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言葉の擬態について

未知のものは神とちがって感銘を与えたりはしないのだ。私たちの内部でなにもかも狂風のように薙ぎ倒した上でなければ愛されることはないのだ。
同様にして、詩的感動が拠りどころとするさまざまな惑乱的な視像や各種の媒概念などは、私たちの心をたやすく打つことができる。すなわち、ポエジーがたとえ奇異のものを導入するとしても、それは、平俗なものという回路を経てのことなのだ。
詩的なものとは、奇異なものの中に溶け込む平俗の成分であって、このとき私たち自身もいっしょにその奇異なものの中へ溶け込むことになる。
詩的なものは私たちから根こそぎに所有権を奪うようなことはしない。なぜなら、言葉だの溶かし込まれた視像だのは、すでに体験ずみの各種の感動を山のように負わされているからだ。
そうした言葉や視像はさまざまな客体に密着していて、それら客体を介して結局は既知のものにつながれているのである。

(ジョルジュ・バタイユ『内的体験』より)

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