第4話 猫は嫌い


 放課後には頭痛もすっかり治まって、加賀は文芸部に行くことにした。頭痛を言い訳にすればそのまま帰っても許されるとは思うが、たとえそれが言い訳になったとしても今度は天城に心配をかけるのが嫌だった。自惚れではなく、天城はそういう人だと加賀は思う。

 部室で本を読んで待っていると、やがて天城もやってきた。開口一番、加賀に問いかけた。


「加賀くん、体調が悪いって聞いたけど大丈夫? すぐに病院に行った方がいいんじゃない? わたし、一緒に行こうか?」

「何で知ってるんですか」

「長崎先生から聞いたの」


 長崎は誰から聞いたのだろう。帰りのホームルームのときには何も言ってこなかったのだが。あの化学教師だろうか。


「ねえ加賀くん、本当に大丈夫? 熱はない?」


 ごく自然な動作で天城が加賀の額に手を当てた。自分の額の熱と比べる。彼女の暖かな手の感触とシャンプーの香りに顔が熱くなった。


「あ……ちょっと熱いね」

「大丈夫です。元から体温が高い方なんです」

「そうなの?」

「そんなことより、今日は辛島に助けてもらいましたよ」


 これ以上構われたくなかったので強引に話題を変えた。本日の辛島とのやりとりを天城にかいつまんで説明する。天城は何度も大げさに頷いて話を聞いていた。


「辛島さん、根はとっても良い子なの。怖がってる人も多いけど」


 母親のような口調で天城が言った。


「根の良い人は喧嘩で相手をボコボコにしたりしませんよ」

「加賀くんはどう思ったの? 辛島さんのこと、悪い子だと思う?」


 少し考えて、加賀は慎重に答える。


「分かりません。でも、話が通じない相手だとは思いませんでした」

「そうだよ。噂や見た目だけで人を判断しちゃいけないんだから」

「天城さんも――」

「結子」

「結子さんも実はものすごい大悪人だったりするんですか?」

「ええっ? わたし、そんな風に見える?」

「いや、たった今あんたが言ったんでしょうが……」

「わたし、とっても良い子だよー」

「良い子は自分で『良い子』なんて言わないと思いますが……あと結子さんの歳で『良い子』もないと思いますが……」

「中学卒業するまでサンタクロース信じてたもん」

「そこまで行くと逆に心配になりますね」

「わたし、信心深いの。お盆はちゃんとお墓参りに行くし、救急車が通ったら親指隠すし」

「それは関係ないと思いますが……」

「辛島さんはね、文芸部に来てたころはあんな感じじゃなかったんだよ」


 悪意なく天城は唐突に話題を戻した。


「去年の春にね、辛島さんの方から入りたいって言って部室に来たのよ。最初に会ったときは、すごく物静かな子だなーって思ったの。あんまり話せなかったんだけど、海外の児童文学に興味があるみたいだったよ。あ、加賀くん児童文学に興味ある? 児童文学ってね、大人が考える難しいことを子供に分かりやすく書いてるものだから、大きくなってから読むととっても深くて面白いんだよ?」

「えーと、今読んでる本が終わったら読みます」


 加賀は適当に答えた。

 しかし考えてみると、加賀は入学直後の辛島をまったく覚えていなかった。加賀と辛島は去年も同じクラスだから、顔は合わせているはずなのだが。

 

「でも辛島はなんで部活に来なくなったんですかね。何か知りませんか?」

「それは……ええと……」


 天城は口ごもっていたが、ややあって加賀の質問に答えた。


「わたし、辛島さんに『毎日ちゃんと来て熱心だね』って言ったの。多分それがきっかけで来なくなったんだと思う」

「まさか。理由になってませんよ」

「だって、辛島さん毎日部室に来てたのに、次の日から突然来なくなったんだよ? それにわたし、辛島さんとは全然話してないし……他に思い当たることと言ったらそれくらいしか――」

「でも、どうして」

「辛島さん、プライドの高い子だから。そういう言い方されたのが気に入らなかったのかも……」


 天城はそう言って、非は自分にあるのだと譲らなかった。

 それが本当ならプライドが高いというよりは単なる天邪鬼だ。


「まあ……不良ですからね」


 加賀はそう締めくくった。

 そこで辛島の話題は終わり、その後はいつものように二人で静かに本を読んだ。途中、天城が加賀に本の感想を求めたり読書談義をするのもいつものことだ。

 二時間ほど部活動をしてから二人は部室を出た。

 廊下に出ると、天城が部室に鍵をかける。


「ねえ加賀くん」


 そのまま帰ろうとした加賀を天城が呼び止めた。振り向いて天城の言葉を待ったが、用件を話すまでに少し時間がかかった。お腹の前で祈るように組まれた指が落ち着きなく動いている。


