第8話 祖父母は孫に甘いが正解
叔母さんは、50歳。父の2学年下。
「叔母さんの同級生って、誰かこの辺にいるの?」
極力平静を装って聞いてみた。
「清子の?どうして」
当然、祖母は聞き返して来た。
「50歳って、どんな感じかな〜って思って」
「あんたのお父さんとお母さんと変わらないわよ?」
当然の答えよね…でも私の中で、両親は、私が家を出た18歳の頃のまま。父は43歳だし、母も39歳のままなの。
「香夜ちゃん…あんたまさか、家に帰ってないの…?」
うわ、おばあちゃん勘が良いな。そこは触れて欲しくなかった。
「もう〜なんて親不孝な子なの⁉︎ここまで来ておいて、こっちに来るなんて…」
そこまで言って若干嬉しそう。
やっぱり叔母さんは祖母似な気がする。祖母の方が元気良いし、表情豊かだし、よく笑うし声が大きいけど。でも声のトーンとか、顎を上げて話す仕草とか…と思って居たら
「あんたまで…清子の真似しないのよ?」
逆にそう言われてしまった。
「そう言うつもりじゃ…でも、まだ成功してないから帰り辛いと言うか…」
「まったく…晴人も頑固だからねぇ…誰に似たのか」
誰でしょうねぇ…?清子叔母さんも。
「帰る前に一度くらい顔を出すのよ?」
祖母はそう言ってやれやれと言うように、私の泊まる部屋の準備を始めた。私もいそいそと着いて歩き、クローゼットから布団を引っ張り出した。
「何か必要なものある?」
祖母はあちこち開けては大事にしまっておいたらしき新品の日用品を出してくれる。バスタオル、歯ブラシ、シーツ…と言った具合に。
「必要なものは持って来たよ」
…と言ったのに、何故か新品のスエットまで出て来た。
「今日は、おじいちゃんも遅いし、ひぐち食堂で夕食にしようか。好きでしょ?」
「やった!大好きです!」
祖母に抱きつくと
「ママたちには内緒よ〜」
とまんざらでも無さそうな声。やっぱり、祖父母が孫に甘いって必要だと思う。
父たち兄妹を産んだ人だもん、彼らには厳しかったのかもしれないけど、私可愛い孫だから。役得役得♪この位の甘やかし受けてもバチは当たらないよね。ここまでの扱い考えたら。
それに赤貧だから久しぶりのちゃんとしたご飯♪佐田さん家以来♪
昔より骨ばって感じる祖母の肩を抱きながら、ごめん…出来るだけ孝行するからね…出来たら、叔母さんに会わせてあげられるように努力してみるから…間に合うように…と考えてちょっと切なくなった。
「呑めるようになったんでしょ?」
そう言って祖母は、ひぐち食堂では板さんの前のカウンターに座った。
目の前にずらっと寿司ネタが並ぶ。
食堂なので定食やラーメンもあるけど、メインはお寿司。食堂の名前で侮っちゃいけない、本格的なお寿司だ。でもラーメンも美味しいから捨てがたい…というファンが多くて半ラーメンもある、地元の隠れた名店。周囲に他の飲食店はない。
東京や、地方のお店ではあっても、ここのカウンター席に座るのは初めて。大人になってから帰郷してないし。子供の頃、ここは大人の座る、子供が触れてはいけない席だった。眩しい席だった。
「緊張するな〜」
そう言って、板さんに軽く挨拶している常連らしい祖母の隣に座る。
他の店と変わらないはずなのに、何だかくすぐったい。私、まだここに座れるくらい大人になれていない。満たしているのは年だけ。
…いやいやいや、ここからだから!
