第3話 自分の気持ちが信じられないんですか?


 翌日、加賀は上の空で授業を聞いていた。今日も辛島は学校に来ていない。出席日数の規定を加賀は思い出せなかったが、この調子でちゃんと進級できるのかと他人事ながら心配になる。

 黒板ではなく窓の外を見る。ひどい土砂降りだった。授業よりも雨音に耳を澄ます。

 考えていたのは部活のことである。ここのところずっとそればかりを考えていた。

 森川の説得に失敗した。あの様子では粘り強く説得したところでどうこうできそうな感じがしない。

 そもそも森川は文芸部にも陸上部にもまったくこだわりがなさそうだ。だったら森川のそばにいる鮫村を何とかすれば良さそうだが、それこそ無理難題だった。

 いっそまったく別の新入部員を探そうかと思ったが、学校で唯一仲の良い相手は教師の長崎である。


「友達……少ねえ……」


 そこに目を向けると死にたくなったのでもう考えないことにする。

 次は理科室で物理の授業だった。ゾンビのように自動的に教科書とノートを取り出すと、休み時間のうちにさっさと移動を始めた。

 廊下を歩いている途中、すれ違った女子の顔を横目で捉えて、驚愕した。足を止めて振り返る。その後ろ姿に声をかけた。


「あ、天城……さん?」

「はい?」


 彼女が振り返った。天城結子がそこにいた。……ように、加賀には見えた。


「あの、すみません。わたしに何か?」

「いえ……あの……すみません。人違いでした」

「え、でも、さっき天城って――」


 女生徒が戸惑いの目を向けた。加賀だって、彼女以上に戸惑っていた。

 正面から改めて彼女の顔を見ると、よく似てはいるが天城結子とは別人だった。顔の造形と声は本当に瓜二つなのだが、雰囲気というか、話し方や立ち振る舞いが天城よりも幾分か世間擦れしているように感じられた。そもそも、彼女が着ている制服を見れば天城結子より年下であることは明らかだった。あのリボンの色は一年生だろう。

 彼女はやがて何かに気づいたのか納得した表情を見せた。


「ひょっとしてお姉ちゃんと間違えたんですか? よく間違えられるんです」

「お姉ちゃん?」

「わたし、一年三組の天城水空(ああまぎみそら)です」

「ああ、あの人の――」

「はい。妹です」


 にっこりと微笑んで答えた。こういうところは確かに姉にそっくりだと加賀は思った。笑顔が、というよりは、初対面の上級生にも無差別に笑顔を向けるそのメンタリティが。


「あの、先輩は……?」

「名乗るほどの名前はないよ」

「あ、じゃあわたしが名前つけてもいいですか?」

「君、ほんとにお姉さんに似てるよね。……二年一組の加賀義経です」

「加賀先輩、格好良いですね。あ、顔のことじゃなくて名前ですよ?」

「君、お姉さんよりも失礼だね」

「えへへ」


 なぜか照れ笑いした。姉よりも度し難い。


「じゃあわたしのことは水空って呼んでください」

「『じゃあ』って何、『じゃあ』って」

「うーん、接続詞でしょうか」

「繋がってねえよ」

「わたし国語は苦手なんです」

「じゃあ何が得意なの?」

「えーと、後ろ回し蹴りとか」


 オス、と小さく言って、なぜかボクシングの構えをとった。もう滅茶苦茶だ。


「ところで加賀先輩に質問があるんですけど。お姉ちゃんとはどんな関係ですか? ただならぬ関係ですか?」

「ただの文芸部つながりです」

「へえ。加賀先輩、文芸部員なんですか」

「『へえ』って何、『へえ』って」

「あまり教養がなさそうな顔をしてるので。あ、でも名前は格好良いですね義経先輩」

「それじゃあさようなら天城妹。もう会うことはないだろう」

「そうですね。次に会ったときはわたしたち、他人ですね」

「次というか今回も他人だろう。じゃあな水空」

「はい。失礼します」


 彼女は最後だけ後輩らしく、先輩に一礼して去っていった。

 その日の放課後も、加賀は逃げずに文芸部の部室に向かった。午前中に天城水空と会ったせいで、部室に行く前からすでに疲労感が高まっていた。

 今日は天城よりも早く部室に到着した。鞄を置くと、本棚から適当な本を抜いて真ん中から流し読みする。特に興味のある本ではなかったが、加賀が巻末の解説を読み終えたころになってもまだ天城は部室に現れなかった。

