そこで、出会ったのは、風の


 周りは真っ白だった。

 あたしはその中に浮いていた。

 自分の体がよく判らない――と思ってたら、胸が薄ぼんやりと見えた。

 葵ちゃんの言葉を思い出す。


    ――自分の存在がここにある、ってことをしっかり自覚してて――


 自分に言い聞かせる。

 濃いミルク色のもやに包まれた世界の中に自分の身体がゆらりと浮かび上がってきた。

 全裸だった。

 お腹に穴は開いていない。

 ――って、いやいやいやいや、服着てるからっ!

 巫女装束を強く意識すると、さっき着ていた紅白の衣装が現れ、あたしを包んだ。

 何なんだろう、ここ。

 死後の世界?

 今まで半信半疑――どっちかというと『疑』寄りだったけど、あんな鬼みたいなのがいて、違う世界があって、『巫術』なんて力もあるんだ、死後の世界があっても不思議じゃないと思いはじめていた。

 周りを意識しても何もない。

 どうしたらいいのか途方に暮れかけたその時――声が聞こえた。

「ふぅむ、か」

 低くて呑気そうな、男の声だった。

 誰? と思った瞬間、誰もいなかった目の前にその男が現れた。

 びっくりして数歩下がろうとしたあたしの足は、何もない空間をむなしく蹴る。

「そう驚くこともなかろうに。

 此処へ来た、ということはそれなりに力を持っておるのだろう? それに、その格好」

 あたしはしばらく考えた。

 その間に声の主の姿がすっかり明らかになっていた。

 和服というか、縄文とか弥生とか――日本史の史料集で、イラストで見るような衣装に大きめのレジ袋くらいの丸い袋を持っている。

 男――オジサン? は三十台とも五十台ともつかない丸顔で、細い目であたしに向かって笑いかけてきていた。

 同じように浮いてるし、何となく人じゃない気がした。

「えっと……精霊さんか何か?」

 オジサンが片方の眉をぴくっ、と上げた。

「心外なことを言う。無知な小娘が来たものだな」

 不意に思い当たる。

「もしかして、か……神さま?」

「何でも良いよ、もう」

 仏頂面で向こうを向いた。

 うわあ、怒らせちゃった?

の衣装で、ちょいと可愛らしいかと思うて気軽な声をかけたらこれだ。

 まったく、最近の者は……これなら厳かに格を見せてやればよかったわ。それで、矮小な魂など霧散して仕舞いだったのに」

 ぶつぶつと呟いているオジサンの腕を取ってあたしは謝る。

「あ、あの――失礼なこと言ってごめんなさいっ!

 あたしで、まだよく解ってないんですっ」

 オジサンはちらっ、とあたしを見下ろしてそっぽを向いた。

「あたし、鬼に魂取られちゃってて、取り戻したくてさっき戦ってて――」

「知っておるよ」

 オジサンがぼそっと言った。

「ホント謝ります、神さま――えっと、それで、ですね……」

 オジサンは何か諦めたように向きを変えた。

「なんだ」

「ここはどこですか?」

 オジサンは目を丸くして、今度は大口を開けて笑い出した。

「いやはや、そうかそうか、自覚なしに此処に来おったのか」

 バンバンとあたしの肩を叩いて、まだ笑う。

「衣を纏えとるものだから、っておるかと思うたわ。

 無自覚で衣を意識できるとは小娘、大したものだわ」

 ほめられてるんだか何だかわからない。

「どうしたのぉ、そんな笑ってぇ」

 そこに、妙に間延びした口調で誰かが割り込んできた。

 声のした方を見ると、ヒラッヒラでどこからどう着てるのか判らない布を巻いた女性がいた。二十台から三十にはなってなさそうな、穂乃香さんよりもっと長い、足首に届きそうな黒髪と口調に似合ったほんわかとした顔立ちで、あたしとオジサンを見下ろしている。