「晴人さんのお嬢さん?」
目の前の若い方の板さんに急に言われ、驚いて顔を上げた。
祖母が「息子の一人娘…」と紹介したらしい。
「あ。はい」
慌てて答えると、
「暫く見なかったけど、大人になったねぇ。雰囲気変わったね。昔はちょっと清子さんに似てると思っていたけど」
「え⁉︎」
思いっきり顔を上げて、板さんを見つめ、ちらっと祖母にも目を向け、もう一度板さんを見る。
「余計なお喋りより手を動かせ」
年配の方の板さんは、老けたけど、私が子供の頃からいた。
「あ、あぁ」
マズイことに触れた…という風に話が打ち切られた。
「すいません、まだまだ半人前の息子で…」
年配の板さんは、祖母に謝りながら熱燗をつけた。息子さんか⁉︎
祖母は横に首を振って微笑むと、ちらっと私を見た。
「この子は興味があるみたい。会ったことのない叔母さんに」
私はまた二人の顔を見比べた。
「清子の同級生だったのよ、克也くんは」
そう紹介されたのが、目の前の若い方の板さんだった。
あぁ…そう言うことか…おばあちゃん…ちょっと潤んだ目で祖母を見たが、言うべきことは言った…と言うように既に気持ちは切り替えられ、美味しそうに日本酒を飲んでいる。私も、目の前に置かれたお猪口で口を湿らせ、器用に寿司を握って行く克也さんに神経を集中した。
短く刈り込まれた頭は元々の形なのか、全体的に、四角い。
肌は若くはないが、艶やかでまだ張りがある。多分、病気の叔母さんより。
「私、叔母に似ていますか?」
唐突だったかな?叔母の話題に戻すためにさっきの話題に食いついてみる。
「そうだねぇ…俺が知っている清子さんは中学までだから、その後は知らないけど。お嬢さんがここに来ていた小・中学生くらいの頃はちょっと雰囲気似てたかな」
「中学まで?」
「そうなんだよ。清子さんは遠くの高校に行ったの、知らないかい?ここからだとちょっと乗り換えが不便で、多分2時間はかかる。だから、寮に入ったんだよ」
「そうだったんですか!」
知らなかった。何となく、父や自分と同じ高校かと思っていた。
イズミの高校生活が、近所の高校のイメージだったからかもしれない。それとも、高校なんてどこも一緒のイメージなのかな。
「何でわざわざそんな遠くに行ったんだろう…」
克也さんは私の呟きに、さぁ…と首をひねって見せ、手先は休まず寿司を握っている。
「確か、高校時代に短期留学にも行ってるから、それが目的だったのかもしれないねぇ」
私の前の大きな葉に、綺麗なお寿司が並べられて行く。
思わずゴクリと喉が鳴る。
ごめんね、翔也。私、回らないお寿司食べています!
握りたてのお寿司を、とろけそうな幸せな気持ちで頬張り、咀嚼して堪能した後、
「父と叔母って仲悪かったんですか?」
会話を続けるのが不自然にならないように気をつけながら、戻す。
「んん〜そうだねぇ…」
克也さんは仕事の手は休めずに考え込んんだ。言葉を選んでいるのかもしれない。…と言うことは、そう言うことだ。
「タイプは全く違ったな」
選んだ言葉はそれだった。
「晴人さんは、クラス委員とか生徒会役員とかやる人だったし、運動もできたし、うん。目立っていた。僕なんかちょっと気安く声かけられなかったよ」
我が父は目立つ学生時代を送っていたらしい。だから威張りん坊なのか。じゃあ叔母さんは?怖いけど威張っているわけじゃないのか?
「清子さんは、学校では晴人さんに話しかけている記憶はないな。家では知らないけど。どちらかと言うと、おとなしく日々を過ごしていた。図書館で本を読んでいる姿が1番記憶にあるかな。確か図書委員だったしね」
それは、凄くイメージに合う。邪魔するな!って顔して本を読んでいる姿…
そんな子供の頃から 仲悪かったんだ…喧嘩したとかじゃなく?ずっと仲悪いなんて…兄妹なのに…一人っ子の私には分からないけど。
おばあちゃんは知っていたのかな…と、ずっとお父さんの方の板さんと話している祖母を眺める。そう言えば、父の子供の頃の話とか聞いた事ないな。家出同然で飛び出してそれっきりだった。大人になってからほとんど両親と話していない。時々こっそり母と電話で話すくらい。
やっぱり家にも顔出すべきかな?今なら父は怒り出さずに話をしてくれるかな?
