第10話 作家の卵の卵が出来る事

 通い慣れた市役所に駆け込む。気持ちが急く。

「泉と言いますけど、祖父はいますか?」

 受付でそう言った。

「泉さんのお孫さん?少々お待ちください」

 受付のおばさんは気持ち良く祖父を呼び出してくれた。

「香夜、どうした?」

 祖父は嬉しそうに飛んで来た。

「あのね、市長の北野光一さんに会いたいの」

「市長に?どうして」

「えっと、実は清子叔母さんのことを調べていて、その取材?」

「清子の?で、なんで市長?」

「叔母さんの恩師の息子さんなんだって」

「あれ?そうだったのか?」

 そう言った祖父は、私を会議室のような空き部屋に通してパイプ椅子の1つに座らせ、奥に戻って行った。

 ほんの10分くらいだろうか。待つ身としてはもっと長く感じたけど。

「香夜」

 祖父がドアを開けたので、思わず立ち上がる。後ろにもう一人人影が見えたのだ。

「北野光一です」

 そう言って現れたのは、頭部が薄くなり始め、お腹も出始めた、でも優しそうな目をした中年男性だった。

「泉香夜です。作家の卵です」

 彼が差し出した手を急いで掴み、そう名乗った。実際は、卵の卵です。

「おじいちゃん、取材だから二人にしてくれる?」

 そう言うと、祖父は市長に視線を送った後、

「特別だからね。忙しい人なんだから、長い時間はダメだよ?」

 そう言い残してドアを閉めた。

 私は、ヒカルかもしれない市長を前に緊張していた。ここまで来たら、後には引けない。

「どうして、清子さんの事を調べているんだい?」

 彼は優しい目で覗き込んでくる。北野先生もそうだったのだろうか。

「叔母を覚えています?」

「そりゃあね」

 そうなんだ…でも…

「叔母があなたに会ったのは、あなたが5歳くらいの時だと聞きましたけど」

 そう言ってみた。記憶があるものか?

「あ…」

 と声を漏らした。あぁ、なんか本当に引き返せないところに来たっぽいぞ…

「もっと後にも、叔母に会っているんですか?北野太一先生が亡くなってからも?」

「いや…父の葬式とかでは会ったと思うけど、その位で…」

「それにしたって、10歳位の時ですよね?覚えています?」

 意地悪言いたいわけじゃ無いんですけど…

「何が言いたいんだい?」

 そう言われてしまった。

「すみません…」

 困ったな…どう考えても、怪しいよね、お互い。でも…仕方ないよね…

「私、叔母さんのいる場所知っているんです」

 そう言った途端、ガタン!と椅子にぶつかりながら市長に両肩を掴まれた。

「わ…」

 びくっとして、後退った。恐らく青ざめていたのだと思う。

「悪かったね…」

 優しい顔を作って、手を放してくれた。

「清子さんの居場所を知っているって?」

 だけど待ちきれないと言うように話を続けた。

「はい。でも両親にも祖父母にも言ってないので…」

 そう言うと、彼はあからさまにホッとした顔をした。あぁ、コレは信頼するしか無いのかもしれない。

「叔母の事、知っているんですね?」

 私は確信を持ってそう聞いた。これで知らないと言われても、信じられないよ。

 市長も私をマジマジ眺めて、覚悟を決めた顔をして、一度ドアを開け、人払いをして戻って来た。恐らく、私たちは遂に秘密を共有するお互いを見つけたのだ。

「知っていたよ」

 彼は言った。

「彼女を逃したのは、私だからね」


「カノジョヲニガシタ」…


 頭の中で反芻したら、あの日…小太郎から男物の洋服を奪い取って、家を抜け出したあの日の事が蘇って来た。

 希望なんて無い。絶望だけを胸に逃げ出した。

 何日か東京の街を彷徨いて、似たような若者の多さに辟易し、このまま、男として生きられたらいいのに…と思っていた時にoZに出会った。

 路上でwhy so?のso what?をカバーして歌っていた彼らに。


 彼らが何かを言おうと、何をしようと、だから何だ?関係はないだろ

 笑い飛ばして胸張って、みっともなさを格好良く生きていけ

 明日は勝手にやって来るから 手放すな


 聴いたことのない歪んだギターの音、響くベースの音、ドラムが刻むリズムに、気の抜けたような容姿からは信じられない声量で叫んでいるボーカル。

 この歌に出会うためにここに来たんだ…と思った。凄く、救われたのだ。


「私も歌えたら良いのに…」

 そう思った。歌えないけど。

「本当に男で、彼らの仲間になれたら良いのに…」

 とも思った。秘密を抱えて仲間になるのは辛かった。

 だけど、翔也は、私が女だと分かっていたのに、変わらず接してくれた。秘密につけ込まなかった。私を、秘密から解放してくれた。

 だけど皆が、女だと分かっても仲間にしてくれたのだ。理由も聞かずに。

 彼らは信頼できた。故郷の同級生たちよりも。彼らもまた、はみ出して生きていたんだ。

 だけど、打ち明けるのには時間が必要だった。


 後ろに人にいられるのが嫌だとか、スキンシップが苦手だとか、無防備に横になるのが苦手なこととか、人がいたら眠れないとか…そう言うことの理由。

 中学時代、授業中に受けていた暴力…

 甘い教師の授業だと、教科書を忘れた…と言って私の後ろの席に男子が集まり、背後から手を伸ばして体を触って来る。逃れようとしても、椅子を引かれる。払っても払っても湧いて来る手…保健室に逃れても、寝かされたベッドの布団の中に手が差し込まれる。

