ。僕たちの間には壁が多すぎる」

「それじゃ……代わりに、わたしなんてどうですか?」ふざけた調子を装って、水空が小さく首を傾けた。「先輩ならわたし、いいですよ。お姉ちゃんとならハードル高いけど、わたしとなら――」

「何言ってんだよ。つまらない冗談だ」

「……あはは。ちょっとネタとしては弱いですかね」

「出直して来い」

「さすが、先輩は評価が厳しいですね。先輩みたいな人と付き合う人は大変ですね」

「何言ってやがる、これでも僕は他人にはめちゃくちゃ評価が甘いんだよ」

「えー、嘘っぽいですよそれー」


 水空が笑った。加賀も付き合いで笑顔を作った。虚ろな会話が交わされる。それからもしばらく二人は話していたが、この夜にそれ以上天城の話題が出ることはなかった。

 会計を済ませて、ファミレスの前で別れる。ここで別れることを話し合ったわけではなかったのに、二人の間には自然とそのことへの合意が形成されていた。


「それじゃ、先輩」

「おやすみ、妹」


 軽く手を上げて水空と別れた。

 家に帰ると母親が加賀を呼び止めた。


「なんか夕方くらいにあんたに会いに先生が来たんだけど」

「先生? 何で?」

「まだ帰ってないって言ったらじゃあいいですって。あんた何かやらかしたの?」

「心当たりはないなあ」


 そう答えても母親は不安そうだった。

 自室に戻ってからも加賀は考えた。

 はて、一体誰が自分に会いに来たのだろう。


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