気がついたら、祖母が私のお猪口にお酒を注いでいた。
いつの間にか飲み干していたみたい。
「ありがとう」
そう言うと、
「呑める口だねぇ」
と、嬉しそうだ。そうみたい。両親は飲まないから、
「おばあちゃんに似たんだね」
そう言うと、ますます嬉しそうになった。
「ねぇ、お父さんと叔母さんってなんで仲悪いの?」
折角だから聞いてみた。
「そうねぇ?仲悪いのかしら。やっぱり。晴人は真面目で厳しいから…かしらね?」
「いつから?何かあったとかじゃ無くて?」
「小さい頃はそんな事なかったと思うわよ。やっぱり思春期くらいからよそよそしくなったような気がするけど、性別の違う兄妹なんてそんなものなんじゃないのかしらね。そう思ったから気にしなかったわ」
祖母は本気で気にしていないらしい。その辺が叔母の行方不明と関係あると思ってもないのかな。
「清子はあまり話す子じゃなかったし、自分の世界を持っていたから…」
作家だし…と小さな声で付け加えた。あまり胸を張って言い切れるほど、おばさんを知らないからかな。だからさっきの本読めばいいのに。
…そうだ。ヒカルだった。
「時別仲のいい人とかいませんでしたか?」
年下の男性…とは言わなかった。
「清子さんに?いや〜どうだろう。思い当たらないな。大体1人で本読んでいた気がするなぁ」
やっぱりそうか…
「同じ小学校の子で1人同じ高校に進んだ女子がいたけど、別に一緒に進学したってわけでもなかったし。特に仲よかったわけじゃないと思うな」
「へぇ、この近所の人ですか?」
目がキラン…と光った気がしたけど、多分気のせい。何気ない感じで話を促す。
「あぁ、美容院の美希ちゃんね。確か、美容師になったのよね」
祖母が会話に入って来た。美容師の美希ちゃん…さりげなくを装いながら心のメモを書き留める。
「南町の店をやっているみたいですよ。俺は美容院なんて使わないので良く知りませんけど、昔は本屋だった場所で」
ガリの追加を置きながら、克也さんは良い情報をくれた。
南町…バスで15分位。狭い町だから直ぐ見つかるだろう。あまり食い下がって問い正されたら困るから、そこで叔母さんの話を打ち切った。美味しいお寿司に集中しよう。
翌朝、7時きっかりに始まる祖母の家の朝食の席で、遅くに帰宅した祖父に久しぶりに対面した。
「おじいちゃんお久し振りです」
ご無沙汰しすぎてどんな反応されるかな…とビクビクしていたけど、
「香夜が来てるなら、連絡してくれたら良いのに、気の利かないばあさんだよな」
が第一声だった。
あ。こっちも甘いやつ。とホッとした。
「香夜が居るんだから、そんな辛気臭いおかずじゃなくて、なんか肉とかないのか?」
なんて言って祖母に睨まれた。
「辛気臭くて悪かったわね!」
「いやいや、すごく懐かしい味で、嬉しいよ。こういう朝食は一人暮らしの身には憧れだよ〜」
急いでとりなす。
祖母は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、祖父は
「いつでも食べにおいで。晴人たちのことは気にしなくて良いから。じいちゃんたちはその為にいるんだぞ」
そう言った。
そっか…娘が行方不明で、私は息子の一人娘…唯一の孫だったんだ。寂しい思いさせていたんだな。こんなことがないと帰ってもこなかった。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
でも、ここに居たら、私幸せじゃなかった。今みたいに、自由じゃなかった。出て行ったことは後悔していない。これからもずっと、後悔はしないと思う。ごめんね…
叔母さんはどうだろう。後悔はしていないかな?帰りたいとは思っていないかな?
