第18話 故郷へ

 幸い、叔母さんは体調を悪くする事なく病院に戻った。

「この調子でもっとあちこち行ってみる?」

 そう聞いてみたけど、鼻でフンと言われただけだった。


「いつまでここに居るつもり」

 叔母さんは相変わらず不機嫌そうな声を出す。癖かな?

「ココで、私が死ぬのを待つつもり?」

 本当に可愛くない。

「次は何処に連れて行こうかって考えて居るところ」

 顔を向けずに答えたけど、どんな顔で聞いて居るかは見なくても想像つく。

 …そう思ったけど

「家に帰るわ」

 そう返され、驚いて顔を向けた。

「え?何か必要なら持ってくるけど…?」

「あんな外出の許可が出るのよ?自分の家くらいの許可は出る。あんたは必要ない。帰りなさい」

 そりゃあ、そうだろうけど…

「そんなに早く死んで欲しいの」

 深いため息をついた後、そう言われた。

 思わずムッとした顔で見つめると、見つめ返された。

「賞を取ったら忙しくなる。その前にやれることをしておきなさい」

 叔母さんは大真面目だった。厳しい顔だけど、意地悪じゃない。先輩作家の顔だ。なんだか胸が熱くなる。私、作家?認めてくれるの?

「俺も同感だな」

 ドアの方から声がして、小太郎が現れた。

「暇なの?」

 いつの間に来てたんだ。

「下っ端編集が出来る事は全部した。数日後には審査結果が出る。ゆっくり出来るのは今だけだ」

 小太郎と叔母さんは共闘するみたいに、こっちを見つめている。

「分かったよ…」

 確かに、翔也のそばに居たい。叔母さんが元気ならそれはそれで嬉しい事だし。

「家には俺が付き合う。何かあれば連絡するから、お前は今のうちに東京でやりたい事やっておけ」

 それ以上、逆らうことも出来ずに私は、しばらく東京の家に帰ることにした。なんだか追い払われたような気がするけど、気のせいよね。



「呼び出して悪かったわね」

 香夜が病院から出て行く姿を窓から見下ろしながら、珍しく殊勝なことを言う…と小太郎が感心するような言葉を清子は吐いた。

「先生の呼び出しは最優先です」

 口先だけでは無い。編集部の総意だ。

「時間が無いから。すぐ家に帰る手配をしてちょうだい」

 清子もそれは心得て居て、自分を呼んだのだな…と小太郎は納得した。

「今からすぐ行って来ますか?」

 そう言った小太郎の顔を清子はじっと見つめた。

「帰るのは、故郷よ」

 静かにそう言った言葉を一瞬脳内で転がし、持つ意味を理解して小太郎は清子の視線をまっすぐ受け止めた。

 コレは、香夜の代わりとか、都合が良いから…とか、暇そうだから…とか、そう言う簡単なお使いじゃない…そう瞬時に理解した。

「車で行きますか?電車に乗るのは厳しいですよね?」

「時間が無いのよ。少しでも早い方がいいわ」

 確かに電車に乗ってしまえば特急なら早い。でも席を取ったり車椅子での乗り換えに色々手間を取られるなら、高速で車を走らせた方が早く着きそうだ。その後の小回りも利く。

「すぐ病院に許可を取って車を手配します」

「許可はもう取ってあるわ」

 清子はそう言って、すっかり仕上がった外出用のカバンの中から外出許可証を覗かせた。


「先生、休憩取りますか?」

 小太郎がミラーを覗きながら後部座席の清子に声を掛けると、

「一時間も経ってない」

 不満そうな返事が帰ってきた。それが清子の通常運転だ。

「必要だったら直ぐに言ってください」

 小太郎がそう念を押すのも、既に何回めか分からないくらいだ。

 運転はスマートだと自負して居る。車酔いする香夜に合わせて習得したのだ。

 それが今役立って居ると思う。

 清子は落ち着いた居住まいで、後部座席の背もたれに寄りかかって目を閉じて居る。あまり静かだと不安になるが、それより、もうすぐ到着するので、間が欲しいかと思ったのだ。

