読者企画〈誰かに校閲・しっかりとした感想をもらいたい人向けコンテスト〉参加作品としてレビューします。
一読、まず「これは詩か? 小説か?」という思いがよぎる。心象は詩のようで、出来事は小説のようだ。
主人公と幼馴染み。おそらくは一緒の時間を過ごすことが多かったのだろう彼女から、結婚すると告げられる主人公。すでに胎内には、相手の子供もいる。
突然告げられた結婚。関係の変化。届かなかった思い。主人公は彼女の人生の遍歴になにを思うのか。主人公の感情のスープには、どんな味がついているだろうか。
――というこの物語は、ある意味で非常に現代的である。
男性が、男性性というアイデンティティーを持つことが容易だった時代には、男達はまず「男である」と自分たちの基礎を踏み固めた。だが現代において男性性はむしろ抑えつけられ、最初の足場を失った男達は、時としてふわふわと浮つき、自らの寄る辺を探してさまよっているようにも見える。
この主人公から感じるのはそんな寄る辺のなさ。足場の不確かさ。
唯一すがろうとしていた幼馴染みの喪失とともに、彼は自分の居場所を失った――そんな男に見える。――自らの思いを、一切、外に出すことなく。
これは「待っているもの」の物語であり、慟哭だ。
自らの内にある何かを外に出すことなく、ただただ外から――無限の慈悲持つ聖なるマリアから――救いの手が伸ばされることを待っている。そんな男の独白だ。
外と戦おうとしなかった果ての帰結を、素直に受け入れることもなく、それでも内心だけで暴風を荒れ狂わせ、身悶え、『どうして。どうしてなの』と何処へともなく問いかける男の独白。
いや、何処へ、という指向はあるのかもしれない。
聖なるものへ――あるいは、マリアと喩えた幼馴染みに向けて。
かなしいくらい卑小で、おそろしく俗物。そんな男の物語だ。
愛を語るのに、「ぼく」しか視座を持たぬ男の物語だ。
希求して止まない慈悲をもたらしてくれぬものを、「汚し」てしまう男の物語だ。
身のうちにある「俗」の煮こごりとしてのスープで、かつて「聖」を見ていた彼女の写真を「汚」すことでしか爆発させられない男の物語だ。
外へ、ではない。
その爆発はあくまでも彼の身のうちでのこと。己の幻想だった「聖」を「俗」へと堕とすための儀式。
彼女を自らの同列へと取り戻すための儀式。それは外の世界の現実を、自らの支配空間へと引きずり込むためのプロトコル。
マリアを蹂躙するために選んだ彼の「暴力」は、そんな形だった。
マリアを蹂躙してまで彼が求めたのは、己の世界の守護。
彼は、いつまでも閉じたままだ。
そうして物語は終わる。閉じた男の、閉じざまを見せつけて物語もまた閉じられる。
どこまでもひとり自分の中でしか生きようとしない男の生き方の物語だ。
かなしいくらい卑小で、おそろしく俗な男の物語だ。