どうしよう…私に何が出来るか、ちゃんと考えないと。
「あの子が私に似ているって?どういう事?」
清子は冷たい声で、小太郎に視線も向けずに聞いた。
上目遣いで図々しく押してくる姪っ子。若さの恩恵を受け、無謀さと可能性と遠慮と甘えと無邪気さを抱えている。自分には無いものばかり。若い頃ですら、持つ機会を失ったものばかり。
「香夜は大切な仲間がいることは言ったんですよね。今のあいつがいるのは、そいつらのお陰です。彼らに会うまでの香夜は、今みたいでは無かった…」
小太郎の脳裏に、幼い頃の無邪気な香夜と、小学校の学年が進むにつれ俯き猫背になって行った香夜と、今の自信と活気に満ちた香夜が、複雑に絡み合いながら浮かんでいた。
「中学の頃から、香夜はずっと胸にさらしを巻くようになりました」
小太郎は、カップにお湯を注ぎ、紅茶のティーパックを揺らして色を見ながら話した。
1つを清子のサイドテーブルに置き、もう1つをその熱さを確かめるように、大切に両手で包んで持った。
その動作をずっと目で追いながら
「さらし…」
清子はそう呟いた。それは憶えがある…嫌で嫌でしょうがない時、自分を隠すために試した事がある。
(そんなもので隠すことは許さない)
命令する冷徹な声が脳裏に蘇って来て、身震いした。今でもこんなに嫌悪している。いやそれより…問題は…
「誰から…?」
清子の声が震えた。別に姪が可愛いわけじゃ無い。自分が心配する筋でも無い。あの子の家族の問題だ。でも…もしそうだったら、自分をますます嫌悪しそうな気がした。
急に、暖かい物が頬に触れて、ハッとして顔を上げる。
小太郎が清子の頰に手を当てていた。カップで暖められて柔らかい若い手…
「話を続けても大丈夫ですか?辛そうですけど…」
気遣わしげな優しい瞳と、優しい物言い。適度に保っている距離感と、信頼できる遠慮気味な触れ方に、一瞬走った緊張がじわじわと解けていく。
「大丈夫よ。続けて」
素っ気なく応えて、顎を揺らし手から逃れる。小太郎は抵抗せずに手を引いた。
「クラスの男子たちからです」
小太郎はそう応えた。その答えに一瞬安堵し、それから顔を顰めた。
元々の香夜は、小太郎が着いて行けないくらいお転婆だった。どんな木でも登ろうとしたし、石垣を登るのも誰よりも上手かった。駆け回って傷だらけになって遊んだ子供時代。だけど…徐々に変化していく身体の造形に、香夜の心は見合わなかった。幼いままの香夜は、自分の身体の変化を理解していなかった。
Tシャツ姿で駆け回るには香夜の身体は、心を置きざりにして女性の物になっていた。膨らみすぎた胸は、邪魔でしか無かった。ただ、邪魔だと思っていた。でも皆そうなのだと。仕方ないのだと。だけど、同年代の馬鹿な男子が放って置いてくれるはずはなかった。大きく揺れる胸をからかわれる度に香夜は俯き、走るのを止め、木に登るのを止めた。
昨日まで一緒に遊んでいたのに、急に変わって行く友達に香夜は失望していた。
「君は違ったの?」
俯いたままの姿勢で、清子が暗い声で小太郎の話を遮った。
「どうでしょう…香夜にとっては一緒だったのかも」
小太郎は当時を思い出して応えた。本当は、誰よりも早く香夜の身体の変化に気が付き、ドキドキしていたのだ。それを気付かれないように自分は演技していたのだと思う。何も気がついていない、そんな事に興味が無い演技。
中学に入ると、男子の馬鹿さが加速した。
「学校で1番おっぱいが大きい」
香夜はそう言われた。男子はストレートに欲望の塊だった。