「何処に向かいますか?」

 小太郎は高速を降りる方向にハンドルを切りながら最終確認のように声を掛けた。

 清子の帰郷だ。凱旋でもおかしくない、有名作家なのだ。

 しばらくの沈黙の後、目を開けた清子は、

「見窄らしく帰りたくはないわ」

 そう言った。入院生活で乾いた髪を指先で弄びながら。そんな仕草が凄く新鮮だった。

「ヘアサロンに行きましょう」

 だとしたら、あそこだ。迷わず行き先を決めた。恐らく不服は無いだろう。清子は先程のように目を閉じて体勢を戻した。


「brise de printemps」と華奢な筆記体で描かれた店の前で車を停めた。

 ここで交わされた会話の事は香夜から聞いていた。小太郎も、清子も。

 どうして来る気になったのか、小太郎には分からなかった。

「二時間後にここに戻って」

 清子はそう言って車を降りた。

 着いて来るなという事だ。急いで窓を開けると

「近くに居るので、何かあったらすぐ連絡を入れてください」

 そう念を押した。清子は面倒そうに視線を寄越し、分かっている…と言う最小限の意思表示をした。


 もうすぐ二時間…と言う頃、店のドアが開いて、小太郎が入って来た。

 さっきより明らかに艶やかに揃えられた髪を乾かされながら、清子は遠慮なく不機嫌な表情を小太郎に向けた。

「着替えを買って来たので、良かったら着替えてください。車で待ってます」

 小太郎はそれだけ言って、入り口横のソファーに紙のショッピングバックを置いて立ち去った。

「良い男連れてるじゃ無い」

 髪を乾かしてくれて居た幼馴染に言われたが、本当に…と思ってしまった清子はすぐに切り返せなかった。

 小太郎が買って来たのは、派手でもダサくもない落ち着いて上品で柔らかい素材のツーピースだった。ローヒールのパンプスも有る。ストッキングまで。マメ過ぎるだろう…と苦笑した。


「お似合いですよ」

 幼馴染に支えられながら店を出ると、直ぐに小太郎が降りてきて車のドアを開けた。

 そして慣れた感じでそんな事を言ったのだ。

 清子は遠慮なく睨んだ。

 小太郎は苦笑した。ここで照れた顔でもしてくれたら可愛げがあるんだけど。まぁ、そんな清子さんが見たいわけじゃないけど、香夜にするようにからかいたくなってしまう。そんな苦笑だ。

「ひぐちに行って」

 後部座席に腰を落ち着けて告げた行き先は、意外な場所だった。

「お寿司屋の?」

 小太郎が思わず聞き返すと

「他にないでしょ」

 と冷たい返事が帰ってってきた。

 飲むには早すぎる時間だけど、空いているのかな?そう思ったのが伝わったのか

「今日は休業して貰ってる。座敷を借りているから」

 そう言われて目を見張る。いつの間に。…いつからこの帰郷を計画していた?

 髪を整え、上品に装った清子は後部座席で厳しい表情のまま目を閉じている。

 彼女が何をしようとしているのか分からず、小太郎は変に緊張していた。


 臨時休業

 清子が言った通り、ひぐちの格子の引き戸の脇にそう書かれていた。

 清子は臆することなく小太郎に戸を開けるように促した。恐る恐る手を掛けると、待っていたように開いた。

「いらっしゃい」

 そう声をかけて来た板前さんが、清子を見つめた。

「清子か?変わったなぁ」

 彼がそう言ったので、小太郎は清子に視線を向けた。

「お互いにね」

 つれなくそう言うと、上?と言う問いを声に出さずに投げ出した。

「もういらっしゃってますよ」

 年配の板さんが現れ、二階を示した。小太郎に支えられて靴を脱ぎ階段に向かう途中、清子は年配の板さんに小さく頭を下げた。彼も似合わない笑顔を作り応えた。


 二階には、何部屋かの襖で仕切られた個室がある。一箇所だけ襖が開いている部屋があり、そこで先客が待っていた。

 清子に続いて部屋に入り頭を下げた。予想通りの人がいた。

「お帰りなさい。こうなると思っていた。お嬢さんが訪ねて来た時から。清子さん、お久し振りです」

 そう言ったのは、北野市長だった。

「わざわざありがとう。持って来てくれた?」

 清子の態度は明らかに自分たちに対するそれと違っていた。微笑んでいる。

 北野は黙って頷いて、脇に置かれたカバンを膝の上に引き上げると、大切そうに茶封筒を引き出した。

 くたびれた、古そうなA4くらいのサイズが入りそうな封筒。

「それは…」

 小太郎は編集者だ。予感がした。

「どうするか決めたのですか?」

 北野は、封筒を恭しく清子に渡しながら手は放さず、慎重に聞いた。

「決めるのは、私じゃ無いわ」

 清子は一瞬だけ封筒を指先で弄び、小太郎の前に投げ出した。

「私が死んだら、好きにして良い」

 小太郎の膝に当たってから落ちた封筒を慎重に拾い上げながら

(30枚くらい…)