「あの……このあと一緒に紅茶でも飲みに行かない?」


 天城は潤んだ瞳で上目遣いに加賀を見た。


「な、何ですか突然」

「あの、ほら、駅の近くに新しくできたお店があったでしょ? 前から一回行ってみたかったんだけど、一人だとちょっと入りにくくて……だから加賀くんと一緒なら、って……」

「彼氏でも誘えばいいじゃないですか」

「いないよ……そんなの……」

 消え入りそうな声で、さらに顔を赤くして答える。

 その姿にどきりとして、気がつけばぼーっと彼女のことを見つめていた。

「それで……返事は……?」

「今日は予定があるので」


 天城が泣きそうな顔をした。


「――と思ったんですが、まあお茶を飲むくらいなら」


 加賀の返事を聞いた途端に天城が笑顔を見せた。

 その後、加賀と天城は待ち合わせ場所を決めてから別れた。

 鍵を持って職員室へ向かう天城の背中を見送る。すると天城は突然振り向いて加賀に笑顔を向けて手を振った。反射的に加賀も笑顔で手を振り返してしまい、慌てて手を引っ込めると下駄箱へ急いだ。




 ***


 翌朝には加賀の体調はすっかり普段通りに戻っていた。

 いつものように学校へ向かうと、校門で天城の姿を見つけた。校門を通る生徒たちに挨拶をして紙を手渡していた。しばらくその光景を眺めてから天城に声をかける。


「おはようございます。何やってるんですか?」

「おはよう加賀くん。はい、どうぞ」


 渡された紙を見る。文芸部員募集、と大きくタイトルが書いてある。没個性で書類のようなレイアウトだったが、中身を読めば文芸部員の勧誘チラシだということが分かる。


「何やってるんですか」


 もう一度尋ねた。


「加賀くんが部員を集めるために頑張ってるから、わたしも何かできないかなって……」


 さっき見ていた限り天城にチラシを差し出された生徒は無視して通り過ぎるか、受け取ったあとに内容を一瞥して玄関のゴミ箱に捨てるかのどちらかしかいなかった。

 天城の手元にはまだたくさんのチラシが残っている。


「えへへ。なかなか難しいね」

「……手伝いますよ」

「え、でも――」

「いいから」


 天城の手からチラシを半分奪い取る。恥ずかしさを我慢して生徒たちに声をかけた。


「……えへへ」


 加賀の隣で天城が小さく笑った。


「何ですか。人の顔見て笑って。喧嘩売ってるんですか」

「被害妄想だよっ」

「冗談です。早く配りましょう」


 チャイムが鳴るまで、加賀と天城は登校する生徒たちにチラシを配り続けた。それでもチラシはまだかなり余っていた。


「明日も配るんですか?」

「うーん。どうだろう。あんまり効果がないかもって思えてきた」

「僕も同感です。別の作戦を考えましょう。……次、何かやるときは僕にも声をかけてください」

「えー、悪いよ」

「天城さん一人だけだと見てられないので」

「『結子』っ!」


 恒例のやりとりをしてから、チラシを抱えた天城と玄関で別れた。犬がしっぽをふるみたいに、天城がいつまでもブンブンと手を振っているのが恥ずかしかった。誰も見ていないのが幸運だった。

 朝のホームルームが終わったところで担任の長崎が加賀の席に近づいてきた。


「おい、頭は大丈夫か?」

「一応念のために聞いておきますがそれは僕の頭痛のことを言っているんですよね?」

「解釈は任せる」

「大丈夫ですよ。僕は正常です」


 ニヤニヤ笑う長崎に皮肉っぽく答えた。これでも心配しているのだということは加賀も心得ている。


「体調悪いなら言えよ。早退するなら手続きしてやったのに」

「大丈夫ですよ。少し休んだら良くなりました」


 加賀は肩をすくめて答えた。


「そういえばお前、文芸部の方はどうなってるんだ?」

「現在蘇生中です」

「ん? ……そうか」


 長崎は力強く頷いたが、絶対に意味を分かっていないだろうと加賀は思った。適当な男なのである。


「先生の方はどうなんですか。部員を探してくれてるんですよね?」

「まあ、果報は寝て待てと言うじゃねえか」

「待ってる間に永眠しそうですね」

「だいたいこの時期に部活に入ってない奴ってのはもともと部活に入りたくない奴なんだよ。この時期にフリーでかつ頼めば入部してくれるお人好しなんか心当たりは一人くらいしかいねえ」