 男子たちの行為は、女子たちのやっかみを生んだ。胸を強調している、誘惑している、良い気になっている…同性も味方ではなかった。

 恥ずかしくて、悔しくて、馬鹿な男子を恨み、先生を恨んだ。

 制服をハサミで切られ、一緒に皮膚が切れて血が流れ落ち、初めて問題視された。

 そんな話を淡々と打ち明けた。愛されるはずがないと思っていたから。限界だったのだ。いつか見限って放り出すなら、今そうして…と思った。だけど…

「そいつら全員ぶん殴る!」

 翔也はいきり立った。

「男は馬鹿で…ごめんね…」

 案山子君は情けない顔をして謝ってくれた。

 翔也を押さえ込んだ柳君と貴君は、

「香夜ちゃんにそんな思い二度とさせない!」

 と、力を込めながら宣言してくれた。

 二人を振り払った翔也は、殴りに行く代わりに私を抱きしめた。

 ビックリしたけど、痛かったけど、それは全然嫌じゃなくて、何だか凄く心地良くて、安心出来て、初めて、女で良かったかもなぁ…と思えた。

 叔母さんのロマンティック過ぎる恋物語は、決して幻想じゃなくこの世に存在するものだったのだ…と。翔也が居る…私の初めての仲間を従えて。その日、初めて私はその世界に生まれた。

 逃げて見つけた世界と、叔母さんの今の生活が頭の中でシンクロしている。

 叔母さんは、何を見つけた?逃げた先に何が待っていた?


「叔母さんを…逃した…?あなたが?」

 人の良さそうな、でも強い意志を持っていそうな、頼りなさそうで頼もしそうな中年男性。叔母さんより4,5歳年下…44歳?45歳?その辺のはずだ。

「内緒だよ」

 北野光一市長は太い指を唇に当てた。お世辞にも可愛いとは言えない仕草だったが、緊張はほぐれた。

「あなたは…誰?」

 ヒカルなの…?と聞きたかった。居ないと言われたけど、それは、あんまりじゃないか。叔母さんの支えは何だったの?何かあってくれないと、哀しいじゃないか。

「清子さんの恩師の息子だって知っているんでしょ?」

 それは知っている。なので頷いた。

「何を知りたいのかな?」

「叔母さんの小説…あれは、完全なフィクションなの?あんな安らぎやときめきが叔母さんには無かったの?どうして、行方不明になったの?どうして誰にも知らせないで、一人で生きているの…」

 どうしてだろう。秘密の共有者を見つけて安心したのか…この人が醸し出す大らかな雰囲気のせいか、気が付いたら、ボロボロ泣きながら質問責めにしていた。

 その人はそんな私を黙って見つめていた。

「でも君は見つけたんでしょ」

 そう言った目は優しかった。

「君が見つけて、清子さんを知ったんでしょ。そして彼女のために泣いてくれる。僕はそれが嬉しいよ」

 そう言った。

 あぁ、この人は、叔母さんのことを大切に思っているのだなぁ…

「清子さんは、ここでは生きていけなかった。それは人それぞれ理由があるだろう?分かるよね?」

 分かる。息苦しいほどに。

「1日も早くここから離れたくて、その時その時最善の方法を探して距離を置くようにしていた。でも本当に抜け出すには、自分も周囲も、両方守る為には、自分がいなくなるしか無かったんだ」

 分からないけど、分かる…私には。

「だから誰にも知らせなかった。もしかしたら、ささやかな楽しみや幸せはここにもあったかもしれない。でも、それ以上の苦痛がここにはあったんだよ。だから、僕は止めなかったし、彼女をここから消すための協力を惜しまなかった」

 核心を話すつもりはないのだ…それは、叔母さんも、この人も、本当に墓まで持って行くつもりの秘密なのだ…と悟った。

 聞いてはいけないことなのだ…と。

「あなたは…ヒカルなの?」

 そう言うと、とても優しい顔で笑って

「そうでもあって、そうでもない。多分、ヒカルは父なんだよ」

 父…北野太一先生…?