 もしかして今日は来ないのかと思い、拍子抜けした加賀が本棚に本を戻した矢先、息を切らした天城が部室に飛び込んできた。

 今日の天城は珍しくジャージ姿で、肩にはスポーツバッグをかけていた。中はおそらく着替えだろう。髪は乱れ、額には玉のような汗が浮かんでいる。


「遅れてごめん! 三年の六時間目がバスケットボールで体育で、片付けしてたら校長先生が来て、話したりボール片付けたりしてたら体育倉庫の鍵を取りに行って――」

「もしかして走ってきたんですか?」

「そしたらホームルームのあとにも色々頼まれちゃって、いけないこんな時間だって加賀くんを待たせちゃだめだと思って――」

「大丈夫です。落ち着いてください。何か買ってきましょうか?」

「う~、ありがとう。炭酸以外なら何でもいいから……」

「炭酸飲めないんですね……」


 さもありなん、と思った。

 加賀は鞄から財布を引っ張り出して、自販機が置いてある学生玄関まで行った。最初は自販機の中で一番安い外国産ミネラルウォーターを買おうと思ったが、ひょっとすると失礼に当たるかもしれないと思い直して、それよりも少し値段の高い有名ブランドの緑茶を買って帰った。

 遠慮なくドアを開けたのが悪かった。

 天城は部室の奥で、ドアの側に背を向けて着替えている最中だった。背中にブラジャーのベルトが見えた。ドアを開けたのに気づいて天城が振り返る。


「ひ――」

「失礼しました!」


 天城が何か言う前に慌ててドアを閉めた。

 加賀の心臓がハイペースに脈を送っていた。一瞬とはいえ女性の下着姿を見たのは初めてである。言い訳をするみたいに、加賀は両腕で部室のドアをしっかりと押さえつけていた。

 自分の行動に落ち度がなかったか点検する。ノックをせずにドアを開けた? しかし部室を開けるのにノックをしたことなど一度もない。大体なんで着替えてるんだ? 慌てて部室に来たから着替える時間がなかったのか。だとしても部室で着替えるなど非常識ではないか。ドアには鍵がかかるのにそうしなかった天城の落ち度だ――と加賀は心の中で自分を必死に弁護する。


「……加賀くん?」


 中から天城の声が聞こえた。

 入るのに躊躇していると、内側からドアを控えめにノックする音が聞こえた。

 覚悟を決めて部室に戻ると、顔を赤くした天城が椅子に座って出迎えた。


「さ、先程は失礼しました……」

「う、ううん。不注意だったわたしが悪かったんだし……。気にしないで」


 加賀が頭を下げると天城が慌てて言った。天城からは制汗剤とシャンプーの香りがした。


「そ、そういえば、今日は天城さんの妹さんに会いましたよ」


 気まずい空気を誤魔化すために話題を変えた。

 ああ、と天城が頷く。


「水空ちゃんに会ったんだ。変な子でしょ? 加賀くんに失礼なこと言わなかった?」

「天城さんそっくりでしたよ」

「それってどういう意味ー? あと、『天城さん』じゃなくて『結子さん』って呼んで」

「水空さんは文芸部に誘わないんですか?」

「ふーん、水空のことは名前で呼ぶんだ」


 天城の笑顔が強張った。加賀は慌てて弁解する。


「む、向こうが名前で呼んでくれって言ったんですよ」

「わたしだって名前で呼んでって言ってるのに――」

「いや、水空さんと天城さんじゃぜんぜん――」

「『結子』!」


 駄々をこねるように言った。


「……結子さんはどうして水空さんを文芸部に誘わなかったんですか?」

「妹はあんまり本は読まなくて。今は吹奏楽部でね、クラリネットをやってるの。素人のわたしが聞いても下手くそだって分かるくらいなんだけどね。……入学したときに文芸部に誘ったんだけど、毎日本を読むって言ったら逃げられちゃった」笑いながら答えた。「えっと、ところで……」