「素晴らしい生徒もいるものですね」


 バン、と出席簿で垂直に頭を叩かれた。


「叩くことないじゃないですか」

「くだらんボケをかますからだボケ」


 結局、部活のことは自分自身でどうにかするしかないということだ。ひょっとして、という望みを長崎に持っていただけに、失望も大きかった。


 現実を直視するのが不愉快で、長崎から目を逸らして何の気なしに窓の外を見た。校舎から体操服を着た生徒がぞろぞろと出てくるのが見える。一時間目が体育の授業なのだろう。

 朝から体育なんて面倒だな、と同情しつつぼんやり眺めていると、一団の中に天城の姿を見つけた。驚くべきことに天城は顔を上げて加賀の方を見た。

 天城は周囲の生徒の視線も憚らずに大きく手を振る。まさか自分に向けて振っているんじゃないよな、こちらからは見えないけど、校舎の側にいる別の誰かに振ってるんだよな――と思って何も反応せずにいると、天城が泣きそうな顔になるのがここからでも見えた。

 仕方なく小さく手を振り返すと、天城は満面の笑顔でグラウンドに駆けて行った。どうやら三年の体育はマラソンをするらしい。この間はバスケットボールと言っていたが、あれは雨が降ったからだろう。


「何だお前、いつの間にそんなに仲良くなったんだ」

「別に僕が特別というわけじゃありませんよ。新入部員に対しては平等にあんな感じなんでしょう」


 慌てて言い訳をする。


「だとしてもお前、あれは――ははあ」


 長崎がにやりと笑った。悪い顔だった。加賀は嫌な予感がした。


「何が『ははあ』ですか。感嘆詞ですかそれは」

「何言ってんだお前は。いやなに、お前がどうして部員獲得にそこまで頑張るのかなと思ってたら、そういうことかと思っただけだ。今朝の校門のやつ、見てたぞ」

「違いますよ。なぜ部員獲得に頑張るかといえば、そうしないと先生が僕を文芸部から逃してくれないからです」

「お前、嘘が下手だな」


 ムキになって言い返そうとしたが、それは自白しているようなものだと思い、ぐっとこらえた。


「いやいや。普通、無理やり入れられた部活のためにそこまでしないだろ。いくら本を読むのが嫌いでもな」

「愛着がないと言えば嘘になります」

「惚れてんのか?」

「違いますよ。ほんとに、ただの義心です。部員が揃ったら部活は辞めます」

「別にいいじゃねえかよ。キツイ練習があるわけじゃなし、本を読むだけなんだろ?」

「そういう問題じゃなくて――」


 言いかけたところでチャイムが鳴った。「やばい、授業に行かないと」と独り言を残して長崎は素早く教室から出て行った。

 このまま部活を続ける? 冗談じゃない、と加賀は思った。あのまま天城と一緒にいたらどうなってしまうか分からない。認めざるを得ないが、天城は美人で、あまりに魅力的だ。喩えるなら火山の火口に家を建てるようなものだ。今はただの山に見えるかもしれないが、いつ噴火するとも限らないのだ。

 やはり部員を探してきて、自分は部活を辞めるしかない。それが天城にとっても最良の選択のはずだ。

 そう思って辛島の姿を教室の中に探した。しかし辛島の席に彼女の姿はなかった。加賀の記憶ではさっき長崎が出欠をとったときには席にいたはずだ。

 そのとき、一時間目の教師が教室に入ってきて、日直が号令をかけた。


 結局午前中の授業に辛島は一度も姿を見せなかった。

 昼休みになるのを待って、加賀は辛島を探すことにした。

 と言っても辛島の行く先に心当たりなどない。ひょっとすると家に帰ったのかもしれない。しかしホームルームにだけ出席して家に帰るというのも奇妙だから、学校内でサボっている可能性が一番高いと考えた。