「でも、父そのものでもない。そう言う意味では確かに、ヒカルは実在しないね。清子さんは想像の中で、少年時代の父を作り出したんだね。そのモデルになったのが幼い頃の僕だから、父も、僕も、ヒカルでもあるし、違うとも言える」

 あぁ…そうだよね…やっぱり叔母さんにとって、北野太一先生がたった1人の大好きな人だったんだ…

「父は、清子さんの問題に唯一気が付き、気に掛け、救おうとしていた。だけど清子さんは、決して本当の事を打ち明けず、耐えていた。良く三人で出かけたんだよ。父が死んだ後、結局父は何の力にもなれていないんじゃ?って聞いたら、たった一人、自分を気にかけ、気が付いてくれている人がいるってことが、どれだけ救いだったか分からない?…って言っていた」

 何と無く、忠犬小太郎が頭に浮かんだ。

「だから、これからは僕が居るよ…って言ったんだ」

 それは、男前だな。嬉しかっただろうな。

「結局、救えはしなかったんだけど…だけど、逃すことが出来て、良かったと思ってる」

 でも、だとしたら…

「私が見つけない方が良かった…?」

 そんな確信があったのだけれど、彼は首を横に振った。

「あの時は、逃げる必要があった。生きる為に。だけど、捨てても捨てられるもんじゃないだろ?家族って。他の誰でもなく、何も知らない君が彼女を気にかけ、無邪気に探し当てたのは、もう、運命なんじゃないかな。今がその時って事だよ。何より、君が居る。同じことはもう起こらないと思うし、皆、歳をとった。止まっていた時間が、そろそろまた動き出す頃合いだ。君がネジを巻いて居るんだよ」

「良かったのかな…?」

「そう思うね。僕も、清子さんに会いたいし、全てを過去のことにして無かったことには出来ないだろうけど、許す…と言う選択肢を時間が生み出してくれて居ると思いたい」

 どうだろう…父に対する叔母さんの態度は、『許す』には程遠い気がする。

 でも、時間が無い。今がその時…と言うのは確かだ。

「叔母さんは、帰ってこないと思う…」

「それは、そうだろうね」

「どうしたら…?」

「それを決めるのは、清子さん本人だろうなぁ」

 そう言われても、叔母さんの反応は想像できる。

「さて、僕はそろそろ市長に戻らないといけない」

 そう言われて、ハッとして顔を上げた。そうだった。彼は忙しい市長だったのだ。

「ありがとう御座いました…忙しい中時間をいただいて…」

 そう言った私の不安そうな顔を直視して

「諦めない限り可能性は無限だ。君をここに寄越したのが清子さんなら、君がやりたいと思うようにやった結果が、答えだよ。ぼくは、期待している」

 そう言って、ネクタイをキュッと締め直すと、市長の顔に戻って密会は終了した。


 叔母さんが私を帰郷させた理由…?

 小太郎はヒカルもイズミも存在しないと言った。過去を暴いて欲しい訳じゃない…と言うのは分かる。

 叔母さん…ここが恋しいの?家族や友達が、懐かしいの?私に見て伝えて欲しいの?違うのかもしれない。でも、叔母さんには時間がない。最期…となったら、もしかしたら、私も懐かしく思うのかもしれない…


「もし明日父が死んだら、私今日会わなかったこと後悔すると思うんだよね」

「あぁ、まぁ、そうかもね?」

 小太郎は困惑して答えた。

「叔母さんは、今葛藤しているのかな…」

 あぁ、そう言うこと…と小太郎は納得した。

「無神論者も死刑執行前には神に祈るって言うしな」

 叔母さんは死刑囚じゃないぞ!と睨みつける。

「だからって、簡単には帰郷しないと思うぞ。勝手に連れて行ったら、怖い…」

 それは私も怖い。でも、ヒカルは居た。厳密には違うけど、でも居たのだ。イズミも戻って、happyendにしないと…

「あぁ、そっか…」

 急に思い当たった。

「何が?」

 背後から小太郎がもどかしそうに聞いてくる。

「イズミとヒカルだったんだ…」

「は?」

 不思議そうな小太郎を振り返り、私は自信を持って笑った。

「イズミが帰郷する。私が書いて居たのは、そう言う物語だったんだ」

 道理で、キャラたちを懐かしく感じるはずだ。アレはずっと慣れ親しんできた物語の中の二人だったんだ。

 書き進んだ原稿はまだ三分の一残っている。書き上げなくては。

「まだここに残るのか?」

「まだ約束を果たして居ないからね」

 叔母さんが探させたのは、ここに居るヒカルじゃない。物語の中のヒカルだ。イズミは今もヒカルを探して居るんだ。

 だから私が会わせてあげる。きっと。

「仕方ない。見届けるか」

 小太郎も帰る気は無いみたいだ。

「暇なの?」

 そう言うと小太郎が小突こうとして来たので、スルリとかわす。忘れた?昔から君は私に敵わなかったって。

 私が笑うと、困惑したような顔をした小太郎は、いつもの気取った愛猫小太郎じゃなく、懐かしい忠犬小太郎のようだった。

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