「森川先輩ですか?」

「うん。どうなったのかなって」

「失敗しました。あとちょっとのところだったんですけどね」

 加賀は包み隠さず、昨日の出来事をありのまま天城に話した。話し終わったとき、天城がわずかに安堵した表情を見せたのを見逃さなかった。

「あまり残念そうじゃないですね。もしかしたら文芸部に戻ってきてくれたかもしれないのに」

「そんなことないけど……うん、でも加賀くんが森川さんに無理強いするようなことがなくて良かったなって。あ、いや、でも加賀くんがそういうことをしそうって意味じゃなくて、あの」

「いえこちらこそ、変なことを言ってすみませんでした。……森川先輩ってどういう人なんですか?」

「加賀くんはどう思った?」

「そうですね。かなり変な人ですね」

「女の子にそういうことを言うのは失礼だよ」

「じゃあ結子さんにはあれが普通に見えるんですか」

「個性的な子だよね」

「同じじゃないですか」

「一年のときには文芸部だけじゃなくて色んな部活を掛け持ちしてたみたい。ああいう性格だから、頼まれたら全部の部活に入ってたみたい。文芸部に来たのも、多分わたしが誘ったから……」

「だとしても、それを引き受けたのは森川先輩の意思でしょう」

「そうなのかな。……そうだといいんだけど」

「何をそんなに後悔してるんですか?」

「後悔?」


 天城は自分の頬に手を当てた。自分の表情を確かめようとしているみたいに見えた。


「後悔は……ないと言ったら嘘になるけど。あのね、森川さんが来なくなったのにも森川さんの事情があると思うの。だから無理に呼び戻したりはしたくないし……それに、もし文芸部が嫌になったんだとしたら、それはきっとわたしのせいだと思うから……」

「森川先輩は文芸部のことを嫌ったりしてないと思いますよ」

「そうかな? ありがとう」


 天城は礼を言ったが、別に慰めを言ったつもりはなかった。

 森川の主体性のなさは常軌を逸している。何かを嫌うとか好むとか、そういう感情で行動することはありえない。

 では森川の行動原理は一体なんだろう。他人の言葉に自分のすべてを委ねられる人間なんているのだろうか。

 ではこの僕はどうなのだろう、と加賀は自問した。自分は何のために文芸部を復活させようとしている? そのどこに自分の意志がある?

 森川と自分の違いは一体なんだろう。


「……加賀くん、どうしたの?」


 不思議そうな顔で天城が尋ねた。


「僕と森川先輩って、もしかして似たもの同士なんでしょうか?」

「どうして?」

「なんとなくですけど」

「加賀くんと森川さんはぜんぜん違うよ」

「そう見えます?」

「うん。加賀くんはねー、とっても優しくって、しっかり者だよ」


 一点の陰りもない表情で言い切られては、茶化しようもなかった。




 ***


 その日、加賀は朝から異常を感じていた。

 頭が少し痛い。今の時点で体調はそれほど悪くはなかったが、喩えるならば脳の最奥にある導火線がじりじりと燃えている感覚である。体調不良を予感して、アスピリンを飲んでから学校に向かった。

 学校に着いてからも散々だった。現国の授業では宿題のプリントを家に忘れたせいで教師からなじられ、昼休みには弁当も家に忘れてきたことに気がついた。

 仕方がないので財布を持って食堂へ行く。加賀はこれまで食堂を利用したことはなかったが、入学時のオリエンテーションでその存在と利用方法は知っていた。

 食堂の入り口にメニューが貼ってあった。思っていたよりも品揃えは豊富だったが、どの料理を想像しても加賀の食欲はまったく刺激されなかった。結局、一番体に負担が少なそうなきつねうどんを購入する。

