第19話 2度と紐解かれない物語
「迎えの車が来ましたよ」
30分くらいして、板さんが呼びに来た。
時間は足りたのだろうか。
「清子さん、また来なよ」
「そうね…」
清子と克也はそう挨拶して別れた。多分、二度と来ることはない。このままここに残らない限り。
「信頼しているんだね」
北野市長に支えて貰いながら階段を降りる。
「こと香夜に関してはね」
編集者としてではなく。香夜を傷つけないと言う点で、清子は小太郎を信頼していた。
勿論。翔也も信頼しているけれど。彼が香夜と作り出す無邪気な愛と、全力で香夜を守るであろう小太郎を天秤に掛けたりは出来ない。ただ、小太郎が必要だったのだ。
香夜の過去を知り、清子の過去を想像出来、その秘密を持っても怒ったり取り乱したりせず、香夜と変わらず接することが出来る存在が。
そして自分にも、変わらず冷静に接することが出来る存在が。
小太郎が開けて待っていたドアから後部座席に乗り込み、窓を開けて北野と向き合う。
「今までありがとう」
清子が、また柔らかい笑顔を向けた。
「また会えて…こう言う展開で、嬉しいよ」
その答えに頷いた清子が北野の手を取り、自分の頬に当てた。
「君が居てくれて良かった…」
数秒、そのままお互いの体温を感じ合い、重ねた手を放すと、北野も抵抗せず、清子の頬を大きな手から解放した。
そして黙って窓を閉めると、顔を伏せた。だから、小太郎は黙って車を走らせた。清子が誰よりも信頼しているのは、この人なのだなぁ…北野父子が居て、きっと本当に救われたのだ。
自分は、彼らほど香夜の力になれたのだろうか…と思う。
「どこに向かう気?」
走り出して数分後に、清子がはっとしたようにきつい声を上げた。
「事故だと思ってください」
小太郎が応えた。
「香夜は原稿を書き上げた脱力で、朦朧として間違えて実家に帰ったんです。それで、また深く傷ついた」
「だから何」
話しながら小太郎は進路を変える気は無い。香夜の祖父母の家。清子の実家の目の前に車を止めた。
「それでも、帰るべきだった。会わなきゃ何も変わらないし、変わったかどうかも分からない。逃げたまま確認しないでそれを知らずに居るのは卑怯です。私は、香夜に捨てられました。故郷ごと。必死で探し当てたけど。その時はもう翔也が居た。それでも、もし捜し出せなかったら…今もどうして居るか分からなかったら…と思うとゾッとします。あなたが帰るんじゃなくて良い。私が勝手に通ったんです。ですが、気が変わったら言ってください」
後部座席から、清子の仏頂面が伝わって来る気がした。
無言だけれど、怒って居るのだろうか。まさか具合が悪くなっては居ないだろうな…と思ったところで、
「香夜を逃したことを後悔して居るの?私たちが、卑怯だと?」
何もかも知った上で、そう言うのか?と思うと、清子の声が一層キツくなる。
私たちの苦しみが分からないのか?所詮男だから?
「あのままここに残る香夜を見たくはありません。先生の選択も間違って居るとは思いません…だけど、ここを出るために一緒に置いて行くしか無かった物もあったんですよね」
友達とか…と小太郎は思った。香夜にとったら自分がそうだと思いたい。
…両親とか。
「自分の本を、実家に送ったでしょう」
危険をおかして。両親を捨てきれなかったからじゃ無いのか?
「隠蔽されたけど」
苦々しい言葉が返ってきた。
「知っています。でも、両親には読ませたかったはずです。幸せな一人の女の物語を、自分と重ねて欲しかったのでしょう」
小太郎にそう言われ、そうだったのか…と清子は戸惑った。
そうだったのか…あの頃は、もしかしたら、自分を探して欲しかったのだろうか…?