 そう感じた。

 30枚くらいの原稿用紙。

 原稿だと言うことは疑いようが無い。そうでなければ自分に託さないだろう。

「待たせて悪かったわ。さぁ、いただきましょう」

 清子は用は済んだとばかりに、料理が並んだテーブルの前に座った。

 懐かしい、故郷の料理。

 まさかここに戻って来るとは…人生は何が起きるか分からない。

「目を通すのは、食事の後にした方が良い」

 市長に言われ、小太郎は封筒を大事に鞄に片付けた。

 泉清子の原稿…とんでも無いものを託された。曰く付きで無い筈が無い。

 指先が冷えて行く。緊張している自分に驚いた。

 口元で笑ってみる。香夜の大好きな小説。香夜の叔母さん。だから自分も読んだ。香夜と深く話できるように。ただそれだけだったのに、いつのまにか、こんなに震えるほどこの原稿に重みを感じている。

「食事に仕事を持ち込まないで」

 清子に冷たくそう言われ、はっと顔を上げた。この人は…と香夜にするような悪態をつきかけて押し留めた。

「最後の晩餐」

 清子はしれっとそう言った。

 意味分かってます?と言いたかったが、それも押しとどめた。

 そうなのか?もう時間が無いのか?心の中の葛藤を押し殺し、箸に手を伸ばした。

 この人、こんな顔して笑うんだなぁ…と感慨深く清子を眺めた。誰も話さない。静かな食事。

 でも、清子は今まで見たこともないような幸福そうな表情で箸を口に運ぶ。時々、掌で頬を包み、甘い溜息をつく。

 本当は、帰りたかったんだ…ずっと。故郷が恋しくて、故郷の味も、友人も、家族も…

 小太郎は、そっと目を伏せた。家族に会うのか?それは軽々しく提言できない。

 そんな清子を嬉しそうに眺めながら北野市長も箸を進める。時々お互いの目が合い、分かり合ったように頷きあう。

 何かずるいな。清子さん、そんな表情も出来るのに、香夜の前では絶対にしなかった。小太郎は振り回されて困惑する香夜を思った。

 香夜だけじゃ無い。自分も、編集部も、病院スタッフも、近所の人も、誰もこんな清子さんを知らない。

 ん…?でもどうして自分を同席させたんだ?さっきみたいに外で待機させたら良いのに…

「ジロジロ見ないで」

 小太郎の視線に気がついた清子が、いつもの口調に戻ってそう言った。

「食事くらい、余計なこと忘れて美味しくいただきなさい」

 そう言われて、どの口が…と思ったが、

「はい」

 素直に応え、小太郎も食事に集中することにした。小太郎にとっても、懐かしい故郷の味だ。


「車を回して」

 食事が終わって一息ついた後、清子にそう言われ、小太郎は素直に従った。

 市長が軽く頭を下げた。二人で話す時間。社会人として、そのくらいの気は使える。

 小太郎は駐車場の車に戻り、肩の力を抜いた。

 動じないように生きてきたつもりだったが、今日は何から何まで意外過ぎてついて行けない。

 緊張していたのだ。どっと疲れを感じた。

 そして、脇に置いた鞄に目をやる。

 …この時間。これはもしかしたら、二人で話す時間じゃなくて、これを読めということか?背もたれに投げ出した身体を一気に引き戻し、鞄を手に取った。

 何が出てくる…?

 自分の短い編集者人生の中でも、これからの長いかもしれない編集者人生の中でも、こんなに緊張する原稿は他にないだろう。

 だけど…小太郎はゆっくり鞄を留めるベルトを外し、先程預かった古い書類封筒を取り出した。








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