「いやぁ、なかなかのタマが来たものだと、感心しておったところだ」

「ふぅ~ん」

 女性はすうっと下りてあたしと目線を合わせ、顔を寄せた。

「面白ぉい魂相そうしてるねぇ」

 ふわっと抱きしめられるような感覚がする。

「あ……あの、お姉さん」

「なぁに?」

「さっきから訊いてるんですけど、ここはどこなんですか?」

 お姉さんはやっぱり驚いてから笑った。

「迷子さん? 違うよねぇ。普通に死んでもぉ、こぉんな所に迷い込むことはないもんねぇ」

 お姉さんはあたしから少し離れて、両腕を広げた。布もふわっと、蝶が羽を広げたようになる。

「ここはぁ、形を成さない魂がたゆたう場所ぉ。

 あなたたち人の岸とぉ、違う処との間ぁ、って言ったらいいかなぁ?」

 イマイチよく解らないのは、このお姉さんの口調のせいだけじゃない。

 また新しい事柄だ。

 よくわからないけど、こんな所に長居してられない気がした。

「じゃああたしは……どうなったんですか?」

「意識が肉体から離れたのだよ」

 また違う声がした。

 髭面で茶色いスーツのオジサンだった。

「嬢ちゃん、解らんと顔に書いておるぞ。

 儂は人の世を知る事も怠っておらんからな、嬢ちゃんにも解るように言ってやろう」

 偉そうな言い方だったけど、教えてくれるならいいや。

 あたしはスーツのオジサンに向き直った。

「お願いします」

 スーツのオジサンはがははっと笑った。

「ここはな、嬢ちゃんら人の世と、お主らが『精霊』や『妖物』や『神』と呼ぶものらの世との狭間になる空間なのだよ。

 境界、とでも云えばいいか? 異なる界と界の境、それがここだ」

 オジサンは必要以上に近付いてきて言った。

 解ったような解らないような説明だったけど、お姉さんのよりはマシだった。

 あたしは頷いて、スーツのオジサンを見上げる。

「じゃあ、どうやったら戻れるんですか?」

 スーツのオジサンはあたしの肩を抱いてきた。

「戻りたいのか」

 抱き寄せられそうになるのを抵抗する。

「あたしの魂を取り戻したいんです」

「ふむ……まぁ、アレがないとここでもその内、己を保っておれんやも知れんな」

 だが、とスーツのオジサンはあたしの抵抗をものともせず、あたしをぐいっと抱き寄せた。

「とはいえもうしばらく、いいではないか。その時には儂が助けてやろう」

「本当ですかっ」

 オジサンの腕の中から、あたしは見上げた。

 髭面が嬉しそうににっ、と笑っている。

 最初に現れたオジサンとお姉さんはどこか呆れたようにこっちを見ていて、ふと気が付くとそれ以外にもいくつも、何か――こういうのを気配って言うのかな、見られてる感覚を味わった。

 あたしの肩を掴んでいたごつい手はじょじょに下がっている。

「ちょ、何やってんですかっ。

 やめてくださいっ」

「うむうむ、微妙な恥じらいっぷりだな。

 もうしばらく楽しませてくれ」

「でっ、でも今すぐ戻りたいんですっ。

 穂乃香さんも葵ちゃんも戦ってるだろうし、あたし自身の問題だし――」

 オジサンの腕から抜けようとするけど、なぜかがっちり捕まっていて抜けられない。

 触られてる感触は更に下がって、腰からお尻に行こうとしていた。

 まさぐる、というかエロい触られかたで悪寒が走る。

「いいではないか。

 な。助けてやるから――」

 オジサンは突如、あたしを持ち上げた。

「その袴の奥を――――」

「イヤあああぁぁぁっ!!!」

 オジサンがあたしの袴の中に頭を入れようとした。

 あたしは思わず叫んでいた。

 膝を落として――頭に当たる感触がする――、足をジタバタと振り回す。何度かオジサンの「わッ」とか「うぶッ」とか聞こえたけど無視して蹴り回し、ようやくあたしはオジサンの拘束から脱出した。

 周囲――どこからか、くすくす、ケラケラ、と笑い声が微かに聞こえる。耳をすますと「ほら、またやられおった」「懲りん奴だ」とか囁かれてるのが聞こえる。

 体を起こした髭面のオジサン――エロオヤジでいいや――は残念そうにあたしを見上げていた。

「いい加減にしてっ!

 あたしは自分の魂取り戻したくて、こんな所でグダグダやってたくないのっ!

 エロオヤジの相手なんてもってのほか!

 あたしを元の場所に戻してよ!」

 周囲が静まった。

 数秒後、どっと沸く。

 また離れたところから口々に「やあ、威勢のいい小娘じゃ」「面白う面白う」「近年稀な見物じゃな」とか色々聞こえる。

 ちょっとキレてたあたしはキッ、と周囲の見えないものたちを睨み回して、

「あなたたちもっ!

 見物するくらいなら手伝ってよっ!