 弁当を素早く平らげてから、人が集まりそうな場所を適当にふらつく。

 食堂、部室棟、校庭はもちろん、念のために図書室と音楽室と美術室も探したが見つからない。

 そうやってあちこち歩きまわっている途中、職員室の前を通るときに、中から出てきた天城とばったり遭遇した。


「あ、加賀くん」


 嬉しそうに声を上げてぴょんと加賀に近づく。今にも抱きついてきそうな雰囲気で少し身構えたが、もちろんそれは加賀の妄想だった。

 天城には三年生の女の連れがいたが、彼女は加賀と天城を交互に見ると何やら含みのある笑みを浮かべた。


「じゃあね結子ちゃん、私教室に戻るから」

「あ、うん。手伝ってくれてありがとう~」


 無邪気に手を振る天城に、女は控えめに手を振り返して別れる。しかしその視線はずっと加賀に向けられていた。


「どうしたの? 職員室に用?」

「いえ、そういうわけではないです。通りかかっただけで」

「へぇ~。運命みたい。今日は良い日だね」

「単なる偶然でしょう」


 えへへ、と天城は笑った。加賀はさっきの生徒の視線が気がかりで笑わなかった。変な噂が立たなければいいのだが。


「なんか、部活の時間じゃないのに会うと変な感じがするねー」

「授業時間だと天城さんとは――」

「結子」

「結子さんとはなかなか会う機会もありませんからね」


 そのとき、加賀たちの横を教頭が通った。そのまま職員室に入ろうとするが、加賀たちの会話を聞いていたのか、天城を見て咳払いをした。

 天城は慌てた様子で「場所を変えましょう」と加賀に囁いた。

 文字通り天城に背中を押されて職員室から離れる。廊下を曲がったところで足を止めた。


「それで加賀くん、わたしに何の用?」

「いえ、結子さんに用があるわけじゃありません。僕が探してるのは辛島です」

「辛島さん? どうして?」

「どうしてって、文芸部に戻ってもらうためですよ。何言ってるんですか」

「ああ、そういえば、そうだったね……」


 当惑するような、怖がるような表情を一瞬だけ見せた。


「何ですかそれ。あんまり乗り気じゃないんですか?」

「ううん、そんなわけじゃないんだけど。そうね……辛島さんなら屋上にいるんじゃないかな」

「屋上? 屋上って出られるんですか?」

「鍵はあるんだけど、今は壊れてるんじゃなかったかな」


 天城は他人事のように言った。

 とにかく加賀は、天城に礼を言ってその場で別れた。

 階段まで行き、人目を忍んで三階からさらに上へ登る。埃っぽい踊り場の先にスチールの銀色のドアがあった。

 ドアを開けると屋上の冷たい空気が一気に階段に流れ込んできた。

 屋上の手すりにもたれている辛島の後ろ姿が見えた。ドアを開けた音に気づいて加賀の方へ振り向く。彼女の表情にわずかな驚きが見て取れた。

 辛島は手にタバコを持っていた。しかし決定的な瞬間を見られても言い訳を並べたり取り乱すこともなかった。それどころか堂々ともう一口タバコを吸った。ゆっくりと白い煙を吐き出す。言葉を吐き出したのはその後だった。


「チクる?」

「……チクらないよ」

「そりゃ良かった」


 もう一口吸う。

 屋上に来ていたのはそれが理由だったのか。しかしそれにしても、天城はこれを知っていながら放置していたのか。


「辛島、ちょっとお願いがあるんだけど」

「吸う?」

「いらない。文芸部のことで」


 辛島の表情がぴくりと動いた。笑っているのか、怒っているのか、加賀には判断できない。辛島とまともに話したことなど一度もないのだ。


「文芸部に戻ってきて欲しいんだ。今、部員が足りなくて」

「嫌だ」


 言葉のクッションもなく辛島は拒絶した。


「頼む」

「うるせえな。嫌だっつってんだろうが」


 以前の加賀ならばこれで引き下がっていただろう。しかし今はなぜか、辛島の言葉にも恐怖を感じない。

 天城の言葉を信じたわけではないが、道理が通る相手だと分かっていた。でなければ、加賀を保健室まで運んだりするものか。


「前に文芸部に来たときには、部活に興味があったんだろ? なんで来なくなったんだよ」


 加賀は少し強めに問うた。辛島は吸いかけたタバコを口から離し、足元にあったコーラの缶を拾うと吸い殻を中に落とした。


「うるせえな。毎日行くのが面倒になっただけだ」

「また来て欲しいんだけど」

「だからうるせえって言ってるだろ」

「『毎日部活に行く真面目なやつ』って思われたくないからか?」


 辛島は意志の力で強引に自分の顔を笑わせた。それは口の形だけで作る不自然な笑顔だった。


「はっ――」笑うように息を吐く。「毎日部活に行くような真面目なやつじゃないんだよ、オレは。だから行かなくなった。それだけだろ」

「やりたいことやれよ。本が好きなんだろ?」

「黙れ。文芸部員だからって、お前みたいなのに仲間ヅラされるのが嫌なんだ。つーか言われなくてもやりたいことやってるっつの」

「あのな、人の言うことひとつで部活に行けなくなるなんて、子供すぎるだろ」

「お前の言う大人ってのは、人のいうことを聞いて、波風を立てないで、空気読んで生きろってことだろ? んなもんお断りだ。オレはオレのやりたいようにやる。人の言うとおりになるなんて死んでもゴメンだ」