大人しい先生の授業中には、香夜の席の後ろに男子が集まった。背後から伸びてくる手を払いながら、授業の長さを呪った。香夜は背中を丸め、俯いて過ごすように、そして、さらしを巻くようになった。小太郎にはどうする事も出来なかった。クラスが違った。そして相手が悪かった。徒党を組んだ馬鹿な男子たち。真正面から立ち向かったら事態が悪くなることは見えていた。
「だから、香夜のヒカルになろうと思いました」
小太郎がそう言うと、清子はピクリと反応した。
「香夜はその頃、あなたの本を読んですごく憧れていたので、ヒカルのように静かに香夜の心の支えになろう…と。香夜と周囲の架け橋になろうと」
周囲とぶつかって事態を悪化させるんじゃ無い。のらりくらりと周囲と付き合い、香夜への直接的手出しを邪魔する。
悔しくて悔しくて、殴りかかりたい時もにこやかに笑いかけ、余裕を見せつけた。香夜を傷つける馬鹿な男全員を上から見下ろしながら、ずっと香夜の支えで居たかった。
「でも、なれなかった」
だから、ヒカルでは無いただの友人として、男は馬鹿な生き物だと、香夜が特別酷い目にあっているんじゃないと、大したことじゃないんだと、笑い飛ばして来た。周囲に怒れない香夜が、自分の軽口に怒ったり笑ったりしてくれれば、それで良い。
「だけど、香夜は高校を卒業した後、逃げるように家を出ました」
誰もが寝耳に水だった。父親のコネで、地元に就職が内定して居た。だけど、後で知ったのだ。就職とは名ばかりで、そこの社長の息子に行く行くは嫁がせる為の腰掛の就職なのだと。次期社長の秘書の真似事をしながら、花嫁修行をしてくれれば良い。と言われ、香夜は無言で青ざめた。嫌だと言って、父親にひっぱたかれた。
赤く腫れた頬のまま、香夜は小太郎の家に来て、家を出る。…そう告げた。
「明日こっそり家を出る。男として暮らすから、小太郎の服を貸して欲しいの」
香夜は真剣だった。その時も何も出来なかった。
「持って行って良い。だけど、連絡は入れると約束しろ」
それが精一杯だった。
「1人で生きていけるように、いつか叔母さんみたいな作家になる!香夜はそう言って、私の服を着てこっそり家を出たんです。それきり帰って来なかった。だから私は先生が本を出した出版社に入社し、香夜からの連絡を待ちました」
泣きながら、ビクビクしながら暗い自分の部屋で、胸にさらしを巻く少女の姿が清子の脳裏に浮かんで離れなかった。あれは、香夜なのか、自分自身なのか。
何の権利があって、馬鹿な男たちは女を傷つけるのか。どんなにトラウマになるか考えもしないくらい欲望のままに生きているのか。
悔しさが蘇って来て、思わず唇を噛む。
「先生…」
肩に触れられ我に帰ると、噛んだ唇から血が流れて居た。小太郎は、すかさずタオルを清子の唇に当てた。
「私の予想が、当たってなければ良いと思って居ました。でも…先ほどの先生の反応…先生を苦しめた相手が誰なのか、どうして家を出たのか、何の為に海外留学をしたのか…先生、予想は当たっているのですか?」
そこまで言われ、清子のタオルを唇に押し当てた手が震えた。そうだ…この男は隠して来た自分の過去を探り当てた。全ては姪っ子香夜。彼女への純粋な愛情の為に。
「あの子の父親…」
手の中にタオルが有る。その事が凄く安心できた。
「香夜と一緒ね。私も分かって居なかった」
いつからなのか、覚えて居ない。幼い頃は戯れて遊んでいた。仲の良い兄妹だった。兄は厳しいけれど何でも出来たし、皆が憧れていた。彼が言うことは正しいと思っていた。
気がついたら、幼い頃のように兄がスキンシップをしてくる事が増えた。そんな時、執拗に体に触れてくるような気がしていた。
自分がお風呂に入ろうと脱衣所にいると、兄がドアを開ける日が続いた。
「あ。気がつかなかった」
そう言ってごめんと閉めた。