 トレイにうどんを載せて食堂を歩く。テーブルの列がいくつも平行に並んでいた。注文を決めるのが遅かったせいでほとんどの席が埋まっている。

 空席を探してると、食堂の中央付近に森川海華が一人で座っているのを見つけた。加賀は別の場所へ行こうと思ったが、そのときちょうど顔を上げた森川と目が合った。

 今はあまり人と話したくなかったが、このタイミングで逃げるのも無礼だと思い、森川に近づいて挨拶をした。


「……どうも」


 加賀の葛藤などいざ知らず、森川は咀嚼していたものを水で流し込んで「やあ」と軽く返事を返した。


「鮫村先輩と一緒ですか?」

「ムラサメちゃんは委員会の仕事だよ。今日は私一人だけ。今なら何でも命令し放題だねー」


 せっかくの危険なジョークに加賀も何か小粋な返事をしようと思ったのだが、それを考える余裕も今はないことに気がついた。

 森川の周りの席は空いていた。他の席を探すのも面倒なので、加賀は彼女の斜め向かいの場所に座った。

 特に会話もなく黙々とうどんを食べる。話しかけられたら応答するつもりでいたのだが、森川も一人で黙々と食事を進めていた。


「せんぱーい、ここいいですか?」


 呼ばれて顔を上げると、天城水空がトレイを持ってテーブルの向かい側に立っていた。返事を待たずにトレイを置いて席に座る。


「ミニ天城?」


 隣に座った水空に、森川が言葉を漏らした。


「妹さんですよ。文芸部員じゃないですけど」


 加賀が紹介すると、水空が驚いた顔で森川と加賀を見た。


「あ、すみません。もしかして二人で食べてましたか?」

「いや。一人と一人だよ」

「え、知り合いじゃないんですか?」

「友達だよー」


 加賀が返答する前に森川が答えた。


「でも先輩たち、ぜんぜん喋ってなかったし、目も合わせてなかったですけど……」

「加賀くん、私たち友達だよね?」

「それはどうでしょう……」

「違うみたい」あははは、と森川は水空に笑顔を向ける。「ところで、君たちこそどういう関係?」

「義経先輩、わたしたちの関係って一体何でしょう?」

「他人だろ」

「恋人のような他人ですか」

「どんな関係性だ」

「天使のような……悪魔の笑顔?」

「妹さん、詩人だねー」


 元ネタを知らないのか森川は無邪気に水空を賞賛した。水空も「えへへ。実はわたし、ギンギラギンにさりげなく作詞家を目指してるんです」などと平気で人の仕事を横取りしている。もはや突っ込むのも面倒だ。


「いいからさっさと食べろ」


 加賀が急かすと、水空は思い出したようにカレーを食べ始めた。

 最初に食べ終わったのは加賀だった。というよりは途中で食べるのをギブアップした。一人で先に立ち去るのも薄情な気がして、二人が食べ終わるのをぼんやり待つことにした。

 加賀に気を使ったのか、水空は流し込むようにしてカレーライスを一気に平らげた。一番先に食べ始めていた森川は気にせずマイペースに食事を続け、水空が食べ終わったのと森川が食べ終わったのがほぼ同時だった。


「ごちそうさまでした」


 森川のひとりごとを合図に三人はトレイを持って立ち上がった。三人並んで、カウンターに食器を返却する。

 加賀は食堂から出て行く森川に声をかけた。


「先輩、文芸部に来てくれませんか?」


 森川は振り返った。その拍子に黒い髪がふわりと舞う。加賀に笑顔を見せた。


「そのためにはムラサメちゃんを説得するんだね。勝手に文芸部に行っても、どうせムラサメちゃんが連れ戻しに来る」

「言いなりなんですね、鮫村先輩に。そこまであの人に義理立てする理由は何ですか?」

「別に義理なんてないよー。もちろん加賀くんにもね」

「じゃあどうして――」

「『陸上部に入りませんか?』と誘われたから『入ります』と答えただけだよ。『文芸部に戻ってきませんか?』と誘われたから『戻ります』と答えただけ。受け入れるには義理が必要?」