「悔いを残さないで…きっと香夜もそう願っている筈です」
「香夜か…甘やかすわね。君も翔也も」
「そうですか?」
「君は素直じゃ無いけど、相当ね」
「香夜をどう守ったら良いか分からなくて…あなたも自分を守る方法は素直じゃ無い」
小太郎に言われ、クスリと笑った。
「君は、私と同じ。私が不機嫌の仮面を被ったように、軽薄な仮面を被って香夜を
守ろうとした」
精一杯背伸びして格好よく生きている。誇らしく思う。
香夜と、香夜の連れて来たこの若くて賑やかで輝いている世界は、遠い昔に失った自分が夢見た未来のようだ…この手で消した命の未来のようだ…
たった一度きりの人生…あまりにも不器用で、お粗末な人生だったけど…
他人の貧乏くじを引いたような人生だったけど、最期にこんなお釣りがくるくらいのサプライズが訪れるなんて、本当に人生は読めない。
「降りるわ」
清子がそう言ったので、小太郎は反射的にドアを開けて、外に回り清子のドアを開けてその手を取った。
「君のせいだからね」
そう言って小さく笑った。
久しぶりに見る実家は記憶の中のそれよりも、小さく古びて見える。だけど、昔と変わらなくも見える。
何年?30年前後?
ここで暮らして居た頃の色々なことが蘇る。だけど不思議と、嫌なことばかりじゃ無い。嬉しいことでも無い。何でもない、本当に毎日代わり映えしない学校から帰ってきた時や、ピアノが運び込まれた日や、庭師が庭木の枝を切りに来てた日や、軒下で猫が赤ちゃんを産んで居たことや、そんな思い出と直結しない忘れていた出来事が、浮かんでは消えていく。ちょっと目を細めそれらを眺めた。ここで、生きていた。十数年間。とうにここを出てからの方が長い。
心を占めているのが、苦悩ばかりではないことが意外だった。
「インターフォン押しますか?」
小太郎に聞かれ、首を横に振る。
「ここで良いわ」
庭の芝生の中に、大きな石がある。この石に登ったり、飛んだり。座ったり。
あぁ。この石は変わらない…
思い出したこともなかった。だけど、思い出のあちこちに、当然のように存在している。
時には芝生が海で、この石は島だった。
鬼ごっこで、この石はバリアがある安全地帯だった。
ここに座ってスイカを食べた。
庭で遊んでいる途中で、座って休憩した。
石の上にランドセルを放り投げて遊んだっけ。
摘んで来た野の花を並べたこともあった。
カブトムシとクワガタを戦わせたこともあった。
いつも、この石はあったのだ。思い出の中に。思い出しもしなかったのに。
子供時代の思い出の中にいつも。
そこに腰を下ろす。
変わらない…もう一度思った。この窪みも、冷たさも。
ここに座っていたら、母親がグラスに飲み物を入れて持って来てくれた。そんなことを思い出していたら、玄関の引き戸が勢いよく開いた。
「清子…。なの?」
何てことだ…よりによって、ゆるゆるの気持ちでいる時に…母が、自分を見つめている。何て、老いた…30年と言う年月がこうも老いさせたのか…それとも、私が心配をかけているせいか…清子は飛び出して来た母親を見つめ動けなかった。
母の後ろから、負けず劣らず老いた父親が現れ、同じように目を大きくしてこちらを見ている。まるで瞬きをしたら消えてしまうと思っているかのように、目を見開いて。
思わず踵を返すと、
「もう良いわ」
そう言っていた。
そのまま車に向かうと、小太郎は黙ってドアを開けた。
その瞬間、初めて夢から醒めたように、母親が車に駆け寄った。
「清子…清子!」
母が叫んでいる。
ダメだダメだ。視界が歪む。今更、後悔とか未練とか、持ちたくないのよ。何も持たずに逝くのよ…
ちゃんとしないと…何でも無いように…
「香夜に会ったから」
何でも無いように、そう言った。
母はうんうんと頷いて、
「あなたの本、読んだわ。香夜ちゃんが持って来てくれて。何度も読んだわ。今は、お父さんが読んでいる」
後ろで父親もうんうん頷いている。
そうか。香夜はそんなことをしたのか…余計なことを…でも、ありがとう。
「体はどうなんだ?」
「発作は?起きてないの?」
何度も、父は私を抱えて病院に走ったよね。