 野次馬よりは助けてくれるこのエロオヤジの方がまだマシだわ!」

 言っていた。

 少し静まって、また笑いがおこる。

 最初のオジサンとお姉さんが、近寄ってきていた。

「それくらいにぃ、してあげてぇ」

 お姉さんがあたしの頭を撫でて言う。

 エロオヤジがあたしに向かって笑いかける。

 あたしはそっぽを向いてやる。

「もとの処に戻るにはを読まねばならん」

 オジサンが言った。

 お姉さんがその長い髪を一本抜いて、あたしの手首に結びつけた。

「向こぉの機とぉ、こっちの機がぁ、近くなる時を合わせるのぉ」

 お姉さんはあたしの肩をポンポンと叩いて、

「今ぁ、戻したげるねぇ。

 ちょうどぉ、近くなりそぉだからぁ」

 と、微笑んだ。

「アタシはあなたのことぉ、好きよぉ。

 頑張ってねぇ。

 どうしようもなかったらぁ――志那都比売しなつひめ志那都比古しなつひこ、って呼んでごらん。

 級長戸辺しなとべでもいいよぉ」

「えっ? しなつひめ――?」

 突然、視界がぼやけた。

 緩い微笑みを浮かべたお姉さんと、楽しい余興だったとでも言いたげなオジサンと、「儂も嬢ちゃんのこと、気に入っとるぞ」と懲りた様子のないエロオヤジの三人も急にぼやけ、また真っ白になった世界はストン、と照明を落としたみたいに暗転した。


   ▼△▼△▼△


「――ちゃん! 奈々美ちゃん!」

 目が覚めたら、葵ちゃんの顔がすぐ近くにあった。

 今にも泣きそうに目を潤わせている。身体に触っていないのは手がまだ青緑に光ってるからかな。

「葵――ちゃん?」

「よかったぁ……」

 葵ちゃんからついに涙がこぼれた。あたしの頬を数滴落ちて流れる。

「穂乃香さんっ! 奈々美ちゃんが!」

「――そう」

 穂乃香さんは、鬼と戦っていた。

 息が少し荒くなっていた。

 素っ気ない返事だったけど、あたしをちらっと見た表情は安堵にあふれていた。

「どれ――くらい、こうしてたの? あたし」

「五……十分くらいかな。起きれる?」

「ん」

 あたしは頷いて、体を起こした。

 頭をふると少しハッキリする。

 夜の交差点、巫女装束の三人と戦う鬼、潰されたパトカー……全部、あたしが吹っ飛ばされる前と変わってなかった。

「穂乃香さん、苦戦してるの。

 さっきの奈々美ちゃんの符札で少し盛り返したけど。

 もうちょっとしたら、アイツから奈々美ちゃんの魂、引っ張り出せるからね」

 と、葵ちゃんは青緑の手を示す。

 肘の手前あたりまでその色で染まっていた。

「それは?」

「魂に――体内に潜入して、魂に直接触れれるようになる術。

 もうちょっと厚さと硬さをまで待って――」

 葵ちゃんの言うとおり、穂乃香さんは鬼に圧されているように見えた。

 金棒をかわして攻撃するものの、力の差なのか優勢に見えない。

「でも――あんなトコに葵ちゃん、突っ込めるの?」

 葵ちゃんはキリッと唇を結んでいた。

 キツい、と表情が語っていたけど言わない。

 あたしは拳を握って、鬼を睨んだ。

「じゃあさ――せーの、で一緒に行こう」

「大丈夫なの!?」

 葵ちゃんは目を丸くしてあたしを見た。

 あたしは膝立ちになって、笑って頷く。

「自分のコトだもん。

 それに、体も大丈夫」

 葵ちゃんはそれ以上聞かなかった。

「じゃ、行くよ――せーの、っ!」

 あたしと葵ちゃんは同時に飛び出して、鬼に向かって数メートルダッシュした。

 葵ちゃんが横に回り込み、あたしは穂乃香さんに近い方へ行く。

「奈々美っ!?」

 穂乃香さんが驚いたように振り向いた。

 あたしは穂乃香さんにちょっと笑いかけてから、鬼を睨み上げた。

「いい加減、あたしの魂を返してっ!」

 両手を前に突き出す。

 空気の流れを強く意識する。

 ――けど、何も起こらない。

 あたしを見下ろして隙のできた鬼に、穂乃香さんが斬りつけた。

 鬼はその薙刀の柄を片手で掴み、ニヤッと笑ってあたしの頭にもう片方の手を伸ばしてきた。

 上からの拳を両手で受け止めるけど、力負けして押し込められる。

 思い通りに術を使えないのが悔しくなった。

 術でも力でも何でもいいから、この鬼とちゃんと戦える何かが欲しくてたまらない。

 いっそ、さっきのエロオヤジでもいい。

 衝撃で、また意識が飛びそうになって――軽い快感のような高揚感が一瞬、全身を駆けた。

 巫女装束の袖がふわっと浮いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る