「普通はそう簡単じゃありませんよ」

「じゃあ加賀くんが文芸部に入ったのは簡単な理由じゃないんだ。どんな弱みを握られたの?」

「今は僕の話はどうでもいいんです。森川先輩は自分の意思で何かを決めようとは思わないんですか?」

「受け入れてるのは私の意思なんだって。誰かに強制されたわけじゃなくてね。進んで人の言いなりになってる人間は気に入らない?」

「気に入らないとは思いませんが理解不能です」

「あはは。前にヤマナシちゃんからも同じことを言われたなー。…………まあ別にいいけど」


 表情を変えずに一言付け足した。加賀には森川の感情が読めない。鮫村が理解不能と言ったのだとしたら、想像を絶する森川の主体性のなさだけが理由ではないだろう。


「加賀くん、このあと暇? どこかでちょっと話さない?」


 森川の誘いだった。あらゆる人の言いなりになる森川が、加賀の前で何かを提案したのはこれが初めてだった。迷うことなく受諾する。


「あのー、それじゃあわたしはこれで」


 成り行きを見守っていた水空が一礼して一人先に食堂から出て行った。

 加賀と森川は学生玄関まで歩き自動販売機で飲み物を買った。森川が先にりんごジュースを買い、加賀は本当は何も飲みたくなかったが、間を持たせるためだけにミネラルウォーターを買った。

 森川は窓際に寄りかかって紙パックのストローに口をつける。

 玄関前の廊下に人の姿はまったく見えなかった。この時間に玄関に用のある生徒は少ないだろう。


「さっきも言ったけどね、私は自分の意思で周りの人間の言うことに従ってるんだよ。加賀くんでもムラサメちゃんでも誰でもいいし、何をしてもいいって思ってる」

「それじゃ、今すぐここで服を脱げと言ったら先輩は脱ぐんですか?」

「うん。今日は良い天気だし、裸になってみるのも悪くないかな」

「冗談ですよ。……いや本気にしないでください!」


 廊下に落とした制服の上着を慌てて拾い上げた。特に残念そうな素振りもなく森川は素直に制服を身につけた。ピンク色のブラジャーが加賀の脳裏にしっかりと焼き付いていた。


「なんでそんなに人の言いなりになるんですか。普通、そこまでは――」

「だからー、言いなりになってるわけじゃないんだって。人に色々言われると、ああそっちも悪くないなって思うから、ほんとにそう思うから、それに従ってるだけなんだよ」

「……文芸部に入ったのもそれが理由ですか? 顧問の先生に勧誘されたんですか? それで興味もない部活に? 入る部活をそんな風に決めて怖くないんですか?」

「怖い? どうして?」

「もし言うとおりにして、それが失敗だったらどうするんですか?」

「どうもしないよ」


 のほほんと答える。


「だったらどうして自分で選ばないんですか」

「自分で選べば絶対に失敗しないから? 君はずいぶん自信家なんだね」

「じゃあ人の言うとおりにしていれば失敗しないんですか?」

「まあ失敗することはあるよ。自分で選ぶのと同じくらいにはね」

「やりたくないことをやらされても?」

「加賀くんは勉強は好き? テストは? やりたくないことでも我慢してやってるよね。それはなんで? 見返りがあるから我慢してるの? それ、ほんとに返ってくるの? あのね、人はやりたくないことでも未来のために我慢したりするけど、でもそれがいつも実を結ぶとは限らないし、そんな保証はどこにもないんだよ。自分が決めるのと、他人が決めるのとで、どの程度違いがあるのかな?」

「それは全部他人に決めてもらう理由にはなりません」

「面倒なんだ」


 森川はつぶやくように答えた。加賀はしばらく次の言葉を待っていたが、彼女はジュースを口に含むと焦らすようにゆっくりと飲み込んだ。


「面倒なんだよ。全部自分で決めるのって。どれを選べばいいのかも分からないのにそんなのできるわけないよ。好きとか嫌いみたいな気持ちも、いつ変わるか分からないいい加減なものだし……そんないい加減なもので選ぶなんて私には無理だよ。そんな無意味なことは耐えられない」

「自分の気持ちが信じられないんですか?」

「一度好きになったものを一生好きでいられる自信がある?」


 意地悪な問いだと加賀は思った。自分の嗜好は死ぬまで変わらない――なんて返事、二十年も生きていない自分が言うのはあまりにも不誠実だ。もちろん森川の方も、最初から加賀の返事など期待していなかっただろう。