母はごめんね…って私の手を握って泣いたよね。
たくさん心配をかけて生きていたのだ。子供の頃から。
もしかしたら、兄はそんな私が疎ましかったのかもしれない…
「出して」
声が震えそうになるのをこらえて、目を伏せたまま小太郎に命じた。
「さようなら」
目を伏せたまま、そう口を動かした。
以前ここを去る時には、言えなかった言葉。そして、本当の意味での最期の言葉。
小太郎は逆らわず、車を走らせた。
「ありがとう…」
こぼれ落ちたその言葉は、誰に向けて言ったのか分からなかった。
無言なまま走り出した車が高速に乗ろうとする頃、
「東京に」
そうポツリと行き先を告げた。
「東京?大丈夫ですか?」
もう随分無理をしている。このまま病院に戻ると思っていたから驚いた。
「今日は翔也のライブがあるはずよ。向かって」
そう言うと目を閉じた。急いで携帯で調べると、東京の都心の小さなライブハウスの名前が出て来た。
「清子さんを連れて行く」
香夜に簡潔なラインを送って再び走り出した。
「大丈夫なの?今日はライブハウスだけど…」
ライブハウスの裏口から出て来た香夜は、心配そうに駆け寄って来た。
手を煩わしそうに払われ、香夜は不服そうな顔をした。
「これ、耳栓。使って。」
そう言って、ライブ用の耳栓を二セット渡された。
「叔母さん来てくれて、翔也喜ぶよ。じゃあ、私は行くね」
香夜はいつもより楽しそうだ。そう言えば、ライブハウスにいる香夜を見るのは初めてだ。こんなに生き生きして居たのか…
やがて薄暗い地下のライブハウスに、爆音が響いた。そこに皆の声援が重なり、小さなライブハウスは震えた。
「辛いですか?病院に戻りますか?」
車椅子に手を掛けた小太郎の手に、清子の手が重なり、首が横に振られた。
「布団の上で死にたいなんて、それは元気な人間が思う幸せの幻想よ。そんな辛気臭いの、私はまっぴら。ここで…このエネルギーの中にいたいの」
そう言って穏やかな顔で微笑んだ。
「1人じゃないですから」
小太郎は屈み、清子の手を握った。
ステージで、oZがUnrelatedを歌っている。香夜の好きな歌だ。
髪を振り乱して香夜が笑っている。幸せそうに生きている…
そんな香夜に時々視線を送りながら、それでもフロア全体に向けて、メンバーのエネルギーが飛び散る。香夜が良く口ずさんでいたメロディー。翔也が無意識に鼻歌で歌っていた曲。
「うるさいわよねぇ…」
そう言って清子は可笑しそうに笑った。
「本当に…」
耳が痛くなる。と、小太郎も笑いながら返した。音の塊が容赦なく体にぶち当たって来る。かなりの衝撃だ。
翔也のギターソロ。全身を使って歪んだ爆音をかき鳴らす。何も見ていない。
陶酔している。自分だけの世界。
「うるさいけど…」
清子はそう言ってから、優しい視線で翔也を見つめ
「優しく背中を押されている気持ちになるわ…」
そう続けた。
「押されないで」
小太郎が手を握り直したので、清子は笑った。
「下手くそな人生でも良いんだって、思えるのよ」
そう言って、小太郎の手を握り返した。
「あいつも下手くそだから」
あなたもね…と心の中で返した。すごく上手そうに見えて、1番下手よ。でも良いのよ。それで良いの。
小さなライブハウスの箱の中で、寄り集まった人たちはステージとフロアで向かい合い、お互いのエネルギーをぶつけ合っている。貪欲に、貪欲に。彼らにしか分からない規則性を持って、笑い、叫び、生きている。
それは何だか、生きるための儀式のようで、忍び込んでそれを覗き見ている部外者のような気持ちになる。
知らない世界。分からない世界。だけど…楽しそうで、幸せそうで、ちょっと羨ましくなる。
「先生…」
小太郎に心配そうに声をかけられ、涙が溢れていることに気が付いた。
「君が思っているより、私は幸せなのよ」
清子はそう言って微笑んだ。そんな顔は香夜には見せられない。最後まで、不機嫌な顔で覚えておいてくれれば良い。
反面教師にして、生きて行くのよ。お前は、私では無いのだから。私が捨てなくてはいけなかった家族を、任せるわ。それが私の償い。
香夜の心に、ある種の愛着を纏った私が残る。それが兄への復讐。
