スープ
鯖みそ
スープ
「私ね、結婚するの」
「……え」
ことばを反芻するのに時間がかかる、ぐちゃぐちゃになったジャガイモのスープ、ぼくの心に溶け込んでいく。
今は、外にいるから、ある程度は暑いけれど
それとは、別の熱がスープを加熱させてゆくんだ。
コトコトと、熱を帯びた。
幼馴染みの加織から、突然呼び出されたと思ったら、突然の死刑宣告さ。
彼女と座っているベンチ。
断頭台のすぐそばで腰かけているみたいで。
ベンチに腰掛けながら、隣の彼女のあどけない仕草とか、いじらしくて。
しどけない黒髪でさえ、てらてらと輝いてみえて。
ぼくは、さりげなく愛撫しようと思ったんだ。
ぼくの「愛」と呼べるものは、肌で、彼女に感じて欲しいんだ。
けれどそれは駄目だ、と。どこかの地球の引力がぼくの袖を引っ張ってきた、ぼくの腕は宙をさまよった。
「橘さんっていうの、凄く優しいひとなの」
そうぼくに向かって、眩しい笑顔をうかべる。
純朴な笑顔をたずさえた、うぶな雌。
太陽の光を目一杯浴びた、豊穣のひと。
優しいよ。
ぼくのほうが何倍も優しいって、何千何万倍も優しいって、神にだって誓えるよ。そうだ、そうしよう、と。
橘さん。知らない人。タチバナサン。知らない人。
加織と座っているベンチの、ほんの少しの隙間が永遠に埋まらない気がした。
「……そっか」
「うん。親友の秋くんには一番最初に伝えておきたいと思ってさ」
彼女のワンピースから覗く、白く滑らかな肌や脚が、陶器のようにみえる。
「ありがとな、加織」
ぼくは彼女の方を向いて、にっこりと笑いかけた。
今ちゃんと笑えたかな。ちゃんと祝福できたかな。
彼女を見るたび、ちらつく男の顔をすりつぶした。スープに溶け込む鮮血を感じた。
ばか。
どこからか、「笑顔」をもってこないと加織が悲しんじゃう。
はやく表情筋をこわばらせよう。
でも彼女はそんなぼくをみる、ほんとに嬉しそうに頬を赤らめる、ほんとに嬉しそうに口元と目元を緩める。
ぼくのスープはもう沸騰している。
だから冷まそうと思って、ぼくは息を吐く。
「昔はあんなに、俺に懐いていたのにな」
そう言うと、加織は耳まで真っ赤にして頬を膨らませて怒るから。
「もう秋くん。それは言わない約束でしょ」
ほら。やっぱり。十年たっても変わらない彼女の癖だ。
ぼくが唯一知ってる彼女のむかしの、癖だ。
「まったく。急に呼び出されてみたら、結婚なんて言うからちょっとびっくりしたじゃんか」
嘘つけ。
ほんとは心臓が飛び出そうなんだよ。
気づいてよ。
「あ、ごめんね。でも嬉しくてさ、誰かに言いふらしたかったの」
そんな彼女の無邪気な嗜虐性が好きで、嫌いで。
そう言って、加織はお腹の辺りを愛おしそうにさすって、マリアみたいに慈愛に満ちた表情をたたえたので。
ぼくは水素爆弾を全身に降り注がれたようなきもちがして。
「この子も、それを望んでるんだよ」
爆発した。
どれだけ時が過ぎたのかは分からないんだ。
だって、時計が僕に教えてくれないんだ。
だから、いつまでもゴドー(GOD)を待っていた。
すると、加織の純白のドレスが見えて、快活そうなタキシードの青年と、祝詞を贈られているのをみて、幾ばくか時が過ぎたことを思い知らされると。
十字架が模された原罪の生まれた地で、二人は永遠の愛を誓うのだろう、と思うと。
ぼくのような薄汚い男が、入る余地は無いって、そう思って、ぼくは隅っこで、色んな人が彼女の姿を見て泣き出しているのを見て、吹き出しそうになって。
でも、式が始まる。
まもなく、彼女が公にレイプされる。
「ふふ。笑った顔とか、ほんとあなたにそっくりだね」
「きっと、ママにそっくりなわんぱくな子供になるよ」
「ちょっと。それ、どういうことよ」
白い病棟。彼女は男と楽しそうに笑っていた。
それは裏切りだった、信じてもいない純潔を彼女に抱いていた、僕への裏切りだった。
入り口の前で偶然見てしまった、光景。
偶然さ、あまり僕は病院には行かないけれど。
ぼくが届くことのなかった、幸せの断片だよ。
白く無機質な壁、灰色の壁を見て、ぼくは危うく吸い込まれそうになる。
できることなら、いっそこの壁に溶け込んで、少しでもあの景色へ、近付きたい、と願う。
彼女のもとへ、行きたい、と願う。
あどけない笑みをこぼす、加織の美しさをみる。
天使のような彼女と、男の、ヘテロ接合体。
柔らかい肌と純朴な瞳をたずさえた、彼女の胸に抱かれている男の子。
あぁ、そうだった。彼女の子だった。
やさしく、やさしく、生きてね。
ぼくも、そう生きるからね。
すくすくと育つことを、ぼくは、祈っているよ。
愛してるよ。
君のこども。
ぼくは自室に戻った。
いつもと変わらない風景と。
机、ベッド、色褪せた写真と。
まだ何者にも汚されていない彼女の笑顔が写っている。
気づいたら、ぼくは嗚咽していた。
まっしろだった、まっしろだった、ぼくは、まっしろだった。
吐いた、吐いた、吐いた、吐いた、吐いた。
どうして、どうして、どうして、どうしてなの。
いまから、きみに、こくはくします。
加織、好きだ。すきです、好きなんです。君の髪とか瞳とか、おっぱいだとかお尻だとか、白い肌だとかが、すきなんです。いやらしくて、すきなんです。
君のやさしさがすきなんです。いつも「ぼく」に向けてくれるあの綺麗な笑顔がすきなんです。いつも「ぼく」のために泣いてくれる優しい涙がすきなんです。
君の悪戯好きな部分がすきなんです。「ぼく」をいつも笑わせてくれる楽しさと明るさがすきなんです。
そうだ、あの女は娼婦だ。マリアだ。卑しい体をもって男を骨抜きにする、マグダラのマリアなんだ。
綺麗だよ、加織。君の首筋にキスをして、ぼくと一緒に愛し合おうよ。そうしようよ。
だってきみが、すきなんだよ。
すごく熱いよ。
どうしようもなく焼ききれるほどに熱いよ。
沸騰したスープを、溢さないように、しないと。
そして、爆発した。
ぼくが彼女の写真を、精液で汚したのはこれが初めてだった。
スープ 鯖みそ @koala
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