「私は自分の意思で『選ばない』ことを選んだよ。その選択をちょっとは尊重してほしいな。――と言っても、みんな分かってくれないんだけどね」


 森川は作り笑いを浮かべる。鮫村に理解不能と言われたときも、そんな風に諦めた笑顔を見せたのだろうか。

 加賀の頭にズキリと小さな痛みが走った。それは罅割れのように広がってゆく。


「私たちは何のために生きてるんだろうね。何を基準に選べばいいのかな。加賀くんは、何のために生きているの?」

「僕は――僕の気持ちのために生きています」


 森川は何か言い返そうとしたのかもしれない。しかしその前に予鈴が鳴って、開きかけた森川の口からはひどく現実的なことだけが語られた。


「もう時間だね。戻ろうか。あ、加賀くんがまだ一緒にいたいって言うならここにいてもいいけど」

「いえ……お話、ありがとうございました」


 頭を下げて、加賀は森川と別れて自分の教室へ戻る。足を前に進めるたびに頭痛が重くなるような気がした。

 ペットボトルのミネラルウォーターはキャップを開けたきり一度も口をつけなかった。




 ***


 午後の授業が始まってから、加賀の頭痛は本格的に悪化を始めた。一度アスピリンを飲んで少しは落ち着いたが、しばらくするとすぐに痛みがぶり返した。

 教師の声は聞こえるが意味を認識できない。視界の中央部分は焼付けを起こしたみたいに不明瞭になり、ノートを取ることも忘れただひたすら痛みが去るのを耐えた。余計なことを考えないように、目は動かさず、体も脱力したまま、首はまっすぐに伸ばし、規則正しく呼吸を繰り返すことに専念した。

 これはまずいな、と加賀は思った。ここまで酷いのはいつ以来だろうか。思い出そうとして、痛みですぐに記憶の探索を打ち切った。


 そしてとうとう耳から何も聞こえなくなった。頭に入らないということではなく、教師の声が聞こえない。授業の音が止まっているのである。なんだ、とうとうそこまで悪くなったのかと思っていると、教壇に立っている教師が呆然と加賀の方を見ているのに気がついた。聞こえなかったのではなく本当に授業が止まっていたのだ。

 まさか自分の方を見ているのか――と思い、周囲に意識を向けると、すぐ横にクラスメイトが立っていた。

 名前を呼ぼうとして声が出なかった。辛島美音。学年一の不良が授業中に立ち上がって加賀のことを見下ろしていた。そういえば今日は辛島の出席を確認しなかったな、と加賀は思った。


「来い」


 何を言っているのか理解するのに時間がかかった。そして加賀が理解するよりも先に、辛島は加賀の腕を掴んで立ち上がらせた。教師が辛島の暴挙を止めようと名前を強く呼んだが、彼女にひと睨みされるとぐっと息をつまらせて黙ってしまった。

 辛島は加賀の腕を引っ張ってそのまま教室の外に連れ出した。加賀は何か言うべきかもしれないとも思ったが、頭痛に耐えるためにひたすら外界に対して無関心を貫き続けた。どこに行くかも分からず、ただ腕を引かれるまま辛島の後ろを歩いた。


 連れて行かれた先は保健室だった。

 保健室の中は無人である。三つあるベッドはすべて空いていた。

 辛島は放り投げるように加賀をベッドに横たえた。そのまま踵を返して保健室から出ていこうとする。


「待って」


 このままでは行ってしまう――と思うと、とっさに声が出た。


「……ありがとう」


 かろうじてそれだけを言った。辛島は無表情に振り向くと、低い声でぶっきらぼうに一言だけ答えた。


「授業をサボりたかっただけだ」


 保健室から出て行く辛島の背中を見送って、加賀は眠ることに没頭した。


 一時間ほどで目が覚めた。ベッドから体を起こす。保健室には相変わらず加賀以外の姿はなく、保険医も不在のままだった。

 時計を見ると六時間目の授業の真っ最中だった。まだ気分は良くなかったが、頭痛で授業を受けられないというほどでもない。


 保健室を出た。一人で廊下を歩いていると、あちこちの教室から授業の声が漏れ聞こえてくる。

 後ろの扉から自分の教室に入った。静かに扉を開けたつもりだったが、開けた途端にクラスメイトから一斉に注目を浴びる。頭を下げて自分の席に戻ろうとする。


「どこに行ってたんだ」


 化学の教師が怪訝そうに尋ねた。


「あの、気分が悪くて保健室に行ってました」


 教師に答えながら着席する。クラスメイトがざわついた。辛島にシメられたと思われていたのだろうか。

 辛島の姿を探すも空席だった。どうやら本当にあのままサボったらしい。

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