滑稽なくらい突如人生がストンと収まり、自分の人生に納得が出来た。
「アンコールが終わったら、外に連れ出して」
「香夜を待たずに?」
そうよ…と清子は頷いた。
「翔也にも会わずに?」
小太郎の声は不服そうだ。だけど、清子は頷いた。
最後の演奏を終えて袖に下がったoZを、観客たちが呼ぶ。叫び声は止まない。
小さなライブハウスの中で、彼らは全力で求め合っている。
戻って来たメンバーが、嬉しそうに罵声で応えながら楽器を持ち直した。
そして、So What?が始まる。正式に、Why So?から許可を得たアレンジバージョン。
そして、ラストの曲。無人島song
「それかよ…」
と小太郎は苦笑いを浮かべたが、清子は静かに微笑んで 目を閉じている。
邪魔をしないように、そっと入り口付近に移動し、そこから、翔也を眺めた。ボーカルの案山子君を差し置いて、叫んでいる。歌えるって、ズルいよな…何度も思ったけど、今回も思った。この歌の時だけは、全力で香夜に向かっている。それが本当に、悔しい。香夜が、嬉しそうに、幸せそうに翔也を見返しているのも、悔しくて、でも、嬉しい。
観客たちがoZの名を、メンバーの名を叫んでいる。そんな中に見知った顔があった。桜と呼ばれていたお嬢様。彼女が、控えめに声を上げている。
そうか…戻ったんだな…香夜と仲間たちの為に、良かった…と心の中で喜んだ。
最高に沸騰した空気の中から、清子の車椅子を押しながらそっと抜け出した。重くてくぐもった空気から夜の街に抜け出すと、呼吸が楽になる。小太郎は黙ったまま車椅子を押し続けた。
行き先は無い。急ぎもしない。これが、最後なのだ。
そして、自分も、先に進んで行かなくてはいけないと分かっている。決めなくてはいけない。清子に貰った宿題への自分なりの答えを。だけど、もう少し先延ばしにして良いかな。この夜が終わるまで。だから…もうちょっとだけ、気づかないままで居させて。これは、清子がくれた時間だ…と小太郎は感じて居た。
ちらほらと酔っ払った人たちが帰路につこうとする繁華街を抜けて、川沿いの道を歩く。
「先生…」
我慢して居た言葉が漏れ出す。
「ありがとうございました…」
それと、お疲れ様でした。本当に、本当に。あなたは、外からは見えない輝きを体内で放って居た。誰にも汚せなかった輝きを。側に来て、初めて気がつく美しさで輝いて居た。勿体無かったな…あなたの人生。でも、だからこそあなたの人生だったのかな…
翔也だったら、気の利いた歌詞に出来るのかもしれない。香夜だったら、美しい文章にするかもしれない。
そんなの真っ平よ。そんな声が聞こえた気がした。だから最後のお供に自分を選んだのかもしれない。最後の時間を、何も持たない自分にくれたのかもしれない。
ゆっくり、遠回りして、帰りましょう。最後くらい。
電話が鳴って
「小太郎?何処?叔母さんは?」
そんな香夜の声が聞こえた。
「病院に戻る所だから、お前らはゆっくり来ればいい」
自分の声が自分じゃ無いみたいに優しく聞こえる。電話の向こうで、香夜が無音の中でたくさんの疑問符を投げかけてくる。
あぁ、そうだよ…そう答えてもいい。きっとその答えで間違ってない。
「小太郎…ありがとう」
小太郎が答える前に、香夜はそう言った。香夜の質問も、小太郎の答えも、音にならないまま交わされた。
横で、労うように寄り添う翔也の表情さえ分かった。
お前らはそのまま進め。香夜を連れて行ってくれ。歩いた道も、行く道も汚させない。
先生が隠した過去に汚させない。その秘密は俺が引き継ぐから。それで良いですよね?先生…
6月23日
学校に着くと、そのまま図書室に向かう。それが私の日課。
広い部屋にたくさんの机と椅子が並ぶ。
でも使う人は殆どいない。
たくさんの物語を抱えて静かに並んで居る本たちが、私は好きだ。
細く窓を開けて、昨日読みかけた小説を本の列から抜き取り、窓際の椅子に座ってページをめくった。
昨日6章まで読んだ。ページも覚えて居る。毎日読み進めて居るから。この時間が一番好き。教室に行かずにずっとここにいられたら良いのに。