なんか嫌だと思いながら、ちょっと前まで一緒にお風呂に入っていたのだから、嫌だと思う自分が変なのかな…と思おうとした。だけど、ごめん。と言いながら兄は気をつけはしなかった。ドアもすぐに閉めてはくれなかった。
「脱衣所に鍵を付けてくれない?」
母親に頼んでみたけれど、
「え、何で?」
と聞き返され、何も言えなくなった。おかしいのは自分の方なのかも知れない。兄妹なのだし。何でもない、何でもない、と唱えていた。
元々何でも思い通りになると思っている兄だった。逆らえない雰囲気があった。ちょっと抵抗しても、最後はいつも言い負かされたり力尽くで従わされてきた。
その方法が、腕を万歳の状態で掴まれ、床に組み敷かれるようになった。心がざわざわした。嫌だった。首の後ろの産毛が総て立つようなゾワっとした嫌悪感が沸き起こった。だけど兄に逆らえなかった。
無理な要求に逆らうと、兄は私を床に組み敷き、上に乗ると
「良いと言うまでどかない」
そう言った。抵抗を続けると、徐々に体を密着させて来る。嫌で嫌でたまらなく、渋々兄の要求を飲む。そんな毎日だった。
両親は仕事で家には居なかった。兄妹2人しかいない家で、兄は暴君だった。
「あいつの要求が、何だったのか、覚えていないわ。凄くささやかな事だったようにも思う。掃除の当番を押し付けられたり…とか。やるのが嫌と言うより、不公平さが嫌で抵抗したのよ」
けれど、徐々に抵抗するのが嫌になった。どうせ嫌な思いをさせられて、最後は押し付けられるのだ。最初から従った方が嫌な思いをしなくて済む。
両親に訴えようとしたこともあったけど、自分がされていることの嫌悪から上手く言葉にできず、誰からも信頼されている兄の、清子にお願いしたけど、遊ぶのに忙しくて忘れたみたいで、ちょっと喧嘩になった…と言うような自分に都合よく作り変えらえた話に両親は納得し、お兄ちゃんは色々忙しいんだから、協力してあげて。喧嘩しないで。と先回りで注意されてしまう。
心が、死んで行く…そう感じながら、何も出来なかった。
抵抗しなくなった妹を、兄はつまらなく感じたのか。都合よく感じたのか。そんな事は分からない。ただそこに、自分の欲求のはけ口にちょうど良い年頃の女、妹の清子がいたのだ。彼を止めるものは何もなかった。
淡々と語っている清子の肩を小太郎は抱きしめた。
「兄から逃げるために寮のある高校に入ったのよ。でも、もう手遅れだった…」
清子は自分のお腹に無意識に手を置いた。
「狭い街では無理。だから、短期留学に参加した。留学先でこっそり堕胎したわ」
小太郎の手に力が入った。
小太郎が、心を掻き乱され、口にするのを憚った清子の過去。当たっていて欲しくはなかった。そしてずっと1人で抱えてきた清子の秘密を暴いてしまった悔いが襲って来た。だけど。言わなくては。
「先生…あなたの過去を、香夜に知らせたいのですか?」
小太郎の腕の中で小さな肩を震わせて
「あの子を止めて。あの子は知っちゃいけない」
そう清子は声を絞り出した。
「私が止めます」
小太郎はほっとした。その優しい声が清子を安心させた。
誰も傷つけたくなくて。誰にも話せなくて、苦しくて苦しくて、逃げ出したのだ。家族から離れ、人を遠去けた。
自分が抱えて死んで行くはずの秘密。
「行って。あの子を止めて連れ帰って」
優しく頷いた優男の小太郎を見つめ、香夜にはヒカルが居たんだな…と微笑んだ。本人はなれなかったと言っているけど、君は確かにヒカルだった。それは、凄く羨ましい事のはずなのに、単純に嬉しく思えて。
心配そうな顔のまま、だけど急いで病室を出て行くヒカルに(頑張れ…)そう声援を送った。
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