「それはただの天邪鬼だろ。そんなんじゃやりたいことも楽しいことも、何もできなくなる」

「うるせえんだよ馬鹿野郎。仮にそうだとしても大きなお世話だし、そもそもそうじゃねえだろ。お前、単にお前の都合で部活に出て欲しいだけじゃねえか。なんでお前の言うとおりにしなきゃいけねえんだよ」

「それは……そうかもしれないけど……」

「っていうか、何でお前にそこまで面倒見てもらわなきゃいけないんだよ。誰も面倒見てくれなんて頼んでないし、そっちが勝手に『なんとかしてあげなきゃ』って思うのは、もうなんつーか馬鹿にしてるよねオレのこと。何様のつもりだお前」


 その通りだった。

 加賀は自分が部活を辞めるために森川を説得し、鮫村と口論し、辛島に助言している。辛島に言われたのと同じことを鮫村からも言われたことがある。鮫村から見れば、加賀も、森川を利用しようとする有象無象のひとつでしかないだろう。

 だとしたら自分は彼女たちに何を言えるのだろうか?

 自分には一体、何を頼める道理がある?


「まあそういうわけで諦めな。行く気はない。口で断っても分からないなら手や足で断ることになる」


 加賀は頷いて見せた。辛島はつまらなさそうに唇の片側を引くと、加賀に背を向けて校舎の外を見た。


「辛島は、なんで授業に出ないの?」

「出たくないからだ」背中を向けたまま答える。「当たり前だろ、そんなこと」

「そうだな。辛島は不良だからね……」

「お前、オレを舐めてるのか?」


 辛島の脅し文句には答えなかった。誠実には答えようもなかったし、きっと辛島も返事を期待しているわけではなさそうだ。


「そういえば礼を言ってなかったね」

「ああ?」

「昨日、保健室に連れて行ってくれたこと」

「別に。サボりたかっただけだっつってるだろ。勘違いすんなタコ」

「だとしても、助けてくれたことは嬉しかったよ」

「……ああそうかい」


 辛島は舌打ちした。風が彼女の髪を乱す。風上を向いて髪をかき上げた。その仕草が最高に格好良かった。


「お前、体弱いのか?」

「え? ……ああ、頭痛持ちなんだよ。たまに酷いのが来てああなる」

「次は助けてやらねーぞ」

「昨日みたいなのは滅多に来ないよ。心配してくれてありがとう」

「してねえよ」

「辛島は良い人だ」

「勝手に決め付けるな」

「僕が勝手にそう思ってるだけだよ。それくらい別にいいだろ?」

「ムカつく。殴りたい」


 そう言ったが、幸いにも加賀が殴られることはなかった。

 それからしばらく沈黙が続いたが、加賀がぼんやりと辛島の整った横顔を見ていると、彼女もちらちらと加賀の方を気にする素振りを見せ始めた。意外にも彼女は文句のひとつも言わなかった。ただ、気まずそうに外の景色を眺めている。


「……僕はもう戻るよ」


 一応声をかけてから、ドアを開けて屋内に戻った。

 辛島とのやりとりを頭の中で反芻しながら階段を降りた。頭上からドアの音が聞こえた。見上げると、辛島も屋上から降りてくるところだった。


「どうした?」

「別に。オレも教室に戻るだけだ」


 スカートからフリスクを取り出して口の中に入れた。後から思えばそれはタバコの臭いを隠すための小細工だったのだろう。

 教室に戻るという辛島に反対する理由もない。先を歩く加賀の後ろを無言で辛島が歩くという形で教室まで戻った。


「なんか、辛島って猫みたい」

「はあ?」

「歩き方とか、性格とか。色とか」


 辛島は怪訝そうに、茶色に染めた自分のショートカットを摘んで見ていた。


「……猫は嫌いだ」


 しばらくしてから、加賀の背後で小さな声で呟いた。

 席に戻ったところでちょうどチャイムが鳴った。授業が始まってすぐ辛島の方を見ると、まだ十分も経っていないのにもう机に突っ伏して居眠りを始めていた。


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