外からわぁっと言う歓声が聞こえて、思わず顔を上げ窓の外を見ると、サッカーをしている上級生たちが見えた。ちょうどゴールが決まったみたいで、女の子たちが騒いでいる。その歓声の真ん中にはお兄ちゃんがいる。
いつだって大体そうだ。
「キヨのお兄ちゃん凄いよね!」
朝の会が始まる前に教室に戻ると、同じクラスの女子に言われた。さっきサッカーを見ていた子達だ。
「今日もたくさんゴール決めたんだよ!」
この子達はお兄ちゃんのファンだ。
「遊びのサッカーでしょ」
私はそう言って興味のない顔をする。
だって、お兄ちゃんが凄いことは、私が一番知っている。
もっと小さい頃は、いつもお兄ちゃんの後をくっついて歩いて、サッカーや野球の仲間に入れて貰っていた。
でもお兄ちゃんは友達とどんどん先に行っちゃって、私はいつも置いて行かれた。
放課後の校庭で、一番人気のあるジャングルジムで、いつもてっぺんにいるのはお兄ちゃんだった。お兄ちゃんと、その友人たち。皆が憧れて、眺めていた。
私もあそこに登りたかった。あそこにお兄ちゃんがいるから。
あのてっぺんで、お兄ちゃんと笑い合いたかった。いつもそう思ってた。
他の女の子に笑いかけないで。いつもそう思ってた。
アンとギルバートのように、エイミーとローリーのように、エリザベスとダーシーのように、心は気がつかない間に蝕まれて行く。恋の病に。止める術は無い。
私は、誰にも言えない、誰にも知られてはいけない、恋をしている…
10月29日
一日中雨だった。
お父さんもお母さんも、仕事で居ない。早く帰ってくれば良いのに…
お兄ちゃんが出かけたら良いのに…そう思いながら、こんな日は部屋で息を殺して居る。
お兄ちゃんが退屈をしている。私には行くところがない。逃げ場がない。
トールキンの指輪物語を読んでいる時が一番幸せ。
小さくて弱くても、私にも価値があると思えるから。それを分かってくれる誰かがきっと現れると思えるから。
ううん。現れたの。北野先生…図書館にずっといる私を、図書委員に推薦してくれた。大きな手で頭を撫でてくれた。大丈夫かい?そう言ってじっと私を見つめた。私が話すまで、問い詰めたりしない。…だけど、話せない。
誰が信じる?お兄ちゃんが怖いって。
何でも出来て、人気者で、児童会長のお兄ちゃんが私に何をしているかなんて、誰に話せる?
ドアが開く音がした。階段を上ってくる。お兄ちゃんが来る。
助けて…
3月4日
卒業式が終わったら、この家を出よう。直ぐに出よう。そしてもう帰って来ない。
たった1人、私の秘密を知っていて、それでも協力してくれる人がいる事に感謝しよう。
幼かった私の初恋は悪夢になった。堕ちた偶像。悪魔の所業。私たちは二人とも許されない。二度と会わないところに行こう。家族の誰にも知られ無い場所へ。知り合いの誰も居ない場所へ。誰にも探されない場所へ。
本だけを持って。
そして、いつか物語を描こう。
本当の愛の話を。私が送れるかもしれなかった人生の話を。
幸せな物語だけ残せれば良い。
いつか誰かが読んで、幸せな気持ちになれるような、素敵な恋をしたいと思えるような、誰かの背中を押せるような、そんな物語を描こう。その中で幸せな人生を送ろう。
だから、恋する事をやめないで。夢見ることをやめないで。
人生の最期に、思い出せる思い出がたくさんあることが、幸せの定義かもしれないから。
だから…
さようなら…
小太郎は、清子の原稿のラストを数回読み返し。抜粋して書き写した。
香夜の物語の帯の推薦文に載せるために。
清子が夢見、香夜が仕上げた長い長い女の一生の物語は、現実の辛さを忘れられる位甘くて優しくて、流した涙を優しく拭って乾かしてくれる。
それで良い。小太郎ならそうすると、分かっていて清子は自分に託したのだと思う。
編集者としては失格かもしれない。とんでもない間違いかもしれない。それがどうした。クソ喰らえだ。
小太郎は、迷うことなく、二度と紐解かれる事のない物語を閉じた。
恋するheavy metal 月島 @bloom
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